2013/03/25

「勉強になった!」とはどういうことか?


ちょっとしたことでも「感動した!」って言っちゃうことは陳腐だなあと思いつつ、何でも「勉強になった!」って、我ながらつい言ってしまうのはなぜだろう?
この場合の「勉強になった!」とか「学んだ」っていうのは「共感した!」とか「いいね!」「納得!」というほどの意味なのだろう。今までの自分の価値観や知識体系を、それほど裏切らない程度に目新しい知識や知見を得られた,というほどの意味なのだ。
こういう場合の「学んだ!」は、「感動した!」というのと同じくらいの、自分の生きている姿を確認する「うっとり言葉」〈自己に陶酔する言葉)の一つだ。〈私の場合は)

学ぶことは変わること、だとすれば、人ってそんなに簡単に変わるものなのか?
「学び」とか成長って、時計の短針のようなもので、気がつくと変わってたっていうのがほんとうなのではないか。もちろん、気がつかないままに成長していたなんてこともたくさんあるだろう。
突き詰めて考えると「学ぶ」ということと、それを実感することの難しさを痛感する。
(けど、生徒には「何を学びましたか?」って安易に聞いてしまうわけだが……)

学んだ、とか勉強になった、とは(厳密に言えばこの2つは異なるが)、単純化すると「AがBになる」というふうにいうことができる。
お決まりですが、パターン化すると次のように分類できる。〈分類は思いつきです)

Ⅰ 知識・理解・技能
「~わかる」パターン
A 知らなかったことを知ることができた(知識の獲得)
B わからなかったことがわかるようになる(理解の促進)

「~できる」パターン
C できなかったことができるようになる(技能の習得)
D 下手だったものが上手くなった(技術の熟達)


Ⅱ 思考力
「考えが的確になる」パターン
E 考えもしなかったことが、考えられるようになった(概念の獲得)
F ばらばらに理解していたものが、すっきりと整理して理解できた(知識の精緻化・構造化)

「価値判断がスムーズになる」パターン
G 判断できなかったことが、的確に判断できるようになった(知識の実践化)
H いままで漫然とみていた現象を、的確に分析したり価値付けできるようになった。(知識の価値付け)

Ⅲ 関心・意欲・態度
「生き方の示唆を得た」パターン
I ……のように生きたいと思った
J ……へのあこがれを喚起させられた
K ……をもっと探求しようと思った。……に強い関心を持った。

もちろん、これらの「学び」は複合して生起することが多いのが普通だろう。
(認知心理学などでこれらの領域はかなり研究し尽くされているはずだ)

重要なのは「学び」を狭いもの、固定的なものとしてとらえないことだと思う。
知識「だけ」でもいけないし、技能「だけ」でもまずいし、態度的な面をおろそかにはできないし。
裏返せば、「学び」を生むための意図的な行為〈それを教育というわけだけど)を狭いもの、固定的なものにするのは、それほど適切ではないということにもつながる。
同じパターン、狭い教育観、変化に乏しい手法では、そこから生まれる「学び」も貧しい、やせたものになるのは容易に想像できる。
教科の特質を的確に抑えつつ、多様な学びが生まれてくるような授業を創造することが、私にとっての永遠の課題だ。
なんていう月並みな結論に落ち着いてしまった。 ちゃんちゃん。