2013/02/23

どういちゃもんをつければいいか~重箱のつつき方入門~


授業を公開したり、研究成果を発表したり、とにかくいろいろな発表をする機会に、しばしば参加者からいただく「ご批判(いちゃもん)」のいろいろをいくつかパターンで分類したいと思う。
こういう批判のパターンをあらかじめ頭に入れておくと、どんなご批判がきても心の準備ができるかもしれない?? 
(もちろんパロディーですよ! これを逆手にとって人の欠点をあげつらうときに使ってはいけません)

重箱のつつき方パターン(もう少しパターンが増えるかもしれない)
~研究授業後の協議会を想像してください~

A 「重箱の隅をつつく」……細部に対するいちゃもん
例文)授業の時に先生が言った「……」という一言はいかがなものか?
例文)指導案のこの言葉だけ「  」が付いていないのは何か意味があるのか?


B 「重箱の箱の模様をつつく」……ややポイントがずれたいちゃもん
例文)すばらしい授業でした。ところで、授業で使ったプリントはどうやって保存しているんですか?
例文)生徒が作成した掲示物に誤字があったのですが、日頃どのような指導をしているのでしょうか?
例文)この教材の著作権についてはどのようにご配慮されていますか?


C 「重箱ではなく、隣のお椀をつつく」……カテゴリー外からのいちゃもん
例文)古文の内容を読み味わう授業で
「古文の音読をしなくていいんですか?した方がよくないですか」

例文)ICT活用がテーマの授業で
「ITCばかりでなく、ノート指導が必要ではないですか」

例文)意見文を批判的に読むことが目標の授業で
「文章にどっぷりひたって共感させることが大切なのではないですか」


D 「重箱をつつく、とみせかけて自分語りをする」……自己主張のためのいちゃもん
例文)私もこの実践をしたことあるんですが……で、……だったんです。どう思いますか?

E、「重箱の説明書を取り出して批判する」……権威に寄りかかっていちゃもんをつける
例文)「学習指導要領では……と書かれています。それをどのようにふまえたのでしょうか」
例文)「学習指導要領の指導事項でいうと、この授業はどの領域ににあてはまりますか?」
例文)指導事項にはないことを教えています。この授業は国語ではなく、道徳ではないですか?


うーん、無理に重箱にまとめようとして難しくなってしまった。
もっと色々なパターンはあると思います。




授業の批評には次のレベルでの評価(批判)がある。
そしてその評価には往々にして「信念対立」(価値観の相違)が見られる。

A、教育観・授業観・子ども観レベル
……どのようなスタンスや教育観でその教師の授業が構成されているか。

B、学習内容レベル
……何を学習内容として取り上げ、子どもに学ばせようとしているか。

C、単元・学習計画レベル
……Bをどのような学習プロセスで教えようとしているか。

D、授業技術、手法レベル
……どのような授業技術でそれらを教えようとしているか。

どのレベルで評価しようとしているのか、評価する人は意識する必要がある。
さらには、自分の授業の見方が偏ってはいないかを自己チェックすることも大切だろう。
(授業技術にばかり目を向けている人は、計画や内容、根底にある哲学について検討する。教育観や哲学にばかり目を向けてしまう人は、授業技術の評価もする)



それらの念頭に置いた上で、1時間の授業を批評するポイントは、
1、教えようとしていること(教師の意図、ねらい)
2、教えている内容や活動(学習方法や計画)
3、子どもの様子、変容(実態)
の3点に絞って判断すればよい。
この3点以外に、観察者の予断や憶測、先入観や自己顕示欲がまじると、見当違いのいちゃもんになるのではないか。


国語の授業だったら、私はまず指導案の次のつながりを確認する。
・授業の狙い(指導事項)
・言語活動
・学習材
そして、その観点に従って子どものようすから、狙いが達成されているか、どんな学びが広がっているかを見る。
研究授業だったら、この授業に「賭ける」研究上の課題がどのように具現化されているかを見る。

たとえば、次のような質問は出て当然だし、それについて事前に考えておくことは必要だろう。
・子どものいままでの学習履歴と、それをふまえて、この学習内容を取り上げる必然性は?
・なぜこの学習内容を取り上げたのか、その意義は?
・狙いと言語活動(学習活動)はマッチしていたか?
・子どもはどんな目的意識を持って学習に取り組んでいたか?
・ゴールとして、どのような子どもの姿をイメージしているか?
・この授業を通してどんな子どもを育てたいか?
・学習材にはどのような工夫や配慮が見られるか?
・授業の計画は子どもの思考に沿って無理のないものであったか?
・授業の展開は自然な流れか? 首尾一貫していたか?
・授業中の教師の手立てに必然性があったか?効果的だったか?
・なにを、どのように評価するか、それをどのように次の指導へとつなげていくか?
など。


実際のところ、意図・方法・実態の3つを的確に捉えるのはなかなか難しい。

・教師が意識していない狙いが授業の中に隠れていることがある。
・そもそも指導者が狙いが明確でないことも多い。
・学習方法と狙いがマッチしているとは限らない。
・むしろほかに狙いを設定したほうがふさわしい学習活動もある。
・狙っていること以上の多様な学びが広がっていることもよくある。
・当然、子どもの反応も千差万別、ある学習方法がうまくはまる子もいるし、そうでない子もいる。全員に適合する授業などほとんど難しい。しかし授業の批評は往々にして子どもを十把一絡げにして語られることが多い。

