2015/01/09

クリティカルな議論をする力は、クリティカルな聞き方を学ぶことから。

二年生の総合で、学年ディベート大会をすることになった。
早速、学年スタッフでディベートの論題について考えた。結果、以下の論題が候補に挙げられた。
全国の中学校は給食を義務化すべし。(アレルギーなどには配慮する)
全国の中学校は制服を義務化すべし。
全国の中学校は定期テストを廃止すべし。
全国の中学校は週6日にすべし。
全国の学校の入学試験を廃止し、全て抽選にすべし。
全国の学校を男女共学にすべし。
と、なかなか挑戦的な論題が揃った。

ところで、ディベートについてありそうな研究だけど、ディベートなどの討論を聞いている人は、話し手の何に説得力を感じるのだろうか?
『弁論術』などではそれをロゴス(論理)、パトス(熱意)、エトス(人柄)の三つに腑分けしているが、どこが一番強く聴衆に訴えかけるか?
中学生はどうか?大人とは違うか?
もし、論理は滅茶苦茶でも熱く語ったほうが聴衆に評価されるのだとしたら、そういう弁論術を意図的に選択するのは、戦略的には正しいということにはならないか?

何が言いたいかというと、論理的に話すスキルを学ぶことはもちろん大切だけど、それを評価する聴衆の「耳」が育っていないと、そのスキルは十分に伸びていかないのではないかということだ。
この「聴衆」は、もちろん中学生に限った話ではない。社会の大人たち、国民全体が、話し手の感情的な物言いに踊らされる現状であるならば、話し手は扇動的な物言いを選択したほうが有利と言うことになる。そして結局、こう言うのだ。「論理なんて必要ない。肝心なのはその人の熱意だ。」と。

それについてフェイスブックで投げかけたところ、早速いくつかの反応をいただいた。ディベート連盟に関わるIさん。
私たちの全国教室ディベート連盟では、あくまでも論理で勝敗を決めます。伝え方はコミュニケーション点としてカウントし、リーグ戦の勝敗の得票数が同じ場合、コミュニケーション点で勝敗を決めるようになっています。
と。競技ディベートの世界では、コミュニケーションと論理とを区別して評価しようとしている。このように聞き手の聞き方をコントロールすることも有効な方策だろう。
一方、社会ではロゴスもパトスもエトスも重視される現状がある。その現状の中で、話す力をどう指導していけばいいか、一つの視点を、ある中学国語教師Sさんは次のように語った。
泣き落としも戦略ですね^_−☆
冗談はともかく、説得力は論理だと誰もがいう。でも、熱意をもって訴える人の説得力は時に論理を凌駕する。しかし、論理的に熱く語れば通るかといえば、どんなにそれを極めてもあいつの言うことはなぁ…と思ったら人は説得されない。
論理は学んで鍛えられる。熱く語ることは、本当に実現したい思いがあれば今の君にもできる。しかし、信頼は一朝にはならんぞ。誠実な論理と誠実な熱意の積み重ねしかない。
と、話してますけどね、私は。
戦略的に熱意を用いるのも時には必要でしょうけどね^_−☆
まあ、でも戦略的にじゃ彼氏・彼女はゲットできんな〜って。
と。やはり、人柄や熱意は指導できにくいから、まずは学んで力を伸ばすことのできる「論理」を国語科の学習では重点的に鍛えるべしということなのだろう。

話し手を育てることと、聞き手を育てることは車輪の両輪のようにどちらも両立しないといけない。
すぐれた話し手、すぐれた書き手は、きっとすぐれた聞き手、読み手なはずだ。
クリティカルに聞けるからこそ、クリティカルに話すことができる。
クリティカルに話す人で、クリティカルに聞けないという人はおよそ想像できない。逆に、クリティカルに聞けても話せない人はたくさんいそう。
やはり、まず着手すべきは、よき聞き手、読み手を育てることなんだろうと感じる。
聞く力不在の話すこと指導では、いかにも心もとない。
では、クリティカルに聞くとはどういうことなのだろうか。どんな視点で聞けばいいのだろうか。それについて、高校でディベートを実践されているNさんは次のような視点を提示してくださった。

根拠がその通りだ、と思えば、説得力があると感じます。
「パトス(熱意)、エトス(人柄)」があっても、主張と根拠が乖離していれば、説得力を感じません。(普通はそうだと思うのですが…)
次にディベートでは、議論の大きいほうが勝ち、となります。
議論の大きさは「実際に起こるか否か」と「起きたとして、それがどのくらいの意義(インパクト)があるのか(どの程度良いのか、悪いのか)」の2つの要素の掛け算のような形で判断します。
「実際に起こるか否か」は、 「パトス(熱意)、エトス(人柄)」とは切り離して判断されるべきです。
そして、「起きたとして、それがどのくらいの意義(インパクト)があるのか(どの程度良いのか、悪いのか)」は、価値観が絡むので、「軽く考えないでください。なぜならば…」という形で、「パトス(熱意)、エトス(人柄)」がやや絡んで、(「起きたとして」の前提をクリアできていると)総合的な説得力に繋がる、とご理解頂ければと思います。
先日のディベートの経験がほとんどない大学生にディベートを教えてきたのですが、「起きるか否か」と「インパクト」とを切り分けて判断する、という《議論の聴き方のコツ》を、教わっていないがゆえに知らない、という人は結構多いと思っております。

なるほど!
1、主張と根拠の整合性、
2、議論の大きさ(「実際に起きるか否か」×「起きたとして、それがどのくらいの意義(インパクト)があるのか(どの程度良いのか、悪いのか)」
など。このようなクリアな視点を提示した上で、ディベートなどの討論で、聞いたり、話したりできれば、クリティカルな議論のやりとりが出来るようになるだろう。
ディベートのような論理のやりとりは、日本語の論理にはなじみにくいということもある。だからこそ、それを意識的に視点を提示したり、トレーニングする必要があるのだろう。Nさんから紹介していたいただいたこの本もとても参考になった。

この本では、英語のもつロジックと比較して「日本語の論理」の特異性を取り上げ、ロジックを学ぶことの重要性を論じている。国語教師(英語教師も)必読の一冊といって良いだろう。
まだ自分自身が、ディベートとか論理とかが自家薬籠中のものにはなっていないが、中学生でも理解できる形に、教える内容を精選、構造化して学習できるようにしていきたい。