2013/03/27

道徳の評価の難しさ(国語と比較して)


道徳がもし教科化された場合、避けて通れないのが評価を明確にすることだ。
ちなみに、現行の学習指導要領において「数値による評価は行わないものとする」という但し書きがあるだけで、道徳の評価そのものについては否定はしていない。(が、現状では指導要録や通知表で道徳の評価を出さないということに落ち着いている)
もし、「道徳」が教科化された場合、総合的な学習の時間の評価のように、記述による評価が指導要録や通知表に記載されることになるのだろうか。なるだろうな。

道徳の評価の難しさは、それがその人の人格や価値観を、特定のものさしで評価することにつながるということだ。
たとえば、「身の回りの整理整頓をする」という内容項目がある。
道徳の時間で、「これからは身の回りを整頓します!」と力強く語っていても、普段の生活でだらしなさが見られたらそれを評価できない。
「思いやり」にせよ「自然愛護」にせよ、「道徳の時間」の中で測定するのはとても困難だし、どう考えてもばかげている。
「道徳」は「道徳の時間」だけでなく全教育活動に渡るというが、だったらなおさら、だれが、どのようにそれを評価するのか。

国語の場合は、建前として、普段はいくら漢字を間違って書いていたとしても、ノートや定期テストでしっかりとした漢字が書けていればそれでよしとしている。
友達とやり合っている手紙が、いくら国語教師から見て目を覆うくらいのひどい文章を書いていても、授業でしっかりと整った作文を書いていれば、それを評価する。
「生活」と、「学習」とは一応別のものとして評価しているからだ。(指導と評価の一体化)
しかし、、道徳はどう考えても、それが不可能だ。
その人の生き方とか価値観の根幹に関わるからだ。