2015/08/05

人間関係と「会話の輪」

よくコミュニケーション教育の文脈では、人と人との親和的な関係とか信頼感が重要だと言われる。
それはそれでおおむね間違いないんだけど、本当に現実はそれだけなのかということについては一考する価値があるだろう。
たとえば「会話の輪に入る」「会話の輪に入れない」とか「蚊帳の外にいる」という感覚がある。(この場合「輪」とは一対一ではなく三人以上のコミュニケーションの中で、一人が疎外感を感じるような状況をいうことに注意して欲しい。)
それは、イコール人間関係ができていないからだ、と言い切れるのか?
たとえば、親子三人で会話をしている。と、その親子の会話が、ふとしたきっかけで夫婦の会話になった、そのときに、「会話の輪」から外れた子供は蚊帳の外になり、疎外感を感じてしまった。
その夫婦はそれに気づき、会話の輪に我が子を参加させようと配慮する、または、子供がむりやり夫婦の会話に加わろうとする、その配慮や努力によって、会話の輪は広がり、親子全員が会話に参加した状態になった。
もう一つ例を出す。
ある教員向けの研修会があったとする。その研修会に初任の先生が参加していた。すると、話題があまりにもレベルが高すぎてついていけない。だから、会話がいくら盛り上がっていても、初任の先生は会話の輪には入れなかった。それを見かねた他のメンバーが、初任の先生を会話の輪に入れようと気を使ってくれたおかげで、なんとか初任の先生も会話に参加することができた。
さて、この二つの例は、どちらも「良好な人間関係」を前提にはしていないことをあらためて考えて欲しい。家族だって、赤の他人が集まる研修会だって、疎外感を感じることはあるし、逆に、会話の輪に加わることはできる。つまり、どんな関係性でも会話の輪ができるときとできないときがある。
それはざっくりと言ってしまえば「人間関係を構築する力」と言えちゃうかもしれないけど、それだけでは何も言っていないに等しいのではないか。
それには、もっと、態度的なものだけでなく、知的な能力やスキルのようなものが介在しているのではないか?
「会話の輪」に参加する能力、「会話の輪」を感じる能力、「会話の輪」を広げる能力という、会話という「言論の場」をメタ認知する能力がここでは問われているのではないか。
結局、こういう発想がいまいち浸透していかないのは、コミュニケーション教育の一番の落とし穴は、一対一で話したり聞いたりという状況を前提としているところにあるのではないか?
「会話の輪」は一対一ではなく、三者以上の関係性のなかで顕在化する。
そのなかで、三者がどのような会話の順番を取り、話題や語彙の選択などをするか、誰が参加するかという繊細な駆け引きがおこなわれる。
そのような「会話の場」「言論の場」という場に対する感覚や責任感のような態度を、コミュニケーションの能力に含めてもそろそろいいのではないか。