2015/08/05

会話分析の知見から「きくこと」を捉え直す

 聞き手の力、質問の力とは何なのか。これまでぼんやりと考え続けてきた。聴衆に向かって一方的に話すプレゼンのような独話と、話し手と聞き手が質疑応答をしあう、やりとりのある対話的活動とは何かが違うようだ。そこには、話し手、聞き手の構えが本質的に異なるのではないか。
 調べていくうちに、社会学の領域では会話分析、さらにそこから発展したエスノメソドロジーという学問領域があるというのを知った。エスノメソドロジーとは人々(エスノ)が暗黙のうちに従っているルールや規範などの方法(メソッド)を記述する学問のことをいう。会話分析では、人と人との会話のやりとりに焦点を当て、会話に潜む目に見えないルールの存在を次々と明らかにしていっている。この会話分析の知見から、授業改善へのヒントを得ることができるかもしれない。

会話分析の入門書としては以下の三冊がおすすめ。






「会話の順番取りシステム」と聞き手の価値
 会話分析が明らかにした基本的な会話のルールに「一度に話せるのは一人」というものがある。考えてみれば当然のことだ。どんなに大勢でも、聖徳太子のような人が相手でない限り、話す人は一人だけだ。だから会話とは「一人の話し手と、一人または複数の聞き手が、何度も入れ替わる発話のやりとり」であると定義することができる。そしてその素朴な発見から、会話分析の研究が大きく進んでいくことになる。それは「話し手がいつ交代できるかというタイミング(完了点)のルール」と、「話し手が交替するときに、次に誰が話すか決めるルール(会話の順番取りシステム)」についての知見である。(H.サックス)

会話の順番取りシステム(次に話す人はどのようにして決まるか?)

A 現在の話し手が次の話し手を選べば、その選ばれた人に話す権利と義務があり、順番がかわる。

B 現在の話し手が次の話し手を選ばなかったら、最初に話し出した人が話す権利があり、順番がかわる。

C AでもBでもない場合は、現在の話し手がそのまま話を続けることができる。


 このように、自由な会話の中では、発言する順番は上記の見えないルールが存在していることが明らかになっている。この場合の「次に話す人を選ぶ」というのは、普段の生活では、必ずしも具体的に指名をしたり、挙手をさせたりするわけではない。日常では、指名や挙手の代わりに、話し手や聞き手の目配せやうなずき、身体の向きといった微細な身振りが順番交代の合図として機能している。
この「会話の順番取りシステム」の知見として重要なのは、会話は、誰かが一方的に話したり、他の人が聞いたりする行為であるととらえるのではなく、双方が話し手(聞き手)となる可能性を常に持っているという前提があるということである。「会話という場」に参加する人々が、いつでも交換可能な存在として、発話のタイミングをはかっている「駆け引き」が行われていると捉えるということだ。
 会話分析における話し手と聞き手との関係ついて、西阪(2009)は「活動の空間的および連鎖的な組織: 話し手と聞き手の相互行為再考」『認知科学』16-1: 65-77.」のなかで、

 「会話分析」の伝統においては、相互行為における発言の組織が、話し手の一方的な決断にもとづくのではなく、つねに聞き手との協働のもとで成し遂げられること、このことが当初よりその主張の中心にある。

とのべ、具体的に、会話における聞き手の役割を次のように述べている。

 現在の話し手が、次の話し手の選択を行っていない場合、現在の順番の実際の終了は、いずれかの聞き手が、その可能な完了点において自ら話し始めるかどうかにかかっている。つまり、現在の発言順番がどのような大きさとなるかは、しばしば聞き手の出方に依存している。
 (中略)
 あるいは、可能な完了点(筆者注 会話が終わりそうなタイミング)において、聞き手はあえて「順番を取るのを控えること」をすることがある。例えば、現在の発言が可能な完了点にいたったとき、聞き手は「ん」とか「ええ」とだけ言うことがある。そうすることで、一方で、自分が順番を取ってもよい場所がいま出現しているという理解を明らかにしつつ、他方で、その場所で実質的な順番を取ることなく、順番交替の機会をあえてやり過ごす。こうして現在の話し手はさらに発言し続けるよう、いわば促される。だから、可能な完了点を超えて発言が続くという事実も、聞き手との協働の産物でありうる。

