2014/09/30

国語と道徳とで全く違う「読み物資料」の扱い方

今日の校内研では道徳についての研修が行われた。
都内の中学校の先生、道徳の実践家をお呼びして、道徳の授業の進め方について初歩から学んでいった。丁寧に教えてくださったおかげで、とても勉強になる点が多かった。
興味深いのが、道徳における「読み物資料」の扱いについてだ。
講演のあと、フロアーから質問が出た。
「道徳では『読み物資料』を使うことが多いんですが、新聞とか、ニュースとか、テレビドラマとかそういった資料をつかうのはどうですか?」
「読み物資料以外でも、ニュースとかドラマとかも、もちろん使うことはあります。しかし、作り込まれた読み物資料でないと、いろいろと読みが広がりすぎて、道徳の授業で取り上げたい価値(内容項目)に絞り込んで迫っていくことが難しくなるんですよ」
なるほど。これは国語の場合とちょっと違うなあと思った。
道徳の場合は、もっていきたい焦点がはじめからかなり絞られている。一時間の授業の中で、確実にその価値(内容項目)へと導かなければならない。しかし、国語の場合、むしろ一読して一つの価値にしか読めないようなテキストは、陳腐で浅い駄作とも見なされる。国語で取り上げる価値ある文学作品とは、さまざまな角度で読み、見方を広げていくことが可能なテキストのことをいう。
そのへんの、資料(文学作品)の扱い方の違いが、道徳と国語の違いにあるのかなあと思った。そして自分は道徳がいまいち苦手なのも、その辺にあるのかなあと感じた。

小説の創作の難所は、「動機」と「必然性」、あるいは、嘘をつくなら上手につけ ~「夏の葬列」の授業№4~

小説の創作の難所は、「動機」と「必然性」、あるいは、「ウソをつくなら上手につけ」

「夏の葬列」の続き話をネタとして小説の創作学習のお試しをしている。
教材に力があるので、いろいろな形で続き話に展開していってとても面白い。子どもたちもノリノリで取り組んでいる。
やはり、創作させてみて難しいのは、子どもたちが作る話では、登場人物の行為の「動機」がわかりにくいのと、展開の「必然性」が感じられない点だ。だから「ご都合主義」満載の支離滅裂なプロットができあがってしまう。

文章を書く前には、四コママンガでプロットを作らせている。
だいたい構想がまとまったら、子どもにあらすじを説明してもらう。
それを、私は理詰めで問いかけるようにする。
「ここで急に主人公が……をしたのはなぜ?」
「……という流れになるのはどうして?」
もちろん、相手に応じてつっこみの手を緩めたり、厳しくしたりはある。

このように、断片的な思いつきを「必然性」に貫かれた文脈でつなげていき、虚構の作品世界という「意味」を生み出す営為こそ「創作」であるのだろう。そしてその必然性や登場人物の動機への考察が、人間性への洞察へとつながっていくのだろう。(きっと)
もちろん、この「必然性」は必ずしもわかりやすいものとは限らない。必然性に貫かれたプロットによって表現された世界が、言葉にできにくい、もやもやを表現していると言うこともあり得る。(たとえばカフカの小説のように)
ようは、何をめざして表現しようとしているのかという、どんなウソをこねくり回そうとしているのかという?? 「意味」を作り出す自覚が作者としての生徒にあるかどうかなのだろう。
こういう理詰めなやりとりを通して、作者としての自覚を引き出し、文学的な想像力が鍛えられていくことになるのがとても面白い。

「カンタービレ」~歌うように~

「のだめカンタービレ」の「カンタービレ」とは「歌うように」という発想標語。
楽譜に忠実に演奏することと、歌うように「カンタービレ」演奏することとは、素人でも聴いてわかるくらいに、確かに何かが違う。
これは、人は音符を聴いているのでななく、その奥の、歌や声やさらには沈黙に耳を澄ましているからに他ならない。
将来、自由自在に演奏する機械はできても、歌う機械は決して現れないだろう。
しかし、どうも人は歌うことを忘れ機械のように演奏したがる。なぜだろう。

2014/09/28

人を惹きつけるデザインとは、実は……だったのだ!~『心を動かすデザインの秘密』~

デザインはファッションだけじゃない
「デザイン」という言葉にどんなイメージがありますか?
洋服のデザインが素敵!とか、この車のデザインがかっこいいとか、「デザイン」というのはどちらかといえば見た目のカッコよさとか美しさといった面が強調されやすい言葉だと思います。

デザインとは人工物を作り上げるプロセス
しかし、「デザイン」の本来の意味はそうではありません。
人が作り上げたもの(人口物)すべてを作り上げるプロセスが「デザイン」と呼ばれます。
洋服や車はもちろん、建築、テレビやパソコンのような機械、おはしやスプーンのような道具、そして言語などの「記号」も、すべてこれらは自然に生まれたものではありません。何らかの人の手がかかり、作り手の思いや感性がこめられているものなのです。つまり「デザイン」されて作り上げられたものなのです。

認知心理学によって解明されつつあるデザインの秘密
近年、認知心理学の発展により、こうしたデザインされた人工物がなぜ魅力的なのか、どのように感性を揺さぶるのか、優れたデザインとはどのようなものなのか、ということに関する研究がかなり進んできました。
そんな「デザイン」の原理や理論を、初学者にもわかりやすく述べている本が、この「心を動かすデザインの秘密」という本です。
 心を動かすデザインの秘密 認知心理学から見る新しいデザイン学



筆者は荷方邦夫さん。
金沢美術工芸大学でデザイン学を教えている先生です。
認知心理学というアプローチでデザインの世界を解明しようと研究をされています。

内容紹介と目次(アマゾンから転載)
なぜ、これを買ってしまうのかーー
その理由は「デザイン」にあった! 人とモノとの関係をとらえ直し、「認知デザイン学」の可能性を切り拓く入門書。
“人はどんなものに魅力を感じ、何に感動するのか" 
“デザインのアイデアはどうやって生まれるのか" 
“使いにくいデザインやありふれたデザインがなぜできてしまうのか"……
★「人間中心のデザイン」って何だろう? デザイン化された世界の現実と未来について、「わかりやすさ」を追究する認知心理学者が考察します。 
★D. A. ノーマン(『誰のためのデザイン?』)、R. ベルガンティ(『デザイン・ドリブン・イノベーション』)など、著名な研究者の理論もやさしい言葉に置き換えて解説します
★デザインの現場に立つクリエイター、売るためのデザインに頭を悩ますマーケッター、そして「良いデザイン」を求めるすべての人におすすめします。

目次
序 章 心ときめく日常生活の心理学
第1章 魅力あるもののフィールドウォッチング
第2章 感性と感情の認知科学
第3章 感じることはわかること
第4章 経験と物語が支える魅力
第5章 デザインの現場では何がなされているのか
第6章 魅力・感動デザインの光と影
7章 実践から理論へ
最終章 デザインとデザイン学の向かう先へ

人はどのようなものに惹きつけられるのか?
あなたのお気に入りのものは何ですか? あなたは今日着ていく服はどのような基準で選びましたか?
人を引き付けるものは、万人受けするものとは限りません、その人の感性や価値観に大きく左右されます。
「デザイン学」でも、もちろん「万人受けするモノ」を作り上げることを目的とするのではなく、「人が惹きつけてやまないモノ」とはどのようなデザインの原理で作られているのかをまず知ろうとします。
そのひとつめの要素が「愛着」です。
考えてみれば「愛着」とはとても不思議な言葉です。人は愛してやまないものにはいつまでも、肌身離さずそばに置いておきたくなるものです。(自分も、大好きな本をいつも枕元に置いておかないと落ち着いて寝れないという習性をもっています。)
そういう、好意とか愛着というものが「デザイン」の根っこの部分にはあります。
女子高生がノートやプリクラを「デコ」るのも、おじいさんが庭で盆栽を育ててめでるのも、その本質は変わりません。
デコったり、カスタマイズすることで、「自分だけのモノ」となっていきます。その「自分らしさのあかし」が愛着や好感を生み出すデザインの原理となります。
デコったノート
感性や人間性への洞察が「デザイン学」
愛着や好感のような「感情を伴う認知」を認知心理学では「温かい認知」と呼んだりします。
同じノートでも、自分がデコったノートはそれだけで持っている人の感情を揺さぶる、魅力的なデザインになります。つまり「温かい認知」を呼びさまします。
「魅力」をはじめとするさまざまな感覚には、このような温かい認知を土台としているのです。
さて、ここからが「デザイン学」の真骨頂。この温かい認知を認知心理学では様々なキーワードで解き明かしています。
キーワードを挙げてみましょう
・好意的感情の増加
・関与の継続
・記憶成績の高進
・快刺激の活性化
・魅力条件理論の9つの要素
・エクマンの6つの表情
・シュロスバーグの感情の次元
・単純接触効果
・知覚的流暢性誤謬帰属説
・熟知性と新奇性
・最適複雑性モデル
。示差性と注意の関係
・アフォーダンスとシグニフィア
・メンタルモデル
・ヒューリスティック
・コモディティーと付加価値
・経験価値
・ノーマンのデザイン理論ー本能・行動・内省
・ナラティブ・ストーリー
・デザイン・プロセス
・ベルガンティーのデザイン理論

