2015/11/27

ワークショップデザインの授業で中学生は何を学んだのか?

「ワークショップを作るワークショップ」の授業もワンサイクルが終了。
実践の紹介は過去の記事に。
2クラスが7時間で授業に取り組んだ後に、他の2クラスも同じ流れでワークショップ作りにチャレンジしていく。(今日からスタート)
最初にワークショップ作りに取り組んだ生徒たちに、授業後に「これから授業に取り組む二つのクラスにワークショップづくりのアドバイスをして!」と投げかけた。
授業を終えた生徒たちが、ワークショップデザインにおいて何が大切だと思っているのか、この記述からある見てとることができる。

〇課題設定のアドバイス

  • QOLを向上させるために必要なのは本当になんなのかをしっかり考えた上でテーマを決めた方がよい。
  • 「本当にこれでQOLが向上するの?」というのもあったから、実際の生活に役立ちそうな内容にするとよい。
  • どういうワークショップの活動にするのかというイメージをもつことから、ワークショップのテーマを考えていくのもよい。
  • ワークショップの考え方がまとまらないときは、アドバイザーの先生に聞くのが非常に効果的である。
  • ただ自分たちが知りたいことだけでなく、参加者は最も何を知りたいのか?何に興味があるのかを探ろう。
  • テーマはうけねらいではなくて、みんなの役に立ちそうなことにした方がいい。
  • ワークショップのタイトルで参加者をひきつけるべし。


〇プログラム内容のアドバイス

  • 最初にワークショップの内容を決めるときは、目的や方法等を明確にして、進めていくなかで方向性を見失わないようにする。
  • 「体験」と「説明」を上手くバランスをもたせて組み合わせるのがすごく大切。
  • 説明は根拠と主張がしっかりしていると聴き手も納得しやすい。科学的な根拠や参考文献を提示できるようにしておく。
  • どんな情報を言ったらみんなに興味を持ってもらえるか、こんなこと誰も知らないだろうみたいなことを言った方がパンチがあって良い。
  • 一つ強調したい部分を持つとお客さんのウケがよくなる。
  • 時間配分や順序をよく考える。(長すぎず、短すぎないように)
  • 時間が20分と短いので、その時間の中で簡単にできるテーマにするべき。短い時間で急ぎながら深いところについてのワークショップにすると少し中途半端になってしまうので、簡単なことについてじっくりよく考えたり体験する方が得るものは大きい。
  • 調理20分はかなり無理があった。少し時間がかかるようだったら途中まであらかじめ作っておくとよい。(片付けまで20分でやらなければいけないので、遅れると次のワークショップに行けなくなる)
  • ブースに分けて少人数でやるなどの会場レイアウトも工夫する。
  • 映像や音楽などで気分を高めるのも効果的。
  • 小道具などが必要な班は、分担を決めて、休み時間を使って計画的に準備しよう。(道具のリストを作っておく)
  • CD科の授業でとれる準備時間はとても短いので、自主的に準備をしていった方が良い。
  • 班員との情報共有を大切に。分担も公平にする。

 
〇ワークショップ本番では?

  • ワークショップと発表(プレゼン)との違いを意識する。どうしても一方通行になってしまって「参加型」にするのが難しかった。
  • まじめすぎず、ふざけすぎずにやるといいと思う。
  • パワーポイントに頼りすぎない。参加者とやる人の発言量が同じくらいが理想。
  • 参加者を巻き込んで一緒に楽しむ気持ちが大切!
  • 和やかな雰囲気にする。
  • 時間配分が思ったよりかかったので、一度実際の時間で通して練習してみるとよい。(調理系のワークショップは必ずリハーサルを!)
  • ワークショップをしている間は全く相談しなくてもできるようにしておく。もたつくと印象がすごく悪くなる。事前の準備が超重要。
  • 根拠となる資料を集めておいて、質問にちゃんと答えられるように。

2015/11/14

問いを吟味する授業

とある中学校の公開研究会から考えたこと。

「問い」そのものを授業の対象にするという発想が面白い。
調べ学習の時になんとなく問いを立てて、(あるいは教員が設定して)そのまま探究に突入しちゃうというパターンが多いんだけど、「問いについて問う」というワンクッションがあるとないとでは、その後の研究の成否が大きく違ってくる。きわめて重要な視点。しかしとっても奥が深い。「問いが持てる子」って、「答えを知っている子」よりもずっとずっと価値があると常日頃から感じている。
授業では、夏休みの宿題で地域について調べたレポートを題材に、さらにそれを深める問いを考え、その立てた問いについて小グループで「問い相談会」(「価値ある問い」かどうかを話し合う)をするというのが今日の展開だった。
問いを吟味することの必要性は、大学のアカデミックライティングでは必須のスキル。高校などでの探究的な学習でも取り入れられている。(「問いを作るスパイラル」など) ほとんどの人は知らないと思うけど、国研の「中学校授業アイディア例」にも、かつて似たような実践が取り上げられた。( http://www.nier.go.jp/jugyourei/h25... )
授業を開発する際には、それをどの程度、対象である中学1年生に落とし込み、他の探究的な学習でも使えるような汎用的なスキルとして習得させることが鍵となるのだろう。汎用的なスキルとするためには、「授業の文脈につかず離れず」ぐらいな距離感が必要だ、つまり、「この授業のための」とか、「この調べ学習のための」問いの吟味の仕方とするのではなく、どんな探究にも使えそうな吟味する視点や方法を対象化、意識化させるのだ。
例えば、問いを吟味させる話し合いで、「良い問いか、悪い問いか」と話し合わせるのではなく、「問いのレベル」を話題にするという方法はどうだろうか。この問いは「深い問いだ」「浅い問いだ」というように、問いを対象化して「問いのレベル」を評価し合うのだ。(って、大人は普通そう感じているでしょ)
また、「問いの方向性」を提示する方法もある。「広げる問い」『深める問い」「連想される問い」「具体化する問い」「ひねくれた問い」「すぐに答えの出そうな問い」「答えは絶対にでない問い」など。このような「問いの方向性」が見えてくるレトリックが活用できると、問いを検討するための発想を広げることができる。発想を広げるという意味では「アタリマエを疑う」という観点も重要だ。常識を壊し、発想を広げるためには「異化」をしていくための道具立てをする。「六色ハット法」や、「なぜなぜ五回」のような「異化」を促すテンプレート、フレームワークを活用させるとよいだろう。
しかし、「問い」を吟味する視点で最も重要なのは、言うまでもなく、調べている本人の「知りたい」という探究心だ。だから「問い」を広げる活動を行いつつも、「そもそも自分の知りたいことは何なのか」という問題意識の根っこにもどっていくような感覚も(感覚こそ?)大切なのだと思う。「問い」を吟味し、あれこれ「問い」を評価していく中で、「この問いは私が知りたいことに近づいている」「この問いだと知りたいことから離れてしまう」「むしろ本当はこの問いを探究したかったんだ」などと感じるような、「問いへの繊細な感覚」を大切にすべきなのではないかと感じた。
つまり、直観レベルでの「問いの吟味」(気になる,知りたい、どうもスッキリしない。モヤモヤする……など)と、論理レベルでの「問いの吟味」(検証は可能か、方法は適切か、つじつまが合っているかなど)の必要性だ。熱いハートと冷たいノーミソで、問いをためつすがめつしていくような学習ができればいい。

