2012/12/14

詩の創作について考えたこと まとめ

このところ、詩の創作について考える機会があったので、ほうぼうで書き散らかしたことをここにまとめておきたいと思う。

結局のところ、最大の問題意識は次の二点。
1、詩と他のジャンルの文章とを分かつものは何か?
2、詩というジャンルの特質をいかした創作の指導とはいかなるものか?
(詩の鑑賞の指導はそれなりになされている。しかしそれが創作と十分に連携しているのかという疑念がある)

現在の詩の創作の授業では、詩の特質を十分につかんでいるような指導がされていないような気がする。
生活作文の学習と大して違いがないような活動をしているように感じるのだ。
いっぽう、その対極としてレトリック(表現技法)を集中的に教えている実践もある。
が、レトリックを教えているだけで詩を学んだことと言えるのか、という気もしている。

はっきり言ってまとまりはありません。自分でも答えがなく,もやもやとしています。

以下、フェイスブックなどでの発言を転載しておきます。

現行の指導要領下では「詩の創作」という取り立て項目はそもそもなく、生活作文の前座あるいは延長という意味合いが強いと思います。指導事項も「経験したことや想像したことなどから書くことを決め」という「意味」から入っている。「ことば」から入るアプローチもあってよいのに。

卯月啓子実践は、詩をたくさん読んで,書かせて……とそれだけなので、指導者の意図が見えにくい活動ではないかなと。(表現が難しいですが)こういう詩を書かせたいとか、こういう表現に気づかせたいとか、こういう楽しみ方もあるよとか、そんな手立てを工夫したいと思うわけです。
詩の創作指導が、作文学習の準備のための活動だったり、生活文に毛の生えたようなものにすぎなかったら、それで詩を書くことを学んでいると言えるのだろうか。単にレトリックを使いこなすため「だけ」の詩の創作や、レトリックにしか目が行かないような詩の鑑賞指導だったら、それで詩を読んだことになるのだろうか。
美術における表現が、素材や技法についての習熟と切り離せないのと同じように、言語による表現にも素材(言語表現の様式)や技法(言語技術)についての理解や習熟は欠かすことができないもののはずである。しかし、素材や技法を教えたからといって……というのもまた真であると思う。
美術科の表現教育について学ぶことで、国語科の表現指導についてのヒントが得られるかもしれない。指導のゴールは?評価は?交流は?

詩を創作したあとの交流について:作者が詩の様々な表現を通して何を伝えたかったか(作者の意図)と、読者が詩の表現からどのようなことを感じたか、伝わってきたか(表現の効果・印象)のズレを交流させると良い。お互いに「良かったところ」とか「工夫がみられるとこと」を指摘しあうことも、もちろん重要だが,より本質的なのは、作者の意図が、表現を通して伝わっているかどうかではないか。そして作者が伝えたかったことと同じくらいに、伝えるつもりでなかったけど伝わってしまったものが多い作品のほうが、詩としては豊かな表現であったりするのが、詩の表現の面白いところでもある。そういう言葉の豊かさもあわせて実感させたい。
詩の本質は「言葉が一人歩きする」こと。作者の意図や思いを離れて、言葉だけで勝手に世界が作られてしまう。そんな体験をするためにはどんな活動をすればよいのだろうか。散文を書くようなプロセスとは全く異なる「言葉が一人歩きする」詩の創作学習とはどのようなものだろうか。
 詩は詞であり、詩(うた)でもある。詩はうたわれると限りなく音楽に近づいてくる。音楽にも、「田園交響曲」のような「標題音楽」と「ゴルドベルグ変奏曲」のような「絶対音楽」があるように、詩にも「標題性」が限りなく少ない「絶対表現」というものがある。そういう言葉の遊びという意義が詩の創作にはある。
谷川俊太郎らが編集した私家版教科書『にほんご』や、惜しくも改訂された平成二三年度板の教育出版1年国語教科書、『高校生のための文章読本』における「ことばとあそぶ」、筑摩書房版『国語表現』の試みは、「絶対表現」としての言葉の可能性に近づこうとしたアプローチとして注目できる。また、レトリックに注目した実践として、鳴島甫の『俳句による“レトリック”原点からの指導』での取り組みも示唆ぶかい。