などなど。これだけ列挙すれば、おおー、すげーと思うことでしょう。
一つ一つを解説してしまうと、それこそ「デザインの秘密」がネタばれしてしまうので書きません。
なにやら難しい言葉がたくさん並んでいるように見えますが、実はこの本自体がとっても「デザイン」的に工夫が凝らされていてわかりやすい構成なのです。それがこの本の最大の魅力といっても過言ではありません。身近な例を取り上げ、その例からデザインの秘密を解き明かす、というように、どんな人でも読み進めていくうちにこれらのキーワードが頭に入っていくようなからくりになっています。きっと高校生くらいからでも読めると思います。

ここまで読んで下さった方は、もうお分かりのように、「デザイン」とは決して芸術家やファッションデザイナーだけの話ではありません。
人が何かを作ろうというとき、何かを伝えようとするとき、いかにして相手に印象深く伝えるか、どうやって好感を持ってもらうか工夫をしていくものです。その秘訣やプロセスを知りたいと思う人にとっては、目からうろこの知見が、これでもかといわんばかりに述べられています。
まずこの一冊を手に取って見ることを強くおススメします。無から有を生み出すどんな人間も、すべからく「デザイナー」なのです。


2014/09/27

英語教育はこうして翻訳家を育てる

同僚の先生に、ある、誰でも知っている翻訳家(Kさんとしておこう)の妹と同級生だったという方がいる。その方と昨日した雑談がおもしろかった。
そのKさん、高校時代英語の成績は「3」だったそうだ。(ちなみに受験は小中高大とことごとく不合格……受験も苦手だったらしい)
で、それほど得意ではなかったのだが、英語はとにかく好きで、大学で英文科に進んだ。そこで、英語の字幕を作る仕事の手伝いをしたことをきっかけに翻訳に目覚め、猛勉強し、いまや押しも押されもせぬ翻訳家となったという。

このことから、こんなことを考える。
「英語が得意だけど、英語が嫌い」な人間と、
「英語が苦手だけど、英語が好き」な人間と、どちらが、大人になってから英語を使う人間になる可能性が高いのだろうかということ。

どんなに声高に「グローバル人材育成」といったって、現状は海外旅行の時ぐらいしかほとんどの日本人は英語を使わない。(英語教育の重要性を否定するわけでは毛頭ないが)、将来、英語を使うチャンスができたときに、進んで英語を使ってみよう、学んでみようと思うくらいのレベルの「英語教育」ができれば御の字なのではないかと思うのだ。
むしろ、中高等教育の英語の授業「だけ」で、英語を使いこなせるようになった人がいらっしゃるなら、その人と、その人を育てた先生にぜひ秘訣を伺いたいと思う。どこかにいませんか?

アフォーダンス的な会話〜話したいことは聞き手の中にある?〜

「あれ、いま何言いたかったのか忘れちゃった」ということがよくある。
私には、それは相手との話の流れの中で、ちょっと話題がズレて応答するタイミングがずれたり、ちょっと会話の間が置かれたりするとこういう現象が起きるようだ。
これは、その「言いたいこと」は聞き手との会話、対話の中に埋め込まれ、存在していて、それが相手の言葉によって引き出されたから、そういう現象が起きたのではないかと推察する。
だから、「話し合うために、話すことを必ず準備して持たせましょう」っていう指導はどこまで有効なのかと思ってしまうわけなのだ。準備させすぎて「言いたかったこと」だけを話す「言い合い」になってしまい、生き生きとした創発が生まれないのではないかと。

2014/09/26

「夏の葬列」の授業№4 続き話を創作する~よい読者がよい書き手を育てる~

今日は創作学習の前哨戦、夏の葬列の続き話を作る学習に取り組んだ。
創作のアプローチを四つに絞り、それを「創作の扉」としてワークシートを作成した。

創作の四つのアプローチ
一つめの「創作の扉」は「設定の扉」
自分が書きたい場面の、時間・場所・登場人物を整理する。
子どもたちが考えた時間の例として、一日後、一〇年後などさまざまな時間設定が出てきた。

二つめは「登場人物の扉」
登場人物の性格や容姿などをウェビングの形式で書き出させた。
たとえば、「彼」の人物像として、自己中心的、思い込みが激しい、弱虫、などの要素が出された。

三つ目が「プロット(構成)の扉」
続き話の構成を四コママンガの形式でまとめさせた。(絵が苦手な子は文章の説明でもよいとした)
また、プロットを通してどんなことを伝えたいか、主題(テーマ)を一言でまとめさせた。

四つめが「文章表現の扉」
「夏の葬列」の文章や展開で特徴的だったものを抽出し、自分が作る文章で活用できるように提示した。
次の中から、活用したい「表現のワザ」を選択する。
・回想〔タイムスリップ)
・なぞと解決
・実は……だった!
・皮肉な偶然
・伏線・暗示
・色彩の使い分け
・記号(……・――)の活用
・あえてのひらがな/カタカナ
・独白(モノローグ)
・比喩〔直喩・隠喩)

これらの四つの扉を開きながら、創作の構想をまとめていった。
構想がまとまったら、そのワークシートを周りの人や教師に見てもらい、ある程度考えが固まったらいよいよ創作に取りかかる。
今回は練習的な意味合いもあるので、原稿用紙二枚に限定した。二枚であればそれほど負担感がなく、だれでもこの課題をクリアすることができるという見込みだ。


書く力を高める「読者」の存在
さて、生徒が持ってきた構想を見ながら、私があれやこれや突っ込みを入れるというやりとりが行われるんだけど、この対話がとっても面白い。子どもたちの発想に何度も舌を巻かされた。
作文指導の時、教師としてのわたしは、作者である生徒にとって、どうすれば「よい読者」になれるのかということをつねに考えて話を聞いている。
生徒が持ってくる構想は、はじめは稚拙だったり言葉足らずだったりする。しかし、その構想の良さや魅力、生徒が伝えたいと思っているもやもやを、何とかして形にして表現できるように、私は問いかけ、そして引き出す。
それが、ある段階では、私は「ものわかりの悪い読者」になりかわり、生徒の説明が足りなかったり、展開が強引だったりする点を厳しく突っ込んだりもする。

創作という行為は、なんとなく、一人だけの閉じた世界でおこわなれるものであり、そこに他者の介在する余地は全く必要ない、むしろ余計なものであるかのような物言いが評論家からされることがある。
しかし、私はそうは思わない。表現は、他者からのフィードバックを得ることで、自分の伝え方の至らなさや独りよがりな点に気づかされ、そして磨かれる。そういう他者である「読者」の存在を想定しない創作行為なんて、ほとんど何の成長もない、価値もないことなのではないかとさえ思える。
作者にとって「価値ある読者」になることができるよう、教師としての私も努力をしていきたい。さらには、そういう「作者」と「読者」との関わり合いを、創作学習の中で、子どもたちどうしでもさせていきたいと考えている。

理科で育つ文学的想像力、あるいは文学的想像力で育つ理科

職員室のお隣の席は理科の先生。いつもユニークな授業を展開していて子どもたちにも大人気だ。
その先生の学級通信で、先日行った理科の授業の様子がレポートされていた。
題して「化学反応式劇」
化学反応式の原子の気持ちになったつもりで、グループでストーリーと作り演じてみせる。
反応のストーリーだけでなく、できた物質の性質も取り入れた劇に仕上がっている(らしい)。
たとえばこんな感じだ。

FeS+2HCL→H2S+FeCL2
カップルのFeSを悪者HCLが二人の仲を引き裂こうとしました。2人のHがSをm二人のCLがFeを引き離しました。
二人のHはSをどぶに突き落とそうとするのですが、Hも道連れになってしまい、H2Sはどぶに落ちくさくなってしまいました。

2H2O→2H2+O2
HとOは仲がよくH2Oの状態でした。
しかしある日、一人のHの「なんでOのくせにHと混ざってるんだよ」という発言のきっかけで、HとOはそれぞれ分かれ、H2とO2になり、二度と交わることはありませんでした。

2CuO+C→2Cu+CO2
二組のCuOはカップルでした。
ある日転校生のCがやってきました。
このCO2は2人のOくんをCuOから奪ってしまい、CO2になってしまいました。
残されたCuは復讐のため自分を磨き、ギラギラしました。

数字とアルファベットの羅列を覚えさせられるのは苦痛だけれども、こうしてストーリー形式で身体で覚えるのは、より印象に残るし楽しい学習になると思う。
なにより、こういう理科の学習に、さりげなくストーリー作りという文学的想像力がさりげなく発揮されているところに少し感動を覚えた。

