ラベル 話す・聞く の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 話す・聞く の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015/09/21

しゃべるのが得意か、書くのが得意か。

どちらも同じような力を持っている人の方が少ないだろう。
例えば作文を書かせてみるとそれがよくわかる。
とっても饒舌で、立て板に水のように調子よく話すことのできる生徒が、なぜか文章を書くと支離滅裂だったり、全然書けなかったりする。
書くことが得意で、文章にして表現すると、とても整っているし理路整然と丁寧に書ける人が、しゃべりだと、しどろもどろになったりすることがある。
実際に上手かどうかはともかく、書く方が好き、しゃべる方がいいと、結構どちらかに分かれるのではないか。
そして現在のペーパーテスト中心の評価システムでは、話すこと優位な生徒は、話し合いの授業では活躍することができても、ペーパーテストでは圧倒的に不利になる。
こういう認知や表現の個人差を意識せずに、なんでも話し合い、なんでもアクティブとか、なんでもペーパーテストとすると困る生徒はたくさん出てくるのではないだろうか?

2015/08/25

国語の話し合いと社会の話し合いでは何が違うのか?

「言語活動の充実」が言われ出してから、それぞれの教科で話し合い活動が取り入れられるようになってきた。
国語以外の教科の授業で話し合いの活動を参観する機会が増えた。他教科の授業で話し合いが行われていると、私はつい国語科的な視点で見てしまう。
国語科と、他の教科での授業での話し合い活動は何が違うのだろうか。
私が最も感銘を受けたのは、ある社会科の授業だった。
その授業では、原発問題について、グループで解決策を話し合う活動をしていた。でも、やはり問題があまりにも難しく、話し合いは一向に進まない。ついに黙りあってしまうグループもあるほどだった。
授業後、国語科の私と、社会科の先生の授業に対する評価は正反対なものだった。
「あれだけ沈黙して考えることができたから、この課題はよかったんだ」と。
国語科的な視点で話し合いを考えると、どうしても、教師はあの手この手で話をさせようとする。発言が止まってしまったり、盛り上がらなかったりしたらひやひやしてしまう。しかし、社会科の授業ではそうではなかった。
話している言葉の量、会話の盛り上がりではなく、どれだけ真剣に考えていたか、課題と向き合おうとしていたかを問題にしていたのだ。だから黙っていても思考は働いていればいいし、表面的な発言量は問題にはならないのだ。あの社会の授業は、話し合い活動について目を開かされた出来事だった。

2015/08/10

能力をより繊細に定義することができるか

授業研究は、面白い授業、効果的な授業について探るのは当たり前のことなんだけれども、それをもっと突き詰めていくと、どんな能力を取り上げるべきかという能力論に行き着く。
例えば「聞く力」について授業で取り上げるとして、それにはどんな能力があるか、ひとことで「聞く力」といっても、その中には無数の能力が埋め込まれているはずだ。
それの具体を一つ一つ取りだし、学習者にどの能力がついていて、どれが足りていないのか、「聞く力」のどんな系統が考えられるのかを繊細に捉えられているだろうか。こういう能力論に対する分析、考察は、系統主義だろうと、経験主義だろうと、どちらのスタンスに立つにせよ、およそ授業を考えていく際に避けることのできない不可欠な要素だ。
「学習指導要領に書いてあるから」も一つの根拠にはなりうるけど、それだけでは目の前の学習者をみとることはとうていできない。それでも学習指導要領はかなりよく書けているから(個人であれほどの系統性を立ててカリキュラムを作れる研究者はいないだろう)、それを参考にしつつも、よりかみ砕いて、より繊細に、授業ごとにカスタマイズしていくことが重要なのだろう。

話題に論理がくっついてくる〜絵日記を論理的に書かせる愚〜

論理的に話したい、書かせたい場合は、論理的な文章が引き出されるような話題、テーマを設定することが最大のポイントだ。
授業で往々にして見落としがちなことは、論理的な文章の「形式」はしっかりと教えているんだけど、それを活用する「内容」、つまり話題、テーマの選択がいまいちで、そんなテーマじゃあ、論理的なものにならないよ、というようなものとなっているということだ。
例えば、「論理的な文章」で「夏休みの絵日記」を書くことはできるだろうか、できるかもしれないけど、それはかなり無理があるテーマじゃないかな。論理的にする必要性が感じられないし、論理を積み上げるというよりも、時系列的に、描写的に書く、物語という文体が似つかわしい。
こういう例に限らず、全ての表現は、形式と内容が密接不可分なものとして考えるべきだ、(考えてみれば当たり前なことだ。何かの「メッセージ」を伝えたいために「形式(文体)」を選択するのが自然な表現行為の流れなのだろう)だから、「論理的な文章」という形式を教えたいという場合は、どういうテーマだったら論理的な表現が必要感と必然性をもって引き出されるかということこそ、まず第一に教師は考えるべきなのだろうし、そのテーマの設定にこそ教師のセンスが求められる。
(ここでは「論理的」を例に挙げたけど、談話でも、他の文体でも全く同じだ)

2015/08/05

会話分析の知見から「きくこと」を捉え直す

 聞き手の力、質問の力とは何なのか。これまでぼんやりと考え続けてきた。聴衆に向かって一方的に話すプレゼンのような独話と、話し手と聞き手が質疑応答をしあう、やりとりのある対話的活動とは何かが違うようだ。そこには、話し手、聞き手の構えが本質的に異なるのではないか。
 調べていくうちに、社会学の領域では会話分析、さらにそこから発展したエスノメソドロジーという学問領域があるというのを知った。エスノメソドロジーとは人々(エスノ)が暗黙のうちに従っているルールや規範などの方法(メソッド)を記述する学問のことをいう。会話分析では、人と人との会話のやりとりに焦点を当て、会話に潜む目に見えないルールの存在を次々と明らかにしていっている。この会話分析の知見から、授業改善へのヒントを得ることができるかもしれない。

会話分析の入門書としては以下の三冊がおすすめ。






「会話の順番取りシステム」と聞き手の価値
 会話分析が明らかにした基本的な会話のルールに「一度に話せるのは一人」というものがある。考えてみれば当然のことだ。どんなに大勢でも、聖徳太子のような人が相手でない限り、話す人は一人だけだ。だから会話とは「一人の話し手と、一人または複数の聞き手が、何度も入れ替わる発話のやりとり」であると定義することができる。そしてその素朴な発見から、会話分析の研究が大きく進んでいくことになる。それは「話し手がいつ交代できるかというタイミング(完了点)のルール」と、「話し手が交替するときに、次に誰が話すか決めるルール(会話の順番取りシステム)」についての知見である。(H.サックス)

会話の順番取りシステム(次に話す人はどのようにして決まるか?)

A 現在の話し手が次の話し手を選べば、その選ばれた人に話す権利と義務があり、順番がかわる。

B 現在の話し手が次の話し手を選ばなかったら、最初に話し出した人が話す権利があり、順番がかわる。

C AでもBでもない場合は、現在の話し手がそのまま話を続けることができる。


 このように、自由な会話の中では、発言する順番は上記の見えないルールが存在していることが明らかになっている。この場合の「次に話す人を選ぶ」というのは、普段の生活では、必ずしも具体的に指名をしたり、挙手をさせたりするわけではない。日常では、指名や挙手の代わりに、話し手や聞き手の目配せやうなずき、身体の向きといった微細な身振りが順番交代の合図として機能している。
この「会話の順番取りシステム」の知見として重要なのは、会話は、誰かが一方的に話したり、他の人が聞いたりする行為であるととらえるのではなく、双方が話し手(聞き手)となる可能性を常に持っているという前提があるということである。「会話という場」に参加する人々が、いつでも交換可能な存在として、発話のタイミングをはかっている「駆け引き」が行われていると捉えるということだ。
 会話分析における話し手と聞き手との関係ついて、西阪(2009)は「活動の空間的および連鎖的な組織: 話し手と聞き手の相互行為再考」『認知科学』16-1: 65-77.」のなかで、