そもそも、葛藤や対立に気づこうとしているか

月末に行われる公開研究会に向けて指導案検討。
全員分の授業プランが出そろうと、ようやく公開研に向けてのスタートラインに立ったような気分になる。
指導案検討の後、校長先生か感想を述べる。校長は異文化対立や葛藤を研究する大学の研究者でもある。その研究のバックボーンをもとに興味深いコメントをなされていた。
「日本では、そもそも世の中に葛藤や対立が存在することを認識することに苦手意識を持っている。葛藤や対立があるんだけど、それをなるべく考えないようにしている。気づかないようにしている。それが問題をより深刻にさせているのだ」と。
確かにそうなのかもしれない。身近な葛藤や衝突、軋轢を極力避ける事なかれ主義が重視される世の中だ。異議申し立てや、波風を立てることそのものが煙たがれる。社会に存在する葛藤や対立に目をつぶる身振りが、日本社会のあらゆる場面で学ばれてきている。
まず問題のスタートは、安易にわかったふりをするのでは無く、迎合するのでも無く、葛藤、対立の存在に気づこうとすること、そこからが、あらゆる課題を解決する第一歩なのかもしれない。

汎用的な「メタ認知」というものは存在するのか?

ねらいを決めたり、見通しをもったり、振り返りをしたりという、モニタリングやコントロールに関わる認知をメタ認知というらしい。
最近はどの実践ても「メタ認知」が大流行りだ。とりあえず「メタ認知。といっておけばいいやという感も無きにしも非ずだ。
しかし、そもそも汎用的で、文脈を離れても通用する「メタ認知」というものは、どの程度通用するのだろうか?
たとえば、料理の段取りが上手い人は、同様にテスト勉強も上手なのか、テスト勉強が計画的にできる人は、何かのプロジェクトも同様に段取りよくできるのか?
安易に「メタ認知」とひとことでくくって言うけど、ある程度の幅で、メタ認知(という名の、共通して活用できる知識や技能〕が適用する分野なりジャンルが存在するだけなのではないか?
たとえば、図形の証明と、論理的文章の証明はどこまで一緒なのか。論文を書くことと、料理を作るときのメタ認知はどの程度「転移」するのかしないのか?
何でもかんでも「メタ認知」といったところで、何も言ったことにはならないのではないか?
探求学習には課題解決のステップとしてある程度、定型化されたものがある。イベントなどの企画、運営には、段取りの適否というものは確かにある。しかし、それらの分野の特殊性を離れた「段取り力」とか、「見通し力」などという「メタ認知」なるものは存在するのか?あくまで、探求学習、イベント運営に限る、手続き的知識なのではないか?
ジャンル、文脈、状況を離れて、汎用性のある「メタ認知」というものがあるのか、それを学ぶことができるのか、それを知りたい。

やはり、「評価」という言葉をなるべく使わない方がいい。

よく言われることだけど、評価を語るときに、ABCと生徒を値踏みするための評価(エヴァリュエーション〕と、生徒の学習が進んでいるかどうかを見るための評価〔アセスメント)とが混同していることが非常に多い。私自身も時々ごっちゃに考えてしまっていることがある。
そしてそれらの「評価」も、同時期、全員に対して行う必要があるものと、全体をざっと眺めたり、抽出児で把握できるものもある。〔そうでないとやっていけない)
さらには、教師にとっての授業評価と、生徒にとっての能力評価とも混在している。
もっと言えば、教師が確認できる評価と、生徒自身が実感できる評価もある。(自己評価チェックなどで)
これらの多様な意味が全て「評価」の一言で語られてしまうのだ。
これで食い違いが起きない方がおかしい。
授業で評価が大切なことは誰でも理解している。そして意識的にせよ、無意識的にせよ、誰だって、学習状況から何らかの判断(それが「評価」なのだが〕をしているはずだ。
だから、たとえば、教師の授業中の評価は、「評価」という言葉を使わずに、「今日のみどり」とか、「ここに注目する」などのタイトルで、つけたい力に応じて
「この姿を注意して見る」
とか、
「こういう表情が見られるはずだ」
「こういう発言や動きを見逃さない」
という程度の記述がギリギリのところなのではないか。
やってないこと、やりたくてもできないことを論じる、建前のための評価の議論ほど不毛なものはない。〔それがさらにエスカレートすると、評価のためのアリバイ作りの授業になる。ああ!)
※もちろん、単元終了後の評価〔エヴァリュエーション〕の方策は別途検討するべきだろう。