 このように、会話分析の立場から「聞き手」の役割をとらえると、そこに「話し手」を支える「聞き手」の能動的な存在を再確認することができる。「聞き手」はいつでも「話し手」に交代しうる、「待機する」存在であった。それは裏を返せば「聞き手」の沈黙は「黙って行儀良く聞いている」というだけではなく、「あなたが話し続けていいですよ」「あなたに話す権利を委譲しますよ」という承認や支持、促進のメッセージとしても機能することも示す。これは、一方的に話し、それを一方的にきくスピーチなどの「独話」とは大きく異なる対話の特徴なのではないか。(より本質的には「スピーチ」も聞き手との対話なのだろうが) 聞き手が話し手と場を共有すること、そこで聞き手として「待っている」こと。話し手の話を「期待」しながら聞き、いつでも聞き手がその会話に介入しうる、「待機する」存在の呈示そのものが、「話し手」の自律と責任を促す。その両者の駆け引きの緊張感こそが「話しがい」のある関係性となっていくのではないか。会話における「聞き手」とは、このように会話という相互行為の場において「待機」し「期待」して、引き出されていく話し手の語りを「待つ」人であるということができる。

鷲田清一も「聴く」「待つ」ことの価値について論述している





②生き生きとした対話を引き出す「隣接ペア」

もう一つ、会話分析が明らかにした重要な知見は、どのような言語であっても、会話のやりとりには連鎖的につながるパターン(「隣接ペア」という)が存在するというものだ。例えば、目の前にいる人が「こんにちは!」と挨拶をしてくれば、見知らぬ人とでも反射的に挨拶を返さなければと感じるだろう。挨拶のような決まり文句は「隣接ペア」の分かりやすい例であるが、それだけに限らず、我々の会話のなかには、依頼ー受諾、提案—承認、質問—応答、激励—感謝などの「投げかけ—応答」の連鎖的なパターンがあり、その隣接ペアのパターン、ルールに従いながら会話をしていることが明らかになっている。
 たとえば、「ただいま」と言えば、「お帰りなさい」とこたえる。この「お帰りなさい」という言葉(第二発話)は、「ただいま」という発話(第一発話)によって引き出された言葉である。投げかけられる第一発話によって、第二発話はあらかじめ規定されている。その隣接ペアのルールをあえて破って会話をしていくことは、実は容易なことではない。(相手に失礼に感じさせたり、ちぐはぐした会話になる)何気ない会話のなかにも「隣接ペア」というルールが厳然と存在している。 
隣接ペアのルール
 ①2つの発話からなる。       
(例「ただいま」(第1)—「おかえりなさい」(第2)
 ②それぞれの発話は隣り合っている。
 (隣り合う=連続して発話される)
 ③第1発話と第2発話の話者は異なる。
 ④第1発話の次に第2発話が来る。
 ⑤第2発話は、第1発話の影響を強く受ける。
この知見によって我々が学ぶことができるのは、会話には、お互いが自由に、好きなように発言をしているように見えて、その中には無数の「隣接ペア」のような「投げかけ—応答」のフォーマットがあるということだ。これを対話学習に活用できないだろうか。
 しばしば教室での「交流」が、順に自分の考えを述べ合うというような、情報の報告会に終始するのは、そこに生き生きとした対話(話し手と聞き手とが相互にやりとりし合う)が存在しないからではないか。
 生き生きとした対話、相互作用の場とするためには、「投げかけー応答」などの「隣接ペア」の活用が効果的である。たとえば、意見を順に報告し合う「独話」スタイルの交流から、「質疑—応答」「提案—承認」「勧誘—受諾」のような「隣接ペア」の埋め込まれた「対話」スタイルへと意図的に変えていくのだ。
 意見や感想を一方的に伝えるよりも、「聞き手」からの依頼や質問をうけて、それに応じて「話し手」が語り出すスタイルにした方が話し手のモチベーションは高くなる。そして対話が引き出されていくものである。「聞き手」を一方的な情報の受け手とするのではなく、「話し手」との対話を促す存在へと変えていくために、やりとりを生み出す「隣接ペア」のフォーマットを意識的に活用することが有効である。

