2014/06/01

古文を読む力の核心は、隠されたコードを解読するということ。

今日は、大学で古典教育について研究している先生とお話する機会があった。
早速、今教えている「徒然草」について質問。
「『仁和寺にある法師』って、当時の人にとって、どの辺が面白かったんでしょう?」
「あの章段は『ただ一人、徒歩にて』っていうところで、当時の人はどっと笑ったと思うんだよね。昔の高僧は舟で移動していたから」
なるほど!
あえて「徒歩にて」と書いた、その意図を切り口に中学生に考えさせても良いかも。
古文はそのバックグラウンドがわかると、暗号を解読しているようで楽しい。

古典を原文で読み味わうことの楽しさは、暗号を読み解くことにも通じている。
そこでは断片的な言葉や情報をつなぎ合わせ、自分の生活体験や学んだ知識を活用し、直観的に仮説をたててテキストと往還し、解釈を構築していく。
「暗号の解読」というスタンスで、楽しみながら古文に食らいついていく学習活動を作ってみたい。「『仁和寺にある法師』を読み解く『五つの鍵』を指摘せよ!」のように。

さて古文という「暗号」を解読するには、何が一番大切なのだろうか?
古典文法? 古語の意味? 古文を読み味わう力の核心は何か???

今年の全国学力•学習状況調査では、落語「目黒のさんま」が出題された。そのなかで、落語のオチを読み取る問題が出ていた。きっと落語に馴染みのない中学生にとっては苦戦したことだと推測する。(とてもユニークな問題なので是非読んでみてほしい)
外国のコメディ番組をみても、笑いのツボが違うのか、どこが面白いのか全く理解できないことがある。
落語や狂言の笑いもこれに似ていて、解釈のコードとか、お約束をある程度共有しないと笑うに笑えない。
いくら言葉の意味を調べても、古典文法を理解しても、現代語訳を読んでもそのフレームがないと「何が言いたいかわからない」ということになる。
目黒のさんまも、仁和寺にある法師も、「世間知らずな殿様、高僧の勘違い」というフレームを知っていて、あらためて笑える話になるのではないか?
(ちょっと前に麻生元総理が「ホッケの煮付けがうまかった」とか言って失笑されたこともあったっけ……。この麻生さんのエピソードを知っている人は、「目黒のさんま」も理解できるかもしれない。)
このように、コード(解釈体系)には、時代や文化固有のコードもあるし、現代にも共通するコードもある。メディアやジャンルも内容を規定するコードの一つだろう。「狂言」と「能」とでは、そもそも表現しようとしている主題が異なる。それを理解していないと「能よりも狂言の方が笑える!」という見当違いの評価をすることになる。)
そういう隠されたコード、フレーム、パターンやお約束に気づけることが、ひょっとしたら古文を理解する力の中核にあるのではないか。