2014/03/30

失敗に備えつつ、失敗を期待する

新採2年目のとき、私は県の研究発表会で提案することになった。
テーマは「作文教育」。
作文教育といっても、新採二年目のぺーぺーに語れるだけのものがあるわけもない。
そこで私は「失敗から学ぶ作文指導」というテーマで、とにかく自分が失敗した作文指導の事例をたくさん集め、そこから学び取ったことをレポートした。
当然、提案は賛否両論。
「子どもにとってはその授業は一回きり。失敗したことを自慢げに取り上げるのはいかがなものか。」
「失敗した実践を紹介しても何のプラスにはならない。」
などなど。
いまでは、その提案の内容さえ覚えていない。
きっと提案自体は「失敗」だったはずだが、新卒当時から私は「失敗」というものに特別な思い入れを持って考えていたことは間違いない。

教師にとって重要なことは何を「失敗」と感じて行動するかだと思う。
子どもの前に立つ教師は、得てして失敗が見えにくい立場にある。
失敗しても誰も指摘する人はいない。
失敗しても子どものせいにできる。
そもそも失敗したかどうか評価できにくい。
そんな生ぬるい環境にいるのが教師という職業である。

しかし、毎日が仮説実験的に生活している教師にとって、「失敗」こそ、貴重な飛躍のヒントになる。
じつは、あまり声を大にして言わないことだが、教師にとってほんとうに必要な知識は「こうすればうまくいく」という知識よりも「こうしたら失敗する」という知識だったりする。多くの教師はそれを体験的に学んでいるので、授業や生徒指導の時にも慎重に失敗を避けつつ行動をしている。失敗をすると分かっていてみすみすそれを行う馬鹿はいない。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉がある、うまくいくことは、たまたまクラスが良かったとか、雰囲気が良かったとか,偶然の要素が大きいが、うまくいかない場合には必然的な理由がある。うまくいかない原因を正確につかんでいれば、それを上手に回避して、授業をすることはできる。
ただし、失敗を避けるだけの授業では、失敗は減るかもしれないが教師の学びとか成長はほとんど無い。
私も含めて、ほとんどの先生は、新卒の時はぐんぐんと成長する実感があるけど、5年もやっていればあるていどの授業力はついてしまうから、失敗も少ないけど成長も少ないのでは。
きっと必要なのは「失敗を期待する気持ち」と「何が失敗であるか」を感じ取る感性である。

近年、教師の成長に「省察」といわれる、「反省」や「振り返り」が欠かすことのできないものだという認識が広がってきている。
もとより、どんなに「失敗」を避けようとしても、うまくいかないのがほとんどなのが、教育という営みである。
避けられる失敗は避けつつ、なお「創造的な失敗」をすることが「反省的実践家」としての教師の成長につながってくる。

失敗学の創始者、畑村洋太郎は、失敗の原因を次のように整理している。
(失敗学のサイト http://www.sozogaku.com/hatamura/index.php  から転載。)


無知    ---世の中に既に知られているにも拘わらず,本人の不勉強
不注意  ---十分注意していれば問題がないのに,これを怠ったため
手順の不順守---決められた約束事を守らなかったため
誤判断  ---状況を正しく捉えなかったり,正しく捉えても判断を間違ったため
調査・検討の不足---判断する人が,当然知っているべき知識や情報を持っていなかったり,十分な検討をしないため
制約条件の変化---初めの制約条件が時間と共に変化したため
企画不良  ---企画ないし,計画そのものに問題があるため
価値観不良 ---自分ないし自分の組織の価値観が,周りと食い違っているため
組織運営不良---組織自体がきちんと物事をすすめる能力を有していないため
未知   ---世の中の誰もが,その現象とそれに至る原因を知らないため
失敗をしたときには、単なる無知ゆえだったのか価値観にずれがあったのかなど、様々な角度から検証することが必要であろう。
さらには、失敗原因にも階層性があるという。(http://www.asahi-net.or.jp/~pv3n-situ/sippi-2.html)

1、個々人に責任のある失敗
2、組織運営の不良
3、企業経営の不良
4、行政、政治の怠慢
5、社会システム不適合
6、未知への遭遇

畑村氏の失敗学で重要なのは、失敗は避けるべきものだが、失敗から学ぶことの方がずっと大切だ、という認識と、
失敗の中には「未知への遭遇」というような、新しい技術が飛躍的に進歩する「創造的な失敗」があるということである。

これを、授業に当てはめると次のようになろうか
1、一瞬の授業技術の失敗
2、1時間の授業計画の失敗
3、1単元の設定の失敗
4、1教科の運営の失敗
5、学級・学年・学校の不適合
6、教育観の不適合
7、未知への遭遇

たとえば、一つの失敗を多面的に捉えることで、貴重な知識となって教師の成長につながってくるだろう。
また、期待すべきは「未知への遭遇」となるような「なんだわからないけどうまくいかなかった失敗」ということになる。

若いうちはどんどん失敗した方がよい、というのは、教師として当たり前のように通過する失敗を早めに経験して、経験値をあげろということに他ならない。
だから、もし若い先生にアドバイスをするとしたら、
「失敗は恐れるのではなくて、備えるもの。避けられる失敗は避けよう。
だけど、そうはいっても絶対に失敗するから、失敗を通して生徒が自分に教えてくれたと思って、それを成長の糧にしよう」といいたい。

もちろん、このことは、若い先生だけでなく、自分自身でも常に自戒していることでもある。
毎日の授業の中で、いかに「未知への遭遇」となるような「創造的失敗」を積み重ねることができるかが自分の課題でもある。
そのためには、事前の計画段階では、防げる失敗は防ぎつつ、なおかつ、実際の授業では、子どもの動きを柔軟に捉えて授業をし、計画通りに行かないことをむしろ楽しみにして、その反省から多くを学ぶようにしていきたいと思っている。