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2015/07/10

単元「わたしの素」〜本との出会いのこれまでとこれから〜

「わたしの素」ができるまで
中学3年、読書生活を振り返る学習。
学首指導要領では、中3「読むこと」の言語活動例に以下のように示されている。
「自分の読書生活をふり返り、本の選び方や読み方について考えること」。
「読書生活をふりかえる」とはどういうことか、「本の選び方や読み方について考える」とは何をどうすることなのか。
授業をする二ヶ月ほど前から、それをぼんやりと考え続けていた。
ぼんやりと考え続けてたある日、学校図書館をうろうろと眺めていたら、次の本と「出会った」。

『ほかの誰も薦めなかったとしても今のうちに読んでおくべきだと思う本を紹介します。 』
この、長ったらしい名前の本は、角田光代、森達也、村上陽一郎、上野千鶴子、木田元、金原瑞人などのそうそうたる執筆陣が、14歳の少年少女にむけて、「今のうちに読んでおけ」という本について熱く語っている本だった。
この本に登場する方々は、どれも10代に強烈な読書体験をしている。そして自分の人生に影響を与えている1冊を、いくつになっても熱く語り続けることができる。
これだなと思った。
本にはそういう力がある。読書の力とはそういうものなのだ。
「読書生活をふりかえる」というのは、単に一日何分読んだとか、何冊読めたというレベルの話ではない。今までの人生の中で、あるいは日々の生活の中で、どのような一冊と出会い、そして自分の運命を変えていったか、切り開いていったのか、そのルーツまでたどらないことには「ふりかえる」なんていうことにはならないのではないか。
この風変わりなタイトルの1冊と出会ったことで、授業の発想が一気に膨らんできた。

授業を構想するとき、私はまず授業のタイトルから考える。
最初の案は「私のつくり方」・・・・・うーん、そういうことなんだけどちょっと違うなあ。「つくり方」っていうような、外側からこしらえる感じじゃなくて、もっと内的な必然性に導かれるようにして、一冊の本と人は出会っていくのではないだろうか?
悩みに悩んで、最終的には「わたしの素(もと)」という授業タイトルにした。
「わたしの素」。「味の素」みたいに、自分という存在の、「味」を作り出す要素のようにも読める。また、「もと」をたどっていく、ルーツをさかのぼっていくようなイメージにも連想が進んでいく。これはなかなかいいかもしれない。
このような紆余曲折を経て、ようやく一ヶ月前に、授業のおおまかな構想が固まった。

「引き出す質問」を学ぶためにはどうすれば良いか
この授業のもう一つのねらいは、「わたしの素」の交流を、一方的に伝え合う活動にするのではなく、質問を通して引き出し合う活動にすることだった。「引き出し合う質問」を学ぶ学習活動にしたかった。
「質問」ということでいえば、ほとんどの生徒が日常的に「質問」はしている。分からないことを教師に聞いたり、興味を持ったことを友達に「質問」したり。
しかし、世の中で必要とされている「質問」は、もう少し広がりのある概念だ。自分が知りたいことを「質問」するだけでなく、相手の気持ちや考えを引き出すときにも「質問」は用いられている。
「今日の体調はどう?」
「君のこの取り組みは、どのへんをゴールにして進めているの?」
「この話し合いのテーマが何か、もう一度確認しませんか?」など。
このように、相手の意向をうかがったり、相手との相互関係の中で新たな文脈を作り出すことも社会生活における「質問」の大きな働きの一つだ。
また、コーチングやカウンセリング、ファシリテーションといった職業の専門性の根幹にあるのも、このような相手やチームの力を引き出すための「質問」にあることはいうまでもない。
これらの質問は、自分が知りたいことを聞く、分からないことを質問するというタイプの「質問」ではない。そうではなくて、相手が話したいこと、相手が解決したいこと、相手が心の中でもやもやしている部分をクリアにするために行われる「引き出す質問」だ。
このような後者の「引き出す質問」を日常的に使えるようになって欲しい。すぐには使えなくても、中学生が「引き出す質問」を意識できるくらいにはなって欲しい。そういう願いから「引き出す質問」の授業プランを考えることにした。
「引き出す質問」を学ぶことの難しさは、いままでの「分からないことを聞く」というタイプの「質問」から「引き出す質問」というものがあるんだということへ発想を転換するところにある。
このような「引き出す質問」について、理論や理屈で中学生に説明しようとしてもそれは無理なことだ。そういうやり方でなく、「引き出す質問」を一気にイメージできる便利な方法はないか?
それはある。生徒の身近な生活の中で「引き出す質問」を目にする機会が、実はある。
それはテレビのトーク番組だ。
トーク番組では、ゲストを番組に招き、ホストから質問を投げかけ、ゲストの魅力を引き出していく。阿川佐和子や黒柳徹子という対談の名手がいる。「さんまのまんま」の明石家さんまがゲストに質問する「振り」も、そういう「引き出す質問」の一種だろう。トーク番組には「引き出す質問」のワザが縦横無尽に飛び交っている。
このトーク番組というフレームを使い、中学生を「ゲストの魅力を引き出すホスト役」にしてしまえばいいのだ。そうすれば、くだくだとこちらで説明をしなくても、一気に「引き出す質問」をイメージさせることができる。このような発想から、授業のフレームを「トークショー」とすることにした。
去年この学年で行ったビブリオバトルの手応えも、この「わたしの素」のヒントとなっている。
「質問」についてより詳しくは、ひとつ前の記事「質問考」へ
なお、この実践のトーク番組のフレームを使った先行実践は以上の文献に詳しい。中学校における「対話」学習の実践研究として筆頭にあげられる一冊だろう。先達はあらまほしきことなり。『国語授業における「対話」学習の開発』


読書生活をふりかえる仕掛け、三冊読書
今回の「わたしの素」では、今までの人生で出会った本の中から三冊をチョイスして紹介し合う活動を行う。
この「三冊」というのが意外にキモだったりする。
取り上げる三冊は同じようなものは避ける。(例えば「名探偵コナン」1巻、2巻、3巻みたいに)
三冊は、なるべく違う時期、違うジャンル、内容のものとするようにさせる。
一冊とか二冊でというのは比較的スムーズに決まる。ちょっと多そうだったら四冊という手もある。しかし三冊選ぶというのは不思議と難しいのだ。
プラスとマイナス、白と黒だけでなく、第三項を選ばなければいけない。そのため「三冊」は、選書が立体的なものになってくるようなのだ。そんなバカなと思うかもしれないけどやってみるとそれが実感できる。三冊は悩ましい。
今まで読んできた本を絞り込むこと、これだけでも、一体何を選べば良いか、どのような本を組み合わせれば良いかと頭を悩ませることになる。ためつすがめつ、昔読んだ本を引っ張り出して、読みかえしていくことになる。それを三冊組み合わせて、立体的に「わたしの素」を表現しなければならないのだ。このように「三冊に絞りこむ」というプロセスを経ることで、これまでの読書生活を立体的に捉え、ふりかえる意識へと、一気に高まっていくこととなる。
※なお、三冊を立体的に組み合わせる発想は、松岡正剛の「三冊屋」をヒントにしている。こんなところにも「編集」が潜んでいるのである。

いろいろと能書きをたれたけど、ここからが授業の実際となる。

単元名
「わたしの素(もと) 〜「本との出会い」のこれまでとこれから〜」

授業の概要
今までの十四、五年間の人生で出会った本の中から、印象に残っている一冊、大好きな作品、夢中になって読んだ本など、人生を変えた!というような本を紹介し合う活動をし、読書経験を共有していく。

授業の展開(全三時間展開)
1時間目 本との出会いをふりかえる
①単元の概要を確認する。
(授業については、一週間前に生徒たちには予告しておいてある)
②教師のデモンストレーションをみて、学習のイメージをつかむ
 教師とゲストとで「本との出会い」のトークショーをする。(「徹子の部屋」みたいなやつね、と言ったら一気に生徒とイメージを共有することができた)
③「本との出会い年表」を書く
④③の年表の中から、「わたしの素」を三冊に絞り、フリップに書く。(下写真)
このフリップや本の実物を提示しながら次の時間のトークショーが進んでいく。