 「会話分析」の伝統においては、相互行為における発言の組織が、話し手の一方的な決断にもとづくのではなく、つねに聞き手との協働のもとで成し遂げられること、このことが当初よりその主張の中心にある。

とのべ、具体的に、会話における聞き手の役割を次のように述べている。

 現在の話し手が、次の話し手の選択を行っていない場合、現在の順番の実際の終了は、いずれかの聞き手が、その可能な完了点において自ら話し始めるかどうかにかかっている。つまり、現在の発言順番がどのような大きさとなるかは、しばしば聞き手の出方に依存している。
 (中略)
 あるいは、可能な完了点(筆者注 会話が終わりそうなタイミング)において、聞き手はあえて「順番を取るのを控えること」をすることがある。例えば、現在の発言が可能な完了点にいたったとき、聞き手は「ん」とか「ええ」とだけ言うことがある。そうすることで、一方で、自分が順番を取ってもよい場所がいま出現しているという理解を明らかにしつつ、他方で、その場所で実質的な順番を取ることなく、順番交替の機会をあえてやり過ごす。こうして現在の話し手はさらに発言し続けるよう、いわば促される。だから、可能な完了点を超えて発言が続くという事実も、聞き手との協働の産物でありうる。

 このように、会話分析の立場から「聞き手」の役割をとらえると、そこに「話し手」を支える「聞き手」の能動的な存在を再確認することができる。「聞き手」はいつでも「話し手」に交代しうる、「待機する」存在であった。それは裏を返せば「聞き手」の沈黙は「黙って行儀良く聞いている」というだけではなく、「あなたが話し続けていいですよ」「あなたに話す権利を委譲しますよ」という承認や支持、促進のメッセージとしても機能することも示す。これは、一方的に話し、それを一方的にきくスピーチなどの「独話」とは大きく異なる対話の特徴なのではないか。(より本質的には「スピーチ」も聞き手との対話なのだろうが) 聞き手が話し手と場を共有すること、そこで聞き手として「待っている」こと。話し手の話を「期待」しながら聞き、いつでも聞き手がその会話に介入しうる、「待機する」存在の呈示そのものが、「話し手」の自律と責任を促す。その両者の駆け引きの緊張感こそが「話しがい」のある関係性となっていくのではないか。会話における「聞き手」とは、このように会話という相互行為の場において「待機」し「期待」して、引き出されていく話し手の語りを「待つ」人であるということができる。

鷲田清一も「聴く」「待つ」ことの価値について論述している





②生き生きとした対話を引き出す「隣接ペア」

もう一つ、会話分析が明らかにした重要な知見は、どのような言語であっても、会話のやりとりには連鎖的につながるパターン(「隣接ペア」という)が存在するというものだ。例えば、目の前にいる人が「こんにちは!」と挨拶をしてくれば、見知らぬ人とでも反射的に挨拶を返さなければと感じるだろう。挨拶のような決まり文句は「隣接ペア」の分かりやすい例であるが、それだけに限らず、我々の会話のなかには、依頼ー受諾、提案—承認、質問—応答、激励—感謝などの「投げかけ—応答」の連鎖的なパターンがあり、その隣接ペアのパターン、ルールに従いながら会話をしていることが明らかになっている。
 たとえば、「ただいま」と言えば、「お帰りなさい」とこたえる。この「お帰りなさい」という言葉(第二発話)は、「ただいま」という発話(第一発話)によって引き出された言葉である。投げかけられる第一発話によって、第二発話はあらかじめ規定されている。その隣接ペアのルールをあえて破って会話をしていくことは、実は容易なことではない。(相手に失礼に感じさせたり、ちぐはぐした会話になる)何気ない会話のなかにも「隣接ペア」というルールが厳然と存在している。 
隣接ペアのルール
 ①2つの発話からなる。       
(例「ただいま」(第1)—「おかえりなさい」(第2)
 ②それぞれの発話は隣り合っている。
 (隣り合う=連続して発話される)
 ③第1発話と第2発話の話者は異なる。
 ④第1発話の次に第2発話が来る。
 ⑤第2発話は、第1発話の影響を強く受ける。
この知見によって我々が学ぶことができるのは、会話には、お互いが自由に、好きなように発言をしているように見えて、その中には無数の「隣接ペア」のような「投げかけ—応答」のフォーマットがあるということだ。これを対話学習に活用できないだろうか。
 しばしば教室での「交流」が、順に自分の考えを述べ合うというような、情報の報告会に終始するのは、そこに生き生きとした対話(話し手と聞き手とが相互にやりとりし合う)が存在しないからではないか。
 生き生きとした対話、相互作用の場とするためには、「投げかけー応答」などの「隣接ペア」の活用が効果的である。たとえば、意見を順に報告し合う「独話」スタイルの交流から、「質疑—応答」「提案—承認」「勧誘—受諾」のような「隣接ペア」の埋め込まれた「対話」スタイルへと意図的に変えていくのだ。
 意見や感想を一方的に伝えるよりも、「聞き手」からの依頼や質問をうけて、それに応じて「話し手」が語り出すスタイルにした方が話し手のモチベーションは高くなる。そして対話が引き出されていくものである。「聞き手」を一方的な情報の受け手とするのではなく、「話し手」との対話を促す存在へと変えていくために、やりとりを生み出す「隣接ペア」のフォーマットを意識的に活用することが有効である。

③「成員カテゴリー化装置」によってコミュニケーションをずらす
 最後に、会話分析から得られる知見として有益だと思われるものを一つ取り上げる。それは「成員カテゴリー化」という概念である。「成員カテゴリー化」とは、会話を通して話し手、聞き手の立ち位置が自然と浮かび上がってくる作用を指す。
 例えば、筆者は中年男性であり、夫であり、千葉県出身であり……というさまざまなカテゴリーに属する主体である。しかし、学校という制度的な空間の中で、15歳の少年と会話をする、そのやりとりの中において、筆者は「中学校教師」となり、15歳少年は「生徒」というカテゴリーに属することになる。「成員カテゴリー化装置」とはそのように、会話などの相互作用を通して立ち現れてくる立ち位置や役割をうながす暗黙のシステムを指す。この「成員カテゴリー化装置」には以下のルールが内包されている。

「成員カテゴリー化装置」の運用ルール
【経済規則】 ある人を特徴付けるには一つのカテゴリー集合で十分である。
【一貫性規則】同一の場面内であれば、ある集団に含まれる人がカテゴリー化される場合、最初の人に適応されたカテゴリー集合が以下の人にも適応される。
この運用ルールからわかるように、人とのコミュニケーションにおいては、そのコミュニケーションのやりとりを通じて、自ずとお互いの立ち位置や役割が一つに規定され、そしてその規定に沿って行動や会話が仕向けられるということである。
 重要なのは、そのような役割や立ち位置が、初めから決まっているわけではないということだ。人は、会話を通して、複数のカテゴリー(男性、夫、教師etc.)の中から、一つのシンプルな役割(中学校教師)に導かれていく。筆者が「教師」でいられるのは、社会的な身分だけでなく、より本質的には、生徒や同僚とのあいだで「教師らしく」会話し、振る舞っているからに他ならない。また、そのようなカテゴリーに属していることによって、状況や関係性に埋め込まれている固有のコミュニケーションの様式を、自然に身につけていくことになる。(教師らしく話せるようになってくる)
 さて、この「成員カテゴリー化」という概念を、学習にどのように活用していくことができるだろうか。
 「中学生」は、コミュニティーの中でさまざまな表情を見せる。学校の中では「生徒」として、家庭では「子ども」として、部活動では「先輩」としてetc.……それらの相互の関係性がコミュニケーションの質を、表現の幅を規定している。実社会では、教師は教師らしく、医師は医師、芸能レポーターは……それぞれが、それぞれの社会的な立場に応じたコミュニケーションの様式、スタイル(文体)を獲得し、活用している。
 中学生が豊かなコミュニケーションを学び、生み出すためには、「生徒」というカテゴリーをずらし、多様な関係性と、さまざまなコミュニケーションのスタイルを学ぶ場を与えることが効果的なのではないか。たとえば、擬似的ではあるが、生徒がニュースキャスターになってリポートしてみる、親と子の関係を演じてみるなど。このようにして「生徒」というカテゴリーをずらし、話し手、聞き手の関係性をずらしてみることによって、日常生活に埋め込まれたコミュニケーションの暗黙の前提を振りかえる契機となるのではないか。このような視点に立てば、「成員カテゴリー化装置」の概念を、授業改善のヒントとして活用することが可能となる。
 このように、会話分析の知見(会話の順番取り、隣接ペア、成員カテゴリー化装置)から、授業を開発するためのヒントとしていきたい。

