2013/03/27

「飽きない」授業を目指して

1、「飽きっぽい」のは悪いこと?

ある本には、「関心・意欲・態度」について次のように説明されている。(『教育評価の原理』石田恒好)

「関心」とは、文字通り、対象〈刺激)に心が関わっている状態で、提示された課題、教材、教科書等を「見ている」、教師や友達の説明や話などを「聞いている」ということである。

「意欲」とは自分で(自主性)、進んで(積極性)、集中して(集中力)、終わるまで(持続力)学習に取り組んでいる状態である。

自分のことを引き合いに出すのも何だけど、私は非常に「あきっぽい」人間だ。
一つの課題に粘り強く取り組むことを苦手としている。
いろいろなことに「関心」がありすぎて、一つだけに集中するのがもったいないと感じてしまうのだ。
私のように、興味関心がないから「飽きっぽい」のではなく、興味関心が多方面にありすぎて「飽きっぽく」なる場合の人間もたくさんいるのではないか。

今の世の中では、web上で知りたいことが、すぐに知ることのできるようになっている。
好き勝手に興味のカーソルが向けられる現代は、余計なことまで「関心」を増長させる世の中でもある。「飽きっぽさ」を加速していると言える。
そういう意味で、現代の社会や教育は、ある面で「飽きっぽい」人間となるようにしむけているともいえる。
でも「飽きっぽいこと」はよくないことなのか?

2、「飽きっぽさ」の正体

「飽きる」と「飽きない」の差はどこにあるか?
「飽きる」とはどういう心的現象か?

角川の『類語新辞典』をひもといてみる
「飽きる」の対義語は?
没頭する
熱中する
凝る
浸る
耽溺する
執着する

飽きるの類義語は?
退屈
倦怠
三日坊主

「飽きる」の原義は?
白川静『字訓』に登場してもらおう
「あく」(飽・厭)
心にかなって十分満足することを言い、これが原義であった。
……(その後)十分すぎて厭うという語義の転化が見られるようになった。

なるほど、「飽食」という言葉があるように、飽きることは、満足しすぎてかえって不快に思ってしまう状態を言うのか!
、「飽きっぽい」のが真の問題ではないということだ。
問題は、教師が「満足」の先にある「満足」を、授業の中で提供していないということなのだ。

3、「飽きない」授業を目指して
飽きない授業をどのように創造すればいいのだろうか?

同じことの繰り返しの中に、新たな魅力や意味を見出すことができれば「飽きる」ことはない。
繰り返し自体が心地よい場合も「飽きる」ことはない。
はじめは退屈に見えるが、繰り返し、かみしめていくうちに味がにじみ出されていくものもある。

「飽きさせない」ためには、
飽きる前にやめる
常に新しいコンテンツを提供する
新たな視点や意味付けをする
心地よい繰り返しを体験させる
隠された魅力を根気よく引き出していく

「回転寿司」のように、飽きる前に多様な学習活動をたたみかけるやり方もある。
かみしめると味がにじみ出してくる「スルメ」のように、どこまでも魅力を突き詰めていくことのできる、奥行きのある活動を設定するやり方も考えられる。
「ご飯」や「みそしる」のように毎日食べても飽きないような、「定番」の味を提供し続けるという手もある。習慣化に持ち込むという手だ。

「飽きない」授業とは、「満足」の先の「満足」を提供することだ。
「回転寿司」のような多様さ。
「スルメ」のような奥行きのある豊かさ。
「ごはん」のような定番の持つ安定性。