やっぱり、教材が命。

これからはコンテンツじゃなくてコンピテンシーだ!とかいっても、知識じゃなくて課題解決能力だ!っていったって、単なる薄っぺらい操作スキルの習得や、スカスカの課題解決じゃあ「深い理解」「深い関与」にはなっていかないのだろう。
噛めば噛むほど味がしみ出るようなチキストがあってこそのディープさなのだ。
エビで鯛は釣れないように、チープな教材からはチープな学びしか得られない。だからこそ、ディープな学びを引き出すためには、何をおいても学習材の開発が必要なのだ。
という反省のつぶやき。

アクティブ・ラーニング型授業を作るための教科を超えた汎用的な能力はあるか?

素朴な疑問
・技能教科はほとんどがアクティブ・ラーニング型授業であるといえる。
・小学校の先生は技能教科も教える。
・ゆえに、小学校ではどんな初任者でも、アクティブ・ラーニング型授業をしていない人はいない。
そこで疑問。
小学校の先生で国語の一斉指導が上手い人は、体育のアクティブラーンング型授業もうまいのか?
反対に、
体育のアクティブ・ラーニング型授業が上手い人は、国語の一斉授業もすべからくうまいのか?
アクティブ・ラーニング型授業や一斉指導型授業を作る、教師の「教科横断の汎用的なスキル」ってどの程度有効なのか?
ひょっとしたら、その汎用的なスキルって割合的には少なくて、他教科の授業にはあまり転移しにくい、領域固有の知識、能力の比率が高いのではないのか?
結局はその教科、授業の教材研究に依拠しているのではないか??

失敗例も価値ある実践

というか、陥りがちな失敗の発見こそが、その研究のもつ新規性なのだと思う。
だからこそ、どんな試みも「未完成な試み」である限りは価値ある実践だ。
完成品として取り繕うのではなく、未完成品であり続けること。そういう前向きさの伝わる実践には心から共感できるし、得るものも大きい。完成されたパッケージはあっという間に忘れられてしまう。
研究はコミュニティによって育てられる協同的な実践なのだ、ということをみんなが共有できれば幸せになるなあと感じる昨今。

場数を踏む、あるいは創造的な失敗

場数を踏むという視点が大事
アクティブ・ラーニング型の学習のような、学習者の自由度が高い学習活動では「場数を踏む」という経験値がどうしても必要になる。だから、研究授業だからとか、思いつきでたまーにやる程度では「場数」はこなせない。うまくいくかは運次第になる?
結局、生徒も教師もいっぱい失敗しながら、その失敗をしたたかに次のステップとさせていくような、「次はこれこそは!」というフィードフォワードの発想が、アクティブ・ラーニングでは大切なんだろう。
だから、たった一回の授業の成否を、それだけの良し悪しで判断するのでは無く、子どもたちが場数をこなせばできるようになるものなのか、それともそもそも無理な活動だったのかという視点で見ていくことが必要になるのだ。場数をこなさないうちからあれやこれや言っても仕方がない。

場数を踏むのための「場」の条件
というわけで、生徒にとってどういう「場」が値打ちがあるのかという問いにつながっていく。
一言でいうと、「ルーチンでありながらルーチンを超えるもの」となるのかな。
子どもにとってルーチン(反復して取り組む価値のあるもの)という認識が無いと、そもそも経験として定着しずらい。教師の思いつきで振り回されているだけ、という意識では次への取り組みにつながらない。
反対に、単なるいつものルーチンで、出来合いの力で自動的にさくっとできてしまうようなものではあまり力とはなっていかない。「箸の上げ下ろしでは筋肉がつかない」のと同じだ。
「ルーチンでありながらルーチンを超える経験の場」を、どう設定するかなのだろう。

2015/11/06

批評の目覚めとしての食レポ

批評の題材に何を選択するか。結構頭を悩ませる問題だ。
「批評」というとどうしてもちょっと背伸びしたテーマ(時事問題とか社会について)語らせたくなる。それはそれでもいいんだけど、なんとなくそういう題材だと、実感からかけ離れた空理空論になってしまうような気がする。
結局は、批評の表現指導の力点をどこに置くかが問われるんだけど、そこを私は「自分の固有の感覚を言葉にして他者と共有する」と位置づけた。
その「固有の感覚」とか「自分なりのとらえ方」というものを前提にしないと、借り物の意見をいくら語らせたところで、それではそもそも批評はなり立たないと思ったからだ。
で、前置きが長くなったけど、その批評の入門的な題材として「食レポ」を取り上げた。

「食レポ」とは、グルメ番組などでリポーターが味を紹介することをいう。
「味覚」という、最も身体的で私的な感覚を、言葉の表現を駆使して他者と共有する。それこそが、ちょっと大げさに言うと「批評の芽生え」につながってくるのではないかと考えたのだ。
「おいしい」という感覚を「おいしい」だけでなく、こんなふうにとか、こんな感じで、と具体的に表現していく。そのための学習を考えた。
参考にした文献はこれ。知る人ぞ知る、大学生向けの文章表現のワークショップの本。面白いよ。

まず最初に、谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」の有名なくだりを紹介。
何の食べ物だと思う?? (横書きでちょっとかっこわるい)
正解は……