人間関係と「会話の輪」

よくコミュニケーション教育の文脈では、人と人との親和的な関係とか信頼感が重要だと言われる。
それはそれでおおむね間違いないんだけど、本当に現実はそれだけなのかということについては一考する価値があるだろう。
たとえば「会話の輪に入る」「会話の輪に入れない」とか「蚊帳の外にいる」という感覚がある。(この場合「輪」とは一対一ではなく三人以上のコミュニケーションの中で、一人が疎外感を感じるような状況をいうことに注意して欲しい。)
それは、イコール人間関係ができていないからだ、と言い切れるのか?
たとえば、親子三人で会話をしている。と、その親子の会話が、ふとしたきっかけで夫婦の会話になった、そのときに、「会話の輪」から外れた子供は蚊帳の外になり、疎外感を感じてしまった。
その夫婦はそれに気づき、会話の輪に我が子を参加させようと配慮する、または、子供がむりやり夫婦の会話に加わろうとする、その配慮や努力によって、会話の輪は広がり、親子全員が会話に参加した状態になった。
もう一つ例を出す。
ある教員向けの研修会があったとする。その研修会に初任の先生が参加していた。すると、話題があまりにもレベルが高すぎてついていけない。だから、会話がいくら盛り上がっていても、初任の先生は会話の輪には入れなかった。それを見かねた他のメンバーが、初任の先生を会話の輪に入れようと気を使ってくれたおかげで、なんとか初任の先生も会話に参加することができた。
さて、この二つの例は、どちらも「良好な人間関係」を前提にはしていないことをあらためて考えて欲しい。家族だって、赤の他人が集まる研修会だって、疎外感を感じることはあるし、逆に、会話の輪に加わることはできる。つまり、どんな関係性でも会話の輪ができるときとできないときがある。
それはざっくりと言ってしまえば「人間関係を構築する力」と言えちゃうかもしれないけど、それだけでは何も言っていないに等しいのではないか。
それには、もっと、態度的なものだけでなく、知的な能力やスキルのようなものが介在しているのではないか?
「会話の輪」に参加する能力、「会話の輪」を感じる能力、「会話の輪」を広げる能力という、会話という「言論の場」をメタ認知する能力がここでは問われているのではないか。
結局、こういう発想がいまいち浸透していかないのは、コミュニケーション教育の一番の落とし穴は、一対一で話したり聞いたりという状況を前提としているところにあるのではないか?
「会話の輪」は一対一ではなく、三者以上の関係性のなかで顕在化する。
そのなかで、三者がどのような会話の順番を取り、話題や語彙の選択などをするか、誰が参加するかという繊細な駆け引きがおこなわれる。
そのような「会話の場」「言論の場」という場に対する感覚や責任感のような態度を、コミュニケーションの能力に含めてもそろそろいいのではないか。

2015/07/26

聞くより読むほうが得意 〜読み聞かせが苦手な私の弁明〜

聞くより読むほうが得意という認知的特性の人は結構いるのではないだろうか?
少なくても私はそうだ。
たとえば、レジュメを渡されて、言葉を尽くして丁寧に「話して」説明されていても、実はほとんど私の頭に入ってこない。(聞く気がないわけじゃないよ、苦手なだけ?)
それよりもレジュメの「書き言葉」をつつーと読んでしまうほうがずっと早く、正確に理解できる。
絵本とかの読み聞かせもそう。
目の前にある絵本を、上手に音読して読んでもらう。語り手の話し言葉に置き換えられ、表現されているものを聞き取ってイメージする。これは本当に「誰にとっても」理解しやすい方法なんだろうか?
それだったら、その絵本を貸してもらって、すみから、自分の好きなペースで、行きつ戻りつしながら読むことができる方が、私にとってはずっとわかりやすく、楽しい読書体験だ。
「読み聞かせ」って、ある程度本を読めてしまう人にとって、聞くよりも字を読む、見るほうが得意な人にとって、(聴覚よりも視覚優位な人にとって? 継時処理より同時処理のほうが得意な人?)どのような価値を持つのだろうか。声で聴いて理解するのが苦手な人には読み聞かせはさしたる必要はないという程度のものなのだろうか?
読み聞かせっていいよね、いいに決まっているよね、楽しいよね、味わえるよね、という雰囲気にはどうしてもなれない、悲しい自分がいる。
図書館系の人、みなさん好きな人が多いようだから。

2015/07/25

聞き手は待ち手である。

誰かの話を聞く、話し合う。その時の聞き手は、単に話し手の話を聞き取り、吸収し、理解する、受動的な、スポンジのような主体として存在しているのではない。
より本質的に言えば、聞き手とは、「待ち手?」(待っている人)なのではないか。
この「待つ」には二つの意味がある。
一つは、他者からもたらされる新たな意味との出会いを、または、出会いという出来事そのものを待つ、「期待する」という意味だ。
もう一つは、他者との対話的な関係の中で、どのように自分が関与していくか、切り込んでいくか、その機会を「待機する」という意味だ。
だから、本当によく聞いている状態とは、他者との対話的な関係の中で、対話の力を信じ、「期待」と「待機」のある、待ち手としての存在となっているかどうかということなのだろう。

「儀礼的無関心」を学習する都市、教室

電車のイスに座ると、隣に見知らぬワカモノが座っていた。朝ごはんのサンドイッチを頬張っている。ときおり、サンドイッチを頬張るタイミングでワカモノの肘が私の脇腹を小突いている。
そのサンドイッチがどんなに美味しそうでも、「うまそうだね」とか、「一つだけちょうだい」なんてことを私が親しげに話しかけることはできない。変なオヤジだと思われて、無視されるのがオチだ。
電車のなかでは、肩を寄せ合い、肘を小突き合う他人は空気のようなものとして無視する、無関心を装うのがマナーとなっている。(これを社会学では「儀礼的無関心」と言っている)
でももしこれが電車の中でなく、学校の職員室では? 家のリビングでは? 田舎の田んぼ道のなかではどうだろう?
「儀礼的無関心」はひしめき合う都市特有の、学習される不自然な身振りだということは知っておいても良い。
ところで学校でも「儀礼的無関心」を学習しているということはないか?
教室というスペースのなかで、一人のオヤジ(職業は教員らしい)が一方的に話している。
それがどんなに面白くても、疑問に思っても、子ども(職業は生徒)が「面白いですね」とか「なぜ……なんですか?」と逐一質問して話しかけたら「授業」は成り立たない。
だから教室でのマナー、ルールとして「黙って聞く」という「儀礼的無関心」が学習されることとなる。
そこでの対話的関係は、実生活とかけ離れた、極めていびつで特殊なものであるということは、入学当初の小学生の様子を見ればよく分かる。
このようにして、学校、教室というシステムでは「話すこと、聞き合うこと、話すこと」という対話的な空間から、「話すこと、聞くこと」への独話空間にシフトしていくのだろう。