2014/09/25

精読に耐えうる文学教材「夏の葬列」

今授業では小説「夏の葬列」の鑑賞に取り組んでいる。
もう何回もこの教材で子どもたちと学んでいるが、何度読んでもそのたびに発見をさせられる。一読して強く読者を惹きつける。そして読み込んでいくとタネも仕掛けもある表現の工夫に感嘆する。
いままではいわゆる「戦争教材」として、戦争のむごたらしさのようなものに焦点を当てて取り組むことが多かった。しかし今回はそのアプローチをとらずに、 表現の仕掛けにこだわって読み進めてきた。結局どちらのアプローチでも、子どもたちは、表現の工夫だけでなく、その根底にある作品の内容に自然に目が向い ていくのが面白い。
文学的文章は「詳細な読解」をしてはじめて見えてくる世界が確かにある。いや、そもそも詳細な読解に耐えられるようなテキストでなければ「文学教材」の名を冠するのはおこがましいとも言いたくなってくる。それほどまでにほれぼれするテキストが「夏の葬列」だ。

2014/09/24

行事で育つ力、一つの事例

週末の生徒祭では、私は「コンクール係」担当を拝命した。
これは、来場者に「よかったと思うグループ」を選んでもらい、投票結果を集計。そして表彰をするという生徒たちの取り組みをサポートをする仕事だ。
「生徒祭」で生徒が作成した投票用紙

行事が無事終了し、事後の振り返りでは、このコンクール係についての反省点がいくつか出た。
一番の問題点は、来場者に比べて投票率が低いという点だ。
3000人近い来場者があったのだが、投票は600人程度というお粗末な結果に。
そこで、どこが問題なのか、事後の会議で子どもたちが話し合うことになった。

・この投票用紙は「投票用紙」って小さく書いてあるだけだから、一目で見てもほかのチラシと紛れてわかりにくかったかもしれない。色紙とか使えばよかったかな?
・小学生とかには「ジャンル」っていう表現が難しい?
・係の生徒が投票箱をもって歩き回って票を集めていたんだけど、投票所を設置して固定したらどうだろう?
・筆記用具とかなかった人は投票できなかったんじゃないの?投票所に筆記用具を置こうよ。
・投票した人には、ごほうびにスタンプを押すとかは?(生徒祭の別の取り組みで「スタンプラリー
」をやってるので、そのラリーのポイントに加算するという意味)
……などなど。

やはり中学生なので、子どもたちの内輪の活動では、どうしても独りよがりというか、自分たちの予想通りにお客さんはうまく動いてくれるもんだと思い込んでしまっているふしがある。
だから、今回みたいに自分たちの意図と外れた結果が生まれたとき、たとえば、投票率が予想以上に低いという現実にぶち当たったときに、はじめて、自分たちの取り組みのまずさに気づくのだ。

生徒祭などの対外的な活動では、こうした「独りよがり」な自分たちの活動のまずさにいろいろなところで直面する。そして、相手の立場に立って、また、自分たちの意図やメッセージが伝わるようにするために、どうすればいいのかを真剣に考える機会が生まれる。
そこにこそ、日常の学校教育では学べない、学校行事の生み出す大きな学びの場があると感じている。

……投票率をあげようと試行錯誤した子どもたちは、将来、ひょっとしたらどこかの地方自治体で選挙管理委員会のような立場になっている人もいるかもしれない。企業でキャンペーンの企画を考える人になっているかもしれない、そのときに、この生徒祭の経験をちょっとだけでも思い出してくれたらいいなと思う。

2014/09/19

人はマネされると何故嫌がるのか?

この間、美術の授業に補欠に入った。
詩のイメージを自由に絵に表現する授業だ。
で、ある生徒がスパッタリング〔写真のように、絵の具を霧吹きにして吹き付ける技法)をし始めた。

そうしたら、周りの生徒も次々に影響を受けてスパッタリングをし始めた。
「ヒドイ、まねするなよ〜」とその生徒は嘆いていた。
何故人間はマネされるのを嫌がるのだろう。それはどういう本能にねざしているのだろう。何歳からそういう感情を抱くのだろうか?
そんなことが気になった。

SNS投稿、10の極意。

極意一
稚拙な思いつきほど投稿せよ
理由
・賢い誰かからアドバイスをもらえるかもしれないから
・いつか気の利いたこと書けるだろう、というその「いつか」は、日常的に書いていないと永遠に訪れないから。

極意二
具体的な読み手をイメージせよ
理由
例えば、通勤電車で見かけた人とか、友人のAくんとか誰でも良い。具体的な読み手を想定して言葉を届けるつもりで書くといい。例えその人でなくても、似たような境遇の人がきっと反応してくれる。

極意三
情報をケチる奴には情報は集まらない
理由
有益な情報や、ちょっとしたコツなどを独り占めするのではなく。シェアしあうことが長期的には自分の利益になる。
なぜなら、そうして刺激し合い、学び合うほうが、自分と関わる人たちがお互い賢くなり、より有益な情報をシェアしあえるようになるから。

極意四
思いついたらすぐ書くべし

極意五
ネタ切れでもめげるべからず。

極意六
最後まで書かなくても、いい。

極意七
未完成ほど味があるべし。

極意八

「読書コミュニティ」としての学級づくり~広がる多様な「ネットワーク」、豊かに深まる「コミュニティー」の形成を目指して~

1 「コミュニティ」としての学級

 学級は、多様性の尊重された「コミュニティ」であるべきだと考えている。コミュニティは多様なネットワークでコミュニケーションを交わし合うことを通して、お互いに認め合い、支え合う共同体のことである。クラスの多様な個性がつながり合う中で、認め合い、伸ばしあう学級が理想である。
 私の学級担任としての思いは「個を伸ばすコミュニティづくり」という一言に尽きる。
 とくに、中学生という思春期の段階の生徒は、ややもすれば集団の中に埋没し、できるだけ目立たず、周りにあわせ、自分の個性を消そうとする傾向があるのではないだろうか。
 「個」を伸ばしあい、「違いを認め合う」関係性の構築こそが学級の理想である。そのために、特に中学校では学級づくりにおいて、子どもたちどうしの「ネットワーク」が自然に広がり、コミュニケーションが豊かに交わされ、「コミュニティ」が深まっていく環境づくりや機会を意図的に設定する必要がある。

2 「読書コミュニティ」の意義
 
 近年「読書コミュニティ」という言葉が聞かれるようになった。本への愛着や読書活動を通して、人と人のネットワークを築き、関係を深める社会的実践である。読書活動によって大人とつながり、地域とつながり、そして世界へとつながっていく取り組みである。「読書コミュニティ」の実践では、本を数多く読んだかと言うことよりは、本を通してどのように社会に参加していくか、どのように他者とコミュニケーションをしていくかという点に重点が置かれる。この「読書コミュニティ」の発想は、小さな社会ともいえる学級においても有効な視点である。本の持つ力、読書活動の持つ効果を通して、クラスの中の人と人とを結びつけていくのである。


本を通して世界と出会う―中高生からの読書コミュニティづくり (シリーズ読書コミュニティのデザイン)



3 学級づくりとしての読書活動の視点

 「個」を伸ばしあい、「違いを認め合う」関係性の形成に、読書活動はどのように関わっていくのだろうか。
 読書は本来、「個」で行うものだ。読書の傾向は人それぞれであるし、同じ本を読んでも全員が同じ感じ方をすることはほとんどない。しかし、このような「個」の多様性が生かされる読書という特質こそが、「個を伸ばすコミュニティ」づくりに生かされるのである。
 そのような「個を伸ばす」学級づくりを進めるためには、読書活動において、教師が次のような視点を持っていることが必要だと思われる。

A 興味・関心を重視する
 一人ひとりの興味や関心をできるだけ重視し、それが反映されるような読書活動にする。

B 違いを鮮明にする
 読書の傾向や感想は人それぞれである。それぞれの違いが鮮明になる活動を取り上げる。

C 交流し、認め合う活動をする
 読書を通して得られた感じ方を、さまざまな手段で交流し、認め合う活動を行う。

 Aの興味・関心を重視すること、「個」の思いから出発することは読書活動において重要な視点である。どんな生徒も意欲的に取り組むことができるような学習の場づくりや個に応じた支援が必要だ。読書活動に関して教師の思いが強すぎるあまり、生徒の興味や関心を無視するような活動になってしまわないように気をつけたいものである。
 Bの違いを鮮明にするという点は「個」を伸ばしあうために欠かすことのできないポイントである。それぞれの好みの違い、価値観の違い、感想や解釈の違いをまとめてしまうのではなく、むしろ個の違いを鮮明にし、違いを楽しむような読書活動にするのである。 
 Cの交流し、認め合う活動を、教師が意図的に取り上げ、工夫していくことも重要である。クラスのメンバーで、とくに普段関わりの少ない人とでも自然に関われ、コミュニケーションが生まれるような交流の場を読書活動の中で効果的に設定することが重要だろう。

2014/09/18

ファシリテーショングラフィックの有効性と限界に関する考察、あるいは「出来事」を書くことの意味

ファシリテーショングラフィックとは、話し合いながら、その過程を即時的に模造紙などに書き留めていくことをいう。ファシリテーショングラフィックは流れて消える話し合いを書きとどめ、話し合いを活性化させるためにとても魅力的な可視化の手法だ。
代表的な文献は次の2つ。






