2014/02/06

ファンタジーの「世界観」と「虚実皮膜」

ファンタジーはファンタジー特有の枠組みとか、お約束があってこそ、虚構たり得る。

文学作品の初発の感想を書かせると必ず出てくるのが、
「どうして白象(登場人物の)がしゃべっているのだろう」
「主人公の作者は、なぜ……をしたんだろう」(話者と作者を混同している)

小説は虚構であり、「小説のお約束」という枠組みの中から解釈をすべきなんだけど、その「小説のお約束、枠組み」が理解できていないから、とんちんかんな疑問を持ってしまう。
小説や物語の、文学的文章の枠組みやお約束、表現様式を理解することは、解釈をする上で必須だ。
「小説や物語が高尚だ」といっているわけではない。マンガはマンガの文法があるし、映画だって、短歌や俳句だって「お約束」はある。
小説らしさやマンガらしさ、短歌や俳句らしさを形づくる、そのジャンル固有の世界の特徴はあるだろう。

だから、文学作品を「道徳」的に読む読み方なんてちゃんちゃらおかしいわいっ!て思ってしまうのだ。ファンタジーをリアリティーの視点で読んで、それでなんなの?って。
(あまたある読み方の中で、そういう「道徳的」読み方を自覚的に採用するというのならいい。
しかし、何でもかんでも「道徳的」に読むようなことほど、ありがた迷惑なことはない。もっと文学を面白く味わう方法はいくらでもあるのに!)

最近は、ファンタジーの「世界観」ということばがあるらしい。「世界観」にもリアリティーのあるものとそうでないものがあるようだ。
ファンタジーとリアリティーは対立概念ではなく。「虚実皮膜」なものだ。その、薄くてあちらが透けて見える「膜」の存在が決定的に重要なのだ。