独話システムから対話システムへのパラダイム更新

「話すこと、聞くこと」というくくりは、独話を前提とした発想。
そこでは、ひとりが一方的に話し、それを一方的に聞く「聴衆」が存在する。しかし、片方だけが話していたり、聞いたりすることは、実生活、実社会ではほとんどないのでは?(学校の授業くらい?)
実生活、実社会では「話すこと、聞くこと」ではなく、「話すこと、話すこと」の対話的関係がほとんどだ。そこでの聞き手の「沈黙」は、一方的に聞く身振りではなく、「あなたが話し手ですよ」「次に話す権利をあなたに与えますよ」というメッセージとして機能している。(ソシオメソドロジーの「会話の順番取りシステム」の知見から)
だから、より厳密に言えば
「話すこと、聞くこと」は「話すこと、話すこと」の対話的関係が前提としてあるし、それをもっと言えば「話すこと、聞き合うこと、話すこと」なのではないか?
「話すこと、聞くこと」というくくりのなんとも言えない不自然さはその辺に起因してるに違いない。
大事なのは、独話のなかの、見えない対話的なやりとりを感受すること、聞こえない他者の声を聞こうとすること。

2015/07/19

待つことと聞くこと

「待つ」という言葉は実に含蓄のある言葉だ。
「待つ」ときに人は何を「待って」いるのだろうか?
おそらく、自分の力の及ばぬこと、知り得ないこと、どうにもならない事態になったときに、唯一とり得る積極的な身振りが「待つ」ということなのだろう。
コミュニケーションを、他者との相互作用によって共に意味を作り上げていくプロセスと捉えるならば、自分の力の及ばぬ他者に対して、最終的にとり得る身振りは「待つ」ということなのだろう。他者という存在を待機し、招待し、待遇し、そして期待する。
人は「待つ」という身振りをどうやって獲得していくことができるのだろうか。
「待つ」ことの難しいこの時代に。

なぜ人の話を聞くことができないのだろう。
それは「待つ」ことができないからなのでは。
「待つ」とは、他者の、自分の力の及ばぬこと、どうにもできないこと、知り得ないことに対してとる身振りだ。他者を自分の思い通りに操作したいのならば待つ必要はない。他者が自分の想定内で、予想の範疇に入っていると思い込んでいるのであれば待たなくてもいい。そもそも他者を必要としないモノローグでよしとする構えであるならば、待つのは面倒なだけだ。
他者を待つことのもっともシンプルな身振りが「待つ」ということだ。
効果的な質問とか、頷きとか、アイコンタクトとか、そういうものも必要かもしれないけれども、より本質的には、他ならぬ他者の存在を「待って」「待ち続けて」いるかどうかなのだと思う。


待つ力というものはあるか?
待つ力、何かをじっと耳を澄まして、感性を研ぎ澄まして待つ姿勢や態度、これを能力と言えるだろうか。
待つことの力を、忍耐とか我慢とかそういう表現の他に言い表すことはできないだろうか。

待てない人と待てる人は何が違うのだろうか?
待てない人はなぜ待てないのか?
待てる人はなぜ待てるのか?
それらは生得的な性格なのか、後天的に獲得されうる能力なのか。

2015/07/13

対話が深まれば深まるほど、他者が顕在化する

今日のディスカッションで一番面白かったのは、対話の中で、聞き手の受容的な姿勢はどこまで必要なのかという点だった。
相手を尊重し、受容することが大事なことは言うまでもない。でも、相手をどこまでも受け入れることはできるのか、そうするべきなのか。
ここでは「受容」とはいったいどういうことなのか考える必要がある。
「受容」はややもすれば、安易な同調、一体化、うなずき合いになってしまう。
そうではなくて、本当に受容的な構え、相手を尊重することを突き詰めると、相手と自分自身の違和にぶち当たる。そのズレを認めるということになる。
深い対話をすればするほど、相手と自分の立ち位置の微妙なズレに気づき、ズレを共有し、そのズレを心地よいものと感じることができるんだろう。
対話とは、自分の目の前の存在を、自分にとって必要な違和、他者として認識し、その違和から生まれる何かを楽しむ作法なのだ。

2015/07/10

単元「わたしの素」〜本との出会いのこれまでとこれから〜

「わたしの素」ができるまで
中学3年、読書生活を振り返る学習。
学首指導要領では、中3「読むこと」の言語活動例に以下のように示されている。
「自分の読書生活をふり返り、本の選び方や読み方について考えること」。
「読書生活をふりかえる」とはどういうことか、「本の選び方や読み方について考える」とは何をどうすることなのか。
授業をする二ヶ月ほど前から、それをぼんやりと考え続けていた。
ぼんやりと考え続けてたある日、学校図書館をうろうろと眺めていたら、次の本と「出会った」。

『ほかの誰も薦めなかったとしても今のうちに読んでおくべきだと思う本を紹介します。 』
この、長ったらしい名前の本は、角田光代、森達也、村上陽一郎、上野千鶴子、木田元、金原瑞人などのそうそうたる執筆陣が、14歳の少年少女にむけて、「今のうちに読んでおけ」という本について熱く語っている本だった。
この本に登場する方々は、どれも10代に強烈な読書体験をしている。そして自分の人生に影響を与えている1冊を、いくつになっても熱く語り続けることができる。
これだなと思った。
本にはそういう力がある。読書の力とはそういうものなのだ。
「読書生活をふりかえる」というのは、単に一日何分読んだとか、何冊読めたというレベルの話ではない。今までの人生の中で、あるいは日々の生活の中で、どのような一冊と出会い、そして自分の運命を変えていったか、切り開いていったのか、そのルーツまでたどらないことには「ふりかえる」なんていうことにはならないのではないか。
この風変わりなタイトルの1冊と出会ったことで、授業の発想が一気に膨らんできた。

授業を構想するとき、私はまず授業のタイトルから考える。
最初の案は「私のつくり方」・・・・・うーん、そういうことなんだけどちょっと違うなあ。「つくり方」っていうような、外側からこしらえる感じじゃなくて、もっと内的な必然性に導かれるようにして、一冊の本と人は出会っていくのではないだろうか?
悩みに悩んで、最終的には「わたしの素(もと)」という授業タイトルにした。
「わたしの素」。「味の素」みたいに、自分という存在の、「味」を作り出す要素のようにも読める。また、「もと」をたどっていく、ルーツをさかのぼっていくようなイメージにも連想が進んでいく。これはなかなかいいかもしれない。
このような紆余曲折を経て、ようやく一ヶ月前に、授業のおおまかな構想が固まった。

「引き出す質問」を学ぶためにはどうすれば良いか
この授業のもう一つのねらいは、「わたしの素」の交流を、一方的に伝え合う活動にするのではなく、質問を通して引き出し合う活動にすることだった。「引き出し合う質問」を学ぶ学習活動にしたかった。
「質問」ということでいえば、ほとんどの生徒が日常的に「質問」はしている。分からないことを教師に聞いたり、興味を持ったことを友達に「質問」したり。
しかし、世の中で必要とされている「質問」は、もう少し広がりのある概念だ。自分が知りたいことを「質問」するだけでなく、相手の気持ちや考えを引き出すときにも「質問」は用いられている。
「今日の体調はどう?」
「君のこの取り組みは、どのへんをゴールにして進めているの?」
「この話し合いのテーマが何か、もう一度確認しませんか?」など。
このように、相手の意向をうかがったり、相手との相互関係の中で新たな文脈を作り出すことも社会生活における「質問」の大きな働きの一つだ。
また、コーチングやカウンセリング、ファシリテーションといった職業の専門性の根幹にあるのも、このような相手やチームの力を引き出すための「質問」にあることはいうまでもない。
これらの質問は、自分が知りたいことを聞く、分からないことを質問するというタイプの「質問」ではない。そうではなくて、相手が話したいこと、相手が解決したいこと、相手が心の中でもやもやしている部分をクリアにするために行われる「引き出す質問」だ。
このような後者の「引き出す質問」を日常的に使えるようになって欲しい。すぐには使えなくても、中学生が「引き出す質問」を意識できるくらいにはなって欲しい。そういう願いから「引き出す質問」の授業プランを考えることにした。
「引き出す質問」を学ぶことの難しさは、いままでの「分からないことを聞く」というタイプの「質問」から「引き出す質問」というものがあるんだということへ発想を転換するところにある。
このような「引き出す質問」について、理論や理屈で中学生に説明しようとしてもそれは無理なことだ。そういうやり方でなく、「引き出す質問」を一気にイメージできる便利な方法はないか?
それはある。生徒の身近な生活の中で「引き出す質問」を目にする機会が、実はある。
それはテレビのトーク番組だ。
トーク番組では、ゲストを番組に招き、ホストから質問を投げかけ、ゲストの魅力を引き出していく。阿川佐和子や黒柳徹子という対談の名手がいる。「さんまのまんま」の明石家さんまがゲストに質問する「振り」も、そういう「引き出す質問」の一種だろう。トーク番組には「引き出す質問」のワザが縦横無尽に飛び交っている。
このトーク番組というフレームを使い、中学生を「ゲストの魅力を引き出すホスト役」にしてしまえばいいのだ。そうすれば、くだくだとこちらで説明をしなくても、一気に「引き出す質問」をイメージさせることができる。このような発想から、授業のフレームを「トークショー」とすることにした。
去年この学年で行ったビブリオバトルの手応えも、この「わたしの素」のヒントとなっている。
「質問」についてより詳しくは、ひとつ前の記事「質問考」へ
なお、この実践のトーク番組のフレームを使った先行実践は以上の文献に詳しい。中学校における「対話」学習の実践研究として筆頭にあげられる一冊だろう。先達はあらまほしきことなり。『国語授業における「対話」学習の開発』