こう考えると、むしろ「いちゃもん」は建設的な価値を生み出す契機になるかもしれない。
多様な批判にさらされることで、授業を違った側面から振り返ることができる。その結果、授業の新たな価値や魅力を引き出すことができる可能性がある。
意地悪な「いちゃもん」を、愛のある「ご指摘」に転換させて、研究授業をより実りあるものにしていくくらいのどん欲さ、胆の大きさが、研究発表をする人には必要なことなのだろう。


2013/02/15

エルサレムという街


以前書いたイスラエル旅行の記録から転載

イスラエルは実際に行ってみたら新たに知ったことがとても多く衝撃を受けました。
以下、私フィルターから見たエルサレムメモ。

・聖地エルサレム(旧市街)は城壁に囲まれた狭い地域の中にイスラム・ユダヤ・キリストの聖地が存在する。旧市街の中にユダヤ人地区、キリスト教地区、イスラム教地区、アルメニア人地区が仕切られている。
※写真をクリックすると大きくなります。
エルサレムの城門 ダマスカス門 ここから旧市街に入る

神殿の丘にはイスラムの聖地、岩のドームが輝く。
左やや奥にあるドームが聖墳墓教会

神殿の丘からゲッセマネの園を望む
・旧市街の最深部には神殿の丘がある。この神殿の丘にあるのが、イスラム教の聖地、岩のドームである。(かつてイエスが破壊したユダヤ教の神殿があったのもこの場所)
さらに、神殿の丘の側壁が「嘆きの壁」である。これはいうまでもなくユダヤ教の聖地だ。





・神殿の丘を下り、3分ほど歩くとキリスト教最大の聖地「聖墳墓教会」に行き着く。
「聖墳墓教会」までの道のりは「ヴィア・ドロローサ(嘆きの道)」という巡礼コースになっている。
イエスが捕縛され、むち打たれ、十字架にかけれて、死ぬまでの道のりである。(ゴールは聖墳墓教会)

聖墳墓教会内になる、イエスが十字架にかけられた場所


この教会内にはカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教などさまざまなキリスト教の諸派の聖堂が建てられている。が、対立を避けるために正門の鍵の管理はアラブ人の一家族が先祖代々行っているという。

・聖地エルサレムはイスラエルの中でも「東エルサレム」と呼ばれる地域で、イスラエルにとっては「パレスチナ人地区」の一部、パレスチナ人にとってはイスラエルではなくパレスチナの一部。イスラエル。パレスチナ双方が領有権を主張、結論が出ていない。国際上もエルサレムはイスラエルの首都と認められていない。

 ・エルサレムは聖地というイメージとは違い、思いっきり「俗」な世界。アメ横みたいな商店街が狭い路地にひしめいている。その商店街はほとんどがパレスチナ人(イスラム教徒)のお店。(土産とか日用品とかとにかく何でも手に入る)


・狭い路地の間を、黒ずくめのユダヤ人、クリスチャン、イスラム教徒がそれぞれの聖地へと歩を進める。が、お互い全くの無関心で行き交っている。まさにカオス。

・エルサレムから車で10分も行けばパレスチナ自治区に入る。
現在イスラエルはパレスチナ自治区に「分離壁」と呼ばれるベルリンの壁のような分厚いコンクリートの壁を何層も囲い込んで、パレスチナ人を身動きできないようにして封じ込めている。
パレスチナ内にある「分離壁」


・一方、エルサレム内にもユダヤ人居住区である「西エルサレム」とイスラエル内のパレスチナ人地区である「東エルサレム」が存在する。(同じイスラエル国内なので壁はない)政府は西エルサレムを優遇し、東エルサレムとの格差はとてつもなく開いている。
イスラエル国内にいるパレスチナ人は納税などの義務はあるが兵役は免除されている。教育はパレスチナの教育を受ける。イスラエルの選挙権はあるが、誰も投票しない。(イスラエルの存在を認めたことになるので、抵抗として)
・イスラエル内には大量のユダヤ人が現在でも移住してきている。その中にはエチオピアなどのアフリカ系のユダヤ人も存在する。(ユダヤ人の中でも階級差が存在するようになってきた)

ユダヤ人は真夏でも真っ黒なフォーマルスーツを着用
・出生率はとても高い。子どもが6人くらいいるのが平均(パレスチナ人のガイド談)たしかに

・ユダヤ教は戒律がとても厳しい。土曜の安息日になると商店は休業し、バスやトラムも止まる。

・イスラム圏では現在ラマダン中。日中は断食をしているが、レストランなどは午後8時くらいから開け出す。
夜になるとイスラム教徒はエルサレムの聖地に集まり祭りのようなどんちゃん騒ぎを深夜まで行う。

2013/02/12

「未完成の効用」あるいは永遠の「下書き」


最近「未完成の効用」に気づかされたことが2つあった。

1つめ、とある研究授業で東大附属の先生から、次のような助言をいただいた。
(ちなみに東大附属は長く「学びの共同体」の協同学習の実践を進めている)
「グループで話し合ったあとに、クラス全体で発表する場面があったでしょ。
あのときに、「班で話し合った結果」を発表させるのではなくて、「話している途中のところ、話そうとしているところ」を出させたら良かったのでは? 
もっと言えば、「グループの意見」ではなくで、グループで話し合いをした途中で『あなたはどう感じたか』を発表せればよかったのでは?」

