2014/09/18

ファシリテーショングラフィックの有効性と限界に関する考察、あるいは「出来事」を書くことの意味

ファシリテーショングラフィックとは、話し合いながら、その過程を即時的に模造紙などに書き留めていくことをいう。ファシリテーショングラフィックは流れて消える話し合いを書きとどめ、話し合いを活性化させるためにとても魅力的な可視化の手法だ。
代表的な文献は次の2つ。






学校教育では「板書」がある意味「ファシリテーショングラフィック」の機能になってくるのだろう、でも私自身は正直、板書はとても苦手。話を聞きながらまとめるのってとてもハードルが高く感じてしまう。こんな苦手な私でも何とか書けるようになりたいなあと思って勉強している。そして子どもたち同士の話し合いなどでもファシリテーショングラフィックを活用していきたいなあと思っている。

この間、学校教育にファシリテーショングラフィックを導入している第一人者、藤原友和さんとお会いする機会があった、ファシリテーショングラフィックを描くワークショップが開かれたのだ。そこで、ファシリテーショングラフィックを体験した中で感じたことを、ここに忘れないうちに書き留めておこうと思う。

一つ目、学校教育と、社会で必要とされるファシリテーション(グラフィック)には、本質的な違いがあるのではないか?
そもそも、ファシリテーショングラフィックは、まちづくりなどのワークショップ文化の中で生まれた合意形成のツールであるそうだ。それを、学校教育の文脈に移行したときに変容してしまう部分はないのだろうか。(もちろん、どちらがいいとか悪いとか言うつもりはない)
端的な例でいうと、町づくりなどの課題解決においては「答え」は一つではない。しかし、学校教育においては、ファシリテーションとは、「答え」を絞り込んでいく「落としどころ」へと誘導していくための機能としてはたらくことが多いのではないか。(とくに教科学習)
たとえば、授業中、授業の目当てとは全く見当違いの児童の発言がでてきたとする。そのときに、その発言をファシリテーショングラフィックで取り上げ、位置づけていくことはどこまでできるのだろう。すべては無理だし効率的ではない、だから想定外に的まずれな発言が出されたときには、そのような発言を教師が「流す」という選択をとらざるを得ない。しかし、学校教育で求められるものと、まちづくりなどの社会で必要とされるファシリテーション(グラフィック)の質的な違いをどうとらえればよいのか。または同じと考えていいのか。

二つ目、「紙に書く」ということが、一つの「権威」となって機能することはないか。
一つ目と関連するが、ファシリテーショングラフィックにおいては、おのずとグラフィッカー(記録者)によって「書かれる言葉」と「書かれない言葉」が出てくる。また、その「描き方」におのずと書き手の価値判断が含まれる。その書かれなかった言葉の行く末はどうなるのか。

これは、ものすごく大げさな言い方をすると、いわば、「誰が歴史を書くか」という問題なのだ。
「歴史」において影響力を持つのは、どんな出来事が起きたかということよりも(何が語られたか)よりも、何が書かれたか、何が残されたかと言うことだ。(いわゆる教科書問題のような「歴史問題」とは常に「出来事をどう記録するか」という問題でもある。反対に、「記録」のない、文字の発明されるあとよりもずっと以前の、とてつもなく膨大な時間の流れを「先史時代」とあっけなくひと言で語ってしまうものこれと同じだ。歴史(history)は、his story である。スペルあってる??)

