2013/01/18

20年後の国語教育

昨日は今年度最後の修論指導だった。

この修論指導(課題研究という名称)は、複数の先生方や院生を前に自分の研究を発表する機会である。年3回、このような形式の発表を行った。
それ以外の週は研究室で指導教官を中心にご指導いただく。

私が所属する研究室は「授業実践開発研究室」。
そして修論指導をする専攻が「カリキュラム開発」(旧)となっている。
(旧)と付いているのは理由がある。
現在は「カリキュラム開発」は解体されてしまっている。
しかし、研究指導では「カリキュラム開発専攻」の先生方が指導をしてくださっている。
所属する組織は変われど、「カリキュラム開発」の志を持った先生と学生たちが集って修論を磨き合っているのだ。(おそらく、このような形での修論指導はかなり異例のことなのだと思う)
私自身も「教科教育科学専攻」よりも「カリキュラム開発専攻」のほうに魅力を感じる。

昨日の修論指導ではぼろぼろだったが……そのあとの反省会(と称する飲み会)はとても盛り上がった。

先生「○○さん、20年後も教師やってるんでしょ、
だったら、20年後の国語教育はどうなってるか考えなきゃいけないと思うんですよ」

……20年後、教育は、そして社会は、どれだけ変わっているだろうか。

「手書きの文章?原稿用紙?もうそんなの無くなってるかもしれない。」
「キーボードもなくなって音声認識になってるんじゃないですか?」
「でもみんなが音声認識したら教室がうるさそう!」
「音声認識で書いた文章は、書き言葉?それとも話し言葉?」
「もっと違った形の入力形式になるかもしれないね」
反省会では、20年後の国語教育についておれやこれや大いに話し合った。

20年後の教育を考えるとき、20年前の状況と比較してみるとわかるかもしれない。
現在が2013年、20年前が1993年。
そのときは携帯もなかったし、パソコンも普及していなかったし……、
ワープロは、親が知り合いからもらってきて、それを高校時代の私はひたすらいじっていた。

20年前と聞いて思いだした。高校時代の恩師の存在だ。
私の恩師、東大卒のT先生はとてもユニークな先生だった。
国語の授業でも実験的な取り組みをたくさんしていた。
「ディベート」とか「反論」という言葉を初めて聞いたのもT先生の授業だった。
高校時代に書いた「卒業論文」の学習はいまでも私の記憶に残っている。
「こころ」や「羅生門」の学習もT先生の面影とともに思い出す。

高校時代に受けた「ディベート」の学習は、その当時見たことも聞いたこともない「国語」の学習だった。もちろん教科書なんかには載っていない。
しかし、20年後のいまでは「ディベート」は国語の教科書に載っている。
全国の教室で当たり前のように実践されている。その高い教育効果も認知されてきている。
T先生は20年、30年先を見越して授業をしてくださっていたんだなあと、感慨を新たにする。
そしてその当時、T先生の元で、せっせと学級通信をワープロで打って編集&出版していた変人がこの私である。

そしてどういう縁か、その高校時代の恩師、T先生の後輩のF先生に、大学では指導教官としてご指導を仰いでいる。
さらには、私の研究内容は「編集」。
結局まわりまわって、自分の原点に戻っていくのだなあと感じている。

さて、修論。
20年後の国語教育について考えていきますか。