話し合いの結果ではなくて、話し合いのプロセスを浮かび上がらせて共有させる。
クラスで共有したあとで、再びグループに返すなり、個に返して、思考を深めていく。
教師が「完成」を求めるのではなくて、つねに「未完成」を浮かび上がらる。
立ち止まらせて、そして再び出発させる。

2つめ、昨日の玉川学園の「学びの技」発表会のひとこまから。
この「学びの技」の学習では、中学3年生の生徒が「卒業論文」のように自分が設定したテーマに沿って調べ、そしてポスターセッションで発表をしていく。
今年度も数回、このような形でポスターセッションを行っているという。
驚いたのが、昨日の発表会では「未完成」のものをプレゼンさせていると言うことだ。

玉川大、堀田先生曰く
「今回の発表会では、あえて未完成のものをプレゼンさせています。
そして皆さんからいろいろと突っ込まれ、フィードバックをたくさんもらったうえで、テーマを立て直したり、データを付け加えたり、発表の仕方を工夫するなどの練り直しをしていくわけです。
こういうプロセスを何回も繰り返していきます。」

研究授業などでは、ほとんどの場合、子ども達が「完成作」を自信たっぷりに発表するという形式が多いのではないだろうか。
しかし、極論すれば勉強(研究)には終わりはないのである。終わりにしたいのは……教師だけ。
むしろ、学ぶことは常に「未完成」で、いつまでも「未完成」に飽きたらずに深めていというのが本来の姿なのではないかとさえ思う。

「完成」を求める余り、教師はこんなメッセージを子どもに伝えてはいないだろうか?
ここから先は大人になってから考えれば良い。
これ以上は必要ない。
これくらい調べれば大丈夫。
ここまでできれば十分。
よくできたね。もうこれくらいにしよう

あるいは、学校という閉じられた世界、教科書や学習指導要領という枠組み、学校図書館などの限られた情報リソースが、学習の限界を規定している面もあると思う。

単元末の「評価」とか「ふりかえり」も、
「とりあえずここで学習を打ち切って、『成果』を表現して」という、「完成」という形にこだわるものとして機能してはいないだろうか。

「完成」をさせることよりも「未完成」に立ち止まらせることの方が教育の本質に近いのではないか。

学校で学ぶべき、「基礎・基本」とは何か?


学校で学ぶこととは何か?
思いっきりシンプルに考えると、
学校に行かなかったらできなかった
……ができるようになる。
……がわかる。
……を体験する。
こと。

学校に行かなくても、これらのことができるようになったら、どうする?

これからの学校教育は、実生活で生かすことのできる力を学ぶようにシフトしていくという。
その実生活で生かすことのできる力が、実生活の中だけでも十分学べるとしたら……
学校は何をすればいいのか?

学校で最低限押さえるべき、基礎・基本とは何か?
国語科の場合で考えてみたい。

手紙に書く「拝啓」と「前略」の違いとか、そういうのが学校で学ぶべき基礎・基本だとは全く思わない。
学校で学ばなくても、社会でいくらでも学べることではないのか?
知らなかったらちょっと恥をかくくらいだろう。
ネットでいくらでも知識は得ることができる。
では、何をこそ、学ぶべきなのだろうか?

「基礎・基本」を問い直したい。
「基礎・基本」とは(斎藤孝流に言えば)相撲の「四股」のようなもの。
一生にわたって極めていくべき学習内容であると思う。
相撲の入門者だろうが、横綱であろうが、「四股」という基本は外すことができない。

基礎ほど難しいものはない。基礎ほど奥が深いものはない。
どこまで行っても「習得」できず、どこまでも極めることができる。

国語科で押さえるべき「基礎・基本」とは何だろうか?

〈読み・書くこと〉
・自分にしか書けないことを、誰が読んでもわかるように書くこと
・読み手の立場に立って書く、書き手の立場に立って読むこと
・自分に問いかけながら読むこと、自問自答しながら読むこと
・先入観を捨てて読むこと、先入観を自覚しながら読むこと
・心にイメージを描きながら読み味わうこと

〈話す・聞くこと〉
・聞き手を意識して話すこと
・会話の奥にある心を受け止め、心の声を聴こうとすること。

・ことばの力を信じること
・ことばの感覚を研ぎすまし、ことばを学び続けていくこと。

2013/02/09

人生が楽しくなる「心の置き竿」のすすめ


今の学校に勤めるようになったとき、大学の先生が開口一番
「先生は何がご専門なの?」と質問された。
……ご専門っていったって、国語の授業やって、部活やって、子どもをからかって…ぐらいの毎日だから、そんなこと考えたこともないよ……
と途方に暮れて、そのときは何も答えられなかった。
しかし、その日以来「私の専門って何だろう?」と自問する日々が続いた。

で、結局いまは「作文教育です」っていう「ご専門」を名乗ることは、できた。
名乗っては見たものの、作文教育に関する知識は不十分だし、まだまだ勉強しなければいけないことは山ほどあるけれども、「作文」とか「文章」という言葉を聞くと「びくっ」と反応するくらいの構えはできた。
そうなると面白いのは、いったん「専門」を意識し出すと、自然とそれに関する情報に関心を持つようになり、それについて、やや人よりも詳しくなってくるという効果を発揮することだ。「専門」という看板を掲げるだけでも意味があるらしい。