学校教育では「板書」がある意味「ファシリテーショングラフィック」の機能になってくるのだろう、でも私自身は正直、板書はとても苦手。話を聞きながらまとめるのってとてもハードルが高く感じてしまう。こんな苦手な私でも何とか書けるようになりたいなあと思って勉強している。そして子どもたち同士の話し合いなどでもファシリテーショングラフィックを活用していきたいなあと思っている。

この間、学校教育にファシリテーショングラフィックを導入している第一人者、藤原友和さんとお会いする機会があった、ファシリテーショングラフィックを描くワークショップが開かれたのだ。そこで、ファシリテーショングラフィックを体験した中で感じたことを、ここに忘れないうちに書き留めておこうと思う。

一つ目、学校教育と、社会で必要とされるファシリテーション(グラフィック)には、本質的な違いがあるのではないか?
そもそも、ファシリテーショングラフィックは、まちづくりなどのワークショップ文化の中で生まれた合意形成のツールであるそうだ。それを、学校教育の文脈に移行したときに変容してしまう部分はないのだろうか。(もちろん、どちらがいいとか悪いとか言うつもりはない)
端的な例でいうと、町づくりなどの課題解決においては「答え」は一つではない。しかし、学校教育においては、ファシリテーションとは、「答え」を絞り込んでいく「落としどころ」へと誘導していくための機能としてはたらくことが多いのではないか。(とくに教科学習)
たとえば、授業中、授業の目当てとは全く見当違いの児童の発言がでてきたとする。そのときに、その発言をファシリテーショングラフィックで取り上げ、位置づけていくことはどこまでできるのだろう。すべては無理だし効率的ではない、だから想定外に的まずれな発言が出されたときには、そのような発言を教師が「流す」という選択をとらざるを得ない。しかし、学校教育で求められるものと、まちづくりなどの社会で必要とされるファシリテーション(グラフィック)の質的な違いをどうとらえればよいのか。または同じと考えていいのか。

二つ目、「紙に書く」ということが、一つの「権威」となって機能することはないか。
一つ目と関連するが、ファシリテーショングラフィックにおいては、おのずとグラフィッカー(記録者)によって「書かれる言葉」と「書かれない言葉」が出てくる。また、その「描き方」におのずと書き手の価値判断が含まれる。その書かれなかった言葉の行く末はどうなるのか。

これは、ものすごく大げさな言い方をすると、いわば、「誰が歴史を書くか」という問題なのだ。
「歴史」において影響力を持つのは、どんな出来事が起きたかということよりも(何が語られたか)よりも、何が書かれたか、何が残されたかと言うことだ。(いわゆる教科書問題のような「歴史問題」とは常に「出来事をどう記録するか」という問題でもある。反対に、「記録」のない、文字の発明されるあとよりもずっと以前の、とてつもなく膨大な時間の流れを「先史時代」とあっけなくひと言で語ってしまうものこれと同じだ。歴史(history)は、his story である。スペルあってる??)

語られる、フローの言葉は消え去っていく、しかし記録された言葉は時間と空間を越えて蓄積されていく。そこに権威性が発生する。たとえば、社会主義国家では「書記長」が最も高い権力を持つ。それは「出来事を記述できる」という機能を握っているものが、権力を持つということを示している暗喩でもある。(ちなみに英語で「権威」はauthority、「著者」はauther)
ファシリテーショングラフィックにおける「書くこと」には、「書かれた言葉は価値あるものであり、公認の発言として共有されたものである」という権威性を帯びたものとなることに十分配慮しなければいけないと思う。
学校教育において、教師がファシリテーショングラフィックを描く場合、あるいは、グループの話し合いの中で特定の生徒がそれを描く場合、自ずとそこに権威性が立ち現れる。グループの中で、書かれる言葉と書かれない言葉の選別、編集が行われる。すべての意見を書き出すことはできない。また、ファシリテーショングラフィックの書き表し方に自ずと書き手の意図があらわれる。「流す」言葉が生まれる。それはどうしようのないことなのだ。

私はその権威性を解き放つ可能性に「共同編集」があると思う。(相互編集?共同編集??)
記録者が一人で好き勝手に書いて話し合いをコントロールするのではなく、共同で書きあうこと。たとえ一人の記録者が書いていても、いつでも、誰でもその「記録」に参加できる余地があること。それが可能になることで、ファシリテーショングラフィックが、より柔軟性のある合意形成のツールとして機能するのではないかと感じる。
ひょっとしたら、ファシリテーショングラフィックが「巧みな」人が行う話し合いよりも、ファシリテーショングラフィックが「稚拙な」人が行うグループの話し合いの方が、話し合いとしてよっぽどいいものになる可能性さえあるのではないか。話し合いのメンバーが、記録者の書いていく言葉を見ながら、「おれだったらこう書く」「この言葉はこっちに書くべきだ」となどと「記録されたもの」について、わいわいと言い合う「共同編集」のコミュニケーションがそこに自然に生まれるからだ。(効率的でないので、収拾がつかなくなる可能性もあるけど……)

三つ目 ファシリテーショングラフィックが手書きであることの意味は何なのか?
私は、ごく近い未来に、ファシリテーショングラフィックがICTなどで代替できる日が来ると思っている。ファシリテーションのシステムが高度に精緻に分析できれば、それがSNSなどのwebツールで代替できるはずだと予感している。そうなれば、手書きによるそれよりも、さらに効果的に集合知を創発するものになるのではないかと思っている、

web2.0の理念には、「集合知」を生かす「共同編集」にある。

   web2.0についてのWikipediaの定義は以下の通り
ティム・オライリーの初期の定義は『旧来は情報の送り手と受け手が固定され送り手から受け手への一方的な流れであった状態が、送り手と受け手が流動化し誰でもがウェブを通して情報を発信できるように変化したwebを「Web 2.0 」とする』としていた。
しかし、最近の発言では定義はあまり明確ではなく、彼も範囲を限定しないためにあえてそうしたとブログで説明している。また、彼は翌日、同ブログでWeb 2.0とは「すべての関連するデバイスに広がる、プラットフォームとしてのネットワーク」であり、Web 2.0アプリケーションを「ネットワークが本質的に持つ長所を最大限に活用するもの」であるとしている。
また、日本のITコンサルタントである梅田望夫は、著書『ウェブ進化論』で、Web 2.0の本質を「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」としている。
たとえば、Wikipediaなどのオープンソースのサイトがある。言うまでも無く、Wikipediaは誰でも参加でき、誰でも書き込める。そのほか、各種掲示板やクックパッドなどの投稿サイトも「共同編集」の原理で運営されている。Wikipediaに限らず、webの原理として「共同編集」は不可欠の要素である。

集合知についてはこれ!


話し合いなどのフローの情報を、書き言葉のストックの情報に編集していくためには、どのようなインターフェースが可能なのだろうか、それは私のような素人にはわからない。しかし、もし、ファシリテーショングラフィックが、手書きの温もりとか勢いなどの要素を100%分節化できたとして、なおかつそれをwebなどで共同編集できるものになっていれば、それは原理的には可能になるはずだ。
しかし、それが無理だとするならば、分節化し得ない、ICTでは代替できない「何か」があるわけで、その「何か」こそ、ファシリテーショングラフィックのキモなんじゃないかなと思う。

2014/09/16

「現実」として語る人しか信用しない。

「事実」はいらない。「現実」があれば十分。

「事実」という言葉が嫌いだ。
特に、人に対して突きつけるときの「事実」が。
それはときに、人を威圧したり押し付けがましいものとなって語られる。
それは「現実」として語れば十分なのに。現地、現場で、他ならぬ自分によって語られる「現実」。人の数だけ語られる「現実」として語るだけで十分なのに。

「現実に、現場に行って、現物を手にする」とは中坊公平さんのことば。
「現場に神宿る」と現場主義を中坊さんは貫いた。
私もときおり、天下国家を論じたくなる誘惑にかられることがないわけではない。でもやはり自分は、日常と現場とにへばりついたことを考え、語るのが好きなんだなあとあらためて実感する日々だ。

「夏の葬列」の表現のしかけを読む~「夏の葬列」の授業№3~

「夏の葬列」三時間目。
今日は、「夏の葬列」の細部の表現のしかけを読み解いていく学習を行った。

流れ
1 授業の主旨と、表現の細部を読み解く視点を提示する。
今回の授業は、自分で小説を書くために、教科書の小説を読みながら、その書き方の工夫を学ぶということ。
「神は細部に宿り給う」という言葉があるけど、「夏の葬列」という小説も細部を細かく読み解いていくことで作品の魅力に迫れる。作者がどんな工夫をしているか、読み解いていこう。

次のような方法と視点を提示した。

深読みのテクニック

  • 「     」とあるのは、……を表している。
  • 「     」はきっと……………を伝えたいんだろう。
  • 「     」は実は……………とも読み取れる。
  • 「     」という表現から………がイメージできる。
  • 「     」は………………を読者に仕掛けている。