③「成員カテゴリー化装置」によってコミュニケーションをずらす
 最後に、会話分析から得られる知見として有益だと思われるものを一つ取り上げる。それは「成員カテゴリー化」という概念である。「成員カテゴリー化」とは、会話を通して話し手、聞き手の立ち位置が自然と浮かび上がってくる作用を指す。
 例えば、筆者は中年男性であり、夫であり、千葉県出身であり……というさまざまなカテゴリーに属する主体である。しかし、学校という制度的な空間の中で、15歳の少年と会話をする、そのやりとりの中において、筆者は「中学校教師」となり、15歳少年は「生徒」というカテゴリーに属することになる。「成員カテゴリー化装置」とはそのように、会話などの相互作用を通して立ち現れてくる立ち位置や役割をうながす暗黙のシステムを指す。この「成員カテゴリー化装置」には以下のルールが内包されている。

「成員カテゴリー化装置」の運用ルール
【経済規則】 ある人を特徴付けるには一つのカテゴリー集合で十分である。
【一貫性規則】同一の場面内であれば、ある集団に含まれる人がカテゴリー化される場合、最初の人に適応されたカテゴリー集合が以下の人にも適応される。
この運用ルールからわかるように、人とのコミュニケーションにおいては、そのコミュニケーションのやりとりを通じて、自ずとお互いの立ち位置や役割が一つに規定され、そしてその規定に沿って行動や会話が仕向けられるということである。
 重要なのは、そのような役割や立ち位置が、初めから決まっているわけではないということだ。人は、会話を通して、複数のカテゴリー(男性、夫、教師etc.)の中から、一つのシンプルな役割(中学校教師)に導かれていく。筆者が「教師」でいられるのは、社会的な身分だけでなく、より本質的には、生徒や同僚とのあいだで「教師らしく」会話し、振る舞っているからに他ならない。また、そのようなカテゴリーに属していることによって、状況や関係性に埋め込まれている固有のコミュニケーションの様式を、自然に身につけていくことになる。(教師らしく話せるようになってくる)
 さて、この「成員カテゴリー化」という概念を、学習にどのように活用していくことができるだろうか。
 「中学生」は、コミュニティーの中でさまざまな表情を見せる。学校の中では「生徒」として、家庭では「子ども」として、部活動では「先輩」としてetc.……それらの相互の関係性がコミュニケーションの質を、表現の幅を規定している。実社会では、教師は教師らしく、医師は医師、芸能レポーターは……それぞれが、それぞれの社会的な立場に応じたコミュニケーションの様式、スタイル(文体)を獲得し、活用している。
 中学生が豊かなコミュニケーションを学び、生み出すためには、「生徒」というカテゴリーをずらし、多様な関係性と、さまざまなコミュニケーションのスタイルを学ぶ場を与えることが効果的なのではないか。たとえば、擬似的ではあるが、生徒がニュースキャスターになってリポートしてみる、親と子の関係を演じてみるなど。このようにして「生徒」というカテゴリーをずらし、話し手、聞き手の関係性をずらしてみることによって、日常生活に埋め込まれたコミュニケーションの暗黙の前提を振りかえる契機となるのではないか。このような視点に立てば、「成員カテゴリー化装置」の概念を、授業改善のヒントとして活用することが可能となる。
 このように、会話分析の知見(会話の順番取り、隣接ペア、成員カテゴリー化装置)から、授業を開発するためのヒントとしていきたい。