2013/11/26

「授業をみること」にまつわる三章

◆授業をみる1 授業に「つかる」
授業参観や研究授業などで他の先生の授業を見るとき、私は、授業を客観的に「見る」と言うよりは、正確には「授業(教室?)につかる」という感覚が近い。
お風呂のようにどっぷりと、その先生や子どもたちの教室の醸し出す空気に、肩まで「つかる」のだ。
もちろん、指導案も、教材も、授業のねらいも、事前にある程度は読み込んでおいてから参観するのだけれども、教室に入ったらどっぷりと「つかる」ようにその授業の世界にひたる。(首から上は残しつつ)
そうすると、いろいろなことが感じられるようになってくる。
先生と子どもとのちょっとしたやりとりの呼吸、子どもが頭をぐわんと働かせるときの音、授業が展開するときの潮のうねり、よどみ、満ち引き。
良い授業は心地よい「お風呂」のようなゆったり感がある。そして終わった後に心地よい疲れがある。よどみない流れがあり、動きがあり、一体感がある。
そんなふうに、液体のような感覚で、他の先生の授業と教室を見ていることがよくある。こんなこと感じるのって私だけ?

◆授業をみる2 「あいだを感じる」
授業を見ることは「あいだを感じる」ことだと思う。
まず、教師と生徒の「あいだ」、生徒と他の生徒との「あいだ」、そして生徒と学習内容(教材)との「あいだ」、さらには、過去と未来との「あいだ」、教室と社会との「あいだ」……etc.
これらのやりとり、相互作用を、千里眼のような透視能力を持って(持ったつもりになって)見ようとすることが、私にとっての「授業をみる」ということだ。
その「あいだ」が、うまくつながったかな? とか、いま、……が影響を与えているな? とか、あ、離れちゃった!とか、そんなことを感じながら授業をみていることがある。

◆授業をみる3 「コメントを言うつもりでみる」
新採のときから、地域の公開授業などで他の先生の授業を見た後は、必ず自分から発言をするようにしていた。(義務感でというよりは言わずにはいられなくなってしまう体質らしい)
いまの学校のように実習生を毎回大量に見るようになったらなおさら、他の人(実習生)の授業を見終わるたびに、何らかの気の利いたコメント(評価なり、助言なり)を言わなくちゃいけない機会が増える。
そうすると、「人の授業を見る=それについてコメントを言う」というサイクルが自動的にできあがるようになる。
実習生の指導案を見たら、即座にそれについてコメントを言わなければいけない。
実習生が授業をしたら、すぐに、それを見た講評を言わなければいけない。
(「まあ、よかったんじゃない」といういい加減なコメントとか、「板書がきれいだねえ」なんていう低レベルな台詞は、決して言うまいと自分に戒めている。同じ授業を見たどの先生よりも、授業の本質をとらえたコメントを言おう、うならせようと、毎回必死に考えている)
最初はとてもきつかった。しかし、これもある程度、経験というか、こつがあるらしいのだ。
それは、前もって「コメントを言うつもりで」、ネタを探しながら見るということだ。
他の人の授業を見ながら、授業(子どもが学ぶプロセス)の基本的な骨格とか考え方に関わる要素、「授業のツボ」のようなもの(として自分が考えてきたこと)とその授業とを参照しながら、自分の考えを述べるようにしているのだ。
そのコメントも、抽象的な理念を述べたててもわかりにくい、かといって、授業テクニックだけを開陳するのも浅はかだ。私の持っている力の範囲で、抽象的な理念のような部分と、それを支えるテクニックをサンドイッチのように併せて伝えるようにしている。
(実際は、そんな偉そうな、たいそうなものではないけど)
去年、私が実習生に言った内容が、今年は真っ向から反対することを言う場合もある。
たいていは、以前実習生に言った内容なんて思い出すだけでも恥ずかしいようなことばっかりだ。
……しかし、もっと問題なのは、実習生に伝える内容がマンネリ化してしまうことだ。
実習生にとってはいいかもしれないが、毎回代わり映えのしないコメントしかできないのも、うんざりするし、とても情けなく感じることがある。だから、なるべくより新しい角度で、コメントを言うことができるように心がけてはいる。
(このブログに書いている駄文も、読み返すとうんざりするものばかりだけど)
しかし、「コメントを言うつもりで見る」ことと、実際にコメントを言ってみることの繰り返しは、「授業をみる」力を高めていることは、どうやらあるらしい。(当社比)