読書生活をふりかえる仕掛け、三冊読書
今回の「わたしの素」では、今までの人生で出会った本の中から三冊をチョイスして紹介し合う活動を行う。
この「三冊」というのが意外にキモだったりする。
取り上げる三冊は同じようなものは避ける。(例えば「名探偵コナン」1巻、2巻、3巻みたいに)
三冊は、なるべく違う時期、違うジャンル、内容のものとするようにさせる。
一冊とか二冊でというのは比較的スムーズに決まる。ちょっと多そうだったら四冊という手もある。しかし三冊選ぶというのは不思議と難しいのだ。
プラスとマイナス、白と黒だけでなく、第三項を選ばなければいけない。そのため「三冊」は、選書が立体的なものになってくるようなのだ。そんなバカなと思うかもしれないけどやってみるとそれが実感できる。三冊は悩ましい。
今まで読んできた本を絞り込むこと、これだけでも、一体何を選べば良いか、どのような本を組み合わせれば良いかと頭を悩ませることになる。ためつすがめつ、昔読んだ本を引っ張り出して、読みかえしていくことになる。それを三冊組み合わせて、立体的に「わたしの素」を表現しなければならないのだ。このように「三冊に絞りこむ」というプロセスを経ることで、これまでの読書生活を立体的に捉え、ふりかえる意識へと、一気に高まっていくこととなる。
※なお、三冊を立体的に組み合わせる発想は、松岡正剛の「三冊屋」をヒントにしている。こんなところにも「編集」が潜んでいるのである。

いろいろと能書きをたれたけど、ここからが授業の実際となる。

単元名
「わたしの素(もと) 〜「本との出会い」のこれまでとこれから〜」

授業の概要
今までの十四、五年間の人生で出会った本の中から、印象に残っている一冊、大好きな作品、夢中になって読んだ本など、人生を変えた!というような本を紹介し合う活動をし、読書経験を共有していく。

授業の展開(全三時間展開)
1時間目 本との出会いをふりかえる
①単元の概要を確認する。
(授業については、一週間前に生徒たちには予告しておいてある)
②教師のデモンストレーションをみて、学習のイメージをつかむ
 教師とゲストとで「本との出会い」のトークショーをする。(「徹子の部屋」みたいなやつね、と言ったら一気に生徒とイメージを共有することができた)
③「本との出会い年表」を書く
④③の年表の中から、「わたしの素」を三冊に絞り、フリップに書く。(下写真)
このフリップや本の実物を提示しながら次の時間のトークショーが進んでいく。

(例)「〇〇さんの素」の三冊と、それに添えたコメント
3歳『さるかに合戦』……必ず最後に正義は勝つのだ!!
小学校3年生、『名探偵コナン』……あまりのおもしろさに人生を後悔
中学校1年生、東野圭吾『パラドックス13』……ミステリー系にドハマリ

このように、フリップには、それぞれの本の下に簡単なコメントが添えられている。
インタビュアーは、本の内容や、添えられたコメントという限られた情報から質問の切り口を考えていくことになる。
(写真の赤い付箋はトークショーで交わされた質問。トークショーを終えた後に貼ったもの)

2・3時間目 「わたしの素」トークショー
五人グループを作り、一人ゲストを決めて、そのゲストの読書体験を質問して引き出し合うトークショーを行っていく。
なお、授業は次のような展開で行っていった。

①トークショーの打ち合わせ(3〜4分程度)
ゲストは退席してグループから離れる。
その間、インタビュアーである四人は、ゲストが提示したフリップから質問内容を考えたり、質問を調整をしたりする。
質問が重複していないか、質問の順序は適切かなどを考えていく「作戦会議」を行っていく。この打ち合わせの段階で、すでに「引き出す質問」のメタ認知が高まっていくことになる。

②トークショー(7分くらい)
ゲストを拍手で出迎えてトークショーが開始。
それぞれの質問者は「二問ずつ」質問をしたら他の人にバトンタッチをしていく。(トーキングスティックであるぬいぐるみがバトン代わり)
この「二問」というところにもこだわりがある。
一問目は①の「打ち合わせ」で事前に考えておく質問。
二問目はアドリブでその場で考える質問。
言うまでもなく重要なのは、二問目のアドリブ質問だ。
二問目の、即興的に考える質問をひねり出すためには、ゲストの話を真剣に聞き取って、文脈を押さえ、どのタイミングで、どのような問いを切り込めばいいか考えていくことになる。特に、自分が知りたいことではなく、相手を引き出すための質問を意識していかなければならない。しかも、前の質問者や後に続く質問者の質問内容も意識して、上手くつないでいかなければならない。そのため、この質問はかなり難易度の高いものとなる。さすがにフリーハンドでは難しすぎると判断して、その支援として、質問のパターンをカードにしてテーブル上に並べておいた。
(全員ではないが、このカードを頼りに質問を考える姿は見られた。だから一定の効果はあったと言える。しかし、上手くトークの文脈をつなげるように質問を繰り出していくのはなかなか難しかった。きっとこれは大人でも難しいことなのだろう)








この「質問のカンペ」は、トークショーで質問として交わされそうな内容を片っ端から分析してカードに書き起こしたものだ。質問が思い浮かばなくなってしまったら、このカンペをチラ見しながら即興的に質問を思い浮かべることになる。(別にこのカードの言葉を言わなければいけないというものではない。ヒントカードのようなもの)
こういう学習言語、学習語彙を、子どもの活動内容に合わせて提示する手法は、先日、つくばの研修で学んだJSLカリキュラムの発想を参考にしている。

テーブルのセッティングは以下の通り。

三冊を紹介するフリップボード、質問のカンペ(質問の文型をカードにしたもの)、ゲストからのフィードバック用のカード、一問目の質問をメモするための付箋、トーキングスティック(ぬいぐるみ)、各グループの交流を録音するためのボイスレコーダー。

③ゲストからのフィードバック
ひとしきりトークショーが終わったら、ゲストから、このトークショーの質問をフィードバックしてもらう。
このフィードバックでは何も示さずにフリーに話してもらっても、もちろんいいんだけれども、そうなると「楽しかったです」で終わってしまい、浅いものとなってしまうことを危惧した。そこで、以下の四つのパターンをカードで示した。
(なお、この四つのパターンは、ゲストにとってフィードバックを引き出すという意味だけでなく、インタビューアーにとっても、トークショーの目指すべきゴールを共有するためのものとして機能していく。このトークショーの最高のゴールは「考えてもいなかった気づきを得る」ようなインタビューとなることだ。)
ゲストはトークショーが終わると、このカードを示しながらトークショーのフィードバックをコメントしていくこととなる。
よかった質問は? よかったところは? 質問を受けての感想は? などなど。

このような流れでトークショーのワンサイクルが終了する。

※なお、事後に、「わたしの素」の三冊、「本との出会い」年表、「本との出会い」の「これまで」と「これから」を振りかえるコメントを含む内容で、八つ切り画用紙に表現して掲示物にして他のクラス、学年とも共有していく予定。これは夏休みの宿題とした。

