2013/03/15

「目的や意図に応じ」の「目的」とは何か?


教師の目的と生徒の目的は違う

学習指導要領では、話す・聞く.書く、読むのすべての領域、すべての学年の目標は、実は同じ言葉から始まっている。
………「目的に応じて」という言葉だ。

「話す聞く」だったら「目的や場面に応じて~」、
「書く」、「読む」だったら「目的や意図に応じて~」のように。
すべての言葉の学習は「目的」をもった活動として行われる。
言葉は「目的」を達するための手段、道具である。
それでは国語の学習の中の「目的」とはいったい何だろうか?

国語の授業の中で、ありがちな間違いは「教師の目的」と「子どもの目的」を混同してしまうことだ。
たとえば、「オツベルと象」の授業で、教師が「宮沢賢治独特の言葉遣いに気づかせたい」というめあてをもって単元を設定するとする。
そのときに、「賢治独特の言葉使いに気づこう!」という目的を持たせるとしたら全くナンセンスだ。それは教師の目的(指導事項)であって、子どもの目的とはいえないからだ。どこに向かって、何をすればいいかこの目的では見当が付かない。

たとえば「『オツベルと象』の謎を探ろう」という目的ではどうだろうか?
生徒達が気づいた疑問点について探求するという「目的」を子ども達自身が持った上で、「賢治独特の言葉遣いに着目する」学習を進めていくというわけだ。
別の例で説明する。
たとえば「オツベルと象」で段落構成を学ばせたいとする。(教師の目的)
そのときに「オツベルと象の絵本を作ろう」という「目的」のある言語活動を教師が設定する。
その上で、生徒は絵本を作るという「目的」を達成する過程で、段落に分けたり、構成を考えたりという学習が進められることになる。(この授業がいいか悪いかはおいといて)

教師の指導したいこと(教師の目的)と、子どもの学習活動の目当て(目的)とは必ずしも一致しない。
教師の指導目標が達成されるために、いかに子どもが意欲的に取り組め、言葉の力を伸ばす言語活動の目的を設定することができるかどうかが、国語の単元を作る際で教師が腐心するところでもある。