2013/03/25

研究は、言葉に対する感性を磨くことからはじまる。


大学院で研究する上で、まずはじめに叩き込まれるのは言葉の厳密な定義だ。
「遊び」という言葉も、発達心理学での定義と、社会学で使われる言葉のニュアンスは異なる。
学習指導要領でも、国語の「交流」と、特別支援の「交流」とは,全く意味が違う。
「主体的」という手垢にまみれた言葉も、あらためて「主体的って、誰が、どうすること?」と疑い、考え、答えを出していかないことには研究は進まない。

だから、一番まずいのが、安易に「主体的」とかの言葉を使ってしまうことだ。
そして耳障りのいいかっこいい言葉を無批判に使ったり、だれだれ教授の使っている言い回しを模倣したりしてしまうことだ。
「……力」という言葉もよほど慎重に使わないことには、本は売れるかもしれないけど、研究としては評価されない。(「老人力」とかいろいろあるけどね)

ある研究者や、特定の研究分野で頻出する言葉が実はある。
例)
教育における「単元」「スパイラル」(←本当にそんなのあるの?)
国語教育にもたくさんある。「一人一人」とか、「言葉の学び手」、「読みひたる」。
PISA型読解力における「熟考」とか「吟味」
『学び合い』における「折り合いをつける」。
カウンセリングなどで使われる「(教師の)在り方」など。

えらい先生の言っていることを模倣したり、文部科学省でいわれていることをそのまま転用したりする研究?では、言葉の意味をいちいち確認する手続きは必要ないかもしれない。
しかし、ある分野で慣用的に使われている言葉を、無批判に使ってしまうのではなく、別の言葉で(身内以外にも理解できる言葉で)再定義し、検討することは、研究的に実践を深めるためには不可欠の要素だ。
というより、そもそも、それらの言葉を、何となく「わかったつもり」にしないことが、研究のスタートなのだと思う。

ある分野で慣用的に使われている言葉を「理解する」ということは、たとえばこういうことなのだろう。
A「誰が最初に言い出したか?」(その言葉のルーツを知る)
B「どういう文章の流れでその言葉が発せられているか?否定的か、肯定的か?」(文脈を理解する。)
C「どういう学問分野、流派で使われているか」(背景となる学問ネットワークを知る)

A~Cのそれらを理解し、位置づけた上で、別の文脈でも理解できる形で「翻訳」することが(その分野の身内以外にも伝わる形で説明することが)研究には不可欠だ。
なぜか?
研究は、特定のコミュニティー内でのみに通用するものであってはならないからだ。
コミュニティー以外の人に対しても理解できる(批判し、再検討できる)ために開かれたものであるべきだからだ。