さて、この「わたしの素」の試みは、ひと言で言って、とても面白いものだった。
「思い入れのあるとっておきの本」というトークの題材、そして、それを引き出し合う仲間の存在、それを楽しむトークショーという虚構のフレーム、それらの相乗効果で、この交流は熱をおび、大いに盛り上がった。

実はこの授業は、学芸大の岩瀬先生も飛び入り参加をしてくださった。
あるクラスでは、1時間目のトークのデモンストレーションを岩瀬先生と。もう一つのクラスでは2時間目のトークショーを参観していただいた。
授業後、岩瀬さんから長文のフィードバックをいただいている。
このフィードバックが、活動場面での子どもたちの様子や、この試みの課題を知ることのできる何よりのレポートであると考え、最後に、以下、全文を紹介させていただく。


【授業参観記:長文】

今日は〇〇中学校の▲▲さんの授業を参観させていただいた。かねてから自分と同じ「匂い」を感じていた▲▲さん。今回突然のお願いにもかかわらず快くお引き受けくださり、研究室の院生の方々ら6人と一緒に2時間参観させていただいた。

一番の感想は「幸せな気持ちになった」だ。ボクは授業を参観するときに、そこに子どもとして座って授業に参加している自分を想像する。子どもである仮想の「ボク」は、本当に楽しそうに授業に参加していた。
そして生徒の皆さんが幸せそうに語り合う姿を見ていて、ボクも本当に幸せになった。

授業は、「わたしの素~「本との出会い」のこれまでとこれから~」。これまでの人生で出会った本、大好きな本、自身の人生に影響があった本など「わたしの素」になっている本を3冊選ぶ。その選んだ3冊についてグループごとに交流する授業だ。
グループごとに「徹子の部屋」のイメージでトークショーを行う。一人一人がゲストになり、グループのメンバーが「徹子役」(ファシリテーター)として、ゲストの「わたしの素」を引き出していく。

中3の皆さんは自身の「素」となった本について本当に嬉しそうに語っていた。思い入れのある本にはエピソードが埋め込まれている。本との出会い、その頃に体験したこと、本とのつながり。グループのメンバーはいかにゲストの魅力的なエピソードを引き出すかを「質問」でチャレンジしていく。全3時間の単元なので質問をブラッシュアップしている時間はあまりない。
そこは▲▲さんが周到に準備されていて、「質問カード」が各グループに配られている。
例えば、「具体性を引き出す質問」、「記憶を引き出す質問」、「感情・イメージを引き出す質問」等々。それぞれのカードに質問例が載っている。
これは、ボクがブッククラブの実践で使っていた「質問例集」に近いものを感じた。
http://d.hatena.ne.jp/iwasen/20140121
このカードを手がかりに質問をしていくわけだが、話し手に
「話したいストーリー」
があるので、次々に魅力的なエピソードが飛び出してくる。
ボクは生徒の皆さんのトークについつい引き込まれていった。うっかり質問したくなるくらい。ある生徒が語っていた『遠い町から来た話』は、帰り道で思わずアマゾンで注文してしまったほど引き込まれた。院生の皆さんもやはり参加したくなった!と言っていた。それくらい豊かな学びの場だった。こんなステキな授業を見たのはいつ以来だろう。
中3男子が「オレ、小学校の頃、黒魔女さんシリーズ読んでたんだよ−!」と嬉しそうに語っているのも何ともステキだった。

1時間はあっという間に過ぎていった。
「続きはまた次回」の言葉に「えー!」という声が出たところに、いかにいい時間だったのかがわかる。ボクももう終わりとは信じられない!というぐらい時間が短く感じた。
たった3時間の単元(今日は2時間目)でここまでできることに素直に驚いた。もちろん日頃の授業での積み重ねがあるからこそだろうけれど、その時間で深められるような丁寧な準備。その丁寧さが▲▲さんの実践を支えているのだろう。そしてきっとその準備はとても楽しいはずだ。(ボクもそうだったから 笑。▲▲さんほど丁寧じゃなかったけれど・・・・)
.
.
.
以下印象に残ったことをざっくばらんに。
.
.
.

・場の雰囲気がとてもやわらかく、もはやワークショップ。トークショーというフレーム、トーキングスティック(ぬいぐるみ)や、本の紹介用パネル、わざわざゲストの人は一旦退出して拍手で入場、と場を楽しむ仕掛けがふんだん。生徒の皆さんもそのフレームを楽しんでいた。時間が来ると、▲▲さんは「CM入りました-」笑。こういうユーモア、ステキだなあと思う。
.
.

・トーキングスティックを回していってグループのメンバーが交代で質問するというルールになっていたのだが、回していないグループもあった。▲▲さんが「ぬいぐるみいる?どう?」と1回目と2回目の間に問いかけると、「いるー!」「いやされるー」。「じゃあ使おうか」。何気ないやりとりだが、この学習を共同で作っていくという▲▲さんの立ち位置が表れているなあと感じた。「共同修正」は授業はもちろん、学級経営でもキモになるとボクは思っている。一緒に作っていくもの、なんだと考えているからだ。
.
.

・この授業は中学生に限らず、大人も十分楽しみ、深まる授業だ。ボクは「いい学びは年齢を問わない」を信念にしてやってきたが、この授業はまさに!だ。完成度の高い、豊かな学びのワークショップ。授業後▲▲さんに「授業のこだわりはなんですか?」とお聞きしたら、「大人に通用しないことを子どもにやるのは失礼だから、大人にやらないことは子どもにしない」とおっしゃっていた。この共通点は本当にうれしく、そしてそれを高い次元で実現している▲▲さんはすごいと改めて感じた。
▲▲さんはきっと授業を構想するときに「その授業に参加している自分」を見ているのではないか。自分もやりたい学び。だからこそ、生徒の皆さんの様子をあんなに嬉しそうに観察されていたのだろうなあと想像した。「自身を学び手として設定して授業や学級を考える」という視点は、ボクたちにとって一番大切なのかもしれない。
.
.

・4時間目はこの授業の導入だったのだが、ボクもゲストとして生徒の皆さんの前でトークをさせていただいた。すごく緊張して汗が止まらなかったが(笑)、とても楽しい時間だった。話しているうちに「これも聞いてもらいたい」ということが湧き上がってくる自分がおもしろい。「ああこれを話したい」というときにそれを引き出す質問が出てくるか、違う方向に行ってしまうか、ということが起きるということも実感できた。
.
.

・この授業を貫いている問いは、「いい質問(インタビュー)とは?」。この場合いい質問は、どういう質問だろう。①インタビュアーが聞きたいこと ②ゲストが話したいことでは質問が違ってくる。ゲストの主訴を意識して質問を組み立てるのもおもしろそうだ。作戦会議の作戦の方向性を定める感じだろうか。
そしてトークショーというフレームでは「お客さん」がいる。
お客さんを意識するかどうかで質問が変わる。
そのあたりを深めていってもおもしろいなあと感じた。そのためには、例えば、ゲストとインタビュアーがペアでトークショーを行い、他のメンバーは「お客さん」役にしてはどうだろう。金魚鉢の要領だ。インタビュアーにとって「お客さん」の聞きたいことはなんだろう、という視点が生まれて、いい質問についての洞察が深まりそうだ。トークショーをメタに見る視点も生まれる。これはボク自身が、生徒の皆さんの前で渡辺さんにインタビューしたときの実感から生まれたアイデア。観客を意識するとゲストとしてもインタビュアーとしても質問や話すことが変わっていく。その意味ではトークショーという場は豊かな可能性が含まれている。
.
.