(例)「〇〇さんの素」の三冊と、それに添えたコメント
3歳『さるかに合戦』……必ず最後に正義は勝つのだ!!
小学校3年生、『名探偵コナン』……あまりのおもしろさに人生を後悔
中学校1年生、東野圭吾『パラドックス13』……ミステリー系にドハマリ

このように、フリップには、それぞれの本の下に簡単なコメントが添えられている。
インタビュアーは、本の内容や、添えられたコメントという限られた情報から質問の切り口を考えていくことになる。
(写真の赤い付箋はトークショーで交わされた質問。トークショーを終えた後に貼ったもの)

2・3時間目 「わたしの素」トークショー
五人グループを作り、一人ゲストを決めて、そのゲストの読書体験を質問して引き出し合うトークショーを行っていく。
なお、授業は次のような展開で行っていった。

①トークショーの打ち合わせ(3〜4分程度)
ゲストは退席してグループから離れる。
その間、インタビュアーである四人は、ゲストが提示したフリップから質問内容を考えたり、質問を調整をしたりする。
質問が重複していないか、質問の順序は適切かなどを考えていく「作戦会議」を行っていく。この打ち合わせの段階で、すでに「引き出す質問」のメタ認知が高まっていくことになる。

②トークショー(7分くらい)
ゲストを拍手で出迎えてトークショーが開始。
それぞれの質問者は「二問ずつ」質問をしたら他の人にバトンタッチをしていく。(トーキングスティックであるぬいぐるみがバトン代わり)
この「二問」というところにもこだわりがある。
一問目は①の「打ち合わせ」で事前に考えておく質問。
二問目はアドリブでその場で考える質問。
言うまでもなく重要なのは、二問目のアドリブ質問だ。
二問目の、即興的に考える質問をひねり出すためには、ゲストの話を真剣に聞き取って、文脈を押さえ、どのタイミングで、どのような問いを切り込めばいいか考えていくことになる。特に、自分が知りたいことではなく、相手を引き出すための質問を意識していかなければならない。しかも、前の質問者や後に続く質問者の質問内容も意識して、上手くつないでいかなければならない。そのため、この質問はかなり難易度の高いものとなる。さすがにフリーハンドでは難しすぎると判断して、その支援として、質問のパターンをカードにしてテーブル上に並べておいた。
(全員ではないが、このカードを頼りに質問を考える姿は見られた。だから一定の効果はあったと言える。しかし、上手くトークの文脈をつなげるように質問を繰り出していくのはなかなか難しかった。きっとこれは大人でも難しいことなのだろう)








この「質問のカンペ」は、トークショーで質問として交わされそうな内容を片っ端から分析してカードに書き起こしたものだ。質問が思い浮かばなくなってしまったら、このカンペをチラ見しながら即興的に質問を思い浮かべることになる。(別にこのカードの言葉を言わなければいけないというものではない。ヒントカードのようなもの)
こういう学習言語、学習語彙を、子どもの活動内容に合わせて提示する手法は、先日、つくばの研修で学んだJSLカリキュラムの発想を参考にしている。

テーブルのセッティングは以下の通り。

三冊を紹介するフリップボード、質問のカンペ(質問の文型をカードにしたもの)、ゲストからのフィードバック用のカード、一問目の質問をメモするための付箋、トーキングスティック(ぬいぐるみ)、各グループの交流を録音するためのボイスレコーダー。

③ゲストからのフィードバック
ひとしきりトークショーが終わったら、ゲストから、このトークショーの質問をフィードバックしてもらう。
このフィードバックでは何も示さずにフリーに話してもらっても、もちろんいいんだけれども、そうなると「楽しかったです」で終わってしまい、浅いものとなってしまうことを危惧した。そこで、以下の四つのパターンをカードで示した。
(なお、この四つのパターンは、ゲストにとってフィードバックを引き出すという意味だけでなく、インタビューアーにとっても、トークショーの目指すべきゴールを共有するためのものとして機能していく。このトークショーの最高のゴールは「考えてもいなかった気づきを得る」ようなインタビューとなることだ。)
ゲストはトークショーが終わると、このカードを示しながらトークショーのフィードバックをコメントしていくこととなる。
よかった質問は? よかったところは? 質問を受けての感想は? などなど。

このような流れでトークショーのワンサイクルが終了する。

※なお、事後に、「わたしの素」の三冊、「本との出会い」年表、「本との出会い」の「これまで」と「これから」を振りかえるコメントを含む内容で、八つ切り画用紙に表現して掲示物にして他のクラス、学年とも共有していく予定。これは夏休みの宿題とした。

さて、この「わたしの素」の試みは、ひと言で言って、とても面白いものだった。
「思い入れのあるとっておきの本」というトークの題材、そして、それを引き出し合う仲間の存在、それを楽しむトークショーという虚構のフレーム、それらの相乗効果で、この交流は熱をおび、大いに盛り上がった。

実はこの授業は、学芸大の岩瀬先生も飛び入り参加をしてくださった。
あるクラスでは、1時間目のトークのデモンストレーションを岩瀬先生と。もう一つのクラスでは2時間目のトークショーを参観していただいた。
授業後、岩瀬さんから長文のフィードバックをいただいている。
このフィードバックが、活動場面での子どもたちの様子や、この試みの課題を知ることのできる何よりのレポートであると考え、最後に、以下、全文を紹介させていただく。


【授業参観記:長文】

今日は〇〇中学校の▲▲さんの授業を参観させていただいた。かねてから自分と同じ「匂い」を感じていた▲▲さん。今回突然のお願いにもかかわらず快くお引き受けくださり、研究室の院生の方々ら6人と一緒に2時間参観させていただいた。

一番の感想は「幸せな気持ちになった」だ。ボクは授業を参観するときに、そこに子どもとして座って授業に参加している自分を想像する。子どもである仮想の「ボク」は、本当に楽しそうに授業に参加していた。
そして生徒の皆さんが幸せそうに語り合う姿を見ていて、ボクも本当に幸せになった。

授業は、「わたしの素~「本との出会い」のこれまでとこれから~」。これまでの人生で出会った本、大好きな本、自身の人生に影響があった本など「わたしの素」になっている本を3冊選ぶ。その選んだ3冊についてグループごとに交流する授業だ。
グループごとに「徹子の部屋」のイメージでトークショーを行う。一人一人がゲストになり、グループのメンバーが「徹子役」(ファシリテーター)として、ゲストの「わたしの素」を引き出していく。

中3の皆さんは自身の「素」となった本について本当に嬉しそうに語っていた。思い入れのある本にはエピソードが埋め込まれている。本との出会い、その頃に体験したこと、本とのつながり。グループのメンバーはいかにゲストの魅力的なエピソードを引き出すかを「質問」でチャレンジしていく。全3時間の単元なので質問をブラッシュアップしている時間はあまりない。
そこは▲▲さんが周到に準備されていて、「質問カード」が各グループに配られている。
例えば、「具体性を引き出す質問」、「記憶を引き出す質問」、「感情・イメージを引き出す質問」等々。それぞれのカードに質問例が載っている。
これは、ボクがブッククラブの実践で使っていた「質問例集」に近いものを感じた。
http://d.hatena.ne.jp/iwasen/20140121
このカードを手がかりに質問をしていくわけだが、話し手に
「話したいストーリー」
があるので、次々に魅力的なエピソードが飛び出してくる。
ボクは生徒の皆さんのトークについつい引き込まれていった。うっかり質問したくなるくらい。ある生徒が語っていた『遠い町から来た話』は、帰り道で思わずアマゾンで注文してしまったほど引き込まれた。院生の皆さんもやはり参加したくなった!と言っていた。それくらい豊かな学びの場だった。こんなステキな授業を見たのはいつ以来だろう。
中3男子が「オレ、小学校の頃、黒魔女さんシリーズ読んでたんだよ−!」と嬉しそうに語っているのも何ともステキだった。

