2014/02/19

「歴史的に見る」とはどういうことか~『西洋音楽史』の手法に脱帽する~

あの佐村河内事件をきっかけに読んでみようと思った一冊。
今年はいい本によく巡り会う。
この本も、近年まれに見るヒットだった。

『西洋音楽史』とは言っても、無味乾燥な通史ではない。それぞれの「芸術作品」が生まれた潮流をダイナミックに捉えようとしているところが面白い。
そしてなにより、この一冊で、クラシック音楽の歴史だけでなく、「ものを観る目」のようなものも、鍛えることができた。
(そういう意味では、クラシック音楽にあまり興味がない人も、機会があればぜひ読んでみて欲しい)
以下の私の駄文を読むよりも、Amazonのレビューの方が参考になる。そして原著を読んだ方が圧倒的に面白い。

1、歴史的に見るとは?
この一冊は「歴史的に見る」ということの意義を感じさせる好著だ。
クラシック音楽(に限らず,どんな芸術も)は、その土地と、そして時代、そしてそれを享受する人々に強く規定される。術には、それを生み出す装置があり、時代の制度に縛られ、それらの,システムの中で生み出されていくのである。

歴史的に見るとは、次のような問いをもつこどである。
「このような音楽はどこから生まれてきたのか」
「それは一体どんな問題を提起していたのか」
「こういう音楽を生み出した時代は、歴史のどの地点にあるのか」
「そこから何が生じてきたのか」

どんな芸術作品も、作家が好き勝手に書き散らかしたものではあり得ない。その芸術が生まれるためには、時代背景や社会の状況などと分かちがたく結びついているものなのだ。

2、芸術とは「書かれたもの」である。
筆者は芸術作品としての音楽を実に明瞭に定義している。
それは、「書かれたもの」であるということだ。
「書かれたもの(ここでは楽譜)」があるからこそ、
1、世界中で演奏されるという普遍性を手に入れることができた。
2、時代を超えて継承していくことができた。
3、書くことで、格段に大規模で複雑な芸術へと発展させることができた。

ここで、最も注意して欲しいのは、音楽の本質と、「書くこと」は、それだけではほとんど関連がないと言うことだ。
音楽を楽しむために、即興で歌ったり、楽器を演奏したりする人もいるだろう。
そのなかには、きっと優れた演奏をする「芸術家」がいたはずである。
しかし、「書かなかった」からこそ、それは芸術として認められることはなかったのである。
優れた芸術は、すべて書かれているわけではない。
しかし芸術は書かれないと芸術にはならない。
この発見は、ものすごく示唆的である。
パフォーミングアートと「書くこと」との関連。
優れたパフォーマンスだけでは、「芸術」へと昇華していかないというジレンマ。
しかし、「書かれていない」もののなかにも、きっと優れた芸術はあったはずだ。
それは「書かれなかった」ことにより、消えていってしまったのだ。

3、西洋音楽史とは何だったのか?
とてもざっくりと言ってしまうと,次のようになる。
神のための音楽(グレゴリオ聖歌など)
  ↓
バロック……王様のための音楽(モンテベルディのオペラなど)
  ↓
古典派……ブルジョアのための音楽(ベートーヴェンなど)
  ↓
ロマン派……市民、大衆のための音楽(ワーグナーなど)

このように、芸術を享受する層によって、求められる音楽は異なってくる。
かつてのグレゴリオ聖歌の時代は、誰が作ったかという「作家性」はほとんど求められなかった。
しかし、王様やブルジョアに向けて音楽を作るためには「作家性」のプレミアムがより必要とされるようになった。作曲だけで生計を立てることが可能になった時代ならではだ。
さらには、ベートーヴェンの時代になると、作家としての「自意識」がさらに強くなっていくことになる。自己表現の手段として作曲をすることが可能になったのだ。
ベートーベン以降から新たに生まれたのは「感動のための音楽」という思潮である。
市民たちは、日常からの解放、夢とファンタジー、魂を揺さぶる何かを「音楽」のなかに求めるようになったのである。
「どんどん無味乾燥な時代になったからこそ生まれたロマンティックな音楽」が量産されていくのである。筆者はそれを「疑似宗教体験」としての音楽と呼んでいる。

ロマン派以降の音楽は、ひたすら「感動」を否定する方向に向かっていくようになった。
調性を破壊し、楽音を破壊し、拍節を破壊する。そして「作曲家」さえも解体されていくようになる。

現代音楽はもはや「公衆が不在」な、アングラ音楽である。
クラシックは「公式文化」から「サブカルチャー」へと転落しているのである。
アーノンクールはこう言っている
「18世紀までの人々は現代音楽しか聴かなかった。19世紀になると現代音楽と並んで、過去の音楽が聴かれるようになった。そして20世紀の人々は、過去の音楽しか聴かなくなった」
人々の関心は「誰が何を作るか」から、「誰が何を演奏するか」へと決定的に移行していったのである。(楽譜の問題とか、複製芸術の問題とかも関連することだろう)

4、西洋音楽史の末裔としてのポップス
ポピュラー音楽の大半は、19世紀のロマン派音楽をほとんどそのまま踏襲している。
「市民に夢と感動を与える音楽」がそのコンセプトにある。
クラシック音楽の作曲家と、演奏家、そしてポピュラー音楽の三つは、いまや後戻りできない「分裂」を生んでいる。
前衛音楽家の場合は「公衆を置き去りにした独りよがり」
クラシック演奏家は「過去にしがみつくだけの聖遺物崇拝」
ポピュラー音楽家は「公衆との妥協」「商品としての音楽」のように。
しかし、これはとりもなおさず、西洋音楽(ポップスも含めた)における、音楽を作る人と演奏する人の断絶、音楽家と聴衆との断絶を物語っている証左なのだとも言える。

5、社会が生み出す芸術
作者は現代の音楽状況をこう結んでいる。
「宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒、神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしている」