2016/01/06

どの程度の内輪度かが、論文の丁寧さを決める。

今、あるレポートをまとめているところなんだけど、その読み手が、どの程度の「内輪度」があるか、いまいち測りきれないので書きあぐねている。
 
とある学会で、提案者と参加者のやり取りを聞いて、とても違和感を感じたことがある。
それはある現職院生さんの作文に関する提案だったんだけど、参加者(大学教員)は、提案の論拠をただすというよりは「この方法のほうがいいよ」などと具体的な授業のアドバイスをしていたのだ。まあ、提案した本人にとってはそれは役に立ったのかもしれないけど、こんな実習生に対するやり取りみたいのなら、校内研修とか研究サークルのような内輪な会ではやればよい。アカデミックな学会での研究発表に対するやり取りにはふさわしくない。(と、そう思いたい)
でもそういう研修会のような研究コミュニティが「学会」としてげんに存在していることは確かだ。結構あるあるネタなのかもしれない。

話は戻るが、やはり、レポートの読み手との内輪度が問題になる。
読み手が内輪な場合、細かい説明や論証をしなくても「そこのところはわかってくれるよね」である程度は通用してしまう。
しかし、読み手の専門分野が多様でかつオープンな場合、「わかってるよね」とこちらが甘く書いたところも、「わかりません」と言われちゃう。だから、なぜそう言えるのか、どんな事実を取り上げているのか、どんな方法、手続きを踏んでいるのか、そもそもそれを取り上げる意義や価値はという点まで、くだくだと書くことが求められることになる。
この読者に向けての距離感、説明の度合いがわからないと、どの程度まで丁寧に書けばいいか困惑してしまうのだ。

※余談だけど「内輪な」の対義語って何なんだろう。
「公的な」「パブリック」?
「オープンな」かな。
どうもしっくりこなかった。
どうもしっくりとこない。