1時間はあっという間に過ぎていった。
「続きはまた次回」の言葉に「えー!」という声が出たところに、いかにいい時間だったのかがわかる。ボクももう終わりとは信じられない!というぐらい時間が短く感じた。
たった3時間の単元(今日は2時間目)でここまでできることに素直に驚いた。もちろん日頃の授業での積み重ねがあるからこそだろうけれど、その時間で深められるような丁寧な準備。その丁寧さが▲▲さんの実践を支えているのだろう。そしてきっとその準備はとても楽しいはずだ。(ボクもそうだったから 笑。▲▲さんほど丁寧じゃなかったけれど・・・・)
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以下印象に残ったことをざっくばらんに。
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・場の雰囲気がとてもやわらかく、もはやワークショップ。トークショーというフレーム、トーキングスティック(ぬいぐるみ)や、本の紹介用パネル、わざわざゲストの人は一旦退出して拍手で入場、と場を楽しむ仕掛けがふんだん。生徒の皆さんもそのフレームを楽しんでいた。時間が来ると、▲▲さんは「CM入りました-」笑。こういうユーモア、ステキだなあと思う。
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・トーキングスティックを回していってグループのメンバーが交代で質問するというルールになっていたのだが、回していないグループもあった。▲▲さんが「ぬいぐるみいる?どう?」と1回目と2回目の間に問いかけると、「いるー!」「いやされるー」。「じゃあ使おうか」。何気ないやりとりだが、この学習を共同で作っていくという▲▲さんの立ち位置が表れているなあと感じた。「共同修正」は授業はもちろん、学級経営でもキモになるとボクは思っている。一緒に作っていくもの、なんだと考えているからだ。
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・この授業は中学生に限らず、大人も十分楽しみ、深まる授業だ。ボクは「いい学びは年齢を問わない」を信念にしてやってきたが、この授業はまさに!だ。完成度の高い、豊かな学びのワークショップ。授業後▲▲さんに「授業のこだわりはなんですか?」とお聞きしたら、「大人に通用しないことを子どもにやるのは失礼だから、大人にやらないことは子どもにしない」とおっしゃっていた。この共通点は本当にうれしく、そしてそれを高い次元で実現している▲▲さんはすごいと改めて感じた。
▲▲さんはきっと授業を構想するときに「その授業に参加している自分」を見ているのではないか。自分もやりたい学び。だからこそ、生徒の皆さんの様子をあんなに嬉しそうに観察されていたのだろうなあと想像した。「自身を学び手として設定して授業や学級を考える」という視点は、ボクたちにとって一番大切なのかもしれない。
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・4時間目はこの授業の導入だったのだが、ボクもゲストとして生徒の皆さんの前でトークをさせていただいた。すごく緊張して汗が止まらなかったが(笑)、とても楽しい時間だった。話しているうちに「これも聞いてもらいたい」ということが湧き上がってくる自分がおもしろい。「ああこれを話したい」というときにそれを引き出す質問が出てくるか、違う方向に行ってしまうか、ということが起きるということも実感できた。
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・この授業を貫いている問いは、「いい質問(インタビュー)とは?」。この場合いい質問は、どういう質問だろう。①インタビュアーが聞きたいこと ②ゲストが話したいことでは質問が違ってくる。ゲストの主訴を意識して質問を組み立てるのもおもしろそうだ。作戦会議の作戦の方向性を定める感じだろうか。
そしてトークショーというフレームでは「お客さん」がいる。
お客さんを意識するかどうかで質問が変わる。
そのあたりを深めていってもおもしろいなあと感じた。そのためには、例えば、ゲストとインタビュアーがペアでトークショーを行い、他のメンバーは「お客さん」役にしてはどうだろう。金魚鉢の要領だ。インタビュアーにとって「お客さん」の聞きたいことはなんだろう、という視点が生まれて、いい質問についての洞察が深まりそうだ。トークショーをメタに見る視点も生まれる。これはボク自身が、生徒の皆さんの前で渡辺さんにインタビューしたときの実感から生まれたアイデア。観客を意識するとゲストとしてもインタビュアーとしても質問や話すことが変わっていく。その意味ではトークショーという場は豊かな可能性が含まれている。
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・一つだけ欲を言うと、7〜10分という時間はあまりにも短い。これは中学であるという現実的制約上やむを得ないのだろうけれど、もっと長い時間設定にしたいなあと思う。「いい質問とは?」を深めるためには、もう少し質問する機会が必要に感じた。トークショーとしては「いよいよここから」というところで終わってしまう班もあった。
また、時間に余裕があればどこかの班のプロトコルを読んで、生徒自身が質問の機能を分析してもおもしろいなあと思ったが、これは欲張りすぎか。いずれにせよ「語りきる」みたいな時間ができるとホントに幸せだろうし、生徒の皆さん同士のつながりもより生まれただろう。そう、この授業は「本」を媒介に生徒同士がつながり合うデザインの授業でもあったのだ。ああ、やっぱり短くても1人20分はほしいなあ。
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・昼食を取りながら院生の方々の質問にも丁寧に答えてくださり、ただただ感謝。ここには詳しく書かないが、評価の話や、「いらないものを捨てていく」という授業づくりの話、「やらなきゃいけないこと」と「やりたいこと」の関係など、院生の皆さんには今後の支えになる深い話をしてくださった。飾らず本音で話してくださるので、院生も激しくうなづきながら聞いていた。ああ、ありがたいなあと思う。
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・ボクが大学生の頃、東京学芸大学の平野朝久先生は、バスをチャーターして全国の小学校に連れて行ってくださった。「いい子どもの学びをたくさん見ておいてほしいんですよ」とニコニコしておっしゃっていた。ボクはその時が教員としての原体験になっている。「すべての子どもには力がある」「すべての子どもは学びたがっている!」を具体的な姿で知ったことで、自身の信念になった。
今回、▲▲さんの授業を院生と共有できたのは、まさにあのときと同じだ。いい学びを実際に見て体験すること。これ以上の教師教育はもしかしたらないのかもしれないなあと思う。中学志望の院生は、未来の可能性を感じたと思う。ボクも未来を感じた。

院生の方々には、自主ゼミでぜひ実際にやってみて「学習者」を体験してほしい、それによって今日の学びがより深まるはずだ。
こんなにステキな授業を見たのはいつ以来だろう。本当に幸せな1日でした。これからも足繁く通わせていただこうと思います。本当にありがとうございました。

あ、一つ書き忘れましたが、
▲▲さんの授業に「持続可能性」を感じました。
特別なんだけど特別じゃない。
先生の肩に力が入っていないし、無理してない。自然体。
生徒にも過度に要求しない。生徒もまた自然な学びの場。
この自然さと「続けられる感」って今の多くの学校教育の実践にかけているなあと。

そしてなにより、両者の「やりたい!」が詰まっている授業でした。
これが授業の原点だと思うわけです。
▲▲さんの本への愛情を感じました。

「あこがれにあこがれる」ですね、▲▲さん。

引用終わり。
そう、そうなんだ。「あこがれにあこがれる」
子どもが好きで好きでしょうがないモノ(ここでは本)へのあこがれに、教師である自分も寄り添って一緒に伸ばしていくということ。
教師があこがれているモノ(ここでは本)への熱い思いに、子どももつられて好きになっていくということ。
その両方のベクトルが授業を作り、人を育てる営みの根幹となる原理となるのだ!


