2013/02/09

人生が楽しくなる「心の置き竿」のすすめ


今の学校に勤めるようになったとき、大学の先生が開口一番
「先生は何がご専門なの?」と質問された。
……ご専門っていったって、国語の授業やって、部活やって、子どもをからかって…ぐらいの毎日だから、そんなこと考えたこともないよ……
と途方に暮れて、そのときは何も答えられなかった。
しかし、その日以来「私の専門って何だろう?」と自問する日々が続いた。

で、結局いまは「作文教育です」っていう「ご専門」を名乗ることは、できた。
名乗っては見たものの、作文教育に関する知識は不十分だし、まだまだ勉強しなければいけないことは山ほどあるけれども、「作文」とか「文章」という言葉を聞くと「びくっ」と反応するくらいの構えはできた。
そうなると面白いのは、いったん「専門」を意識し出すと、自然とそれに関する情報に関心を持つようになり、それについて、やや人よりも詳しくなってくるという効果を発揮することだ。「専門」という看板を掲げるだけでも意味があるらしい。

「専門」というと大げさだけど、「こだわり」とか「関心」と言い換えてもいいだろう。
他の人と違って、とくに「これ」にこだわりを持っているとか,関心を持っていると、ちょっと意識することで、それについての感度が向上するのである。さらにいうと、現在はSNSなどによって、同じ関心を持っている人と簡単につながることができる。加速度的にマニアックな情報を集めやすくなっているという利点もある。

そういう「こだわり」や「関心」を「心の置き竿」を置く、と私は呼ぶことにしている。(ちなみに「置き竿」は友人Kさんから教えてもらった言葉)
置き竿とは、釣りをするときに、一本の釣り棹に集中するのではなく、何本も釣り竿から糸を垂らしておき、「あたり」が来るまで放置しておくことをいう。
人生の楽しみの一つは、「心の置き竿」を置き、時折来る、その「あたり」を楽しむことにあるのではないか。

そういえば、私にはたくさんの趣味がある。(子どもの頃に熱中したものや、もう飽きてしまったものも含めると、結構多い方だと思う)
そういう一つ一つは「心の置き竿」のひとつだろう。それについての情報を見かけると、つい嬉しくなって、かまいたくなってしまう。

また、わりと好奇心が強い方なので、「なぜ……なんだ?」という疑問を心の片隅に、まさに放置していることが結構ある。(だいたいくだらない疑問が多い) そういう疑問はそのまま忘れて記憶から消えてしまったりするのも多いのだろうけど、あるときふとしたきっかけからその疑問が氷解すると、それはこの上ない喜びに変身する。見放していた置き竿に魚がかかったのと同じように。

それに、いろいろな置き竿が、じつは一本の大きな棹につながっていることに気づくこともある。ばらばらだった興味や関心が、根っこをたどると、同じ一つの幹につながっていたりするのを発見するのだ。それが意外なつながりだったりすると、あらためて自分の世界を深掘りし、再発見したような喜びを得られる。

置き竿のいいところは、ほっておくことと、たくさん置いておくことに意味があるということ。
すぐに答えが出なくても、焦らずに、悠長に、とりあえず置いておくのだ。置いておくところまでは、心にとどめておいて、あるきっかけや出会いが(あたりが)来たときに反応する(釣り用語で「アワセ」といいますね)構えを作っておけばいいのだ。 置き竿はいくつあってもよい。これは面白そう。とか、自分にとって必要だ、とか、こじつけでも何でもいいから、自分の関心に引きつけておくことで、その後の楽しみを期待することができる。突き詰めて考ても、考えなくても、「魚」はきっとこちらの努力には関係なくやってくるものなのだ、と思っておくくらいでちょうど良い。