などの言い方で、細部にわたる表現の意図と効果を深読みしていこう。

小説の仕掛けの視点

  • 「実は」のパターン
  • 謎(ミステリー)と解決
  • 文体・口調
  • キャラクター設定
  • 語り手は誰?
  • 言葉や記号の選択(名詞や動詞、形容詞、……などの記号)
  • 道具(なぜ芋畑なのか? おまんじゅう、運動靴など)
  • 人の呼び方
  • 気持ちの書き方
  • 風景の書き方(空の描写)
  • 五感を使った描写
  • 身体の描写
  • 色彩
  • 書かれているものと書かれていないもの
  • 余白・行間を読む
  • 伏線
  • 言葉のリズム
  • 比喩
  • 擬人法
  • 倒置法
  • 余韻(よいん)
  • 暗示
  • ストーリーとプロット
  • 起承転結(冒頭・発端・山場・頂点・結末)

2、役割読みをする
まずは肩慣らしで、4人グループで、二の場面と、四の場面を次の分担で役割読みをしていった。

二の場面 彼・ヒロ子さん・語り手・絶叫する男
四の場面 彼・語り手・彼のモノローグ・子ども

3、小説の表現のしかけを読む
そのまま4人グループで、付箋に書き出していった。
・読んでいくうちに「違和感」を感じた表現
・立ち止まって考えてみたいこと
・作者の工夫があると感じられる表現
などに着目して、付箋にどんどん意見を書き出させるようにさせた。

次回これらを発表して、学級で「小説のしかけ」を共有していこうと思っている。











2014/09/15

実生活で必要な「聞く力」とは?

今日の催しでは、医療関係の職員の人材育成に携わる方と同じグループになった。
そこで、大変興味深いお話を伺うことができた。
「最近の若い人は、まともに電話をしたことがないんですよね」と、
そういえば、私自身、メールやラインなどを使うようになってから、電話での会話がめっきりと減った。教師でさえそうなんだから、ワカモノはもっとそうなんだろう。
で、電話での対応が全然できていないと言うことなのだ。
たとえば、体調が悪く、一刻も早くお医者に診てもらいたい患者さんがいるという。しかし、そういう窮状を聞いても、つっけんどんに
「今いっぱいです」「もう今日は終わりです」などど、信じられないくらい心ない返事をして、ひんしゅくを買ってしまっているというのだ。
もうちょっと聞き方や言い方があっていいものなんだけど、ワカモノにとっては「受け付けられません」という「情報」を正確に応答したつもりなんだろう。正確に応答はできても、相手のことを思いやって聞くような聞き方ができない。だから機械的に対応をしてしまうのだという。
そして、もっとやっかいなことは、こういう事は、いくらマニュアルを整備しても、ほとんど役に立たないと言うこと。ワカモノは、マニュアル以外の事態になると全く動けないのだ。言われたことはできるけど、言われたこと以上のことはできない。マニュアルは、職員をほとんど育てることはできない。
だから、悩んでしまっているそうなのだ。
結局どのように研修をしているのか。
トライアンドエラーを繰り返すことしかないというのがその方の結論。すぐに電話を替わってもらって、そのワカモノの目の前で対応をする。そしてどのように対応すればよいのかを
身をもって,モデルを示しているのだそうだ。
話されている言葉の「字面」だけの情報を理解するだけではなく、その言葉の響きとか、響きの底にある気持ち、見えない向こう側の状況まで受け止めて聞くこと。そんな「聞くこと」の学習が、ひょっとしたらこれからの社会で、今まで以上に必要とされているのかもしれない。
さて、こんな力を付ける「聞くこと」の学習をするとしたら、どうすればいいんだろうなあ。

もんじゃ焼きの教育学〜未だ形にならざる「あれ」の行く末〜

大学時代、ゼミで激論した後は必ず、もんじゃ焼きをみんなで食べることがならわしとなっていた。そして終電まで大いに飲み。そして語り合う。
斎藤先生、このもんじゃ焼きに、かなりこだわりを持っているらしかったことは確かだ。
「この、いかにもカオスな感じがいいんだよなあ」と、未だ形にならざるゲル状のあれ(もんじゃのことね)をみんなでつつきながら、先生。
これがもんじゃだ! 見た目は……だけど、みんなでつつきながら食べると、うまいんだな。こんな不思議な食べ物があるのは日本だけかも。

あれってファシリテーショングラフィックだったんだね。
いかにカオスを巻き起こすか、いかにそのカオスをコスモスに脈絡づけていくか。そしてそれを皆で分かち合うか。協働的な課題解決のプロセス!

定跡と、型破りと。あるいは、沈黙から生まれる言葉

きっと私は饒舌な方ではない。もし、ぺらぺらしゃべっているとしたら、それはそのとき何も考えていないだけか、誰かの借り物の言葉を、イタコの口寄せよろしく、憑依して発言しているだけ。
将棋も、定跡を指しているときはすらすらと手が伸びる。しかし、定跡では太刀打ちできない状況が来たとき、型を破ろうというとき、つまり、本当に頭が働いているときには、すらすらとなんか、駒を進めることはできない。
「美は人を沈黙させる力がある」とは、小林秀雄の言葉だけど、この場合の「美」とはもちろん、ルノアールとかセザンヌのような美術作品のことだけを言っているわけではあるまい。「美」とはもっとおどろおどろしい、もっと人間の根源に迫るような、何かのパワーに圧倒されるような、意味が充満するカオスの渦におぼれそうになるときに、言葉を見失い、そして沈黙をするのだ。そのカオスの渦から、一筋の言葉を紡いでいくなかで発せられるひとことこそが、定跡外れの、自分の身体感覚と思考とを経た、カオスからコスモスを志向する言葉なのだろう。
……だから、話し合いを円滑に……なんて、ひょっとしたら、ちゃんちゃらおかしい?? そんなことよりも、安心して黙っていられる、それを聴き手が待ってくれる、ということの方がよっぽど重要な気がしてきた。
『悩む力』の「ぺてるの家」の当事者たちの、あけすけて、途方もなく語り尽くす彼らたちの存在に、私が圧倒的に心が打たれる(←というような、それこそ陳腐な言葉では表現できないほどの)を受けるのは、当事者の語りが生まれる傍らにいるはずの、「沈黙して、言葉を待ち、耳を澄ましている人たち」の存在のおかげでもある。

その反面、残念なのは、どこかで聞いたことある言葉が、人から無遠慮に発せられるのを聞くことだ。それほど、陳腐で、不誠実で、がっかりとしてしまうことはない。そういう言葉を無意識に発してしまう自分自身にも。……これは蛇足か。

2014/09/14

ネット書店、大型書店、古書店の楽しみ方

ネット書店(Amazonなど)
【ポイント 買いたい本を安くゲットせよ】
・読みたい本を確実にゲットできる。
・レビューを読める。レコメンド機能がある。
・中古本を安く手に入れられる。
→しかし、自分のほしい情報以外には目が向きにくく、視野が狭くなるというデメリットも。

大型書店(池袋ジュンク堂や、神保町三省堂、新宿紀伊國屋、東京八重洲ブックセンターなど)
【ポイント 流行の本、異分野の本をキャッチせよ!】
・売れ筋の本を見て、時代の潮流をキャッチできる。
・自分の興味のない棚でも眺めているだけで発想が刺激される。
→古すぎる本、売れていないマイナーな本は見つからないかも。

古書店(神田神保町古書店街など)
【ポイント 古書との一期一会の出会いの場。本が「俺を読んでくれ」と語りかけてきたら、躊躇せずに買うべし】
・こんな本あるんだとか、懐かしいー、という発見がある。
・書店主のこだわりによっては、古かったり、マイナーな本でも価値の高い本がさりげなく置いてあったりする。
・分野別にコレクションされた専門的な本を入手できる。
・誰かが一度は買い、さらには古書店主が買っているので、2重のキュレーションが加えられている。それなりの価値があるものと出会える可能性が高い。
→古書店街は、「中古の本を安く買う場所」ではない。ピンポイントに本を探してもまず見つからないことが多い。むしろ、予想外の出会いを期待しにいく場所である。

プロ棋士はなぜ自分の差した手を覚えているか? あるいは、将棋指しが強くなる極意

昨日のフェイスブックでの将棋談義は興味深かった。
それは、プロ棋士がどのように上達していくかということについての気付きを得られたからだ。

プロ棋士は、対局が終わった後に「感想戦」を行う。それは、初手から最後の手まで駒を並べて、ああでもない、こうでもないと話し合いをすることを言う。
まるでビデオを再生するかのように、自分の手を正確に記憶し、それを語り直す。そう、まさに事後リフレクションをしているのだ。

まず、百手以上を正確に記憶していること自体が素人には驚きだ。そして、一手ずつ、ああでもないと語れるということも。
なぜ記憶できるのだろうか?それは、定跡のようなパターンがある程度頭にインプットされているというがまずあるだろう。その上で、パターンを踏み越えた一手、つまり「型破り」の一手の、迷いや意図などの思考をメタ認知し、暗黙知を言語化できているということなんだろう。
だから、なんとなく、偶然手が伸びたような一手を、まるで必然のように語り直すことができるのだ。
そういったリフレクションの反復をこなしていく棋士は熟達していくのだろう。