と、こんなふうに、一切れの羊羹でもこれだけ奥行きのある表現ができるのだ。
つづいて、このように味わいを表現するためのテクニックを紹介。(このへんは『日本語上手』の内容をそのまま借用した)
食レポの比喩の例として彦摩呂さんは外せないだろう。
彦摩呂さんの巧みな比喩を、その場でwebで検索していくつか紹介した。
やってみよう①は、『日本語上手』で取り上げられていたもの。
この活動で面白いのは、オノマトペでも多くの人が共有できるものと、共有できないもの(イメージしづらいもの)があるということ。「自分ならではの味覚」を共有してもらうために表現するのは難しい!ということに気づきはじめた。
そして最後の課題はこれ。

こんな感じで、自分の好きな食べ物、最近食べた美味しかった料理の批評文(食レポ)を400字で表現する課題を提示した。

生徒の作品は次の通り。
なかなか気合いを入れて書いてくれた。これだけノリノリに表現できれば、もう「批評」と呼んでも差し支えないのではないだろうか。いや、批評じゃないなあ、なんだこれ?

らぽっぽのアップルパイ
らぽっぽのアップルパイ。それはアップルパイといえどもリンゴに加えて薩摩芋も入っている。まず箱を開けたときのおいしそうなにおい。そしてシンプルな見た目。口に入れるとシットリとした薩摩芋と歯ごたえのあるリンゴ。それにさくさくのパイの味が感じられる。こんなにしっとりとした満足感のあるパイは他にはないだろう。薩摩芋はほどよい甘さで、量が多いので少しずつ食べることに意味がある。リンゴは柔らかく、砂糖はあまり使われていないので、素材そのものの味を楽しめる。その二つの下で支えているパイの生地は薄く、まるでしっかりとした畳が敷かれているようだ。この三つの素敵な要素があるからこそ、このアップルパイが成り立っている。
今日もあの、おいしそうな、甘いにおいに誘われて思わず立ち寄ってしまうかもしれない。らぽっぽに。

梅干し
見た目はシンプルなシルエット。しかし、よく見ると少しシワシワしていて、ここまで来るのにどれだけの苦労があったのかと物語っている。情熱的な太陽のような赤さを一目見るとよだれが出てくる。
一口、口の中に放り込むと深い世界が広がってくる。それと同時に酸味が口の中に広がる。思わず顔をしかめたくなるような酸っぱさだ。しかし、その酸っぱさがたまらなく美味しい。そこらへんに売っているものよりも酸っぱい。彼らにかけられた苦労が他のものとは違うからだ。おばあちゃんが腰を曲げながら一階から四階の屋上まで登って干している。そんな様子が浮かんでくる。口の中でつるつるした皮がめくれると柔らかい実が出てくる。今までの酸っぱさとは一変し、あたたかくわたしを受け入れるようだ。舌に触れただけで実はとろける。最後に口の中には種だけ残る。種にも味がついている。とても美味しい。他にこんな美味しい梅干しがあるんだろうか。いや、ない。

三ツ矢サイダー
僕はオアシスを求めていた。まるで、砂漠のど真ん中で、今にも干からびてしまいそうな植物のように。
すると、遠くにキラキラと太陽の光を反射させた泉が見えた。僕は走った。友のために走るメロスのように。手を伸ばすと、そこにはキンキンに冷えた天然のミネラルがあった。頭に手をかけ、反時計回りに回し、最後の障害物を取り除く。すると、僕を歓迎するかのようにシュワシュワと音を立ててはじけた。一気に流し入れると、今にも死んでいきそうだった僕の細胞が気力を取り戻し、活性化した。ほんのり甘い天然水の中に、パチパチとはじける元気な泡たちがたまらなく刺激的だ。乾ききった身体にしみこみ、うるおいを取り戻した。僕のなかでの飲料ナンバー1だ。何十年もの間、飲まれ続けた理由は、僕の身体で立証されたといえる。

クドすぎる食レポに挑戦
もう過ぎてしまった夏を思い出して欲しい。部屋の中まで入り込んでくる熱気を抑えようとクーラーをかけ、一向に減らない宿題にさじを投げたあのとき、一体何を食べただろう。冷蔵庫の扉を開けた私を迎えたのは、常磐色の表面に、その楕円形の上下を結ぶ幾本もの黒い紋様を浮かべる。大きな大きな西瓜だった。両手でやさしく抱え出したそれはずっしりと、中には隙間なく詰められた果肉の重さを伝え、そっと当てられた包丁に力が込められると、ザッという音が響き、薄暗い部屋に光を灯すようなまぶしい白。さらに刃を降ろせば、今度は奥に隠されていた深紅と珊瑚朱色が斑に顔を出しゆっくりと左右に割れた。
半球となった西瓜が透きとおるガラスの容器から飛び出すように置かれたそれは、光沢のある銀色のスプーンに刺されるのを今か今かと待ちわびているようで、一人っ子の特権のように思われる幸せな瞬間でもある。
薄く平らな凹みの縁を真っ赤な表面にあてれば、予想よりも遙かに軽い力で中に進み、その亀裂が同じ様に広がって欠片となる。浸みだした赤の果汁と一緒にすくえば、さわやかな甘い芳香がただよって口元に運ばれる。たっぷりと音を立てて砕かれ溶けるように一瞬で消えてしまう。ほどよい涼しさと蜜のような甘さだけが残ると、ついさっきのあのザラザラとした粒の集まりが恋しくなる。勢いよくすくって口に入れれば、漆黒で平べったい僅かな大きさの種が混ざっていて、ほんの少し後悔する。噛まないように咀嚼してがりっという堅さを感じてしまったときの悔しさは誰かに伝えたくなってしまう。
誰もいないリビングで一人黙々とスプーンと口を動かし続ければ、永遠に続くように思われた掘削の時間も、うっすら見えだした白の皮が露になることで冒険が終わってしまったと空虚な気分になる。

