2016/01/18

研究論文と実践報告の越えられない壁?

いわゆる「研究校」と標榜する学校でたまに話題になるのは、その実践をどのような形で表現、発信するかという問題だ。
例えばこんな会話がなされる。
「これは研究論文じゃなくて実践報告に過ぎない」、「研究論文というよりは、授業記録みたいなものなんですけどね」という言い方だ。
なんとなく、論文のほうが格が上で、実践記録、報告は下のようにも受け止められかねない。
では、現場にとって価値あるのはどちらなのか? 研究論文か、実践報告か?……と言っておきながら、本当はそんな問いは無意味なことは最初からわかっている。
いい研究論文がある、いい実践報告がある。ただそれだけだ。
でも、多分、大学のようなアカデミックなところでは「論文」が求められ、一方、学校現場の多くの学校の教師にとっては、他の学校の報告も、論文もあまり読まれない、相手にされていないのではないかという予感さえする。その差はなんなのか?
たぶん、一つには、大学のようにアカデミックな世界では「研究論文」という文体を通して知見を共有するシステムがあり、論文を書く業績がインセンティブとして働いているからにすぎないからではないか?
でも、現場の先生にとっては、論文を書こうが、いわんや他人のを読もうが読むまいが、ほとんどそれはインセンティブとして働かない。そもそも動機が生まれにくい。だから結果的に、さまざまな現場の実践の知見が共有されにくい。
私はそれを嘆いているわけではない、教員が大学の研究者のように振る舞い、アカデミックな作法に従わなければいけないとは思っていない。そうではなくて、なにかもっと、教員にとって、さまざまな実践を共有するための良い方法や、他の手立てがあるのではないかと感じているのだ。
いったい、学校以外での現場ではそれはどのようになされているのだろうか?
例えば、医療の現場では、大学病院のような研究の場での知見が、どのように臨床に韓流されるのだろうか。また臨床での知識がどう研究に生かされるのだろうか?
医療の現場以外で、たとえば福祉とか看護とかよく分からないけど、いわゆる研究と臨床が上手く回っているところはないのか?
もしうまくいっているところがあるとすれば、そういうところにヒントがあるのではと感じている。(というか、このままずるずる行けば、大学での中等教育の研究は壊滅的なものになるだろう? 文科省もあまり期待してないみたいだし)