2014/09/13

将棋の定跡と創造力育成

創造力はそもそも育てられるのか? センスは鍛えられるものなのか?という素朴な問いがある。
それに対してはこう答えたい。
プロ棋士は、すべからく常人の持ちえないセンスも、創造力も兼ね備えているはずだ。しかし、彼らは始めから野放図に、自由自在に将棋をさしていたわけではあるまい。
定跡や戦法を学び、真剣勝負を反復する中で力をつけていったのである。
定跡のような型を学ぶことと、センスや創造力を伸ばすこととは矛盾しない。たかが定跡を学んだくらいで崩れてしまうセンスや創造力にどれほどの価値があるのだろう。定跡を学ぶことで、センスも創造力も洗練される。そしてその中のほんの一握りが、プロとしての力を発揮するのだろう。
我々アマチュアは、定跡を学ぶこと、それを理解することだけでも、将棋を楽しむためには十分だ。

と、こういう書き込みをフェイスブックでしたところ、Fさんの深いい返信が。

担任の頃,休み時間等に子どもと指していると「筋のいい手」を指すことができるようになる子がいます。その子は,ほぼ間違いなく定跡を勉強するようになった子です。
私も強くなったのは定跡を学んでからです。定跡は長年の棋士の汗と涙の結晶なので,それを学ぶと自然と「筋のいい手」が指せるようになります。
しかし,レベルの高い「筋のいい手」が指せるようになるには,強い相手と対戦して,ああやられたという「筋のいい手」を見ることと,感想戦といって初手から最後までお互いに指しながら,「ああでもない,こうでもない」と対局を振り返ることをきちんとしていくことです。
所詮,定跡は初手から50,60手ぐらいまでしかありませんから,それ以降は自分自身の力量で戦うしかありません。この後は「筋のいい手」がどれくらい指せるかで勝敗が決まっていきます。
授業力の向上と似ているように思います。

深いなあ。定跡を学ぶことで、将棋の見方も学ぶことができる。
リフレクションの意義や方法も、このコメントから学ぶことができる。
将棋の定跡は、あらゆる領域で応用できそうだ。

2014/09/12

ビブリオバトルのよさは、対話型プレゼンテーション

私が取り組んでいるビブリオバトルでは、5人グループになり、一人3分の持ち時間で本を紹介しあっていく。
この3分間は、プレゼン&質疑応答で構成されている。(確か、本家は質疑応答とは言わずにディスカッションをするとしている)

で、間違いなく面白いのが、後半の質疑応答の時間だ。
はじめの紹介プレゼンは、1分~2分もあれば終わってしまう。そこから、余った時間をどうしようかと聞き手が考え出すのだ。

事前に私はこう伝えている。
「プレゼンは3分もかからない。だから、残りの時間で、聞き手が本の魅力を引き出せるように、質問をしてどんどん盛り上げないと! この残りの時間がとても重要なんだよ!」
それでも、はじめのうちは聞き手も、何を質問したらよいか時間をもてあましているグループもあった。しかし、場数をこなしていくうちにそれも要領を得て、質問が続いて盛り上がるようになってきた。
本を紹介するスピーチだけだと、紹介者は事前に用意してきた内容を、原稿の棒読みをするように紹介する生徒も出てしまう。しかし、質問に対してその場で応えていくことで、紹介したい本への愛情があふれた、生き生きとした反応を見せることができる。そしてそのほうが、周到に用意したプレゼンテーションなんかよりも、ずっと聞き手の心に届くものなのだ。対話によって、新たに魅力が引き出されていったのだ。
ビブリオバトルに質疑応答を交わし合う対話型プレゼンテーションの学習活動の可能性を見た。

空間と声の大きさとの相関についての、ささやかな気づき

今日は「自主研究」のラウンドテーブルと称して、3年生が下級生に自分の研究成果をお話しする催しが行われた。
学年混成の10名程度のグループを作り、お話&質疑応答を行っていく。
私は巡回係としてすべての教室の様子を見て回っていた。

で、気づいたのは、内容ではなくて、空間と声の大きさとの相関だ。
ラウンドテーブルは、普通教室と、美術室や図書室などの特別教室など、さまざまな教室で行われる。一つの空間に、2グループがおさまっている。
普通教室では、椅子だけで輪になって座る形式。一方、美術室や図書室のような特別教室では、大きなテーブル一つに、10人程度のメンバーが囲んで座るような格好になる。

で、この空間の違いにより、明らかに声の大きさ、話しぶりが異なるのだ。
部屋の響き方もある程度は影響があるかもしれないが、それ以上に、明らかに、話す人の声量や内容が異なる。
大きなテーブルを囲んで話をする場合は、声のトーンが落ち、とても落ち着いた話しぶりになっている。反対に、教室で、椅子のみでサークル状に話す場合は、声を張って、ややかしこまってプレゼンをするようなモードになる。
おそらく、話し手と聞き手の間にテーブルがあるかないかという違いが、話すモードの違いとなって表れたのではないかと思う。
テーブルを間に挟むことで、まるで夕食時に家族で話すような団欒感?が生まれるのではないか、一方、椅子のみで囲むサークル形式のプレゼン&質疑応答では、話し手と聞き手との間には超えられない空間、断絶??がある。その断絶を超えようと、声を張って、ややフォーマルな感じのトークになってしまうのではないか?

どちらがいいか悪いかという話ではないが、同じことを話していても、ちょっとした場の設定の違いで、交わされる話が変わってくるのはおもしろいなあと感じた。(地べたに座談をしたらもっと変わってくるのだろう)

2014/09/10

ビブリオバトル文学決戦 ふりかえり

ビブリオバトル二回目。
今回は文学(小説、随筆、詩など)に限定してバトルを行った。
夏休み前に一度取り組んでいるので、一通りの流れなどは定着してきているが、やはり取り組んでみていろいろ難しい面があると感じた。

1 文学作品の魅力を説明することはなかなか難しい。
前回は理科系の本を紹介するビブリオバトルだったんだけど、理科系のよりも小説などの紹介をする方が難しかったようだ。
あらすじをネタバレしない程度に伝えることはできても、それがなぜ、どのように魅力的なのかを伝えることはなかなか難しい。(大人だって難しいだろう)
笑いあり涙ありです! 感動です! って言っても、何がどうそう感じられるのかが分かりづらい。
理科系の本の時は、一人四分で紹介&質疑応答としていたが、とても四分間は持たない。途中から三分に短縮してやっと間延びせずに取り組ませることができた。
次回取り組むさいは、ナンバリング&ラベリングなどを活用して、いくつか観点やポイントを整理させてプレゼンをさせるほうが、より分析的に、伝わりやすいプレゼンができるかもしれない。

2 文学作品を味わう語彙が必要
1と同じだけれども、面白い! 泣ける! 以外の、文学作品を味わう表現や語彙のようなものになじむ必要があるかもしれない。
たとえば、効果的に作品の魅力が伝わっているブックガイドの文章を例示したり、ダビンチなどの雑誌や、文学コンクールの選評コメントなどを提示し、どのような言葉で文学作品の良さを語っているか、どのように語れば、作品の良さがより効果的に伝わるかを吟味させるとよいかもしれない。
生徒が選んだ同じ本を、大人が紹介したビブリオバトルの動画を提示するのも良さそうだ。
もちろん、これらの語彙を獲得するということは、文学をより深く味わう力にもつながってくるはずだろう。

説明文を図解する学習で、何を考え、どう表現しているのか〜情報デザインとしての説明文図解学習〜

実習生の授業。「オオカミを見る目」という説明文を、八つ切り画用紙一枚にまとめるという学習を行っていた。(私が指導している実習生ではないので、詳細は分からないが、)前段階で内容の要約文などをまとめて要旨をつかんだ上で、用紙一枚にビジュアル的に表現するということだろう。(一応しゃれではない)

説明文の説明内容を一枚にまとめるときに、生徒たちは何を考え、どう表現していくのだろうか。学習に取り組む姿を観察しながら、それを考えていた。
説明内容を用紙一枚に表現する際には、次の点の吟味・検討が必要になるようだ。

図解で吟味・検討する要素
  • 用紙を縦に使うか、横に使うか
  • 縦書きにするか、横書きにするか
  • 用紙一枚に収まる情報量(文字量など)はどうするか
  • 余白をどの程度とるか
  • 中心、左右、上下に何を配置するか
  • どのような順序で記事を配置するか
  • 囲み記事などの大きさや形は
  • 全体の色味やトーン、枠組みの決定
  • テキストの段組は
  • 文字や線の大きさ、色、フォントは
  • 手書きで仕上げる場合は、筆記具の選択(マジックか、ボールペンか、クレヨンかなど)
  • 写真やイラストを、何をどの程度使用するか
  • 説明する言葉の表現(そのまま使うか、言い直して表現するかなど)
  • キャッチコピーや見出しをどうするか
  • 矢印や記号、図や表をどの程度使用するか
など、細かく要素をあげていけばいくらでも抽出できる。
これだけのことを教えなければいけないのか!と思ってしまうかもしれないが、そんなことはない。そんなことを教えなくても、子どもたちは、日常的に触れているポスターや新聞、ウェブなどの図解表現から、これらの要素を何となく理解し、表現できてしまっているのだ。
何にも教えられていなくても、経験的に、何となく、文字や線の色分けを工夫したり、タイトルの形を工夫したりしている。