「専門」というと大げさだけど、「こだわり」とか「関心」と言い換えてもいいだろう。
他の人と違って、とくに「これ」にこだわりを持っているとか,関心を持っていると、ちょっと意識することで、それについての感度が向上するのである。さらにいうと、現在はSNSなどによって、同じ関心を持っている人と簡単につながることができる。加速度的にマニアックな情報を集めやすくなっているという利点もある。

そういう「こだわり」や「関心」を「心の置き竿」を置く、と私は呼ぶことにしている。(ちなみに「置き竿」は友人Kさんから教えてもらった言葉)
置き竿とは、釣りをするときに、一本の釣り棹に集中するのではなく、何本も釣り竿から糸を垂らしておき、「あたり」が来るまで放置しておくことをいう。
人生の楽しみの一つは、「心の置き竿」を置き、時折来る、その「あたり」を楽しむことにあるのではないか。

そういえば、私にはたくさんの趣味がある。(子どもの頃に熱中したものや、もう飽きてしまったものも含めると、結構多い方だと思う)
そういう一つ一つは「心の置き竿」のひとつだろう。それについての情報を見かけると、つい嬉しくなって、かまいたくなってしまう。

また、わりと好奇心が強い方なので、「なぜ……なんだ?」という疑問を心の片隅に、まさに放置していることが結構ある。(だいたいくだらない疑問が多い) そういう疑問はそのまま忘れて記憶から消えてしまったりするのも多いのだろうけど、あるときふとしたきっかけからその疑問が氷解すると、それはこの上ない喜びに変身する。見放していた置き竿に魚がかかったのと同じように。

それに、いろいろな置き竿が、じつは一本の大きな棹につながっていることに気づくこともある。ばらばらだった興味や関心が、根っこをたどると、同じ一つの幹につながっていたりするのを発見するのだ。それが意外なつながりだったりすると、あらためて自分の世界を深掘りし、再発見したような喜びを得られる。

置き竿のいいところは、ほっておくことと、たくさん置いておくことに意味があるということ。
すぐに答えが出なくても、焦らずに、悠長に、とりあえず置いておくのだ。置いておくところまでは、心にとどめておいて、あるきっかけや出会いが(あたりが)来たときに反応する(釣り用語で「アワセ」といいますね)構えを作っておけばいいのだ。 置き竿はいくつあってもよい。これは面白そう。とか、自分にとって必要だ、とか、こじつけでも何でもいいから、自分の関心に引きつけておくことで、その後の楽しみを期待することができる。突き詰めて考ても、考えなくても、「魚」はきっとこちらの努力には関係なくやってくるものなのだ、と思っておくくらいでちょうど良い。

2013/02/07

言語活動、良い課題・悪い課題

言語活動中心の授業を進めていく際に、最も重要なのはどのように課題を設定するかだ。
課題の提示の仕方に教師の力量があらわれる。

たとえば、
悪い課題
「本の紹介文を書こう」
……どんな目当てで書いたらいいのかがわからない。
なんでもありの活動になってしまう。
活動合って学びなし、一直線。

まあまあ良い課題
「本の内容が詳しくわかるような紹介文を書こう」
……「詳しくわかる」というめあてを示してはいる。
しかし、この目当てがどちらかというと子どもにとっての目当てではない。
教師の指導事項にすぎない。
もうちょっとセンスの良い課題は作れないか。

わりと良い課題
相手が読んでみたくなる本の紹介文を書こう」
……読んでみたくなるにはどう表現を工夫すればいいのか、という思考が働く。
評価する際には、どんな工夫をしたかを生徒に指摘させればよい。

自分だけが知っている、とっておきの本の紹介文を書こう」
……このように課題を設定すれば、他の人にはない、自分なりの視点から本を分析し、推薦するためにはどうすればいいのか考えるようになるだろう。

課題の言葉を少しいじるだけで、活動の質がぐんと違ったものになる。
目的意識……どんな目的で?  (子どもたちの目的意識と、教師が教えたい目的とは異なることが多い)
方法意識……それをどのような方法で?
相手意識……誰に向けて?

※これに、「場面・状況意識」と「評価意識」をあわせて5つの言語意識という。(小森茂)

そういった観点に意識が向くような課題を設定するように私は心がけている。

さらに高度な課題
課題を設定せずに、「ビブリオバトル」のような言語活動のパッケージを作ってしまう
(「ビブリオバトル」についてはこちら
「ビブリオバトル」の活動には、本の紹介が含まれるし、プレゼン能力も鍛えられるし、相手意識も必要だし。などなど、さまざまな価値が内包されている。
※「ビブリオバトル」の善し悪しは置いておいて。
凝縮されたパッケージの中にさまざまな思考や判断、表現が盛り込まれている。
このようにパッケージとしてセッティングしてしまえば、学習の流れを一気に作り出すことができる。
「実の場」とか「単元を貫く言語活動」というものは、本来こういう目的や方法が内包された学習のパッケージのことをいうのだろう。

「プロジェクト学習」の課題設定の方法や「パフォーマンス評価」の「パフォーマンス課題」からは多くのヒントが得られるかもしれない。

国語の時間に手紙文を指導することの難しさ


公的な礼状などではなく、プライベートな手紙を書く学習についてふと疑問がわいた。

この場合の手紙は、一対一の相手に向けたプライベートなコミュニケーションである。
これを教師がどこまで介入できるのだろうか。
相手が理解できれば、どんなつたない表現でも許容できるとは言えないか。
そもそも手紙文に上手い、下手はあるのだろうか。
指導事項通りに書いた手紙が、相手の心に伝わるのか?
教師の目(や指導)が入ることで、一対一のコミュニケーションが変容してしまわないか?
教師の目を気にして、相手に本当に伝えたいことがが書けなくなってしまわないか?