2015/07/03

「だめだし」の先へ

今日は教育実習最終日。最後の授業が精錬実習となった。
実習生にとってこれまでのベストの授業だったと思う。たった12時間(6×2クラス)の授業でも、ここまで変わるのかという成長が見られ驚かされた。
ただ、指導者の私としては反省点もある。もっとこうすれば良かったという思いは、実習生よりも、なまじ色々なことが見えてしまう私のほうが多い。
一番うかつだったのは「だめだし」の指示だけして、その意図や取り組み方について考えを向かわせることができなかったと言うこと。
たとえば授業で生徒に、活動に取り組む前に、前もって「……はいけませんからね」という説明をしていた。こうしてつまずきがちなポイントについて、あらか じめ注意しておくように伝えるという点では意味のあるコメントだったんだけど「……をしないで、じゃあどうすればいいのか」とか「……をしないように、ど う気をつければいいのか」「どう取り組めばいいのか」という点にまで、子どもたちの注意や意識を仕向けることができなかった。そのため、実際の子どもたち の動きに戸惑いが見られた。
この失敗の原因ははっきりしている。私自身の実習生への指導が「だめだし」中心だったからだ。実習生の一挙手一投足(というほどでもないけど)に、「…… に気をつけて」「……はまずいから……」「……はしないように」というような「だめだし」をしていた。が、「ならばどうすればいいのか」「どう取り組めば 良いのか」という意識に実習生を向かわせるところまではフォローできていなかった。
そういう指導の反映として、生徒に向けても「……はいけませんからね」という言いっ放しのコメントになってしまったのだろう。
「……はいけませんからね。そのかわりに……」とか
「……はいけませんからね。なぜだと思う?」
「……はいけませんからね。じゃあどうすればいいと思う?」
のように、かりに「だめだし」をするなら、その先へと意識が向かうような声かけをするべきであった。

2015/07/02

「デュアル型実習生指導」のリフレクションのしかけ

「デュアル型実習生指導」も明日が最終日。
2人の実習生が、別々の指導案を作り、それを共有し合って、自分の指導案と、他の実習生が作った指導案で授業をしていく。
明日の精錬実習に向けての、今日の午後は事前検討をみっちりと行った。
2人とも同じ教材、同じ授業展開で授業をしている。精錬授業をするのは2人のうちの片方だけなんだけど、精錬授業をしない実習生にとっても、自分の指導案で授業をしてもらっているので、とても他人事としてみていられない。
「わたし、いまさらになってこうすれば良かったっていう後悔ばっかり出てきちゃっているんですよ。もっと授業をしたいっなあって!」と反省しきり。
でもきっと「こうすれば良かった」っていうのは「やってみたから分かったこと」であり、「やってみて、振り返ったからこその気づき」なものなはずだ。
「デュアル型実習生指導」はそういうリフレクションの仕掛けが随所にある。
自分の指導案を他の人が授業することから生まれる気づき
他の人が別の教材で、同じ指導事項で授業をすることから生まれる気づき
他の人が自分の指導案で授業をして、他の人がリフレクションしているのを聞いて、さらにそこから生まれる気づき。
などなど。
そういう何重、何層ものリフレクション、気づきが
「こうすれば良かった!」「もっと授業をしたい!」という思いにつながったのかもしれない。

2015/06/10

「指導力」とはどれだけ「個」をイメージすることができるかだ。


昨日の研修でもっとも驚嘆させられたのが、練達の先生がじつにリアリティーを持って学習者を把握できているかということだ。そしてその生徒にあわせて、即座に指導計画を立てられるということだ。
たとえば、演習ではこのようなお題が出された。...
課題 次の3人の生徒にあわせた学習プログラムを考えてください。
A ベトナム人のトルンさん
インドシナ難民の両親
日本生まれ・育ち
小学一年生
就学前は家庭で祖父母と生活。

B ネパール人のハッサンさん
調理師の父
小学校三年生で来日
現在は小学6年生
日本語でおしゃべりできるようになったが、勉強はわからない。
C 中国人の王さん
留学生(博士)の両親
中学二年生
来日直後
保母では主要教科が非常によくできた
英語もよくできる。
さて、このような簡単なプロフィールが出された段階で、即座に3人の生徒にあわせた学習プログラムを考えなけばいけない。
「うーん、そうね、Cの王さんは家庭がしっかりしていそうだから、まず日常生活で必要な言葉を教えれば後は……」
「一番大変なのはBかなあ。おしゃべりはできるんでしょ。三年間日本にはいるけど授業にはついていけていないっていうことは、勉強に必要な学習用語が入っていないという可能性はあるわね……。でも今更易しいところからやるのはプライドもあるだろうし……」
と、まるで今ここにその生徒がいるかのような鮮やかなイメージを持って子供の姿が立ち現れてくる。
理屈や理論を学べば誰でもある程度は「上からのカリキュラム」は作れるようなってくるだろう。しかし、この先生のように、子供のなまなましいイメージからその場でアレンジしていく「下からのカリキュラム」を作ることができるのは並大抵の経験、努力、見識が必要とされるのだろう。昨日の研修でかいま見たある先生の「指導力」に心から驚嘆させられた一こまだった。

2015/05/19

「仮説の自己成就」を超えて

「仮説実験授業」に傾倒していたことがある。といっても「仮説実験授業」はほとんどが理科の実践だから、自分の実践にはあまり影響を与えられていないとは思う。
しかし、「何をするにも仮説実験」のあの発想の面白さには、何度も膝を打ったものだ。


よく校内研究などの実践研究で、仮説が必要かどうかが議論になる。仮説のない研究はよくないのか? むしろ仮説かあるほうが悪いのか?
私の結論をいうと、仮説はあってもいいと思う。仮説を明示することの効果も確かにあるだろう。
しかし最大の問題は、一度立てた仮説に実践が縛られすぎることと、縛られるようなチンケな仮説をそもそも立てていることにあるのではないか?
 (それは実は仮説を明示しているかどうかは関係が無い。明示していなくても無意識の前提や思い込みが隠されていることだってあるのだ)

「予言の自己成就」という言葉がある。仮説がお粗末だと、なんとか研究を形にしようと、そのお粗末な「仮説」という予言に実践を従わせる結果になる。
そうならないための、とっておきの方法がある。それは、仮説を100パターン立てることだ??
まあ、そんなにオーバーでなくても。正反対の可能性や、別の角度からの検討も、等しく「仮説」として念頭においておくのが有効だ。
そして途中の路線変更や撤回も柔軟に行っていく。そうすればはじめに立てた仮説に縛られずに、常に前向きに、貪欲に実践を捉えようという気になる。


「こんなのアクティブラーニングじゃない」「これぞアクティブラーニングだ」とか、「この指導法は誰々先生がおっしゃってたものといっしょだ」「ちがっている」とかいう、お粗末な「仮説の自己成就」のさまを見聞きするたびに、なんてつまらない研究してるんだろうなあ、なんと勿体無いと、残念な気持ちになってしまう。
彼らの頭の中には「あるべきアクティブラーニング」や、「望ましいカリスマ実践家の理論」という「仮説」が鎮座ましましているからだ。

2015/03/30

「教師の成長」四類型

教師の成長には四つのパターンがあるようだ

鍛えるモデル……強い教師、達人へ、理論武装、スキル習得……
磨くモデル………自分の特性を伸ばし、不得意をそぎ落とし、自分らしい教師へ
練るモデル………柔軟な視野と粘り強い思考ができる教師へ
太るモデル………豊かな経験、多様な視野を持つ教師へ
さて、自分はどこに行くのだろう

2014/11/24

「アクティブラーニング」の実践研究が進んでいることを見る指標

また新しい言葉が出てきた。「アクティブラーニング」だ。
※アクティブラーニングとは?
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。(文科省HPより)
ひねくれ者の私は、こういう言葉になるべく引きずられないようにとは思っているんだけれども、「アクティブラーニング」という言葉を使うかどうかはさておき、こうした学習者の活動を中心に置いた学習そのものは大賛成。昔から「畳の上の水練」という言葉だってある。
問題解決学習のような一つの単元レベルの授業から、ディスカッションやディベートなどの一時間の授業レベルの学習方法まで、「アクティブラーニング」という形で「学習方法(授業方法)」をお国から学習指導要領の形で具体的に指示をしてきたのは、実はあまり例がないのではないかという軽い驚きを感じている。


