2015/01/24

「アクティブラーニング」の鍵は技能教科にあり

「アクティブラーニング」はそもそも大学教育の領域で進められた
私が学生として久しぶりに大学に戻って驚いたのは、大学の授業が最近かなり変わりつつあるということだ。聞くところによれば、大学では座学中心の、教授が一方的に話す講義では学生があまり知識を得ることができなくなってきているという現状から、話し合いやワークショップなどの「アクティブラーニング」などの取り組みが導入されてきているという。大学で授業研究のようなこともしているという。そういう流れが着実に進んでいるのだ。
その「アクティブラーニング」導入の次のターゲットとなったのが高等学校だ。大学が変わりつつあるのに、高校の授業が一向に講義中心で変わらない。そこで、高校の授業を変えていくために、文科省レベルで「アクティブラーニング」を増やしていこうと動き始めている。今後高校の授業が大きく変わっていくはずである。
一方、小中学校現場で、次の学習指導要領で「アクティブラーニング」を取り入れよ、と文科省から号令をかけられてもいまいちぴんとこないのは、こういう問題意識をあまり共有できない(というか、すでに「言語活動の充実」などで、体験的な学習が当たり前のように取り入れられてきている)からかもしれない。

「アクティブラーニング」と「学力」
大学、高校の教育がなぜ講義中心なのか、これは、逆説的に言えば、講義中心で獲得できる「学力」が「学力」であるとしてアカデミックな世界で認定してきたからということも出来る。
何が言いたいかというと、「学力」を普通我々がイメージするのは、きっと「漢字が書ける」とか「計算が出来る」「歴史の知識がある」というような座学で得られる「五教科」の「学力」である。大学であれば、それらを活用した「論文を書く力」ということになろうか。「学力検査」「学力テスト」といった場合、国語や数学の力を測定するのが通常だ。
しかし、言うまでも無く、「学力」には、音楽の学力、美術の学力、体育の学力、技術・家庭の学力がある。その「技能教科」の「学力」にはほとんど目を向けずに一心不乱に「学力」を追い求めてきたのが、これまでの「学力」観であり、講義中心の学習観だったのだ。
この学力観を問い直す切り口が「アクティブラーニング」であるととらえるべきだろう。
さらに言えば、学力観として、このような教科固有の学力を超えた、様々な教科で活用することの出来る教科横断的な「学力」の存在に光が当てられつつある。たとえば、課題解決力や思考力、表現力、コミュニケーション力、メタ認知などだ。
教科のタコ壺から脱し、教科横断的に学力および授業方法を模索すべき機が来ている。

技能教科と「アクティブラーニング」
講義中心の音楽の授業。座学の体育というのはちょっと想像できない。(あるとしたらかなりまずい授業だろう)技能教科はすべからく、「アクティブラーニング」だ。
だから、講義中心に教えてきた五教科の教員が「アクティブラーニング」について学ぼうとするなら、技能教科が日常的に行っている授業行為に、子どもの学ぶ姿に、無限のヒントが得られることに気づくだろう。
日常生活においては、技能教科だろうと五教科だろうとそれぞれの学習で得られた「学力」を統合させて思考・判断して活用している。日常生活の中では、得られた「学力」が五教科だろうと技能教科だろうと、そういう区分は全く意味が無い。だからこそ、いまこそ、いままで「学力」としてあまり光が当たってこなかった技能教科から学べることがいかに多いかを実感すべきだ。そして教師は五教科も、技能教科も、教科横断的に学びあうことが必要だ。