2013/06/20

「いい子は敵」、あるいは、我が痛恨の失敗

「今日の授業では、最初っからいろんなトラブルが起こって、とにかくいっぱいいっぱいになっちゃったんです」
目を真っ赤にして実習生が話す。
今日の実習生の授業の「反省の弁」だ。
「はじめに文章の説明をさらっとやるつもりだったんです。
でも、それを聞いてた子どもの反応がぜんぜんなくて。
わかっていないみたいだから、焦って、さらに説明を付け加えていくうちに、時間がどんどんたってしまって……」
結局、予定した授業内容の半分も終わらずに時間が来てしまったということだった。

それを聞いて、私は
「でも、それってすごいことだと思うよ! 
失敗を慰めるとか、苦労をねぎらうとか、そういうのじゃなくてね、単純にすごいと思ったんだよ。
だって、子どもの様子を見て、それからその場で授業を変えていこうと思ったわけでしょ。
それって、初任の先生でもなかなかできない、結構すごいことなんだよ。
確かに、説明の方法のつたなさとか、わかりにくさとか、反省すべき要素はあったかもしれない。
でも、少なくとも、あなたは子どもを見ようとしていたわけだし、その子どもの姿から、臨機応変に授業を何とかしようと思ったわけじゃん。そういう点は、とってもいいことだと思ったよ」
と語った。

さらに、私の「痛恨の失敗談」をお話しした。
「っていうのもさ、実は、いままでの人生の中で、一番大失敗した授業っていうのがあったの。
それはね、以前いた学校のことで、学年6クラスくらいの大きな学校で、いっぱいクラスを持っていたから授業内容とかもごちゃごちゃになっていたの。
それで、一度勘違いして、前回とまったく同じ内容の授業を、そのままそのクラスにしてしまったことがあったの。
でもさ、ぜんぜん気づかなかったの。授業が20分以上過ぎても。
20分くらい授業をしていて、みんな黙って聞いているんだけど、ノート全然書いていないし、おかしな空気だなあと思って、生徒に聞いてみたら、それで初めて自分の失敗に気づいたというわけ。
同じ授業を繰り返してしまったことはショックだったけど、それ以上にショックだったのは、子どもが前回と同じだっていうことを伝えてくれなかったこと。伝えられるような空気を私が作っていなかったこと。もっと言えば、今まで、自分は、子どもをぜんぜん見られていなくて、独りよがりの一方的な授業だったんだということが、はっきりわかってしまったことだったんだ。

それとね、初任の頃、指導教官に言われた言葉で「いい子は敵だ」って言う言葉もあるの。
教師の失敗を責めない、何にも言わない、いつもにこにこしているような、一見「物わかりのいい子」ほど、教師をだめにする「敵」はいないんじゃないかということなの。
子どもが悪いっていうんじゃないよ。教師に都合のいい「いい子」だけを見て、それでいい気になっているのが悪いということ。
授業についてこれない子、つまずいている子、困っている子、文句を言う子、集中できずに遊んでしまう子がいるおかげで、自分の授業がどんなのかがわかる。
そういう反応があるおかげで、その子に対して、何がいけなかったのかとか、何をすればいいのだろうかと考えようとするわけだし、うまくいかなかったという反応に、授業改善のヒントがいっぱい詰まっていると思うんだよね。
だから、そういう子たちには感謝をしなければいけない。そういう子たちの姿を通して、いっぱい勉強をさせてもらっているんだということを。