「アクティブラーニング」の実践上の問題は教師のみとりの精度
ただ、本当の問題は、子どもが活発に活動に取り組んだかどうか、そのものではなくて、それをどう教師がみとるかという問題であると思う。
子どもの自由度が高い活動中心の学習は、目的が明確であり、やる内容がはっきりとし、見通しが立つものであれば、子どもはわいわいと活発に活動に取り組んでいく。
そのときに、子どもたちの様子を表面上だけでなく、どう活動の内実をみとっていくかという問題が本当に難しいし、大切な問題であると感じている。(自分もしようとはしているがそれが十分にできてるわけでない)
だから、「アクティブラーニング」の実践が深まっているかどうかは、実はそれをどう実践者(教師)が見とり、語っているかということで。ある程度は判断できるのかもしれない。


「アクティブラーニング」をどう語るかという指標
たとえば、次のような表層的な部分だけを取り上げているレベルがある。
・とても話し合いが盛り上がっている/盛り上がっていない
・子ども同士が助け合っているね/助け合えていない
・学習が意欲的だ/意欲的でない
・子どもが活動している/活動していない
・子どもが参加している/参加していない
・子どもが集中している/集中していない
・子どもが楽しそうだ/楽しそうでない

私の場合、子どもたちの活動を見ても、最初は、このようにざっくりとした印象でしか語れない。
なかなかその奥にある学びを語ることができない。
しかし、話合いや活動の様子などの子どもの姿を丹念に見つめ、学んでいる内実を理解しようとすると、話し合いのバックヤードに目が向くようになる。
(研究授業などで、人の授業を見る場合、私がそのくらいのレベルまで見とれるのはせいぜい2グループ、8人くらいだ。全員の姿を一時間で見とるのは到底無理。)

話し合いや活動の裏で、どのように頭を使っているか、どのようにテキスト(学習材)と対話しているか、沈黙や独りでいることにどのような意味があるか。それらを、たとえば、次のような観点で見るようになってくる。
・話し合い(以後、活動と言い換えてもよい)を通して、それぞれがどんな関わり方をしているのだろうか?それらに傾向はないか。(教える/教えられる、リードする/支えるなど)
・話し合いがどのように学習内容に貢献しているか、それとも話し合うことで学びが阻害されていることはないか
・話し合う前や後の沈黙、「間」にはどのような意味があるか?
・話し合いに参加していないように見える子どもには、この授業がどんな意味を持つのか、どんな学びが成立しているか。
・個人の学びのペースと、グループやクラスの学びのペースは調和しているか。ギャップはないか。
・それぞれの話されることばが、どうつながり、溶け合い、発展していっているか。一人では思いつかない発見や気づきが生まれているか。いわゆる創発や止揚が生まれているか。
・↑それらが子どもの姿勢や目つきなどの身体性に現れているか。(フロー状態になると身を乗り出したり、目が輝いたりする)

「アクティブラーニング」をみる目を鍛えるためには
子どもを見る目が鋭く、センスもある天才的な先生がいる。そういう人には憧れてしまう。が、しかし自分はどちらかというと、そういうのはあまり得意ではない。(実は子どもの名前を覚えるのも苦手。油断するとすぐ忘れてしまうほどだ)
だから、子どもの学びをみる目を意図的に鍛えないと力は付いてこない。
たとえば、話合いを例にとると、グループごとにそれを録音し、談話研究をすると本当にさまざまな学びが生まれていることが分かってくる。面倒だけど一度でもやるとその勘所がつかめてくるかも。(談話研究の例はこちら)
また、他の先生の授業をみるときも、今ではクラス全体をざっと把握することはあきらめて、一グループ、一人に注目して一時間の学びを観察している。
一人の学びが見とれるようになると、それが二人、三人と増えていく。
このように観察する生徒、グループを限定して授業研究をするのは、今の学校の校内研究のスタイル。1時間で観察する子どもの活動グループ(4人編成)があらかじめ複数の先生に割り当てられる。そして事後の協議会では同じグループを観察した先生方でそれぞれの見え方を交流していく。
これまでは、ざっとクラス40人全体を見回し、目立つ子、気になる生徒の、気になった瞬間だけをつまみ食い的に観察をしていた。そして気にならない生徒はスルーしてしまっていた。
しかし、一時間で4人だけを観察し続けることを課されると、気にならなかった平凡な生徒や、何でもない時間の意味を考えなけれない。そこに気づきが生まれる。
生徒たちが変わったきっかけや、それに至るまでの「助走」の準備状態まで、時系列でとらえることができるようになる。これは私にとって大きな発見だった。

2014/11/03

ことはそんなに単純ではない

昨日、あんなことを書いて、やはり十分に考えていることを書けていないなという思いがでてきた。
昨日のブログとはこれ→教師教育における教えることと育つことのジレンマ〜突き放すからこそ浮かぶ瀬もあれ〜
ことはそんなに単純ではないようだ。

こんな思い出話もある。
新採2年目、初めて学級担任となった。当時は新採がほとんど入ってこない時代だったので、色々な意味で周りの先生がよく世話を焼いてくれた。
とくに私なんか見るからに「たよりないなあ」という雰囲気を醸し出していたので、学年の先生はさぞ心配してくださったのだろう。
そんな私が、市内の道徳の先生方が集まる研修会で研究授業をすることになった。テーマは「人権教育」。道徳の授業だ。
で、やはり早速周りの先生が気を利かせて、「この指導案があるから、これでやりなさい!」とある授業プランを勧めてくれたのだ。それは、いじめについての傍観者の態度を問うディベートの授業だった。もちろん、それを私がそれを断る理由はない。

どんなことが起こったか?
とても丁寧に教えてくださった。
前日、教室で模擬授業をしてくださった。
学年の先生が集まって、実際に発問を言ってみせて、板書をしてみせて、討論をやってみせてくれた。そのうち、授業について先生方で熱く話し合いをしはじめた。
しかし、それを見ていた私は上の空だ。ぽかんとして、交わされているやりとりがほとんど理解できていない。教材について議論をしている内容にほとんどついていけてない。
「あなたは何か考えはないの??」
なんて言われても、議論のあまりのスピードと質に「はい……」と口ごもるだけだ。
ものすごい置いてけぼり感。
それでいて、学年の先生方は私のために一生懸命模擬授業を見せてくださっている。それに応えられない気持ち、話し合いに参加できない気持ち、ひとことも発することのできない悔しさで一杯だった。

しかし、それにさらに追い打ちがかかる。私の気のない反応をみかねた、女性の先生がついに業を煮やしてこう言ったのだ。
「あんたね、あんたのためにこうして授業やって見せてるんでしょ! もうちょっと自分で授業やるつもりになって話を聞きなさいよ!」
……もちろん私はそれに何も言葉を発することはできない。うつむくだけだ。
学年の先生は、そんな私を半ばあきれた顔で眺めたようだった。放課後、夜の教室で行われた模擬授業の検討会は何となく尻すぼみで終わってしまったのだった。

授業当日、市内の大勢の先生の前で道徳の授業が始まった。
私は、完璧なシナリオと、きれいに整った掲示物と、計算され尽くした机の配置とで、完璧な授業を演じてみせた。(つもりだった)
動きはぎこちなく、どこなくロボットのようだった。……これはほとんど比喩でもない。実際に、ちょっとでも授業の進行が滞っていたら、すぐに学年主任の先生がこっそりメモを渡してくれた。そこには「ここではこうしなさい」という指示が書かれていた。まるで遠隔操作のように。
それでも、それだから、授業は人様に見せられるくらいのものにはなった。大成功だったのだ。協議会ではうれしいような、さびしいような、複雑な気持ちで一杯だった。