言語活動として手紙を取り上げるのならば、どんなねらいで、何を指導することができるのだろうか?

2013/02/04

「ものわかり」は悪い方がよい。


~感覚の「ズレ」や「違和感」を言語化する~
コラム(天声人語・編集手帳・余録)の作者との感覚のズレ
文学作品の原作と映像(実写やアニメ)とのイメージのズレ
詩とそれを歌詞にした楽曲とのイメージのズレ
古典作品と昔話との内容のズレ
記者会見の映像と、それを記事にした新聞報道のズレ など。
「なんか違うんだよなあ」、「ちょっと変だぞ」、このようなズレの意識を研ぎ澄まし、言葉で表現をしていくところから、言語感覚は磨かれていく。

2013/02/02

授業プラン 虚構新聞から学ぶレトリック

「虚構新聞」は実によくできたサイトだ。

毎回新鮮な話題を材に取り、いかにもありそうなパロディー記事を載せている。
まだ読んだことがない人はぜひ読んでみて欲しい。→サイトはこちら

虚構新聞には次のような特徴がある。
・現実のニュースを題にとり、そこからありそうだけどありえないことを記事にしている。
・新聞(報道文)の文体で最もらしく書いている。
・相手を納得させる「仕掛け」が随所に見られる。
 例)インタビュー記事や学者などの有識者のコメントが掲載される
   具体的なデータが添えられる。
   逆三角形の文体
   客観的(を装う文体)
   人を笑わせるのだけども、文章中では決して書き手が笑っていない。
   タイトル・写真の工夫
・随所に遊びが見られる。

作文の授業とパロディーは、実は相性がよい。
なぜなら、学校のような閉じた空間であれば、実生活と関わりのある実用的な文章を書く機会はそう多くないからだ。
ならば、それを逆手にとって虚構の世界で文章修行をさせればよい。

たとえば、「虚構新聞」のスタイルを参考に次のような虚構作文はどうだろうか?

虚構修学旅行ニュース
・修学旅行に行く直前に、修学旅行でいかにも起きそうなことをテーマに虚構ニュース書く。
・虚構新聞(報道文)の形式で、もっともらしく、あたかも本当にあったかのようにリアリティーを持たせて書く。
・虚構新聞の文章を事前に提示し、そのレトリック(表現の特徴)を分析させるとよいだろう。
 教師が虚構新聞の例文を提示するときは、そのような表現の特徴が際立ったものを提示すると良い。もちろん、現実の新聞記事と比較させてもよいだろう。(おそらくそれほど違いはないはずだ)
(修学旅行でも、学校行事でも何でも良い)

この虚構作文のねらいは、「文章に信憑性を持たせること」である。
この意図を押さえておかないと、ただでたらめの文章をふざけて書いて終わりになってしまう。
作文を書かせる前に、事前につぎのようなチェック項目を提示しておくと良いだろう。
・読み手が不快にならず、楽しませるような題材を取り上げているか?
・本当にあったことと思わせるような表現の工夫をしているか?
・「虚構新聞」の表現から、その言葉の工夫を3点以上指摘することができるか?
・マスコミの情報を読むときに、どんなことを注意したらよいか考えることができたか?

どのような表現をすれば、相手に真実だと思い込ませることができるか、というところがポイントである。
虚構の題材を扱う分、より文章表現の方法意識を研ぎ澄ますことになるだろう。
そして、メディアリテラシーの観点からも、今度は読み手の立場に立ったときでも、うさんくさい、もっともらしい言い回しに注意して読む態度を養うことができるかもしれない。
※欲を言えば「虚構新聞」のパロディーの隠れたメッセージ(風刺・批評精神)まで考えさせたいけど、中学生には難しいかな?

「不親切な文章」の傾向


相手の理解はお構いなしに、とうとうと説明する「不親切な文章」
自分の経験をよーくふりかえって、この「不親切な文章」の傾向を考えてみた。
国語教師として、それらの文章を矯正していくための学習活動を展開していかなければならないのだが、そのうち、傾向に応じた対策を考えていきたい。

「不親切な文章」の定義
相手が何がわからないか、何を知りたいと思っているかを無視した、独りよがりの文章のこと。

その原因
A、高踏的・独善的・閉鎖的な、性格や態度
・そもそも自分のことのみに関心があり、他者のことを考えていない。
・相手の理解よりも自己表現欲求が勝る
・難しい言葉や表現を使うほうが文章として優れているという発想がある。
・難しい言葉を使って自分の存在を誇示したい
・井の中の蛙で、内部の人だけが理解できる用語を使うことで、「内輪意識」を確認しあいたい。

B、他者に対する想像力の欠如
・読み手が特定できない
・読み手がどんな人間かについての情報が不足している
・読み手の理解度や興味・関心が分からない
・読み手の反応が読めない
・他者が自分と違う理解度やバックグラウンド、認知の傾向を持っているということを理解できない
・他者に対して分かってもらうまで手間をかけて説明しようと思っていない
・理解してもらうことは簡単だという思い込みがある

C、説明する事柄に対する無知
・知ったかぶり
・よく理解していないので、かみ砕いて説明できない。
・複雑なことを分節化して説明できない。
・やさしい語彙や表現に言い換えられない
・思考や発想の柔軟性がなく、さまざまな角度から説明をできない
・わかりやすく説明するための言語赤いている文章は技術が不足している

このような「不親切な文章」を書く書き手は、いわゆる高偏差値の人であろうと、そうでなかろうとあまり関係はない。
ある面では語彙力があり、教養もあり、書くことを苦にもせず、「学力」が高そうな人であっても、「不親切な文章」を書いてしまう人は現実には、いる。
それでは、「不親切な文章」を生みにくい学習活動とはどのようなものだろうか?

