2014/09/30

国語と道徳とで全く違う「読み物資料」の扱い方

今日の校内研では道徳についての研修が行われた。
都内の中学校の先生、道徳の実践家をお呼びして、道徳の授業の進め方について初歩から学んでいった。丁寧に教えてくださったおかげで、とても勉強になる点が多かった。
興味深いのが、道徳における「読み物資料」の扱いについてだ。
講演のあと、フロアーから質問が出た。
「道徳では『読み物資料』を使うことが多いんですが、新聞とか、ニュースとか、テレビドラマとかそういった資料をつかうのはどうですか?」
「読み物資料以外でも、ニュースとかドラマとかも、もちろん使うことはあります。しかし、作り込まれた読み物資料でないと、いろいろと読みが広がりすぎて、道徳の授業で取り上げたい価値(内容項目)に絞り込んで迫っていくことが難しくなるんですよ」
なるほど。これは国語の場合とちょっと違うなあと思った。
道徳の場合は、もっていきたい焦点がはじめからかなり絞られている。一時間の授業の中で、確実にその価値(内容項目)へと導かなければならない。しかし、国語の場合、むしろ一読して一つの価値にしか読めないようなテキストは、陳腐で浅い駄作とも見なされる。国語で取り上げる価値ある文学作品とは、さまざまな角度で読み、見方を広げていくことが可能なテキストのことをいう。
そのへんの、資料(文学作品)の扱い方の違いが、道徳と国語の違いにあるのかなあと思った。そして自分は道徳がいまいち苦手なのも、その辺にあるのかなあと感じた。