まあ、私にも、そんなせつない経験があるから「授業に思い入れがなければだめだ、借り物の授業じゃダメだ」となんて偉そうなことが言えるわけなのだ。
しかし、ことはそんなに単純では無いというのは、そんな借り物の授業でも、それで勉強になった面は大きいのだ。
・授業には教具などどんな準備が必要かということが分かった
・授業ではどんなタイミングで、どういう言葉がけをすればよいのか分かった
・道徳の授業ではどんなことがポイントで、何が問題になるのかが分かった
・ディベートの授業はどのように進めていいかが分かった
そして
・借り物の授業では、それで自分らしい授業にはならない。しかし、授業の進め方など勉強になる面も多い
ということも。

だから「教えることと育つことのジレンマ」とは、そういう複雑さの中に存在すると言うことなのだ。
教えないことも、教えすぎることも、どちらも良いとは言えない。
授業者本人の問題とも言えるし、それを周りで支える指導者の問題とも言える。どちらの責任とも言えない。
もし、新卒時代の私に「自分で考えなさい」と丸投げされても、何をしたらいいか分からないし、それでやってみても、この道徳の授業ほどは大きな学びにならなかったような気がする。
ことはそんなに単純ではない。安易に結論を出すことはできない。
そしてそのジレンマは、教師教育にも限らず、あらゆる対象への研修、教育にも普遍的に存在する問題でもある。
そこ複雑さ、ジレンマを、日々感じているわけなのだ。

2014/11/02

教師教育における教えることと育つことのジレンマ〜突き放すからこそ浮かぶ瀬もあれ〜

教師教育ほど「教えることと育つことのジレンマ」を痛感する分野は無いと思う。

二つの例を挙げる。
一つ目は私の実体験。
教職7年目を迎えたあるとき、市内のいわゆる官製研究会で研究授業を行うことになった。
テーマは「図書館を活用した読書指導」
といっても、それまで私にとって「読書指導って何?」な状態だったので、全くのノーアイディア。
そこですがりついたのが中学時代の恩師の先生だった。
その先生は図書館教育を専門にしていた。そこで、わらをもつかむ思いで電話をかけた。
「先生、今度私が市の研究会で授業をすることになったんですが、何をすればいいでしょうか? なにかいい読書指導の授業のアイディアはありませんか?」

先生は、最後まで私の言葉を聞いた後に、こうお話された。
「それは自分で考えることです」
「子どもの姿を見て、その実態から、何を授業で取り上げたらいいか、それを自分で考えるのです。そんなことを他人から聞いて教えられるものではありません」
「けんもほろろ」とはこういうことを言うのだろうか、私は最後の頼みの綱を失って、途方に暮れて電話を切ったのだった。
しかし、そこから、私自身の勉強が始まった。
今まで読書指導として何が行われてきたのか? 図書館にいって本を片っ端から読み……よく調べると、国語科において図書館を活用した読書指導には次のパターンがあることが分かった。……ここからは余談になるので「読書活動における三類型とその課題~給食型活動とお弁当型活動、そして立食パーティー型活動」を参照。
結果、中一で「大造じいさんとガン」の読書会の授業を提案することにした。(その当時、一時だけ「大造じいさん……」が教科書から消えていた時期があり、中一の生徒はその教えられていない世代だったのだ)
ノーアイディアの状態から授業を作るためには、ともかく無い頭をしぼり、調べられるものは自力で調べ、子どもの実態や関心とうまく切り結べるように腐心をして、何とか授業の形にすることしかできない。結果、その授業は、私の力の全てを出し切った授業だ!といってもよいくらいにのめり込んで作ったものになった。
そんな授業だって、子どもにぶつけてみたらもちろん課題はたくさん出てくる。事後の協議会では鋭い突っ込みをうけてうろたえてしまう場面もあり……と、ともあれ、失敗も成功もひっくるめて、いま考えてみても、この授業は私にとって忘れられない学びのある授業となったと思う。(が、オチを言うと、あまりにもひどい授業だったので『あなたの実践史からは抹殺した方がいい』とまでご助言いただいたのだった……)

二つ目は、近所の小学校でのお話。
毎年初任者が採用されるとある小学校では、初任者指導員がついて指導をしている。
初任者は年間二回の授業研究をすることになっているので、その時期になると初任者は授業のネタ探しに苦労をすることになる。もちろん、毎年それを指導する初任者指導教員も大変だ。
しかし、その学校の指導教員はとても優秀で勉強熱心な先生らしく、そんな初任者の困っている姿を見て「これをやってみるといいよ!」と、以前自分がやったことのある、成功した授業のプランをその初任者にアドバイスした。
初任者にとっては、これ以上無いくらいの絶妙なタイミングでのアドバイスだ。すぐに飛びついて授業をしたのは言うまでも無い。

さて、その結果どうなったか……。
かなり残念な授業に終わってしまったということだ。
一番残念だったのが、その授業について、初任者の「思い入れ」が皆無だったと言うことだ。
なぜこの題材を選んだのかという理由とか、この題材はこうやって授業をしたい!という思いが全くその初任者にはないから、指導員から教えられた授業プランの上っ面だけをなぞって、形だけの授業ごっこをしてみせただけなのだ。
当然、そんな借り物の授業だから、児童に柔軟な支援をしたり、教材への自分の思いを授業を通して伝えたり、実態に合わせたアレンジしたりなんてできるわけ無い。もともと「やりたい」というものがないんだから。

この手の「研修」は三重にやっかいな面を持つ。
・一つには、初任者指導員はそれを教えていることのデメリットに全く気がつかない。
・二つには、実習生はそもそも「こうしたい」という思い入れが無いので、失敗したり、課題を指摘されても、それの何が悪いのか気がつかない。指摘されても入っていかない。
・さらには、こんなにいい授業でもついてこれないうちの子どもたちは、能力が不十分な児童たちなんだな、とうまくいかなかった原因を子どもたちに帰属してしまうことさえある。

教師教育において「教えること」はどこまで有効なのだろうか?
「育つ」ためには何が必要なのだろうか?
これは大いに考えさせられる事例だと思う。

最初の例では、私の恩師は何も「教えて」はくれなかった。
それは言い過ぎだ。「子どもの実態を見て、自分で考えろ」という、授業を作るためのマインドやプロセス、核となるものを教えてくださった。
次の例では、指導教員は確かに「教えて」はいたんだろう。その実習生にとってベストと思える授業案をプレゼントする形で。
しかし、「思い入れ」のない授業をいくら形だけ再生しても、子どもたちは決して動かない。さらには授業者は「動かない」ことにさえ気づかない。「どうしたいか」というイメージをもつことなく借り物の授業をしているのだから。

この二つの例はかなり極端な例かもしれない。実際の教師教育においては、もっとバランス良く「教えること」と「育つこと」がミックスされている例がほとんどなのだろう。
しかし、ともすれば熱心な教師によって行われる教師教育のデメリットや影の部分は大いに考えなくてはいけない問題を提起していると思う。

この続編もあわせてお読みください。

2014/10/12

これからの「学習指導案」にむけて〜地図やナビがなくてもなぜ目的地にたどり着けるか〜

先日の学習指導案についての投稿が思わぬ反響を得たようだ。
ブログの管理者には閲覧数を知ることができるんだけど、この投稿は今までではあり得ないくらいの閲覧数。びっくりだ。
もうすこし「学習指導案」について考えてみたいと思う。しかも「地図」のアナロジーで。

唐突だが、私たちは地図やナビゲーションがなくてもある程度の範囲であれば目的地に到達することができる。たとえば、私が生まれ育つ県内であれば、わざわざカーナビなんかつかわなくても、だいたいの感覚で目的地に到達できる。
そのときに、何を、どう見ているのか。
・だいたいの方向を知っている。
・道よりも、景色や遠くのランドマークを見ている(山の見え方など)
・大きい幹線道路、細い道などを評価しながら進んでいる。(細い道は袋小路になりそうだから避けるとか)
・目的地の建物などを見たことがある、あるいは知っている。
・そして、もし袋小路だったり明らかに方向を間違えた場合は引き返し、目指す目的地や方向に軌道修正をしながら進んでいくことができる。
・もちろん、案内の看板や国道番号などは重要な情報源となるだろう。
↑これらの条件があることが「土地勘」の正体であろう。