2015/11/01

指導案を書く力と授業を作る力

昨日の協議会では「指導案」の内容についての発言があった。曰く、指導案に示されている目標と、活動、評価との整合性は?など。
「授業」の協議会なんだから「授業の案」を取り上げて協議するのは意味あるの?とも言いたいけど、やはり実際の授業、そして子どもの姿と、指導案との齟齬は気になる人は気になるものらしい。それだけ丁寧に読んでくれたということなんだけど。
そういう意味でも「実際の授業を見るだけでは伝わりきれない何か」を伝えるためのツールとして「指導案」は必要だし、伝わってるかを確かめるために、念密に指導案の検討を進めていく必要があるのではと感じた。自分の思いを吐露するだけではなく、参観者に「伝える」という位置付けの指導案。だからもっと丁寧にするなら、本当は指導案だけでなく、その単元の授業で使ったワークシートや、その授業に至るまでの生徒の学びのプロセスをたどって示すことも必要なのだ。一時間で完結しない、学習者の自由度が高い単元ならなおさらだ。
指導案を見なくても参観者に授業の意図が伝わるものが本当は一番なんだろうが、授業ってそんなに単純なものばかりではない。

辞書の語釈について考える授業は何を提起していたのか

参観した授業から授業考えたこと。
授業の構成自体はまだまだ練り上げる要素は多いけど、提起している問題はなかなか興味ぶかい。

◆授業のおもな内容
1 身近な言葉の語釈を考えてみる
「旅」とか「友だち」とか「思い出」など。
「あなたの言葉を辞書に載せよう」という大辞泉のサイトがある

2、辞書の言葉について考える
大辞泉や三省堂国語辞典では、読者参加型の辞書づくりに編集をシフトさせていっているそうだ。
その試みのおもしろさや意義について考える。

◆この授業が提起しているもの
1、「辞書上の意味」を考えさせようとした
学習指導要領の指導事項には「辞書上の意味と文脈上の意味との関係に注意し、語感を磨くこと」という文言がある。これはほとんどの場合、小説などを読んだときに出会った見知らぬ言葉を辞書で調べ、辞書上の意味を文脈に沿って書き換えていくという学習が行われる。
しかし、今回の授業は何かの文脈が先にあるのではなく、まず「辞書上の意味」そのものを考えさせようとしたところに特徴があり、提案性があるのだ。
「辞書上の意味」ってどうやって書くべきなんだろう、そもそもなんのためにあるんだろうか。
言葉の意味は、そもそも文脈から離れてはあり得ない。Aくんの感じる「かわいい」とBさんがつぶやく「かわいい」の意味は同じではない。しかし、いくつかの「かわいい」の文脈を集めていくとそこにおぼろげながら「かわいい」の「辞書上の意味」が浮かび上がってくる。どんな文脈でも「この意味として使われているとは言えそうだな」という「語釈」がにじみ出てくる。(言語学では「ラング」「パロール」というらしいことを大学のときに習ったけど、「パロール」から「ラング」を取り出していく作業だと思っていいのか?)

2、言葉の意味のフローとストック
といいながら、「辞書上の意味」が書かれている「辞書」そのものも大きくかわりつつある。大辞泉などの辞書では、インターネットによって、自由に語釈を書き込んで読者を参加させ、辞書の語釈をを豊かにしていこうという取り組みを進めているのだ。まるで掲示板のような辞書。
初めから「ラング」が決まっているものとしてトップダウンに読者にあたえるのではなく、ボトムアップに作り上げていく試み。しかも辞書の編集者だけでなく、様々な「文脈」を持つ一読者もそれに関わることができる。
「文脈を持つ言葉」はTwitterの「つぶやき」のようにあっという間に消えていき、移り変わっていく「フロー(流動的)」の言葉だ。しかし辞書は「ストック(不変・不易)」を志向する。言葉の意味のフローとストックのせめぎ合いを、具体的な辞書の編集のプロセスを知ることで、学習者は目の当たりにすることになる。
そういう観点で、言葉の意味のフローとストックを考える機会にすることができる。

3、編集の参加性と権威性
そもそも、読者は辞書に何を求めているのだろうか?
それをひと言で言うと「辞書に載っている正しい意味」という安心感、信頼なのではないか。もっというと「辞書の権威」にすがっているのではないか。
「辞書に載っている」といえば、その語釈は規範となり、正しいものとして安心して許容することができる。しかし「隣のA君が言っていたよ」というのでは当てにならない。
辞書は「権威性」の高いメディアなのだ。
しかし、最近は百科事典の世界ではご存じのようにWikipediaによってだれでも百科事典作りに参加できるようになった。
誰でも書き込めるという「参加性」が高まると「権威性」は薄まる。
国語学者でしか書けないという「参加性」が低くなると「権威性」は高まる。
もし辞書が「参加性」を高めた場合、「権威性」はどうやって担保していくのか、どうすれば信頼できる語釈になるのか、それこそが辞書の編集ポリシーが問われることになる。
そういう観点で、編集の権威性、参加性を考えさせてもよかった。