「不親切な文章」を生みにくい学習活動の視点
自分に、伝えたいものが明確にあり、それをわかりやすく伝える方法を持っていて、なおかつ、相手に伝わったかどうかの反応をフィードバックできる。こういう学習活動であれば、「不親切な文章」は生まれにくい。
反対に、伝えたいものがあいまいで、わかりやすく伝える方法がなく、相手の反応も分からないときには、不親切な文章を書いても検証できない。

だから、「不親切な文章」を減らすための学習内容としては、
1、伝えたい目的や事柄を明確にする、
2、わかりやすく伝えるための言語技術を獲得する、
3,読み手からのフィードバックを受ける。そしてそれに対応する、ということになるのか。
(根底には、人間はそう簡単には分かりあえないから、相手に対し、意を尽くして分かってもらう姿勢を持つことが大切、というモラル面の指導が必要かもしれない)

自戒を込めて発言するが、学校教育ではコミュニケーションを意識した作文教育はなかなか難しい。
自分が書いている文章は誰に向け、どんなメッセージを与えているか
読み手にどんな印象を与えているか
読んだ結果相手がどうなるか
そういう視点での書く学習は、学校のような「閉じた社会」の中では制度的に難しいのだ。
文章の読み手と言っても、とっても物わかりのいい国語教師か、ほとんど価値観や理解のバックグランドが共通しているクラスメイトか、どちらかというのがほとんどだろう。
教室を飛び出して、それ以外の相手に何かを伝えるという学習は現実的には難しい。
そういう限界がある。
だから、独りよがりの不親切な文章が生まれやすい土壌にもなっていると思う。

2013/02/01

坂口安吾だったらなんて言うのだろう?

中学、高校時代は小説を書くまねごとをしてみたりして、文学少年くずれだったわけです。
高校時代になると、当然のごとく、芥川や太宰の洗礼を受け、そのなかで坂口安吾の『堕落論』とか『日本文化私感』に出会い、それで安吾に一気に傾倒するようになりました。

大学時代に卒論で選んだ作家も、坂口安吾。
卒論は坂口安吾の仏教的ニヒリズムと、ニーチェのニヒリズムを比較したものです。
いま読み返せば、きっと読書感想文のようなお恥ずかしい論文だったことでしょう。
しかし、大学時代に卒論で坂口安吾を選んだことは私の原点の一つになっています。

坂口安吾は小説もそれなりに面白いが、なんと言っても評論が断トツに面白いです。
実存まで降りていって発言する安吾の立ち位置は、若造の僕でも腹の底から納得できるものでした。
坂口安吾の文体はざっぱりとしていて、あんな竹を割ったような物の言い方をしてみたいと強くあこがれたものです。
いや、もちろん、いまでも安吾は大好きです。

偏愛するものほど「ベスト」を選ぶのはナンセンスなんですけど、あえてご紹介するとしたら……
『堕落論』 『続堕落論』
『日本文化私感』
『淪落について』
『恋愛論』
『青春論』
『私は誰?』
『文学のふるさと』『FARCE に就て』
『風と光と二十の私と』
『私は海を抱きしめていたい』
『白痴』
『桜の森の満開の下』
あー、書ききれない。
どれも短い作品なので、ぜひ青空文庫(←クリック!)でお読みください。

世間では「安吾ブーム」というのは周期的に訪れるようで、忘れられた頃にまた復活し、というものらしいです。
時代を超越したまなざしがあるからこそ、いつの時代に読んでも古びない、刺激的な魅力を持っているのだと思います。
今の時代は安吾から見て、どうなんだろうか?
安吾だったらなんて言うのだろう?
そんなことを、たまに想像しています。

書く力をつけるための授業のあり方


前回まとめた、書くこと授業の展望と課題を見据えて、自分なりの書くことの授業の理想を考えてみたい。

書く力をつけるための授業のあり方
1、表現することの喜びを味わわせる
~自分にしか書けないことを、誰が読んでもわかるように~
書く力の根底にあるのは、表現する意欲である。どんなに教師が教え込んでも、根底に表現意欲がない場合、また、表現意欲があってもそれを認め合う環境がないと、十分に書く力が伸びない。
のびのびと書く活動を設定し、表現することの意欲を高めることが必要だ。何を言っても、どんなことを書いても馬鹿にされない関係性、正直に書いても否定されないという気持ちを根底に持たせることが必要である。
具体的な手立てとして、
・表現意欲を引き出す魅力的な課題
・仲間の表現を読み合い、楽しむ関係性
・書き慣れる、書くことの抵抗感を減らす工夫
などが必要となるだろう。