いっぽう、最近はカーナビに頼り切っているので、なかなか道を覚えられなくなった。
カーナビでの走行は次のような特徴を持っている。
・方向感覚よりも、通る道路を優先する。(あきらかに反対の方向でも、カーナビが示す道路に進もうとする)
・幹線道路か、狭い路地かはあまり関係ない。
・目的地の建物よりも、住所を重視するため、到着しても建物に入れないことがある。
・常に最短距離を走ろうとする。
・明らかに間違えた道路を通った場合は、取りあえず180度引き返して正しいルートに戻る選択をとる。(性能のいいカーナビだったらその場で経路を検索してくれるものもあるだろう)

これは、何を言いたいかというと、「目的地」に到達するための、人間と機械(カーナビ)との思考の違いがどのような点にあるかと言うことだ。

人間が目的地に到達できるのは、道路すべてを知り尽くしていなくてもよい。ある程度の感覚で進むことができる。そしてほとんどの場合は、それで何とかなる。(むしろ、知っている道路しか進めないのであれば、地図やカーナビをひとときたりとも手放すことができない)
そのときに重要なのは、ゴールのイメージ、土地勘、そしていつでも方向転換できる柔軟性だ。
道路や地形をその場で解釈し、目的地から外れそうな気配を感じたら、そこで舵を切り替える。それこそが、機械にはない人間の「知性」であると言える。

多くの学習指導案という「地図」が、それだけでは実際にはほとんど役に立たないのは、できの悪い地図に気をとられて、道に迷っている旅行者のようなものであるからなのだだ。
「ゴールのイメージ」「土地勘(ランドマークとか、地形など)」「方向転換する指針」を明確にするための「学習指導案」の存在こそが、現場で力を発揮するのではないか。
ちょっと抽象的な議論になってしまったが、時間が無いのでとりあえずここまで。

2014/10/09

その時々のベストな答えがあるだけだ。

能の大成者、世阿弥には「時分の花」という言葉がある。
これは少年時代には、その時代特有の「花」(今だったらスター性とでもいったらいいかな?)というものがあり、大人のマネをさせずに、存分にそのときだけの、その人の持つ「花」を咲かせるのが良い、ということ(だと解釈している)。そしてその「時分の花」も、ジジイになってしまえばあっという間に色あせてしまう。いつまでも咲いている「花」ではない。
詳しくはこちら

これは、能に限らず、大げさに言えば、人生すべてにおいて当てはまる心理なのではないかと思う。
たとえば、教師人生も、新卒には新卒にしかない「花」があるし、もちろん「発達課題」がある。10年選手には10年目の、30代には、40代には、同様に……、要は、その「時分」に応じた課題も、光らせることのできる魅力もある。
しかし、人は得てして、現在の自分が直面している課題や「花」が、他の人にも、いや、すべての人に通用する課題であり、「花」であると勘違いしてしまう傾向があるのではないか?
それは「時分」の課題に過ぎないし、「自分」だけの課題かもしれないのに。
今日で私もやっと38歳、態度のでかさだけは40代? もう少しで「不惑」といわれる年齢にさしかかってしまう。
まだまだ迷いっぱなしの毎日だ。「時分」で「自分」の課題に向き合っていくしかないと観念している。

2014/09/15

実生活で必要な「聞く力」とは?

今日の催しでは、医療関係の職員の人材育成に携わる方と同じグループになった。
そこで、大変興味深いお話を伺うことができた。
「最近の若い人は、まともに電話をしたことがないんですよね」と、
そういえば、私自身、メールやラインなどを使うようになってから、電話での会話がめっきりと減った。教師でさえそうなんだから、ワカモノはもっとそうなんだろう。
で、電話での対応が全然できていないと言うことなのだ。
たとえば、体調が悪く、一刻も早くお医者に診てもらいたい患者さんがいるという。しかし、そういう窮状を聞いても、つっけんどんに
「今いっぱいです」「もう今日は終わりです」などど、信じられないくらい心ない返事をして、ひんしゅくを買ってしまっているというのだ。
もうちょっと聞き方や言い方があっていいものなんだけど、ワカモノにとっては「受け付けられません」という「情報」を正確に応答したつもりなんだろう。正確に応答はできても、相手のことを思いやって聞くような聞き方ができない。だから機械的に対応をしてしまうのだという。
そして、もっとやっかいなことは、こういう事は、いくらマニュアルを整備しても、ほとんど役に立たないと言うこと。ワカモノは、マニュアル以外の事態になると全く動けないのだ。言われたことはできるけど、言われたこと以上のことはできない。マニュアルは、職員をほとんど育てることはできない。
だから、悩んでしまっているそうなのだ。
結局どのように研修をしているのか。
トライアンドエラーを繰り返すことしかないというのがその方の結論。すぐに電話を替わってもらって、そのワカモノの目の前で対応をする。そしてどのように対応すればよいのかを
身をもって,モデルを示しているのだそうだ。
話されている言葉の「字面」だけの情報を理解するだけではなく、その言葉の響きとか、響きの底にある気持ち、見えない向こう側の状況まで受け止めて聞くこと。そんな「聞くこと」の学習が、ひょっとしたらこれからの社会で、今まで以上に必要とされているのかもしれない。
さて、こんな力を付ける「聞くこと」の学習をするとしたら、どうすればいいんだろうなあ。

2014/09/14

プロ棋士はなぜ自分の差した手を覚えているか? あるいは、将棋指しが強くなる極意

昨日のフェイスブックでの将棋談義は興味深かった。
それは、プロ棋士がどのように上達していくかということについての気付きを得られたからだ。

プロ棋士は、対局が終わった後に「感想戦」を行う。それは、初手から最後の手まで駒を並べて、ああでもない、こうでもないと話し合いをすることを言う。
まるでビデオを再生するかのように、自分の手を正確に記憶し、それを語り直す。そう、まさに事後リフレクションをしているのだ。

まず、百手以上を正確に記憶していること自体が素人には驚きだ。そして、一手ずつ、ああでもないと語れるということも。
なぜ記憶できるのだろうか?それは、定跡のようなパターンがある程度頭にインプットされているというがまずあるだろう。その上で、パターンを踏み越えた一手、つまり「型破り」の一手の、迷いや意図などの思考をメタ認知し、暗黙知を言語化できているということなんだろう。
だから、なんとなく、偶然手が伸びたような一手を、まるで必然のように語り直すことができるのだ。
そういったリフレクションの反復をこなしていく棋士は熟達していくのだろう。

2014/09/13

将棋の定跡と創造力育成

創造力はそもそも育てられるのか? センスは鍛えられるものなのか?という素朴な問いがある。
それに対してはこう答えたい。
プロ棋士は、すべからく常人の持ちえないセンスも、創造力も兼ね備えているはずだ。しかし、彼らは始めから野放図に、自由自在に将棋をさしていたわけではあるまい。
定跡や戦法を学び、真剣勝負を反復する中で力をつけていったのである。
定跡のような型を学ぶことと、センスや創造力を伸ばすこととは矛盾しない。たかが定跡を学んだくらいで崩れてしまうセンスや創造力にどれほどの価値があるのだろう。定跡を学ぶことで、センスも創造力も洗練される。そしてその中のほんの一握りが、プロとしての力を発揮するのだろう。
我々アマチュアは、定跡を学ぶこと、それを理解することだけでも、将棋を楽しむためには十分だ。