・一つだけ欲を言うと、7〜10分という時間はあまりにも短い。これは中学であるという現実的制約上やむを得ないのだろうけれど、もっと長い時間設定にしたいなあと思う。「いい質問とは?」を深めるためには、もう少し質問する機会が必要に感じた。トークショーとしては「いよいよここから」というところで終わってしまう班もあった。
また、時間に余裕があればどこかの班のプロトコルを読んで、生徒自身が質問の機能を分析してもおもしろいなあと思ったが、これは欲張りすぎか。いずれにせよ「語りきる」みたいな時間ができるとホントに幸せだろうし、生徒の皆さん同士のつながりもより生まれただろう。そう、この授業は「本」を媒介に生徒同士がつながり合うデザインの授業でもあったのだ。ああ、やっぱり短くても1人20分はほしいなあ。
.
.

・昼食を取りながら院生の方々の質問にも丁寧に答えてくださり、ただただ感謝。ここには詳しく書かないが、評価の話や、「いらないものを捨てていく」という授業づくりの話、「やらなきゃいけないこと」と「やりたいこと」の関係など、院生の皆さんには今後の支えになる深い話をしてくださった。飾らず本音で話してくださるので、院生も激しくうなづきながら聞いていた。ああ、ありがたいなあと思う。
.
.

・ボクが大学生の頃、東京学芸大学の平野朝久先生は、バスをチャーターして全国の小学校に連れて行ってくださった。「いい子どもの学びをたくさん見ておいてほしいんですよ」とニコニコしておっしゃっていた。ボクはその時が教員としての原体験になっている。「すべての子どもには力がある」「すべての子どもは学びたがっている!」を具体的な姿で知ったことで、自身の信念になった。
今回、▲▲さんの授業を院生と共有できたのは、まさにあのときと同じだ。いい学びを実際に見て体験すること。これ以上の教師教育はもしかしたらないのかもしれないなあと思う。中学志望の院生は、未来の可能性を感じたと思う。ボクも未来を感じた。

院生の方々には、自主ゼミでぜひ実際にやってみて「学習者」を体験してほしい、それによって今日の学びがより深まるはずだ。
こんなにステキな授業を見たのはいつ以来だろう。本当に幸せな1日でした。これからも足繁く通わせていただこうと思います。本当にありがとうございました。

あ、一つ書き忘れましたが、
▲▲さんの授業に「持続可能性」を感じました。
特別なんだけど特別じゃない。
先生の肩に力が入っていないし、無理してない。自然体。
生徒にも過度に要求しない。生徒もまた自然な学びの場。
この自然さと「続けられる感」って今の多くの学校教育の実践にかけているなあと。

そしてなにより、両者の「やりたい!」が詰まっている授業でした。
これが授業の原点だと思うわけです。
▲▲さんの本への愛情を感じました。

「あこがれにあこがれる」ですね、▲▲さん。

引用終わり。
そう、そうなんだ。「あこがれにあこがれる」
子どもが好きで好きでしょうがないモノ(ここでは本)へのあこがれに、教師である自分も寄り添って一緒に伸ばしていくということ。
教師があこがれているモノ(ここでは本)への熱い思いに、子どももつられて好きになっていくということ。
その両方のベクトルが授業を作り、人を育てる営みの根幹となる原理となるのだ!


「質問」考

「質問」のジャンル、表現様式はどうなっている?
思いつきだけど、「質問」とざっくりといっても、そのなかには様々なジャンル、言語様式が含まれていると感じる。
先生への「質問」と、友達と休み時間におしゃべりする「質問」とはなんとなく違う。目的、語彙、機能、口調など。
ヒーローインタビューの「質問」、謝罪会見の「質問」はちょっと違う。
カウンセラーの「質問」、コーチングでの「質問」も似て非なるものだ。
弁護士、政治家、セールスマンの「質問」は?
トーク番組の、黒柳徹子の「質問」と、阿川佐和子のそれ、さんまのそれとはかなり違う。
LINEの「質問」とYahoo!知恵袋のそれとは同じじゃない。
これら全て「質問」と一言でざっくりとくくってしまっていいのだろうか?
ひょっとしたら、「質問」ってかなり広大な言語世界が広がっているのではないだろうか?
それらを一望してみたら「質問」の世界について何かを知ることができるかもしれない。


質問の文法
質問は必ずしも疑問詞とか終助詞「か」がつくとは限らない。
「お前がやったんだろ?」「明日も来てくれるかな?」というような推測を投げかける質問や、
「これじゃないですよね?」という念押し、確認型の問いかけ(付加疑問文?)もある。
「え?」という問い返しの技もある。
「大丈夫?」というような語尾をあげて疑問にする表現もある。
要は、質問の機能とは、相手から情報を引き出したいのか、同意や共感を得たいのか、そもそもの相手の感情、欲望を察知したいのか、これらの意図の違いによって、文字だけ見れば似たような質問の表現でも、音声のニュアンスやイントネーションが異なってくるのだろう。
「質問」が「詰問」になったり「押し付け」や「依存」にもなったりする。(文法的定義はいい加減)


質問に見せかけた意見、詰問
よくあるのが、最初から意見、結論ははっきりしているのに、それを疑問文の形で投げかける「質問」だ。
「……でいいんですか?」
「……なんじゃないですか?」
「……と思いますが、そのてんはどうですか?」
こういう感じの質問は、たいてい自信たっぷりの強い語調で投げかけられる。
で、たいていの人は、意見を対立させるのが面倒なので
「……まあ、そうですね」とか「はい……」と言葉を濁す。
こういう詰問型のピンポンゲームのようなコミュニケーションを、サッカーのボール回しのような対話型コミュニケーションに変えていくためにはどうすればいいんだろうか?
「なんじゃないんですか?」という「問い」を相手のものとして押し付け、投げかけるのではなく、
「なんじゃないかと、わたしは思うんですが」と、自分自身の前提を自分に問いかける、または
「なんじゃないかと思いますが、どうでしょうねえ」と、問いを2人の対話の場で共有できればかなり風通しが良くなるかも。
それができないから、息苦しい詰問になってしまうのだ。


「話を振る」「水を向ける」という感覚
やはりトーク番組、インタビューの基本は「話を振る」という意識なんだろう。
インタビュイーが話しやすい状況になるように、切り口を提示する。
インタビュアーは、自分の興味関心ではなく、相手の文脈、心理、関心に寄り添って、その呼び水となるような問いかけを投げかける。
ハナっから「あなたにとってのサッカーはなんですか?」なんて質問は最悪だ。
「後半の追い上げはすごかったですね。あの点差で、ハーフタイムではチームでどんな話をしていたんですか?」のように、試合の一番のキモを、最も具体的なエピソードで存分に語ってもらう。
そういうような「話を振る」「水を向ける」という意識がまずあれば、質問者のスキルは格段に上がってくるだろう。

2015/07/04

「引き出す質問」を身につけるためには?

「質問」というと、通常は、自分がわからないことを、わかっている人に聞くことを指す。「質問」は自分の知りたいことを聞くものだ。
しかし、コーチング、ファシリテーションの「質問」は、相手(クライアント)のために、内省を促すために行われる。間違ってもコーチやカウンセラーが知りたいことを聞くのが目的ではない。その「質問」についての発想の転換が、イメージのない我々にはそもそも難しい。相手を引き出す問いはどうやって学ぶことができるのだろう。
何となく、相手にそういう質問を投げかけられるようになる前に、自分自身に問いかけるような、内省の習慣や意義の自覚がないと難しいような気もする。やりながらそれに気づくというのもあり得るか?
だから「引き出す問い」は、「オーブンクエスチョンがいいよ」とスキルとして提示することは、ある程度までは可能なんだろう。
しかし、より本質的には、相手の思考や発想に寄り添って、「これだったらどう?」と相手の文脈に補助線を引いたり、相手の自覚していないような発想(思い込み)を推測して、それにこちらからさぐりを入れてみるような、高度にメタ的な対話のやりとりだと考えるべきなんだろう。
そして、相手の見えない思考の枠やもろさに触れる(見たくないもの、触れたくないものも含む)リスクや覚悟を伴うものという意識がないと、ゆめゆめ危険なものかもしれない。

