2012/12/21

教育観の違いが、文体の違いとして現れる。


その先生の授業スタイルと、その先生が授業を語るときの文体(文字・音声)とは表裏一体である。

野口芳宏先生の授業は、あの硬質な文体と、そしてあの語り口から生まれている。
(硬派な文章と、講演とのギャップがまたおもしろい)
大村はま先生の、独特の、ピアノ線のように繊細で、それでいて筋が一本通った文章は、おそらく大村先生の教育観にマッチしたものなのだろう。もちろん、講演の際のあの峻烈な語り口はいまでも忘れられない。
(大村先生に影響を受けると、みな大村先生のような文体になってしまうのも不思議な現象)

法則化、仮説実験授業、そして『学び合い』や、学びの共同体はそれを語る文体を持っている。それぞれの教育思潮はそれぞれの文体を内在している。
教育観の違いが、文体の違いとして現れている。

大変申し訳ない(ような気がするが)
どんなにすばらしい実践や研究でも、語り口が「ちょっと自分には合わないな」という人のものは自然と避けてしまうことがある。
反対に、なんということもない実践のように感じられても、文体で引きつけられる実践というものが確かにある。文体が、その人の魅力を引き出すように感じるのだ。好みの問題といえばそれまでだけど。

私の好きな文体は、一見、それが個性的な文体であると感じさせないくらいに没個性な文体。
癖がなく、押しつけがましくもなく、自己陶酔もなく、卑下も、思い込みもなく、淡々と綴りながらも、確固とした個性がにじみ出るような文体だ。
実践家ではないが、神谷美恵子さんの文章はそのイメージに最も近い。
音楽のように文章が自然とてらいなく流れつつも、伝えるべき思いを、ひたひたと読み手に伝えていく。

新しい実践とは、それを語る新しい文体(スタイル)の開発でもある。
私は、どんな文体を持っているのだろうか。