2、型を習得し、型を自在に使いこなせるようにする。
それぞれのジャンルには特有の文章構成の型なり、文体〈スタイル)は内包されている。
とくに、論理的な意見文などでは文章構成の型がある程度決まっている。それらの型を確実に習得し、使いこなせるような指導をすることが書く力をつけることができる。
トレーニングとしての書く学習、同じジャンルや形式を、題材を換えて繰り返して練習することが必要だ。
スポーツの世界の「素振り」のように、基本的な技術が凝縮されている「型」なり、モデルを教師が与え、それを参照させたり模倣させたりすることで型を習得させていく。
文章表現の世界にも「守・破・離」のプロセスが必要である。

3、文学的文章と、非文学的文章、実生活に関連する文章と、実生活には直接関連しない文章を書く力をともに高める
実用的な文章を書くトレーニングだけだと、学習が単調になり、表現の豊かさや広がりが生まれにくい。
ときには、非実用的な架空の課題、虚構を書かせることで、表現世界を広げることも重要である。
トレーニング「練習」としての作文課題と、既習内容を活用した「試合」としての書く活動の両方が必要である。

4、自己を見つめ、思考を鍛える書く学習
書くことは自己を見つめることでもある。また、書くことで自分の考えを整理することができる。
書く型を身につけることで、思考の方法を学ぶことができる。
具体的な相手や目的を想定した、実用的な文章も必要ではあるが、ときには自己を見つめたり、思考を深めるような書く学習を行うことも必要であろう。
自己を見つめたり、思考を鍛えたりすることを目的とした書く学習においては、「記述」段階よりも、「発想」や「構成」段階の学習が重要になってくる。書かれたものを、「指導」と称して教師が添削するのが書くことの指導ではない。
書きあげるまでのプロセスに寄り添って、教師が発想のスキルや構成段階の支援をする「インベンジョン指導」(田中宏幸、1998)が重要になる。

5、読み手の立場に立って書く、書き手の立場に立って読む
書く学習は膨大な読む経験に支えられている。
文章の読解をするときに、常に、自分の文章表現に活かせられるように意識付けをさせていきたい。
また、文章を書くときには、常に読み手としての第三の目を持って、文章を読み返すことが必要である。
読むことと書くことの学習は常に同一平面上にある。
他の生徒の作文を読み合う「交流」の学習は、自分の表現に生かすことができる絶好の学習の機会である。

「書くこと」指導の展望と課題


文科省から出されている、学習指導要領や指導事例集から「書くこと」の記述を取り上げ、「書くこと」指導が今後どのように変わっていくかを予測してみたい。

日本の「書くこと」指導の展望と課題

結論
1 具体的な実生活での場面を想定した書くことの学習が行われるようになるだろう。
2 文種(ジャンル)を意識した学習が行われているようになるだろう。
3 目的や相手を意識した「書くこと」が中心となるだろう。
4 読むことと関連した「書くこと」の学習が増えてくるだろう。(編集など)
5 書くことの学習過程に「交流」する活動が増えてくるだろう。

1については、「実生活に生きてはたらく言葉の力」というスローガンの通り、具体的な生活場面での書く学習がますます増えてくるものと考えられる。
メリットとしては、実社会で役に立つ、書く目的や内容をイメージしやすいといった点が上げられる。
デメリットとしては、中学生にとっての実生活といってもとても狭いので、書く題材が限られてしまう点が上げられる。どこの実践例や教科書を見ても、学校紹介、部活紹介、職場体験など似たり寄ったりの題材で、、中学生にとっての生活の中での題材のため、リアリティーはあるかもしれないが、新しい・ユニークな「作文ネタ」が生まれる余地はあまり多くないように思われる。
書くことの学習では、今行っている学習が、「実生活とどのような関わりがあるのか」「社会でどのように生かされるのか」が問われることになるだろう。

2、言語活動例では。記録・意見などのジャンルを明確に示している。
従来は「書くこと」=「作文」というあいまいなジャンル意識で指導をしてきた傾向がある。
明確なジャンル意識を持ち、ジャンルの特質に応じた、目的や方法、言語技術をしっかりと指導した学習活動が今まで以上に求められることになるだろう。
書くことの学習では「今書こうとしているジャンルは何か、その特徴をどのように捉えているか」が問われることになる。

3、1とも関連するが、「相手や目的に応じた」表現が今後ますます重要視されてくる。
デメリットとしては、小論文を書くトレーニングや、描写・説明スキルを鍛える学習など、具体的な相手はあまり想定されていないけれど、純粋に文章表現力を鍛えるような学習は否定される傾向が生じる可能性がある。
また、自己を省察する作文や、自由にのびのびと表現力を磨くような、従来の生活綴り方が大切にしてきた「作文教育」や、筑摩書房版の高等学校国語科教科書『表現』(2001)が伸ばそうとした自己を解放する表現学習としての書くことの指導は、今後はますます否定される傾向に進むだろう。
書くことの学習では、「何のために書いているのか、誰に向けて書かれているのか」を指導者も,学習者も想定することが必要になるだろう。

