2014/06/26

「子ども同士の話し合い」で失われるものもある

今日TTで入った授業はおもしろかった。
1年説明文「ダイコンは大きな根」の授業。
一通り学んだ後、「書きやすさはわかりやすかったか」で点数をつけ、どこが分かりやすいか、理由を発表し合う学習を行った。
「知っていることから、知らないことへとつなげている」
「『ダイコン』とわざとカタカナで書いている」
「『……のように』みたいに、参考例を出して説明している」
これらの発言がどんどん飛び出し、それを板書に書き留めていく。
なかなか大人が気づかないようなおもしろい指摘もあったりして、とてもびっくりした。

授業後、授業者の先生に聞いてみた。
「1年生であれだけ読めるものなんですか、すごいですねえ」
「他のクラスでやったときは、グループで話し合わせたんだ。
グループで話し合わせると、どうしても、他と変わっているユニークな意見とか、伝わりにくい意見は、全体で発表する前の段階で消えていっちゃうんだよね。今回は直接発表させたから、子どものちょっと変わっている発言でも拾って、意見の形に整えることができるんだ」
これは、子ども同士の話し合い活動にはない、一斉授業の良さかもしれない。
教師の的確な「翻訳作業」によって、子どもの断片的な発想や、ユニークな言葉がつぶされずに「意見」の形として学習内容としてまとめられていく。教師に的確な「受け」の技術があれば、子どもたちだけの話し合いでは得られない共同での学び合いが可能になる。
こういう授業を、毎回目の当たりにできるのはとても幸せだ。