4、実は「編集方針」を考えていたのだ
授業のなかで最も欠けていた何か?
それは「辞書を読む読者」の存在だ。
世の中にはさまざまな辞書が作られている。
これは裏を返せば、それだけ多様な読者のニーズがあると言うことなのだ。
たとえば、「日本国語大辞典」や「広辞苑」のようなごっつい辞書を使いたい時もいれば、「新明解国語辞典」のほうが必要なときだってある。誰にとっても「日国」が必要なのではなく「日国」が必要な時があり、それを必要とする読者がいるから、マーケットが成立しているのだ。
だから、「こういう読者のニーズがあるからこういう辞書が必要だ」、「こういう辞書があればこういうニーズを満たす」、「この語釈は誰々向きだ」、という議論ができればさらに深まりがあったのではないかと思う。
「自分のお気に入りの語釈」を考えることは楽しい活動だし、言葉の感性を磨くためには有効には違いないんだけど、もっと「辞書」というメディアの「編集」に目を向けさせる、作り手と読み手との「あいだ」に存在する「辞書」の微妙な立ち位置のようなものをもっと考えさせてもよかったのではないだろうか。
そしてこのことについて考えさせることは、いうまでもなく「辞書」だけでなく、全てのメディアの成り立ちを考えさせるときにも有効な「汎用的な資質能力」の一つとなっていくのではないか。

「ワークショップを作るワークショップ」のうらばなし

公開研の授業「ワークショップをつくるワークショップ」について、忘れないうちにいくつか書き留めておこうと思う。

◆授業のそもそもの発想
この授業は「コミュニケーション・デザイン科」の授業。
そもそも、コミュニケーションはどこに向かうべきなんだろう、何のためのコミュニケーションなんだろう。情報を効率よく伝えたり、相手を意のままに動かそうとする力が本当にコミュニケーションの力なんだろうか。そんなレベルのものでいいのだろうか。
「コミュニケーション」の語源は「分かち合う」にあるというのを聞いたことがある。(諸説あるらしいが)本当のコミュニケーションって、相手を意のままに動かしたり、情報を一方通行に流し込んだりするものではなくて「一緒に考えようよ」とか「これやってみよう」という共有とか共感がともなうものなのではないか。
中学生のコミュニケーションスタイルもそうだ。優等生ほど、しらじらしい「未成年の主張」の演説会プレゼンテーションになってしまう。本当にそれが優れたコミュニケーションなんだろうか。育てたい力なんだろうか。それだけでいいんだろうか。
昨今、一方通行的なコミュニケーションがなんだか増えてきているような気もする。
自分の主張を一方的に相手に押しつけたり、炎上させるようにのべつまくなしにまき散らしたり。必要なコミュニケーションって、一体何なのか? 
これからのコミュニケーションで必要なのは、相手をねじ伏せるのではなく「一緒に考えようよ」というものであって欲しい。それを探究するのが「コミュニケーション・デザイン」なんじゃないか。
そんなふうに、求めたいコミュニケーションのカタチがだんだんとはっきりとしてきた。
では、そのようなコミュニケーションが埋め込まれた活動のモデルって社会のどこにあるんだろう、それは何なんだろう。そう考えたときに探し出した答えが「ワークショップ」だった。
(実は、この夏休みに、私自身が先生向けのワークショップを作って実践したんだけど、それがことのほか楽しく貴重な経験になった。ワークショップデザインを自分でやってみて楽しかったという経験も単元の発想にはある)

とりあえず、以下の文献を読み返した。
『協同と表現のワークショップ』

『ワークショップデザイン論』

『市民の日本語』、これはまちづくりなどのワークショップを精力的に取り組まれていた加藤さんの遺作。これからの日本に必要な「市民の日本語」としてのコミュニケーションについて次のようなことが述べている。加藤さんがファシリテーターとして取り組んだワークショップでのさまざまな「言葉」やエピソードがとりあげられていて、国語教師としてずきずきと刺さってくる一冊だ。
「声が大きくて、理路整然と話ができる人だけではなく、声が小さくても、まとまっていなくても重要なことばを発する人もいる。多数決だけでは、貴重なことばを練り合わせていくことは難しい。過去の美しいことばを美しく朗読しても、それは市民のことばにはなりにくい。新しい社会を作り出していくためには、新しいコミュニケーション方法が生み出されなければならない。」

近年、まちづくりなどのコミュニティーの問題を考えるワークショップや、ものづくりなどの制作系、そしてダンスや演劇などの表現活動でワークショップの手法が取り入れられてきているそうだ。
そこでのワークショップの特徴はいくつかある。
・お客さんではなく主体的な「参加者」「参画者」であること。
・具体的な活動、しかも楽しいものが含まれていること。
・この活動を通して「気づき」が得られるものであること。

私なりに、ワークショップの定義をつぎのようにした。
「参加、体験を通して『気づき』が得られる活動」である、と。

ワークショップに特定のフォーマットはない。(むしろ既存の学び方をくずしていく「まなびほぐし(アンラーン)」がその本質だという人もいる)しかしそれでは中学生は途方に暮れてしまうので、取りあえず『ワークショップデザイン論』を参考に、流れの例を提示した。


こうして、「ワークショップ」に焦点を絞って授業開発をすることに決意した。
次はこれをどう授業にしていくかだ。

◆ワークショップを考えることはコミュニケーションを問い直すこと
ワークショップづくり、ちょっとかっこよく「ワークショップデザイン」は「分かち合う」ためのコミュニケーションを成り立たせるために必要な要素がぎっしりと含まれている。
総合などの学習でプレゼンは行うことが多い。しかし、プレゼンのような伝達手段と、ワークショップのようなコミュニケーションのデザインは大きく異なる。
たとえば、ワークショップでは次のような要素を考えなければならない。
空間……座席配置、部屋の広さ、レイアウト
時間……無理のない活動の流れ(導入・活動・ふりかえり)
伝え方……相手の立場に立った説明、行動や気づきを促すファシリテート
道具………活動を構成するためのツールの検討
などなど。
だから、ワークショップはプレゼンや研究発表の延長線上ではなく、全く違う次元で相手と共有するための方法や関わり方を考えなければならない。二次元のパワポから、時間、空間を伴った三次元の活動デザインへと意識を変えていかなければならない。

