2013/12/15

論文と意見文の違いは、そこに「問い」が立てられ、対話が成立しているかどうかだ。

論文の論文たる条件とは何か?
どんな論文がいい論文なのだろうか?

いろいろな文献を読んでいると、自分の思いが先走ってしまい、独りよがりの意見文(檄文?)となっている「残念な論文」に出会うことがままある。
本人の中で「答え」が決まっていて、その「答え」を、もったいぶって「論じて」いるように見せかけているだけなのだ。
だから、通じる人には通じる。通じない人には通じない、独善的な文章に見えてしまう。
・子どもの主体性を尊重すべきだ。
・単元学習(課題解決学習)は正しい。
・教え込みはいけない。
などなど。
意見文や決意表明だったらいいけど、これが論文だったりすると、読んでいる人はうんざりしてしまう。
教育系の論文には、特にこの「激情型」とか「感傷型」檄文が多いような気がする。
そのような論文には、おそらく価値中立的な「問い」がない。そして「問いを立て、根拠を示して論証する」という「対話的な展開」も弱いだろう。
・なぜ主体性を尊重しなければいけないのか?
・そんなに単元学習が良いといえるのか?
・なぜ教え込みはいけないというのか?
という、もやもやとした問いを認めた上で、それに対するデータなり事実なりが示され、そして読み手を説得するというのが「論文」として成立すべき条件だ。

一番初めの「読み手」は自分自身だろう。自分自身が、自分と違う前提、異なった立場、知識を持っている人になったつもりで説得することが重要なのだ。
自分のなかに「『物わかりの悪い』他者」をいかに持っているかが、対話としての「論文」が成立するためには大切なのだろう。

ということを感じて、論文の項立てをあらためて疑問文の形式で立て直すことにしてみた。
・……とはそもそも何なのか?
・……は必要なのか?
・……とはどんな力か?
・……を育てるためにどんな取り組みがされてきたか?
などのように。