情報デザインとしての説明文図解学習
肝心なのは、これらの要素を学習活動として取り上げる際には「何となく」各自のセンスに任されるのではなく、「これを伝えたいから、このように(レイアウトなどを)工夫して表現した」という「こだわり」を持たせるところではないかと思う。
そのような「こだわり」と、実際に表現されたものとの関連を吟味・検討することがなければ、何でもありになってしまうし、各自のセンス任せになってしまう。つまりは学習にはならない。
メッセージを効果的に相手に伝えるために図解で表現をするという「情報デザイン」の視点をこれらの学習に持たせることが必要である。
ここであえて「デザイン」という言葉をつかうのもゆえあることである。「何となく」「センスで」できてしまう表現、ありのままに、おもうがままに表現したいのであれば、それは自己表現としての「アート」である。
「アート」には「アート」としての価値はもちろんあるだろう、しかし、相手にメッセージを効果的に伝える表現を志向する場合は、その表現は自ずと「デザイン」へと向かう。ここで学ぶべきは「デザイン」としての図解表現である。(繰り返すが「アート」としての表現を否定しているわけではないし、「デザイン」の基盤にも「アート」的なセンスは必要となるだろう)

説明文を図解する学習の取り立て指導
そうはいっても、一つ一つ、これらの要素を、表現の細部まで取り上げて指導をしていたら日が暮れてしまう。
まず、教師がどんな図解表現をさせたいのかというねらいの明確化と、そのねらいを達成するためには、生徒たちにどのような力が不足しているかという実態の把握が必要だ。
それらの実態把握をしたうえで、たとえば、図解の要素のうち、特にポイントとなる点を焦点化して指導してみたらどうだろうか。(「要素を分解し、要素の力点をずらす」手法を活用する) ポイントとなる点に意図的に生徒の思考が向くように、要素をずらしたり、要素を考えさせたりする授業をデザインするのだ。

1、レイアウトの力を付けたいときには
画用紙一面の「面」として訴求力を持たせる表現をさせたいとする。
そのときは、次のようなレイアウトを検討する学習が有効だ。
一つの説明文を一枚の紙に表現するとして、どのようなレイアウトが考えられるか、グループでその文章を図解表現するレイアウトのパターンをたくさん(五つ以上?)出していく。そして、それぞれの図解表現の良さを考える。
たとえば、二項対立の文章内容であれば、シンメトリーの構成か、マトリックスのような表にまとめるという方法がある。時系列などの流れが表現された文章内容であれば、年表とかチャートのような流れを可視化するレイアウトが考えられる。
これらの文章内容に応じたレイアウトのパターンをグループで複数出し合い、それらのレイアウトの良さを話し合う。
ゼロからパターンを考え出すことが難しい場合は、教師がいくつかパターンを例示して、それらを比較するという方法もあるだろう。

2、見出しの効果を学びたいときには
何となく見出しの言葉を付けていて、インパクトや工夫のない表現が見られたとする。
そのときは、次のような活動はどうだろうか?
新聞やポスターなどの見出し部分を空欄にし、その中に入る言葉をグループで出し合い、考えていく。
見出しの言葉は、文章内容を凝縮する要約の機能をもっていたり、キャッチコピーのように読み手を惹きつける効果を持った言葉が選択されることが通例だ。そのような見出しの言葉の効果を意識させるための活動である。

3、説明する文章の表現を学ぶときには
説明文を図解する文章のなかで説明する文章を書くときに、単なる引き写しだったり工夫が見られないときに取り上げる学習。
説明文を、様々なモードで書き換え、表現の効果を考えていく。
説明文は、説明を伝える相手によって、説明する表現は変化をしていく。
説明内容になじみがなかったり、初めて聞く人に対しては、その前提や趣旨などを含めて丁寧に説明する必要がある。
反対に、説明内容をある程度知っている人に向けては、新たな切り口や、より深い視点を提示する必要がある。
このように、説明内容は、相手との相互作用の中で生み出されていくものであるから、どのような相手に、何を伝えたいかという意識を明確にもたせることが重要だ。
小学生向き、中学生向き、大人向きなどの相手や、伝える目的を提示し、書き換える学習を行うことで、説明する文章がどのように成り立っているか学ぶことができる。

2014/09/08

文学作品の王道パターンを学ぶ~「夏の葬列」の授業№2

「夏の葬列」の授業の2回目。
授業の基本的なコンセプトは、小説を書き方をつかむために読む、である。
今日は作品全体を俯瞰して構成をとらえる学習を行った。

1、「箱書き」を書く
箱書きとは、小説作品のプロットを流れに沿って書き出すものである。
小説を創作する際には、設計図のような箱書きを書いてから、原稿を書き始めることがあるという。

「小説を書くための基礎メソッド」の方法を参考に、次の観点でまとめていく。

①時間
②場所
③人物
④出来事

たとえば、シーン1(大段落の1つめ)は以下の内容になる。

シーン1
①時間:現代
②場所:海岸の小さな町の駅→アーケード→踏切→芋畑
③人物:彼・葬列の人
④出来事:出張帰りに、かつて疎開した町を再訪した。
葬列を見かけ、昔の出来事を思い出す。
このシーン1を学級全体で取り組んだ後で、4人グループになり、残りの4つの場面を整理していった。

◆活動をしてみて
最初は15分くらいでできるかなと甘く見ていたが、予想以上に時間がかかった。
結局、倍の30分くらいかかってようやく7~8割の生徒ができるという結果になった。
どうやら、場面の出来事を2~3行くらいで短い言葉でまとめることに苦心していたようだ。
要約文と考えると、どうしても思い切ってそぎ落とすという感覚にはなれない。
あれこれと盛り込んでいくうちに、5行、10行と記述が増えていってしまう傾向がみられた。
この箱書きの場合は、内容を削ってまとめるというよりも、内容の趣旨を短く言い換えるというタイプの要約になる。そのため、適切に要旨を理解していないと、一言で言い換えることはなかなか難しい。ましてや、一度しか読んだことのない文章であったから、生徒にとっては難易度の高い学習だったのだろう。
あるいは、たとえば「○○○が………する」のようなフォーマットを示した方が取り組みやすかったかもしれない。

箱書きが書けた生徒のトートを、iPadで撮影、スクリーンに写しつつ全体で共有していった。

2、文学作品の王道パターンについて知る
内容のあらましを整理した後に、効果的に文学作品を表現している技法としての3つのポイントについて説明をした。

○王道の展開パターン
 物語は「冒頭」「発端」「山場」「頂点(クライマックス)」「結末」という「起承転結」の王道パターンがある。
 中盤よりもやや後半部分に(水戸黄門で言えば45分に??)クライマックスが訪れる構成が、読み手にとって一番気持ちがいい。
 またクライマックスでは主人公に一番大きな変化が訪れるという特徴もある、
 夏の葬列のクライマックスは、葬列がヒロ子さんのお母さんのものだったと知って現実に直面させられる、場面4の最後の部分である。

○ストーリーとプロットの違い
 ストーリーは、出来事を時間順に並べたもの
 プロットは、物語を語られた順に出来事を再構成したもの
 (プロットには作者の意図が含まれるので、時系列がゆがんでいる作品はその意図や効果を考えることが必要となる。)

○ミステリー(謎)によく見られる、「Aは、実は、B」という構造
 「夏の葬列」だと
 平凡なサラリーマンである彼だが、実は、子ども時代にヒロ子さんを死なせているという暗い過去を持っている。
 ヒロ子さんのお葬式だと思っていたが、実は、ヒロ子さんのお母さんの葬式だった。
 ほかにももっとたくさんあるだろう。

 実は……のパターンは、キャラクター設定などでも活用されている汎用性の高いパターンでもある。
 クライマックスには「実は……」の部分があらわになり、ミステリー(謎)が解決するというパターンがとても多い。

 これらの、「文学作品の王道パターン」をある程度念頭に置いて。小説を味わったり創作させていくとより効果的に学習を進めていくことができると考える。

全般的に今日の授業は内容を詰め込みすぎ、やや後半の解説がしゃべりすぎの学習になってしまった。しっかり学んでほしいことが定着できているか、やや不安だ。

2014/09/06

ユマニスト(人間通)を育てる道徳教育

自己肯定感とナルシストの違いは?
プライドと恥の違いは?
こういう、人間を突き動かす心理とか美意識を理解していることは、文学作品の人物の心情を理解するためには不可欠だとおもう。
というか、生きていく上でも、理解できた方が、より人生を豊かにすることができると思う。
いや、むしろ道徳の時間でこそ、人間性を理解するこういう生々しいテーマで話し合うことはできないだろうか?
人生いかに生きるべきか、というような大上段に構えた問いではなく
「プライドって何?」
「ナルシストと自己肯定の違いは?」のように。

