2015/01/12

私の考える、理想の研究紀要〜ぬくもり、多声性、そして開放性〜

研究が盛んな地域とか学校だと、その研究成果を研究紀要として冊子として印刷、配布するところがあるだろう。年に一回ペースというのが多いはずだ。
しかし、その研究紀要は色々と問題のあることも多い。
(ということは、まだまだ改善の余地があると言うことだ! ラッキー!)
思いつくままに問題を列挙してみる。
1、どんな立派な研究をしていても、どの学校がどんな研究をしているのかがほとんどの人に知られていない。そのために埋もれてしまう。
2、研究の土台となる用語に統一性がないので、どこでも似たような校内研究を、言葉だけ変えて行っている。
3、研究紀要が思い出作りの「文集」のように内輪受けするものになっていて、外部の人が見ても学ぶべきものになっていない。
4、研究紀要が一部の人(研究主任など)の力業で作られ、形だけの「報告書」になっている。

改善の方策をいくつか考えてみる。
1、多くの人に目にとまるように、紙の研究紀要を原則廃止し、電子化で誰もがどこでも読めるようにする。
すでに、学会論文などはCINNI(サイニー)やGooglescalar(グーグルスカラー)などで簡単に読める世の中になっている。
明治図書などの教育系の雑誌も記事ごとに電子配信をする「教育記事データベース」を開設するようになって、格段に利便性が増した。(有料)
民間教育団体などでも、教育技術のノウハウをネット上で公開、共有できるwebサイトがいくつもある。(TOSSなどの投稿サイトやEDUPEDIA教職ネットマガジンなどのキュレーションサイトなど)
国や地方公共団体でも、WED上で研究紀要や指導案などを共有できるプラットフォームを整備しつつある。(が、CINNIなどと比較していまいち検索性が良くない?)
私は、個人的には、教育研究用の特別なプラットフォームを新たに作って囲い込むよりは、CINNIやGoogleScalarのような汎用性の高いプラットホームで誰もが手軽に検索できるような形にするのが望ましいと思っている。(そんな議論もあと10年もしたら電子化が当たり前になって無くなることだろう)

繰り返すが、読み手の立場に立てば、一部の人の手にしか渡らない紙の冊子はいらない。
ネットで、CINNIやGooglescalarなどで分野ごとに検索して読みたいときに読める方がずっと役に立つ。
文科省だって、学習指導要領など、ほとんどの資料をネット配信している。そして、立派な冊子よりも、電子データの方が活用されているのは自明のことなのだ。
紙の方が一覧性が増して読みやすいというのであれば、その人が自腹でプリントアウトして読めば良い。または、オンデマンド出版などの方策を活用すれば良い。コストも格段に安くなる。日本全国の学校でいくらコストが浮くのだろうか??
一部のお友達だけでなく、地域の保護者、他の学校の教員、社会人、他の領域の研究者に対しても校内研究が開かれるというメリットもある。

ただし、電子化に伴うデメリット?もある。
それはメディアによって、情報発信の質が変わってくる可能性があるからだ。
電子化のデメリットは、情報が細切れに伝わりやすくなるということだ。
音楽で言えば、レコードからCD,そしてiTunesなどの電子配信になったときどういう変化が起きたか?「マジカルミステリーツアー」のような「コンセプトアルバム」のような編集力がなくなり、単品の歌で勝負する時代になった。
映像で言えばYouTubeも同じ。短く、いかにインパクトを与えるかに焦点が向きやすい。電子化は、情報を細切れに、短く伝えるのに適した媒体だ。ノンリニア(非直線的)な傾向の強い媒体であるということだ。その反面、紙媒体は、一冊の本として、校内研究を大きなパッケージにして与えることが出来るというメリットがある。

2、1と関連して、研究の検索性を高めるために、用語の統一性やフォーマットのようなものを模索する必要があるだろう。(それが学術論文の形式なわけだ)
現状では用語については教育関係の法規や答申、学習指導要領が一番認知度が高いので、学習指導要領などの用語を極力使うとか、逆に、それ以外の新しい用語を使う場合は、従来の使い慣れている言葉と何がどのように違うのか、社会ではどのように使われている言葉なのかを精査し、安易に目新しい言葉に飛びつかないようにすべきだろう。
学校の教育研究で最も重要なのは、新しいことに取り組んだかどうかと言うことよりは、実践を通して子どもから何を学ぶかということなのだ。(授業では子どもが学ぶが、教師の研究では教師が子どもから学ぶのだ)
現場から、実践から、公共性、普遍性のある理論を立ち上げると言うことなのだ。それ抜きに言葉だけをいじくってもほとんど意味の無い研究となる。
(この辺は制度の問題と言うよりも、研究倫理とか知的誠実に関わる部分だ。本来は指導主事などが、そのような薄っぺらい校内研究では労多くして無意味だと言うことを、しっかりと見識を持って伝えていかなければいけないのだろう)

3、4と関連して、研究を一部の人のものにするのではなく、学校の教育活動全体を具現化するツールとして活用するという方策があるだろう。
具体的に言おう。
研究の成果を、様々な「声」で表現すると言うことだ。
・一部の研究主任などだけでなく、様々な教員の声を取り入れる。(その「声」は、ちょっとしたエピソードや失敗談などでも良い、いや、むしろそういうホンネの声の方がずっと貴重だし共感できる)
・様々な子どもの声を取り入れる。テストやアンケートなどの「数字」ではなく、作品や感想コメントや写真などを通して表現する。
・保護者の声を取り入れる。地域の人の声を取り入れる。他の学校の教員の声を取り入れる。大学の研究者の声を取り入れる。などなど、多様な層の声を取り入れる研究になっていけば、その研究は独りよがりなものではなくなってくるはずだし、「研究所」ではない、人々が行き交う学校ならではの「ぬくもり」を感じさせる研究となるはずだ。

学校に関わる多様な人々の声、そしてぬくもりというウエットな部分を大切にしつつ、かつ内輪受けしない研究。そして紀要。というのはどうだろうか。