4、PISA調査問題のような読解→表現する書くことの授業や、書いてあることを編集する学習が「書くこと」の指導で注目されるようになっている。
読み取ったことから自分の考えを深め、記述することや、データや文章を引用して説得力のある文章を書く学習が、上記1~3と関連しつつ増えていくことが予想される。
「編集」の学習はまだ未知の学習内容であり,十分に実践が出てきていない。
問題点として、読むことと書くことを関連した学習事項であるために、現在の領域ごと分けられた学習指導要領の指導事項では十分に対応できていない点が上げられる。例えば、読むことと書くことの両方を重視した学習活動であるが、指導者はどちらかに重点を置いて指導することを意識しなければいけない制約がある。(言語活動例が領域ごとにはめ込まれているため、例えば物語の続きを書く学習は、読むことの指導が多いにもかかわらず、「創作」と位置づけると自動的に「書くこと」の学習になってしまう)
書くことの学習では「アウトプットする前に(書く前)に何をインプットした(読んだ)か、読んだ情報をどのように加工しているのか」という視点まで視野を広げて単元を構想することが増えるだろう。

5、「書くこと」の指導事項に「交流」が新設された。従来の指導事項の中の「評価」の項目が、相互批正、相互批評の要素を反映して「交流」になったものと考えられる。
「交流」の学習活動についてはまだ十分に実践が開発されているとは言い難い。
読み合って良いところを指摘する、回し読みして感想を書く、などの学習はこれまでも多く行われてきたが、「書く力に結びつく交流のあり方」についてさらに研究を進める必要があるだろう。記述後の交流だけでなく、発想段階での交流、構想段階での、記述段階での、推敲段階での、などなど、書く活動のプロセスに応じた交流のあり方をさらに研究を進める必要がある。
書くことの学習では「交流が学習過程の中でどのように生かされているか、情報交換や形だけの交流ではなく、お互いのコミュニケーションを通してプラスとなる交流、どのような目的や成果のある交流であったか」という視点で交流が評価されることになるだろう。

参考にした、文科省の学習指導要領、指導事例集などの「書くこと」の記述
平成20年版 中学校学習指導要領「書くこと」領域の言語活動例から
中1
ア 関心のある芸術的な作品などについて, 鑑賞したことを文章に書くこと。
イ 図表などを用いた説明や記録の文章を書くこと。
ウ 行事等の案内や報告をする文章を書くこと。

中2
ア 表現の仕方を工夫して,詩歌をつくったり物語などを書いたりすること。
イ 多様な考えができる事柄について, 立場を決めて意見を述べる文章を書くこと。
ウ 社会生活に必要な手紙を書くこと。

中3
ア 関心のある事柄について批評する文章を書くこと。
イ 目的に応じて様々な文章などを集め,工夫して編集すること。

ちなみに、小学校の「書くこと」の言語活動例は次の通り
小1・2年
ア 想像したことなどを文章に書くこと。
イ 経験したことを報告する文章や観察したことを記録する文章などを書くこと。
ウ 身近な事物を簡単に説明する文章などを書くこと。
エ 紹介したいことをメモにまとめたり,文章に書いたりすること。
オ 伝えたいことを簡単な手紙に書くこと。

小3・4年
ア 身近なこと,想像したことなどを基に,詩をつくったり,物語を書いたりすること。
イ 疑問に思ったことを調べて,報告する文章を書いたり,学級新聞などに表したりすること。
ウ 収集した資料を効果的に使い,説明する文章などを書くこと。
エ 目的に合わせて依頼状,案内状,礼状などの手紙を書くこと。

小5・6年
ア 経験したこと,想像したことなどを基に,詩や短歌,俳句をつくったり,物語や随筆などを書いたりすること。
イ 自分の課題について調べ,意見を記述した文章や活動を報告した文章などを書いたり編集したりすること。
ウ 事物のよさを多くの人に伝えるための文章を書くこと。

言語活動例の記述をジャンルごとに整理してみる。
小学校
文学的文章の創作系列
想像したことを書く→詩・物語→短歌・俳句・随筆
説明系列
報告・観察・記録・新聞・意見・編集・説明・紹介
手紙系列
手紙→依頼状・案内状・礼状

中学校
文学的文章の創作系列
鑑賞・詩歌・物語・批評
説明系列
説明・記録・意見・編集
実用的文章系列
案内・報告・手紙

「読解力向上のための指導事例集」平成18年
中1
課題に即応した読む能力の育成
→対象と目的を明確にした「お薦め本パンフレット」を作る
中1
多様なテキストに対応した読む能力の育成
→複数のアンケートの結果をグラフで表し、レポートを書く。.
中2
テキストを利用して自分の考えを表現する能力の育成
→新聞に自分の意見を投稿する
中3
日常的・実用的な言語活動に生かす能力の育成
→郷土の詩人「朔太郎の世界」をパンフレットで紹介する

全国学力・学習状況調査の結果を踏まえた授業アイディア例(平成23年)
◎相手に応じた適切な表現で案内文を書くことができるようにする。
◎作成した資料を目的や相手に応じて再構成し,その理由を説明することができるようにする。
◎新聞記事を読んで,着目した箇所やその理由を明確にして,感想を具体的に書くことができるようにする。

「言語活動の充実に関する指導事例集」より(平成23年)
1年
行事等の案内や報告をする文章を書く事例
学校からの「お知らせ」を書き換えよう~伝えたい事柄について,自分の気持ちを根拠を明確にして書く~
2年
社会生活に必要な手紙を書く事例
心に届けたい言葉を添えて年賀状を書く~心情が伝わるように工夫して書く~
3年
関心のある事柄について批評する文章を書く事例
高等学校のパンフレットを批評する文章を書こう~資料を引用して書く~
3年
論説や報道などの情報を比較して読み,書く事例
「部活動新聞」を作ろう~目的に応じて文章の形態を選択して書く~