ワークショップを作ることは、効果的な学びの場、コミュニケーションのあり方を子どもたち自身が問い直すことになる。学びは与えられるものでも、一方的に与えるものでもなく、参加者が自分で生み出していくもの。そしてその気になれば、そんな学びの場を自分たちでも作ることができる。それがワークショップづくりの醍醐味だ。
もっと言えば、ワークショップづくりに目覚めてしまうと、普段の授業が何でつまらないかも見破ることができるようになってしまう。空間への配慮、活動や時間への配慮、インストラクションの配慮など……。そこまでは、さすがに子どもたちには言わなかったけど……。

◆ワークショップのテーマをどうする?
子どもたちがワークショップをするとして、そのテーマや場の設定をどうするか?
ワークショップの相手は、本当は下級生とか外部の人とかがいいんだろうけど、たった7時間でそんなに大がかりなことができない。
結局、同じ学年の生徒どうして、ワークショップを作り、お客さんとして体験してもらうことにした。
これには裏テーマもある。中三の今の時期のかれらが取り組むことの意義だ。
本校は中高一貫のように見えて、実は完全には直結していない。多くの生徒はそのまま系列校に進学できるが、そうでなく、男女とも外部への受験を余儀なくされる生徒も一定の割合存在する。(内部入試は11月に行われ、それでほぼ帰趨を決することになる)だから、実はクラス、学年内の同級生はライバルでもあるのだ。決してクラスで「みんなで頑張って合格しよう」とは口が裂けても言えない状況。ちょっと考えれば想像できないようなプレッシャーに負われている状況であることがわかるだろう。そんな受験生たちが、この今の時期に、ひとときでも協働で何かを作り上げる経験をする。そのこと自体にとてつもない価値があるような気がする。
もう一つは、学習者にとって最も切実なテーマとは何かという問いだ。
いわゆる学習発表会なら、こちらが具体的なテーマを示して、それに沿って調べてきて、発表して……という流れになるだろう。しかし、そんなあてがわれたテーマで、学習者が本当に「共有」したい、ワークショップを作りたいと思えるようなテーマとなるだろうかという不安があった。
結局、彼らにとって一番の問題である、「受験生の心身の健康」に焦点を当てた。
これは、前任校での「ヘルスプロモーティングスクール」(健康的な生活を、自分たちで作り上げていくことのできる力を育成する学校)の実践に触れたのがヒントになった。
受験生としての彼らは、想像以上のプレッシャーに追い込まれている。休日になれば昼と夜の模試のダブルヘッダーも当たり前、学校に行けば競争に追い込まれる。不規則な生活や孤立した日常など、心身に与えるダメージは計り知れないだろう。
そういう自分たちのQOL(生活の質)そのものに目を向け、高めていく。しかも自分たちで助け合ってその課題を解決していく。それがいいんじゃないかと思ったのだ。

こうして、単元の課題がまとまった。
「私たちのQOLを向上させるためのワークショップを運営する」

◆授業の流れ
授業は次のような流れで進められた。
3学年4クラスのうち、2クラス合同で7時間で実施。(他の2クラスは他のコミュニケーション・デザイン科の授業を同時間に行っていて、7時間実施したら入れ替わる)
この授業に取り組むスタッフは、学年の担任および副担任の4人。

1時間目 課題をつかむ
まず、QOLという考え方、ワークショップとはなんぞやというところを講義形式で伝えた。

もちろん、これだけで「ワークショップ」についてイメージが持てるわけではないので、ここで実際にワークショップを演じて見せた。演示をしたのは学年スタッフの他の先生。ワークショップを運営する経験もあり、手慣れているので短時間でポイントを押さえた楽しいワークショップを披露することができた。

2時間目 課題を絞る
このあと、QOLについて具体的にブレーンストーミングで課題を出し合い、さらにそれらをKJ法でまとめ、班で取り組みたいワークショップのテーマを決めた。
そして現時点でのワークショップ企画書を次のフォーマットでまとめた。
2時間でここまでまとめるのが精一杯。
次の授業は秋休みを挟んでいたので、この間に各自で書籍やWebなどで調べてくるように宿題を出した。学校司書は、この授業がスタートする前にはすでに本をかき集め、この授業用の資料コーナーを校舎の一角に作ってくださっていた。
調べ学習では、必ず複数の情報に当たるように、また出典を示すように指示し、それらを明記したワークシートを配布した。

◆3・4時間目 監修者(スーパーバイザー)にワークショップの相談をする。
子どもたちの発想だけではどうしても浅いものとなってしまうので、ここでゲストティーチャーを教室に招き、ワークショップの内容についての相談をする機会を設けた。
授業に協力したのは次の三人
・医師&栄養学の研究をしている大学の先生
・認知心理学を研究している大学の先生
・起業家を応援する会社を経営している社長
この三名のうち、自分が探究するテーマに近い先生を選び、自分たちが調べたことやワークショップで取り上げたい内容についての相談を行った。
やはり、専門家に自分たちのテーマについて質問をすることは、学習者にとって大きなインパクトがあったようだ。ちょっとした思いつきのテーマでも、そのテーマにまつわる膨大な知の世界の蓄積がある、研究の厚みがある。探究してきた研究者たちがいる。それらを知ることで、自分たちが探究しようとするテーマの背後には大きな世界が広がっていることに気づかされたようだった。(実際にどの程度ワークショップに活かされたかはうーんだけど……)
これらのリサーチを経て、20分間のワークショップの活動案をまとめていった。

◆5時間目 ワークショップの準備を行う
本来の計画では、ここまでの4時間で準備を済ましておく予定だったが、とても時間が足りなかったので、一時間授業を増やして準備をする時間とした。ワークショップに必要な道具を用意したり、説明用のパワポを作ったりする活動を行った。

