2014/08/08

リフレクションの装置としての「教養」

教養について改めて考えたい。
教養とは何か?
お茶をたしなんだり、美術館に行ったりするセレブな生活が「教養」なのか?
教養の本質とは何か??

大学時代、ひたすらたたき込まれたのが「教養」だったとあらためて感じている。
ここでの教養は、もちろん茶道や華道ではない。
教養は、ドイツ語では「ビルドゥングス」というらしい。英語の「ビルディング」のように「形成する」という意味合いがある。「教養=ビルドゥングス=自己形成」だ。
教養とは、煎じ詰めれば自己を形成するための土台であり、リソースである。
人間の存在をビルのような建物だとして、その柱であり、土台に当たるものが教養。
だから、それがある人にとっては、スポーツだったり、文学だったり、音楽だったりと何でもいいんだけれども、ようは、自己形成に資するという視点が決定的に重要だ。
教養は、人生を貫く価値観を形成するものである。だから普段は表には出ない。しかし、その人の意識の底では、ものの見方や考え方、判断をする際の「よすが」となって機能する。
ものの見方や考え方は、社会で生きていく上では他者とのやりとりの中で洗練されていくものである(おそらく)から、その土台となる教養は、多くの他者の間で価値あるものとして存在しているもの、歴史的に淘汰され、継承されてきたものであるほうが、圧倒的に力がある。
だから、ぽっと出の、すぐに「時代遅れ」となってしまうようなテキストではなく、長い時間をかけてウイスキーのように蒸留された、時間や場所を越えた普遍性のあるテキスト「古典」であるものがよい。

大学時代、斎藤孝先生からたたき込まれたのはまさにこの「教養」であった。(し、ここに書いてあることもほぼ100パーセント、恩師の考えの受け売りだ)
斎藤先生は「ビルドゥングス研究会」という読書会を隔週で開いていた。(このほかにも、「斎藤ゼミ」も隔週で開かれていて、そこでは教育、思想関係の本(ルソーとか新書とか)を読む。つまり、毎週ひたすら本を読み、そしてひたすらディスカッションをする。そして夜は終電まで酒を飲んで語り合う……どんだけ体力があるんだと思うほどエネルギッシュだった。(斎藤先生も、学生たちも)
もちろんこの「ビルドゥングス」とは「教養」という意味合いで、また、狭義として「ビルドゥングスロマン(教養・自己形成小説)」を読んでディスカッションし合う読書会だった。
「ビルドゥングスロマン」とは、主人公が成長していく過程を描いた小説で、ドイツものには多いらしい。読書会では、ドイツものに限らず、次のような作品を立て続けに読んでいった。

※記憶をたどると次の作品だ。
トーマス・マン『魔の山』『トニオ・クレーゲル』
ヘッセ『デミアン』『車輪の下』
ニーチェ『この人を見よ』『ツァラトゥストラ』
ドストエフスキー『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』
谷崎潤一郎『痴人の愛』
フローヴェル『ボヴァリー夫人』
夏目漱石『坊っちゃん』
坂口安吾『堕落論』『風と光と二十の私と』
ゲーテ『エッカーマンとの対話』『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』
サリンジャー『ライ麦畑で捕まえて』『フラニートゾーイー』
などなど。

これらの本を読み進めながら、主人公が自己形成したきっかけとは? 自己形成の要素とは?というのを、わいわいと出し合っていった。(たとえば、要素として「主人公が年上の婦人とつきあう」とか!?)
斎藤先生のものすごいところは、こういう古典的な文学作品をテキストとして論じながらも、さまざまな領域へとつぎつぎに話が広がっていくところだった。(これはじかに話を聞いた人なら誰でも感じることだろう)
・先生の好きなプロレスとか、スポーツにつなげたり
・マンガとか、テレビタレントとか
・武道、芸道へとつなげたり
・マルクスとかメルロ・ポンティーのような難解な哲学とか
・下ネタとか……

斎藤先生の縦横無尽な脱線話を聞きながら「古典の生かし方」のようなものを私は学んだんだと思う。
「古典」をマニアックに理解したり研究したりするのではなく、領域をまたぎ超して読む、現代に置き換えて読む、自分の生活や関心との繋がりを見いだしながら読む。そういう読み方を身をもって示していただいたと思う。

「教養」とは、「古典」とは、それだけで、決して人生を要領よく渡り歩く処世術のようなハウツーにはならないだろう。日々の生活とは「距離がありすぎる」からだ。
しかしこの「距離がある」ということそのものに、教養なり古典の価値があるのだろうと思う。
今をいきる自分自身との生活を、距離を置いて、別の視点で振り返るための「装置」として、教養が、古典作品が機能している。教養はリフレクションの「装置」なのだ。
今目の前で起きている出来事は、「デミアン」のあの状況と似ているな、とか、この事件は、まるで「ファウスト」のようなものだ。とか、ニーチェだったらこのニュースについてなんて言うだろうなあ、とか。
こんなストレートな言い方で古典を思い出すものでさえないかもしれない。もっと自分の底で、価値観に影響を与え続け、ものを見るときの「めがね」の一つとなっているかもしれない。

先日、ある人とお話をして非常に感銘を受けたエピソードがあった。
教育哲学の研究者。現在は退職をされて悠々自適の生活を送っている。
その先生が、いまは自宅に、地域の先生方を集めて、教育関係の古典的な作品を読む読書会を開いているのだという。
で、それに参加しているある先生が、普段はそれこそ日々の仕事や生活に追われて、じっくりと本を読むような生活を送っていなかったんだという。
それが、この会で、教育哲学に関する本を読んで、目を開かされたのだという。
「今まで自分のしてきたことが、この本を読んで、何だったのかが分かってきた」というのだ。
きっとその先生の中で、教育哲学の本が、日々の仕事をふり返り、体験を意味づけるリフレクションの「装置」として機能したのだろう。

柱も土台もないリフレクションは、ひょっとしたら「下手の考え休むに似たり」になりかねない。柱や土台を意識するからこそリフレクションが回り出すということがある。
日々の生活とはちょっと縁遠いようにみえる古典や哲学は、まさにそれゆえに、日々の生活を掘り下げ、自分の柱や土台がどこにあるのかを確認する機能を持つ。
古典を、自分の生活に引きつけ、領域をまたぎ超して洞察し、リフレクションの装置として機能させることが、真に「古典を読んだ」「教養としての古典」となるのだろう。

教師教育をめぐって様々な研究や議論がなされているが、教師の自己形成(教養)という視点は外すことのできない根幹だと感じている。
目先の状況に要領よく対応する知識や技術(もちろん重要には違いないども)は、それだけでは、リフレクションの装置としてどれくらいの有効性があるのだろう。

私は大学時代、教育技術や授業技術というものをほとんど学んではこなかった。
大学での学習が、教師という仕事に、人生に、具体的にどれくらい役に立ったの?といわれると、それに答えることは難しい。確かに古典や文学を読むことは直接は役には立たなかったかもしれない。しかし、自分の価値観、教育観を磨くために、古典をたっぷりと読み、「教養(ビルドゥングス)」を身につけた4年間はかけがえのない価値を持つものであったと感じている。