2015/03/07

協働的な課題解決は可能か、あるいは、でたがりのたそがれ

教師の役割の一つは、どの子にも成長のチャンスを与えることだ。これを疑う人はいないだろう。※教育の憲法である教育基本法には「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」とある。

この「どの子にも」というところが非常に難しい。大勢の生徒の「どの子にも」かつ「能力に応じて」チャンスが与えられるように考え、工夫することが教育方法の課題となってくる。
積極的な子がいればそうでない子もいる
能力が高い子がいればそうでない子もいる
上手くタイミングが合うときとそうでないときもある

話が抽象的になりすぎた。例えば運動会の選手リレー、例えば文化祭の学級劇の主役、例えば学級の役員、生徒会の役員など。これらのチャンスを一人の生徒が独占したらどうなるだろうか。そんなことはよっぽどの小規模校以外はありえないけど、かといって公平に分配されるものでも決してない。
学校行事だけとはかぎらない、例えば、総合でグループ活動をしたとして、誰がリーダーをやるかという役割。数学で話し合いで学習を進めたとして、誰が話し合いをリードするかという問題。
これらの種々の活動は、おそらく三つの特徴がある。
集団ですること、特定の能力が必要とされること、人と関わって取り組む積極性が要求されること。←ちなみに、これらは、二つ目の「能力」以外はペーパーテストではほとんど計れない力でもある。

人は「チャンスは公平に与えられるべきだ」という信念(あえて信念と言おう)をもっている。それでいて「自分だけはおいしい思いができたらいいな」という思いも持ってしまう。だから、「集団で行う活動」において、全ての生徒に、適性に応じた役割をあてがうことと、チャンスを公平にすることとの間のジレンマに教師は直面することとなる。
苦慮するのは教師だけでない。
子どもも、あふれんばかりの積極性のある子ほど苦慮するという逆説的な結果にさえなる。
いわゆる「出たがり」の子は、能力も有り積極性もあれば、多くの活躍のチャンスをつかんでいくことができるが、その結果、能力がいまいちだったり積極性のない子からは疎まれるリスクだってある。いわゆる嫉妬とか足を引っ張るというやつ。
教師だって、同じ生徒が何度も何度も活躍することを、その生徒だけが成長のチャンスを独占することを決して望ましいこととは思っていない。学校で用意する「成長のチャンス」にはおそらくパイがあるのだ。その限られたパイをどのように公平に分割していくか、適切に分割していくか考えたいのに「出たがり」の子が出過ぎるとそれはそれで難しいことになってしまう。
その辺が悩ましいところなのだ。

協働(コラボレーション)は、異質な他者の存在が前提にある。
協働的な課題解決とは、能力や関心が異なるさまざまなキャラクターが、それぞれの得意な分野を活かしつつ、能力を上手く組み合わせて課題に取り組んでいくことを目指していく。
そのときの「積極性」とは「でたがり」とは似て非なるものだ。
確かに消極的なだけでは話にならない。しかし「4番バッターだけのチーム」とか「船頭多くして船山に登る」という言葉があるように、4番バッターだけでも、船頭だけでも、協働的な課題解決は不可能だ。
4番バッターが、8番くらいを打つ覚悟がないといけないし、それをむしろ「積極的」に自分から位置づけていくような能力さえ必要になる。
そんな「4番から降りる能力」をどうやって身につけていくかが、ひょっとしたら協働的な課題解決の能力には必要なのかもしれない。