語られる、フローの言葉は消え去っていく、しかし記録された言葉は時間と空間を越えて蓄積されていく。そこに権威性が発生する。たとえば、社会主義国家では「書記長」が最も高い権力を持つ。それは「出来事を記述できる」という機能を握っているものが、権力を持つということを示している暗喩でもある。(ちなみに英語で「権威」はauthority、「著者」はauther)
ファシリテーショングラフィックにおける「書くこと」には、「書かれた言葉は価値あるものであり、公認の発言として共有されたものである」という権威性を帯びたものとなることに十分配慮しなければいけないと思う。
学校教育において、教師がファシリテーショングラフィックを描く場合、あるいは、グループの話し合いの中で特定の生徒がそれを描く場合、自ずとそこに権威性が立ち現れる。グループの中で、書かれる言葉と書かれない言葉の選別、編集が行われる。すべての意見を書き出すことはできない。また、ファシリテーショングラフィックの書き表し方に自ずと書き手の意図があらわれる。「流す」言葉が生まれる。それはどうしようのないことなのだ。

私はその権威性を解き放つ可能性に「共同編集」があると思う。(相互編集?共同編集??)
記録者が一人で好き勝手に書いて話し合いをコントロールするのではなく、共同で書きあうこと。たとえ一人の記録者が書いていても、いつでも、誰でもその「記録」に参加できる余地があること。それが可能になることで、ファシリテーショングラフィックが、より柔軟性のある合意形成のツールとして機能するのではないかと感じる。
ひょっとしたら、ファシリテーショングラフィックが「巧みな」人が行う話し合いよりも、ファシリテーショングラフィックが「稚拙な」人が行うグループの話し合いの方が、話し合いとしてよっぽどいいものになる可能性さえあるのではないか。話し合いのメンバーが、記録者の書いていく言葉を見ながら、「おれだったらこう書く」「この言葉はこっちに書くべきだ」となどと「記録されたもの」について、わいわいと言い合う「共同編集」のコミュニケーションがそこに自然に生まれるからだ。(効率的でないので、収拾がつかなくなる可能性もあるけど……)

三つ目 ファシリテーショングラフィックが手書きであることの意味は何なのか?
私は、ごく近い未来に、ファシリテーショングラフィックがICTなどで代替できる日が来ると思っている。ファシリテーションのシステムが高度に精緻に分析できれば、それがSNSなどのwebツールで代替できるはずだと予感している。そうなれば、手書きによるそれよりも、さらに効果的に集合知を創発するものになるのではないかと思っている、

web2.0の理念には、「集合知」を生かす「共同編集」にある。

   web2.0についてのWikipediaの定義は以下の通り
ティム・オライリーの初期の定義は『旧来は情報の送り手と受け手が固定され送り手から受け手への一方的な流れであった状態が、送り手と受け手が流動化し誰でもがウェブを通して情報を発信できるように変化したwebを「Web 2.0 」とする』としていた。
しかし、最近の発言では定義はあまり明確ではなく、彼も範囲を限定しないためにあえてそうしたとブログで説明している。また、彼は翌日、同ブログでWeb 2.0とは「すべての関連するデバイスに広がる、プラットフォームとしてのネットワーク」であり、Web 2.0アプリケーションを「ネットワークが本質的に持つ長所を最大限に活用するもの」であるとしている。
また、日本のITコンサルタントである梅田望夫は、著書『ウェブ進化論』で、Web 2.0の本質を「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」としている。
たとえば、Wikipediaなどのオープンソースのサイトがある。言うまでも無く、Wikipediaは誰でも参加でき、誰でも書き込める。そのほか、各種掲示板やクックパッドなどの投稿サイトも「共同編集」の原理で運営されている。Wikipediaに限らず、webの原理として「共同編集」は不可欠の要素である。

集合知についてはこれ!


話し合いなどのフローの情報を、書き言葉のストックの情報に編集していくためには、どのようなインターフェースが可能なのだろうか、それは私のような素人にはわからない。しかし、もし、ファシリテーショングラフィックが、手書きの温もりとか勢いなどの要素を100%分節化できたとして、なおかつそれをwebなどで共同編集できるものになっていれば、それは原理的には可能になるはずだ。
しかし、それが無理だとするならば、分節化し得ない、ICTでは代替できない「何か」があるわけで、その「何か」こそ、ファシリテーショングラフィックのキモなんじゃないかなと思う。