◆6時間目 ワークショップのリハーサルを行う
実際のワークショップを行う前に、リハーサルを行うことにした。
これは「よいワークショップとは何か」を考えさせるための取り組みだ。
子どもたちにとっては、リハーサルは「よいワークショップにする」という目的の活動である。しかし「よいワークショップ」にするためには「よいワークショップってこういうものだ」というイメージができていないといけない。リハーサルを行うことで、「ワークショップのよしあしを評価すること」に意識が向くようになる。「よいワークショップとは?」(よい「コミュニケーション・デザインとは?」と言い換えてもいいだろう)という問いが生まれること、それがこの授業の目的だ。つまり「ワークショップ」を運営側、参加者側の目からメタ認知する機会となるのだ。
そのようなメタ認知を促すための助言を次のように示した。



参加者を「モニター」として設定し、主催者は参加者から積極的に「聞き取り」をするという場になるようにリハーサルを設定した。
さらに、リハーサルをするために事前に、主催者側の意図と、モニターに聞きたいことをホワイトボードにまとめ、提示させるようにした。

たとえば、このグループは「こんなときDoする??」というテーマで、ややこしい人間関係のトラブルをロールプレイングするワークショップを作った。

二段目の、「QOL」と「CD科」と書かれていることは、それぞれQOLの観点からのねらい(人間関係のトラブルを起こさないよう)、コミュニケーション・デザインの観点からのワークショップのねらい(楽しく体験……)となっている。さらに下段には「モニターに聞きたいこと」と示している。
これはモニターからの聞き取りの際に、自由にフィードバックしてもらうだけだとやや不安なので、事前に質問事項を示した上でモニターに体験してもらうという意図がある。
「モニターに聞きたいこと」も、やはりQOLとCD科の観点に対応した質問事項に一応なっている(つもり)

というように、ワークショップのリハーサルにおいては、事前に自分たちで評価ポイントを設定、評価ポイントに沿ってモニターから聞き取りという流れで、ワークショップ運営のメタ認知を高めようとした。

◆リハーサルの授業を行ってみて
「言うのとやるのは大違い」「言うほど簡単ではない」というのが実際のところだ。
ワークショップだって、大人が作るようなものにどのくらい近づけたか比較すると、それは厳しいものとなるだろう。モニターからのフィードバックがどれだけ有益だったかも疑問だ。しかし、彼らなりに、プレゼンではないワークショップをイメージし、作り上げようとしていた。そのチャレンジに意味があると思いたい。
実際、授業後のふり返りには「よいワークショップ」についての気づきがたくさん書かれていた。

「よいワークショップとはどんなワークショップだと思いますか? そのために本番ではどうしていきたいですか?」についての生徒のコメント

◆お客さんをうまく誘導しながらも、お客さんに主体となってもらう学びの場だと思います。お客さんに主体となってもらおうとして学びが浅くなってしまったり、学びを深めてもらおうとするあまりお客さんが学ぶことに受け身となるだけになってしまうとあまり良いワークショップとは言えないと思うので、バランスが大切だと思います。
◆モニターが楽しくかつなにか学んで帰れるもの、ファシリテーターとモニターの間に意見交換などコミニュケーションがあるものだと思う。
◆いいワークショップとは、ファシリテーターとお客さんが等しく話したり、行動しつつ、お客さんだけでなく、ファシリテーターもたくさん気づきがあるワークショップだと思います。
◆お客さんがどうしたら楽しめるかのかを一番に考える。ワークショップをやる側も体験する側も同じテンションで温度差がなく、一緒に楽しめるワークショップにしていきたい。
◆きちんと計画が練られているもの。サプライズ(考えをくつがえすような)があるもの。教えるだけでなく、気づかせるもの。
◆相手に主権がある体験コーナー。楽しいもの。→一方的に発表して、体験しても何も言わせないものだと、プレゼンになってしまい楽しくない。
◆進行があいまいで、共感してもらうことができなかった。体験してもらうことが少なかったのも原因だったと思いました。雰囲気づくりを心がけたのですが、なかなか本番ではうまくいかなかった。
◆ロールプレイングをして、それが、やりっぱなしになってしまったので主催者側も意見を伝え、それをやった趣旨を説明するべきだと思いました。また、やってみてどうだったか意見を聞けると良いです。

つまり、「よいワークショップ」について
「わかっていて、できる」を最上級だとすると、
「わかっているけど、できない」をB
「わかっていないし、できていない」Cとすると、そのうちBくらいまでには、あと二時間の授業で到達させることができるのではないかと思う。

あとは、取り上げるワークショップの内容の質をどう高めていくかという問題がある。
やはり、たかだか3時間くらいでリサーチを済ますのはもったいなかった。あらかじめ決められた授業の制約上、仕方がないが、やはり総合的な学習の時間の活動とからめるなどして、全体で20時間くらいとって、もっと課題にどっぷりとつからせて、リサーチも十分にさせたものをワークショップとして取り組むべきなんだろう。その辺の浅さが露呈してしまったことは反省すべき点だ。

◆研究授業としてこの授業を取り上げてみて
授業をご覧いただいた方は気づいていると思うけど、この授業は「完成形」では決してない。「これはいい授業ですよ」「全国の学校でもそのままこれができますよ」というつもりはさらさらない。
自分の役割は、面白い授業を開発すること。研究授業では、その授業を「未完成」であってもたたき台、踏み台として提案し、「コミュニケーション・デザイン」のような現代的な課題に対する解決策を一歩進めるヒント(反面教師??)としてもらうことが使命だと思っている。(最後はちょっといいわけを……)