2014/03/05

研究者と、現場の実践家の断絶を論ず~教育「研究」と教育「実践」が相容れな い理由~

教育現場でよく言われるのが「研究」と「実践」との断絶だ。
もっとわかりやすく言うと、
大学の研究者がやろうとしていることと、現場の教師が日々やっていることが、なんかズレているんだよね、と感じる感覚だ。
その「相容れなさ」の感覚はいったいどこから生まれるのだろうか?

ひと言で言ってしまうと
現場の教師は共通項をひたすら追い求め、
大学の研究者は、差異をひたすら追求する
という点にあるのではないか?
(一応断っておくが、大学の教員でも実践家はいるし、現場の教師にも研究者的なスタンスを取ることがあり得る。ようは立場ではなく機能の問題だ)

(私も含めて)現場の先生は、目の前の子どもを少しでも良くしようと、日々研修に励んでいる。
誰かが取り組んだ良い実践があればそれをまねしてみたり、
長年取り組んできた定番の実践や、得意な方法があればそれを(多少バージョンアップしつつも)何度も繰り返して取り組んでいく。
子どもを見る目も同様だ。自分の、過去のいろいろな子ども達と関わった経験を土台に、そこからある程度のパターンを導きだし、想定しつつ、目の前の子どもに向き合うことになる。
これらの「実践」の中心にあるのは「共通項」である。
うまくいった実践を同じように当てはめて、まねしたり、
過去の経験から、ある程度同じようなパターンになることを当てにして、子どもを見たり。
実践において「まねること」や、「くりかえすこと」は決して否定されない。それが子供にとってベストだと思えば、マネを恥じずに堂々と実践すれば良い。(それに、まねしようにも、その教師個人のキャラや子どもの実態が異なるので、全く同じようにすることは不可能だ)

「実践」を病気や怪我にたとえよう。
「実践」においては、怪我をした場合は長年使っている「赤チン」を塗ればいいわけだし、身体が冷えたら定番の「養命酒」を飲んでおけば良いのだ。
そうすればある程度は怪我も,体調も良くなっていく。
あえて「新薬」に手を出す必要なんて無い。そういうものだ。

一方、大学の研究者は、怪我や病気の時に「赤チン」や「養命酒」がベストだとは決して思わない。いや、思ってはいけない職業なのだ。「新薬」を生み出すためには。
常に現状を疑い、常に改善を目指し、常によりすぐれたもの、より新しいものを生み出そうというベクトルで「研究」は進められていく。現状肯定、追認は不可能だ。
それが、いわゆるひとつの「アカデミック」な世界というものなのだ。
だから、今まで取られてきたよい方法を、そのままなぞるようなものは「研究」の名に値しない。
ちょっとでも現状から「違い」を生み出し、少しでも「新奇性」をアピールすることが「研究者」たちの使命である。
「違い」や「新奇性」が「研究者」たちのコミュニティーでは幅をきかすようになる。
その研究のおかげで、教育が発展してきたことはある程度はあるだろう。
しかし、些末な差異を取り出し、新奇な流行を追い求める、およそ「実践者」の立場からみたら明後日の方向にいってしまっているマニアックな「研究」がそこにないとは言い切れない。

では「研究」と「実践」をつなぐためには、どんなことが必要なのだろうか?
とってもありきたりな結論だが、私は、「研究者」こそ、現場としっかりとつながり、「実践」から真摯に学ぶ姿勢が求められると思う。
優れた実践、優れた教師、優れた学校のもつ暗黙知を引き出し、それを多くの人が共有できる「理論」を導き出して欲しい。「研究者」の狭いコミュニティーで通用する理論ではなく、多くの「実践者」から評価され、受け入れられるようなものを生み出す必要があるのではないかと思う。
そして、実践家にも課題がある。前例踏襲ではなく、同じことの繰り返しばかりではなく、研究者や他の実践者からの方法や理論を積極的に学び、ある程度はリスクを取ってチャレンジしていく柔軟な姿勢は必要だろう。また、それ以上に、自分の身体を通して取り組まれる「実践」を、目の前の子ども達をとおして批判的に検証し、不断に更新していく姿勢を忘れないようにしたい。