2014/05/15

本当の「デジタルデバイド」とは、教師の中にある。

ICTなどの最新のテクノロジーを教育の中で活用しようとしたとき、「デジタルデバイド」というボトルネックを避けて通ることはできない。
デジタルデバイドとは、一般には、パソコンを持つものと持たざるものの「差別」である。パソコンなどの情報活用知識やスキル、環境の差によって生まれる差別や障害のことを指す。ざっくりと説明してしまえば、パソコンに日常的に触れ、使いこなすのが得意な子は、パソコンを使った授業も非常に効率的に進めることができる。その反対に、パソコンにほとんど触れたことない子は、パソコンを使った学習を効率的に進めることができない。

この「デジタルデバイド」を、ちょっと別の角度から考えてみたい。
教師の発想の中にある「持つものと持たざるもの」という「デジタルデバイド」である。

現在、ICTを活用した説明文の学習に取り組んでいる。
説明文を比べ読みしたり書き換えたりする学習に、ノートパソコンやiPadというデバイス、ワードなどのソフト、そしてインターネットによる情報活用の活動を関連させている。
で、私にとっての一番の問題は、ツールを使うことそのものではなくて、デジタルツールを使うことで、学習の質がどのように変容するかという点だ。
たとえば、今回の授業をデジタルツールを使わずにすべてプリントなどの紙メディアや、鉛筆などのアナログツールで行ったとする。
甘く見積もっても、教科書教材の20〜30倍くらいは情報処理量が増大している。膨大な量の情報に触れ、それを処理している。しかし、取り組む授業時間は増えていない。
だから、単純計算で、授業時間は1/20時間に短縮して取り組ませようとしているということになる。
もっとも、教科書教材をじっくりと読ませるような授業ではないから、学習の「密度」は異なるだろう。流し読みや、ポイントだけをつまみ食いにして読むような読み方、学習になるはずだ。
しかし、ICTを使うことでこれらの作業が、マウスをクリックし、キーボードをたたく行為だけで完結することができる。便利な世の中になったものだ。
しかし、ここにこそ大きな意識の断絶、落とし穴はないだろうか?

何が言いたいかというと、「ICTを活用した学習は、それを使わない授業とは比較にならないほどの情報処理量であるにもかかわらず、教師の意識の上では、それが子供にとってはとても簡単な作業であるように見えてしまう」という危険性があるということだ。
子供にとって加重な負担をかけているにもかかわらず、教師からみたら、ICTを使うことで子供の負担(負荷)が軽減されたと勘違いをしてしまう危険性があるということだ。

ICTの活用により、学習の質は明らかに変容するだろう。そしてそれ以上に、扱う情報の量は天文学的にふくれあがるはずだ。しかし、その変容は、ICTというきらびやかなツールの陰に隠れて見えにくくなっている。

「デジタルデバイド」とは、子供たちがツールを使いこなせるか、こなせないかという「差別」ではなくて、ツールによって学習がどのように変容するか、教師が理解し、意図し、配慮できているか、できていないかという「差別」にその本質があるかもしれない。
そして、その「差別」は、パソコンを使いこなし、ICT教育を推進していきたいという「意識の高い」教師ほど、無意識に持ってしまうものかもしれない。