2015/06/26

話し合いのキモは「問い」を連続させること

実習生の授業のふりかえり。
グループの話し合いが盛り上がるところとそうでないところがある。その差はどこにあるのか?
あるグループでは、話し合いである男子が「でもさ」「でもさ」と食い下がり、それに応じる相手も「そうじゃなくてさ!」と次第に声がおおきくなり、盛り上がりに盛り上がっていた。
もう一つのグループでは、ある生徒が意見を話したら、「なるほどー」と納得し、それで話し合いが終わってしまっていた。〈意見の表明会?)
話し合いが「意見の発表会」でとどまらずに、お互いの考えがしっかりとからみ合う話し合いになるためには何が必要なのだろうか。
それはやはり「『問い』の連続」にあるのだと思う。
この「『問い』の連続」という言葉は、この間の千葉大附属中の研究会で教えてもらった言葉なんだけど、なるほどと膝を打った次第だ。
相手の意見を「なるほど−」と受け止めるだけでは、やはり話し合いはそこまでで終わってしまい盛り上がらない。
相手の言葉をきっかけに「本当にそうかなあ?」「こうも言えない?」「それだったらこっちはどう?」と「問い」が次から次へと連続され展開していく、こういう話し合いであればこそ、お互いの考えを発展させ、深めていくことができるのだろう。
話し合いでは、そのように『問い』を連続させるために、骨太の「問い」を設定することと、その『問い』を各自が胸に秘めて話し合いに参加していくこと、さらには、相手の言葉から、新たな「問い」を立てていくことができるような力が「話し合いを盛り上げる」ためには必要となっていくのだろう。

2015/06/18

つぶやくのか、つっこむのか ~授業の中の「生活言語」と「学習言語」~

ここ最近の関心は、授業の中にいかに生活言語を組み入れ、それを学習言語につないでいくかという課題がある。
実習生の授業でも、どこで生活言語が生かされ、そして学習言語へと転換されているのかを注意深く観察している。
昨日からの授業で、実習生は一つの試みをした。それは、文学作品を読んで感想を書き込む際に「突っ込みを入れるように書いてね」という助言のパターンと、「つぶやくつもりで書いてね」というパターンの二つを試してみたのだ。まさに迷ったときは仮説実験。
で、予想通りに、「つっこみ」と「つぶやき」とでは、明らかに表出される『感想」は異なるのだ。
「つっこみ」の場合は、「……なのかよ!」というような、登場人物の行動を対象化し、批評的なまなざしの感想になっていく。
いっぽう「つぶやく」ように書き込ませると、「……の言葉が分からない」という感触を書いたり、「……なのかも」というような、登場人物の心情にやや寄り添った「感想」が増えてくる。
ちょっとした切り口を変えてみるだけで、これほど表出される「感想」が違ってくることに、実習生と軽い驚きを感じた。
 
ちなみに、いうまでもなく「つっこみ」も「つぶやき」も、生徒にとっては生活言語に近い。一方「感想」は学習言語に属する語彙だろう。
「感想を書きましょう」という、いかにも学校的な「学習言語」をちょっと生活言語によらせるだけで、これだけの変化が生まれるのだ。


もう一つの課題は、
生活言語……日常的なコミュニケーションで用いられる言語
学習言語……授業でのやりとりや教科の学習で使われる言語
と、
社会で使われている言語との3つをどうつなげていくかという課題だ。
たとえば、学校でしか使われないような特殊な言葉(学校方言?)をどう教師はとらえていけばよいのか。
一方、学校ではなかなか触れない言葉でも、社会では一般的に使われる言葉がある。
たとえば今日の授業では「コンセプト」とか「差別化」という言葉を「教えた」。しかし、これらの言葉は学校ではほとんど使われない言葉でもある。それらは教えなくてもいいのか、教える(習得させる)べきなのか。
そのへんのジレンマに悩まされている。

生活言語と学習言語

実習生の授業2時間目。二人の実習生はそれぞれ文学教材を取り上げ、ゆるーくグループでディスカッションするスタイルの授業で展開している。
昨日の授業。グループディスカッションからのシェアリング。そこで、「これは新兵衛の死亡フラグが出て……」という生徒の発言が飛び出し、(私が)ひやひや?びっくりしてしまった。(菊池寛「形」)

しかしそこからの実習生のコメントがあざやかだった。
「……さんは、新兵衛が最後に死んでしまうという『伏線』をつかんだということですね」と。
ゆるーいディスカッションだと、生徒の話し合いは、限りなく日常の話し言葉に近づいてくる。つまりおしゃべりと見分けが付かなくなる。だから「死亡フラグ」とか「若侍ってイケメンだよね」という生活言語も飛び出してくる。
そういう生活言語を土台とした交流を、授業の中で実習生の二人は大切にしている。今日の授業でも、生徒がリラックスして、物語の世界で楽しんでいるのが良かったよね、と三人で振り返ったところだ。
「生活言語」によって表現される生徒のなまの気持ちをうまくすくい取って「学習言語」につなげようとしている実習生の姿勢に敬服させられた。

2015/03/30

見せる対話と見せない対話と

このところ、気になっているのは「見せる対話」についてだ。
端的にいうと、新聞記者のインタビュー的な問答のやりとりと、「徹子の部屋」のような、観客、第三者の存在を前提とした問答(見せる対話)とでは、自ずと質が異なるはずだ、ということ。
Facebookはもとより、あらゆるコミュニケーションは第三者を想定したものとそうでないものとがある。その違いは、些細なようでとても大きな意味をもつ。そして往往にして、対話のズレもまた、それらをめぐる想定のズレから始まるような気がしてならない。

2015/03/10

説得に不可欠な「感情」と「論理」の関係を飲み物にたとえてみた

人に自分のメッセージ(意味)を伝えたいときに、どうやって伝えるだろうか。
メッセージ(意味)は、伝える人の「感情」と、伝え方の「論理」との二つとがミックスして伝えられる。

「今日はおやつはなしです。」というメッセージを
「昨日食べすぎたから」+「今日はおやつはなしです」と伝えると、理由という「論理」がプラスされる。
「昨日食べすぎたから」+「残念ながら」+「今日はおやつはなしです」と伝えると、「理由」にさらに「残念」というその人の「感情」までもが一緒に乗っかっていく。(もちろん、感情を伝えるのは言葉よりも表情やイントネーションなどに、より鮮明に表れるだろうが、文章で伝えるとこういうことだ)

繰り返すと、人に自分の考えを伝えるためには、
・感情
・論理
の二つが必要である。

一つ目の「感情」は、飲み物でたとえてみると「温度」のようなものだ。
どんなにおいしい飲み物でも、適度な温度がないと飲みたくなくなる。
寒い日に、冷え切った飲み物なんて誰も飲みたくない。
熱すぎるとやけどしてしまう。
適度な温かさがあれば、飲んだときに、身体に優しく染み渡っていく。

二つ目の「論理」は、同じく飲み物でたとえると「味付け」のようなものだ。
濃すぎるとしつこくなる。薄すぎると味が分からない。
すまし汁のように、あえて味付けを薄味にして「素材本来の味」をひきたたせるという方法もある。
ごてごてと味付けしすぎると、元の味がなんだったのか、よく分からなくなってしまう。
適度に味付けされることで、おいしくいただくことができる。

感情だけのメッセージは、味気のない飲み物と一緒で、勢いだけはあっても後に何も残らない。
論理だけのメッセージは、冷たすぎる飲み物と一緒で、飲み込むまでに十分に適温にしないと身体に入っていかない。
しかし、この好みも人によって結構違うらしい。
猫舌の人もいれば、濃い味が好きな人もいる。
感覚だけで生きている人もいれば、論理性がないと相手にしない人もいる。
感情も,論理も、相手に応じて適度なさじ加減を考えて伝えていかなければいけないのが難しいところだ。
特にFacebookのようなSNSでは、感情を伝えるのは難しい。((笑)とか、絵文字のようなものはあるけど)、むき出しの言葉、論理の目立つコミュニケーションになりがちだ。
話せばほんの一分の内容も、一分間分の文字で書かれると、それだけで、かなり威圧感のある「論理」のように相手に迫ってくる。
だから、あまり論理が際立たないような発信がかえって必要なのかもしれない。