2014/09/05

作り手の立場にたって読む文学の学習は可能か? 〜「夏の葬列」授業記録 №1〜


「演劇で照明をやったことのある子は、人の舞台を見るときも、自然と照明の素晴らしさに目が行くようになる」とは、同僚の先生の言葉だ。
作り手の立場にたつことで、受け手としての見方も磨かれる。これには共感できる。
作り他の立場に立ってみることは、作品をより深く感受し、豊かに味わうことと矛盾しないだろう。

たとえばこれが文学の場合はどうか?
文学を味わうとき、作り手の立場にたって読み解く学習をしたとして、これが同様に成り立つだろうか?
作り手の立場にたって読む読み方は、文学作品を享受するときの感動を否定する活動になるのだろうか?
こんな問題意識から、文学の学習をスタートさせた。

今日から「夏の葬列」を読み進めていく。
提案内容は、「創作」と「読解」をつなぐ学習活動
小説を読みながら、「表現の仕掛け」を読み取り、読み取った「表現の仕掛け」を小説の創作にも生かしていこうという学習。

単元の主な学習の流れは次の通り
1、(一斉指導)「夏の葬列」の表現の仕掛けを分析する。
2、(秋休み中課題)各自で小説の表現の仕掛けを調べる。
3、(グループ課題)「空中ブランコ乗りのキキ」「麦わら帽子」(その他未定)のテキストから一つ選び、表現の仕掛けを分析する。
4、短編小説の構想を練る。創作は冬休み?

表現の仕掛けの視点は次の通りだ
・構成(ストーリーとプロット、クライマックスなど)
・登場人物(キャラクター設定)
・描写・レトリック
など。ちょっと本を読んで調べたけれども、まだまだ山のようにあるみたい。
これらの「表現の技巧」をいかに絞り込んで生徒に学ばせていくかが課題。
羅列して伝えても意味は無いし。
このへんの小説の構造やディティールを味わう視点のようなものを、適度に教え込みすぎない程度に伝授しつつ、子どもたちが自力で見いだしていくような学習にしていきたいと考えている。




一時間目 「夏の葬列」を読む
今日は「夏の葬列」を読む最初の授業だった。
次のような授業を行った。
1 文学(小説)の読み方を思い出す。
 今まで学習してきた、または読書生活の中で身につけ、意識してきた小説の読み方をシェアしていった。
 ○次のような意見が出た。
  登場人物の人間関係を掴む。
  登場人物の心情を理解する
  登場人物になりきって読む
  情景を読み取る
  比喩や暗示しているものが何かを考える
  クライマックスにつながる「伏線」をつかむ

2 冒頭を読む
 つぎに、「夏の葬列」の冒頭の段落だけをプリントしたものを与え、そこから何が読み取れるか、どんな話になりそうかを考えていった。
提示した冒頭の文章
 海岸の小さな町の駅に降りて、彼は、しばらくは物珍しげに辺りを眺めていた。アーケードのついた明るいマーケット風の通りができ、その道路も、硬く舗装されてしまっている。はだしのまま、砂利の多いこの道を駆けて通学させられた小学校の頃の自分を、急に生々しく思い出した。あれは戦争の末期だった。彼はいわゆる疎開児童としてこの町にまる三ヶ月ほど住んでいたのだった。
 ーーあれ以来、おれは一度もこの町を訪ねたことがない。その自分が、今は大学を出、就職をし、一人前の出張帰りのサラリーマンとして、この町に来ている……。
 東京には、明日までに帰ればよかった。に三時間は十分にぶらぶらできる時間がある。彼は駅の売店でたばこを買い、それに火を付けてると、ゆっくりと歩き出した。

 ○教科書ではたった十行に満たない文量だけども、なかなか面白い意見が出た。
  次のとおり。

  • 時代は1960年くらい?
  • 場所は海岸沿いの街
  • 戦争時代の話が出てくるのでは?
  • 彼はもう大人になっている。
  • 「たばこを買い」とあえて書いてあるところから、大人になってやっとたばこを 吸える年齢になったということを表しているのかも。
  • 「通学させられた」とか「なまなましく思い出す」ってあるから、あまり学校時代にいい思い出がなかったのかも。
  • たった三ヶ月しかいなかったところに、あえて再び訪れるというのは何か深いわけがあるのかもしれない。

作者にとっての冒頭の効果は、いうまでもなく二つ。
読者を作品世界に惹きつけることと、作品の設定を伝えるということだ。
この二つを目的に、作者は十分に配慮して気合いを入れて書くのが冒頭である。
読むときにはそれを念頭に入れて、冒頭で、どうやって読者を惹きつける工夫をしているか、どうやって設定を伝えようとしてるかを読み取る学習ができるだろう。

3、教師の範読を聞く

4、設定を確認する
 作品を理解する大前提としての設定を確認していった。
 時間 戦争中と戦後
 場所 海岸の小さな町
 人物 彼・ヒロ子さん・ヒロ子さんの母・葬列に参加している人(子ども)

5、初発の感想を書く
 7〜10分程度で200字の感想を書き、残りの時間はそれをお互いに読み合った。


厳密に評価しない方が的確に学力を捉えることができることもある

数学ネタをもう一つ。
数学では、例えば三角形の合同条件が、教える人によっていろいろな言い方があって混乱していたんだそうだ。
そこで、用語の混乱を防ぐために、学習指導要領解説で、三角形の合同条件の正しい言い方を示すことになった。
「これで混乱は無くなる、やった!」そう思うのはど素人だ。
結果、厳密に用語を規定したことで、子どもが、それ以外の言い方をしたときに、バツになってしまう可能性が生まれてしまったのだ。
厳密さ?が仇となる、教育現場あるあるでした。

本質を捉えていないから瑣末なことにこだわる

算数が苦手な人間を苦しませる『掛け算順序問題』というのがある。
林檎を三つずつ、五人にあげるのを式で表すとどうなる?
3×5?それとも、5×3?
算数に造詣の深い先生によっては、この順序にこだわり、前者でないとバツにするという。
しかし、もっと造詣の深い、ある先生は、こういう解釈を教えてくれた。
「トランプのカードをさ、五人に三枚ずつ配るときどうやって配る?
三枚いっぺんに配ることも、一枚ずつ五人に三回配ることもあるでしょ?
つまり、どっちの順序もありうるし、同じなんだよ。数学的に言っても。
教科書の絵だと、3個ずつのリンゴの絵になるからそう思い込んじゃうけどさ、見方が一面的すぎるんだよ」
ちなみに掛け算の順序でバツをつけるのは日本ぐらいなものらしい。

iPadはプレゼンを変える?

林間学校の事後指導で、班で学んだことをプレゼンする活動を行った。
iPad&プロジェクターで、プレゼンが一気に簡単になった。
それはキーノートやパワポを使ったからではない、
そんなものは必要ない。手書きで書いたA4の紙を写真で撮って完了。模造紙さえ必要ない。時間も1時間でOK.
(キーノートを使うグループもあったが、手書きよりもインパクトに欠け、見ている生徒の受けは良くなかった……)
これは、たいした
ことないようで、実に大きな進化だと思う。
これだったら、毎時間だってプレゼンをすることができる。いや、プレゼンなんて大げさなことでなく、つまり、視覚資料を用いた発表を日常的に行うことができる。
「意見を言ってみよう」から、「図に示しながら意見を言ってみよう」へ。
これで子どもたちの表現力がどう変わるか?
些細なようで、とてつもなく大きな変化だと思う。

2014/09/02

研究授業の時間捻出法

毎月校内研で研究授業を行っている。
校内研では、学校で追求する研究テーマに沿って、様々な教科の先生方が授業をし、それを見合っていく。
しかし、なかなか中学校では校内で研究授業を行う時間を設定するのが難しいのが実態だろう。
そこで、うちでは次のようにやりくりをしている。
・1~6時間目を40分授業で行う。
・放課後の掃除をカットし、6時間目で展開学級の生徒以外は下校する。
・研究授業を全職員で参観する。
・研究授業後すぐに、ふりかえりの会を30~40分程度行う。

中学校教師にとって、他教科の授業を見ても正直あまりわからない、そこで、参観する際には次のような視点が示される。
・特に着目するグループ(生徒)について(事前に指定される)
・校内の研究テーマについて(例 思考・判断・表現の観点から)
・ティームティーチングの効果について
・自分の教科に当てはめて考えたこと、など

この上記のような観点を念頭に置いて授業を参観し、そして短時間、、様々な教科の先生がまざって小グループを作り、意見をわいわい出し合う。そして、グループで出された意見を全体でシェアし合う。

「研究授業」というと、やる方も見る方も、普段よりは構えて取り組みたくなってしまうが、こうしてごく日常の授業をお互いに見あっている。(指導案はA42枚のみ!)、授業を見たすぐ後に(これがポイントだったりする)、短時間で、その場で感じたことをシェアし合うこの研究授業のスタイルは、気軽に取り組め、授業を観る目を鍛えることのできる良い方法であると感じている。