2013/03/10

もらう・あげる・させる……教育頻出語尾の研究


いろいろな授業の様子や実践記録を読んでいて気になる言葉がある。
「もらう」・「あげる」・「させる」である。

1 下手に出すぎの「もらう」
「今日は皆さんに作文を書いて『もらい』ます」
「誰々さん、この段落を読んで『もらえ』ますか」
実習生の授業で、よくこの表現を見かける。
実習生の下手な授業によくぞついてきてもらって……という気持ちもまあ、わからなくはないが、私はその言い方をしたら必ず指導を入れる。
「授業で『してもらう』っていう言い方は、私はあんまり使わないかな。
教師が下手に出すぎているような気がする。
『○○さん、読んで! とか『作文を書きましょう』くらいの言い方で良いんじゃないの?
子どもと一緒に授業を進めているんだから。」

そうそう、授業中の指示で気になるのは「……ます」のような終止形で指示する形だ。
「今日は作文を書きます」
「ノートを開きます」
……なんか変じゃない?
他人に指示するなり、行動を起こして欲しいなら「…ます」ではなくて「……てください」とか「……ましょう」のような勧誘形になるのが普通の言い方ではないのかな?
どうして教室の中では、日常使わないような言葉使いが当たり前のように使われるのだろうか。
不思議で仕方がない。

2、偉そうな「あげる」
「……あげる」という言い方もたまに見られる。
これは上から目線のような気がして嫌だ。
「先生が読んであげましょう」
「これがチェックしてあげた作文です」
まあ、こんな言い方そう滅多にないか。
でももし無意識に使っているとしたら、ずいぶん偉そうな言い方だなあという気がする。
(わざと、恩を着せるようにふざけて言う場合はあると思うんですけどね。中学校だと)
それに、自分のことを「先生は」というような言い方を私はほとんどしない。
それでも中1相手では「先生は」ということは多いかもしれない。しかし中・高と進むにつれて、教師も少しずつ「先生」から「私」へと役割を変えていくべきだと思っているので、「私は」「俺は」という言い方が増えてくるようになる。
(非人間的な教師面をするのではなく、人間としての「私」の内面も少しずつ出していくという意味です)

3、「させる」は使っちゃいかん?
よく、子どもの主体性を尊重する教育という立場から、「~させる」という使役表現を使わないようにすべきだ。という主張がある。
 私は、かつて、ある公的な文書を作成するときに、文末の使役表現を全て子ども主体の表現に機械的に書き換える作業をさせられて辟易した経験がある。
言葉だけ変えて意味があるのか?と、そのとき大いにもやもやしたのだ。
「させる」という使役表現の言い回しを変えるように努力するのではなく、自然とそういう言い方をする割合が減るように、学習そのものを変えていけばいいのではないか。
そして、「使役」を使う際には、どの部分で「使役」を使い、どの部分では使わないか、そういう意識が教師である自分にあればいいのではないかと思う。
どんなに努力したところで、教師が生徒に勉強を「させて」いるという現実からは逃れられない。「使役」から逃れることはできないのだ。
だからこそ、「させる」部分と「自然とそうなる」部分とを、教師が意識的に組み立てることが必要なのではないだろうか。