2013/02/12

「未完成の効用」あるいは永遠の「下書き」


最近「未完成の効用」に気づかされたことが2つあった。

1つめ、とある研究授業で東大附属の先生から、次のような助言をいただいた。
(ちなみに東大附属は長く「学びの共同体」の協同学習の実践を進めている)
「グループで話し合ったあとに、クラス全体で発表する場面があったでしょ。
あのときに、「班で話し合った結果」を発表させるのではなくて、「話している途中のところ、話そうとしているところ」を出させたら良かったのでは? 
もっと言えば、「グループの意見」ではなくで、グループで話し合いをした途中で『あなたはどう感じたか』を発表せればよかったのでは?」

話し合いの結果ではなくて、話し合いのプロセスを浮かび上がらせて共有させる。
クラスで共有したあとで、再びグループに返すなり、個に返して、思考を深めていく。
教師が「完成」を求めるのではなくて、つねに「未完成」を浮かび上がらる。
立ち止まらせて、そして再び出発させる。

2つめ、昨日の玉川学園の「学びの技」発表会のひとこまから。
この「学びの技」の学習では、中学3年生の生徒が「卒業論文」のように自分が設定したテーマに沿って調べ、そしてポスターセッションで発表をしていく。
今年度も数回、このような形でポスターセッションを行っているという。
驚いたのが、昨日の発表会では「未完成」のものをプレゼンさせていると言うことだ。

玉川大、堀田先生曰く
「今回の発表会では、あえて未完成のものをプレゼンさせています。
そして皆さんからいろいろと突っ込まれ、フィードバックをたくさんもらったうえで、テーマを立て直したり、データを付け加えたり、発表の仕方を工夫するなどの練り直しをしていくわけです。
こういうプロセスを何回も繰り返していきます。」

研究授業などでは、ほとんどの場合、子ども達が「完成作」を自信たっぷりに発表するという形式が多いのではないだろうか。
しかし、極論すれば勉強(研究)には終わりはないのである。終わりにしたいのは……教師だけ。
むしろ、学ぶことは常に「未完成」で、いつまでも「未完成」に飽きたらずに深めていというのが本来の姿なのではないかとさえ思う。

「完成」を求める余り、教師はこんなメッセージを子どもに伝えてはいないだろうか?
ここから先は大人になってから考えれば良い。
これ以上は必要ない。
これくらい調べれば大丈夫。
ここまでできれば十分。
よくできたね。もうこれくらいにしよう

あるいは、学校という閉じられた世界、教科書や学習指導要領という枠組み、学校図書館などの限られた情報リソースが、学習の限界を規定している面もあると思う。

単元末の「評価」とか「ふりかえり」も、
「とりあえずここで学習を打ち切って、『成果』を表現して」という、「完成」という形にこだわるものとして機能してはいないだろうか。

「完成」をさせることよりも「未完成」に立ち止まらせることの方が教育の本質に近いのではないか。