2013/03/15

対話を拒絶する言葉

私がつい使ってしまう言葉がある。
「……の経験がないと、……は分からない。」
これは相手を沈黙させる最強の切り札だ。
男じゃなきゃ……のことはわからないんだよ。
教師じゃなきゃ……なんてわからない。
大人にならなきゃ……なんてことは絶対に理解できない。
など。
確かに世界はそのようにできているだろう。
経験しないと見えないことなど山ほどあるのだ。
だけど、よく考えると、これほど対話を拒絶している言葉はないのだろう。
「おまえにはわからないんだ。黙って言うとおりにしろ」と言っているようなものなのだから。

説得力があるかどうかということと、発言が他者に開かれているかどうかということは、どうやら違うベクトルらしい。
説得力があるんだけど、発言が他者に開かれていないなあと感じることがある。
発言が他者に開かれているようには聞こえるけど、説得力がそれほど感じないものもある。
その差は何だろうか。

、「やっぱり……だよね」という言い方も、人から言われるのはあまり好きではない。
これは相手とわかり合える(つもりになる)便利な言葉だ。

「国語教育の醍醐味ってやっぱり文学でしょ」
「子どもって、やっぱり外で走り回るのが好きだよね」
などなど。
ひねくれているわたしからしてみれば、「本当にそうなのか?」「みんながみんなそうじゃないだろう?」と「?」がいくつもいくつもわいて出てくる。
「やっぱり……でしょ」という言葉も、共感を押しつけ、反論を言いにくくするという意味で、対話を拒絶している言葉の一つに加えてもいいのではないか。

この対話を拒絶する言葉に共通することは何だろうか?
それは、「自分の考えについての反論を想像さえしていない」という知的怠慢から生まれる言葉という点ではないか。
どんな意見でも、その反対の考えはあり得る。
どんな常識も、地球の裏側では全く異なるかもしれない。
視野が狭いと、または、自分の知識や経験を絶対視すると、その知識や経験が劣っていると見なす相手に対しては、自分の見解を決めつけたり、押しつけたりしてしまうのではないだろうか。

そうそう、こういう言い方もあった。
〈自分ではよく言っているくせに)この表現を使っているのを聞くと、どうかなあと思ってしまう。

「…と言われている。」
「…ではこうなっている」

使用例
文科省では……となっている。
……大の◯○先生は……と言っている。


やはりこれも、対話を拒絶する言葉だ。
権威によって相手の考えを抑えようとしているのだ。
「お前は一体どう考えているの?」という批判を巧妙にかわす言葉の一つだ。
「虎の威を借る」言葉とか「黄門様の印籠」言葉とでも名付けてやろうか。


ここで問題にしているのは「正しいか、正しくないか」ということではない。
「開かれているか、開かれていないか」である。

どんな相手に対しても、謙虚に耳を傾け、学ぼうという姿勢さえあれば、上記のような言い方はおそらくしない。
この場合の謙虚さとは、モラルの問題ではない。異質な考えを受け止めつつも、根気強く考えを進める知的な謙虚さである。