2014/12/13

高校生の演説はなぜ空疎か、または、日本人は演説ができるか?

先日、ある大学の先生からとても興味深いことをうかがった。
都内の高校のイベントで弁論大会に参加したんだけど、その高校生の日本語弁論が全く上滑りで、全然心に響いてこない、説得力のないものだったということだった。
反面、同じ高校生の英語スピーチのほうがよっぽどロジカルで、心に届くものだったということだ。
両方とも都内を代表する高校生、英語と日本語、この差は何なのか?と。
スピーチが下手?というとちょっとちがう。学校で選ばれ、都内でも代表になるくらいの生徒だ。しかし不自然に感情が出過ぎて、全国民の意見を代表しているかのような物言いが、ものすごく空疎に響いてしまう、そのくせジェスチャー、ボディーアクションはとっても巧みなのだ。だから、よけいに空回りして見えてくる。
(もっとも、外国人から見ても、日本人がジェスチャーをして演説するのはかなり奇異に映るらしい)
その先生はいくつかの仮説をおっしゃっていた。
一つは、日本語の演説の良いモデルがないのではないかということ。だから、うさんくさい政治家のような、思い入れたっぷりな空疎なボディーアクションなどを模倣してしまう。(某予備校の先生??)
もう一つは、日本語の書き言葉と、話し言葉とではまだ断絶がある。演説向きの話し言葉が十分成熟していないのではないか? それが英語の場合はわりとすんなりと書き言葉と話し言葉とがつながっているのではないか。
さらには、もしかしたら、その高校生を指導する教員が、「良い演説ってこういうものだ」というのを勘違いして指導してしまったいるのではないか、という仮説。
なかなか興味深いお話だった。
中学校でも同様の話はいくらでもありそうだ。優等生的な演説、優等生的な作文。よい演説のモデルの不在。(教師である私がそのよいモデルになれるかと言ったら、全然その自信は無い)