2014/03/30

「学習指導案」をめぐるあれこれ

研究授業には「学習指導案」がつきものだ。
だが、この指導案、何のために書かれているのかいまいちよくわからないものが多い。
私は、指導案を書いているときにこんなことを考える。


  • 毎日の授業で、いちいちこんなの書いて授業するわけじゃないのにな
  • 実際授業が始まっちゃうと、指導案なんて一切見ないし、関係なくなっちゃうし
  • でもここまで考えました、っていうことをアピールするためには必要かも
  • 大学の先生は授業をろくに見なくても指導案の批判だけはねちねちとできる体質らしい。
  • 実際、こっちも、たいした中身はなくても意地になって文量を増やして書いているというのはあるかも。
  • 授業が失敗しても、「指導案上はこうなっているはずでした」って言い訳できる安心料みたいなもの?
  • 結局、いろいろな意味での「説明責任」とか「いいわけ」の材料になっている気がする。
  • 指導案を書くまでが授業準備になってしまって、書き上がったら安心して当日の授業なんかどうでもよくなっちゃうことも??
  • 指導案を考えた後の振り返りとか検証ってほとんどできていない。書いただけで満足してしまう。
  • そもそも「案」どおりにいく授業って「いい授業」なの?
  • ↑そう考えると「指導案」のような事前の構想の考え方そのものも検討しなければいけない。
  • うーん、いい授業を成立させるためには「指導案」の作成は不可欠なのか?それとも、いい授業を参観者にわかってもらうために必要なペーパーなんだろうか。本当にいい授業だったら、「指導案」なんて無くたって伝わる?やっぱり無いとだめなんだろうか?

指導案の立ち位置をもう一度考えたい。
1、教師が授業内容を研究するための指導案
2、追試されることを想定した指導案
3、授業の背景にある構想を理解してもらうための指導案 うーん、他にもありそうだ。

とりあえずこんなところです。新しい「指導案」のあり方についてせっかくの機会なので考えていきたいです。