と、こういう書き込みをフェイスブックでしたところ、Fさんの深いい返信が。

担任の頃,休み時間等に子どもと指していると「筋のいい手」を指すことができるようになる子がいます。その子は,ほぼ間違いなく定跡を勉強するようになった子です。
私も強くなったのは定跡を学んでからです。定跡は長年の棋士の汗と涙の結晶なので,それを学ぶと自然と「筋のいい手」が指せるようになります。
しかし,レベルの高い「筋のいい手」が指せるようになるには,強い相手と対戦して,ああやられたという「筋のいい手」を見ることと,感想戦といって初手から最後までお互いに指しながら,「ああでもない,こうでもない」と対局を振り返ることをきちんとしていくことです。
所詮,定跡は初手から50,60手ぐらいまでしかありませんから,それ以降は自分自身の力量で戦うしかありません。この後は「筋のいい手」がどれくらい指せるかで勝敗が決まっていきます。
授業力の向上と似ているように思います。

深いなあ。定跡を学ぶことで、将棋の見方も学ぶことができる。
リフレクションの意義や方法も、このコメントから学ぶことができる。
将棋の定跡は、あらゆる領域で応用できそうだ。

2014/08/22

大学で「特別活動論」をお話しする〜部屋と猫とルンバと私〜

特別活動論って何じゃらほい?
池田先生のご紹介で、京都橘大学の学生さんを前にお話しする機会をいただいた。
お題は「特別活動論」
池田先生「自分の得意なところで、どーんとやってください!」
というご依頼だったけど、正直不安もあった。
「特別活動? 何それ一体??」という世界なのだ。
いままで、そんな内容を専門的に実践したり、研究してきたわけではない。
一体何を、この私にできるのか……

私に与えられた時間は3コマ。270分。
その時間を、少しでも期待に応えられるだけの内容を用意しなければいけない。
また、たった3コマだけども、学生さんに少しでも「力」をつけて欲しい。「力」まではいかなくても「力を付ける」きっかけぐらいにはなって欲しい。
そう考えて、依頼をいただいてからずっと「私にとっての「特別活動』」をあらためて問い返していた。

今までの記憶を編集する
まず、今までの生徒たちの写真を引っ張り出してきて、どんなことがあったのかを思い出していった。
そして、物置をひっくり返して、初任の頃から作っていた文集や学級通信などをすべて見返していった。
さらには、〈これは最近のことだけど)ブログやフェイスブックなどで折々に書いていた「つぶやき」などで使えそうなものを拾い集めていった。 
これらを読み返しながら、子どもたちとともに生活してきた中で、教えられたこと、気づかされたこと、あらためて考えていったことを思い出し、書き出していった。
公立中で10年、その後の5年……やはり、しんどかったときの日々を自然に思い出す。
時間を忘れるほど読みふけった。(おかげで久しぶりに完徹してしまった……)
そして、あのときの、あの瞬間がありありとよみがえった。「あのときこうすればよかったのになあ」という、少しの(たっぷりの??)後悔と一緒に。

読み返しながら、「特別活動としてやったこと」を付箋に書き出した。
・学級通信
・つぶやきノート
・文化祭
・運動会
………

ルーツにぶち当たる
書きだしたものを、いくつかの柱を立ててまとめることにした。
分けてみては、しっくりいかないなあと直し、また別の柱で検討し……
いままでの経験をすべて出し切った。
逆立ちをしても鼻血が出ないくらいに出し切った。

そんなことを何度も繰り返していって、ようやく、一つの大きな柱が見えてきた。
「伝え合うクラス」
そうか、これだったんだ。私がやりたかったことは!!

妻に興奮しながら、自分の構想を語った。
「『伝え合うクラス』っていうテーマでお話ししようと思うんだけど、どうかなあ?」
「やっぱり、あなたの学級作りって国語っぽいよね……」
そうだよね。学級作りも、国語の授業も、その根っこはおんなじだったのだ。
何とか道を探そうと穴を掘り進めていったら、地下にもう一つの大きな穴が掘られているのにぶち当たった。「国語」という穴に。なんだかうれしかった。

特別活動だろうと、国語だろうと、私が子どもたちへアプローチしているのはおんなじだ。
その根っこのようなものの存在を、あらためて気づくことができたのはうれしかった。

お掃除ロボット「ルンバ」のシンプルさ
ちょっと脱線する。
教師にとっての試行錯誤は、お掃除ロボット「ルンバ」のようなものかもしれない。
〜こっからは、最近はまっているロボット研究の受け売りです〜
「ルンバ」のロボットとしてのプログラムは、実はとてもシンプルだ。
そしてそのシンプルが、あらゆるロボットのプログラムでも革命的なイノベーションを生み出しているらしい。

この辺の本。面白いよ。

『ロボット化する子どもたち 学びの認知科学』

ロボットのプログラムは、通常「こうきたらこうする」という「プロトコル」と呼ばれる行動パターンを入れ込んでいくというのがある。
お掃除ロボットの場合でいうと、掃除をしたい部屋の奥行きは、縦は何メートルで、横は何メートル。段差は……、などなど、こういったプロトコルを入れ込めば入れ込むほど、より複雑な、精緻な動きをさせることができる。
そういうタテマエで、ロボットの研究が進んでいる。
しかし、ここで思わぬ限界にぶち当たる。
どんなに「こうきたらこうする」というプログラムを入れ込んでも、現実はそれ以上に、とてつもなく複雑にできているのだ。(これを「フレーム問題」というらしい)
計算機や、将棋を指すプログラムよりも、掃除をするプログラムの方がずっと難しい。将棋のように、世の中は単純にはできていないのだ。
たとえば、いくら完璧に部屋の間取りをプログラムに入れ込んだとしても、その機械の前に、たまたま猫が寝ていたらもうお手上げだ。
「何時何分、何メートル先に、高さ40センチの猫が寝ている」ということまで、いちいちプログラムすることは不可能だからだ。だから、いくら完璧にプロトコルを入れようと、そのロボットは、「プログラムに書かれていないことはできないというプログラム」に忠実に従い、フリーズしてしまう。

一方、ルンバの場合はどうか。
ルンバのプログラムは、あきれるくらいに単純だ。
「壁に突き当たったら、引き返す。それを繰り返す」というプログラムだけだ。
しかしシンプルであるが故に、どんな間取りでも、猫の襲撃に遭おうとも、切り返すことができる。

私のシンプルなプログラム
わたしも、この十何年の教師生活をあらためて振り返ると、ぐるぐると回ってきたものだなあと思い返す。
その時々の状況と、子どもたちとに、右往左往したり、立ち往生したり、出直したり引き返したりしながら、必死にぐるぐると回ってきた。あたかも、猫にぶつかっては引き返すルンバのように。
でも、その構造は、突き詰めると笑っちゃうくらい、とってもシンプルなものだったのだ。
「伝え合うクラス」
そして、それは、いくつかのキーワードにまとめられる。
「沿いつつずらす」
「あこがれにあこがれる」
「子どもとともに学ぶ。子どもから学ぶ」
「うまい文章よりも、味のある文章を」
「『個』を際立たせる」
「自分にしか書けないことを、誰が読んでも分かる文章で」
「実の場を整える」
などなど。
国語も特活もごっちゃまぜ、関係ない。
むしろ、それらは、私にとっては「タイガーバーム」のような万能薬なのだ。
そんな、私の中の核となっているものを、あらためて、そのときの子どもたちの顔とともに、会話とともに、いま、振り返っている、とても幸せな体験をすることができた。

授業の構成
さて、大学の授業は次のような構成で進められた。
1時間目 「伝え合うクラス」
自分の特別活動に関する体験談をお話しする。

2時間目 ワークショップ「特別活動アイディア甲子園」
グループで特活のアイディアを考え、それをお互いにプレゼンし合う。

3時間目 2時間目の続きと、今日の授業を踏まえて、池田先生との対談

学生さんたちには、話を聞いただけで終わりにして欲しくはなかった。
特別活動を作ることがいかに難しく、いかに楽しいものなのかを実感して欲しかった。アイディアを生み出す勘所のようなものを知って欲しかったので、「特別活動アイディア甲子園」のワークショップは是非入れて欲しいと池田先生にお願いした。
(人数が130人というとても大規模な授業だったにもかかわらず、二つ返事で「面白そうですね、やりましょう!」と応えてくれた池田先生の度量の広さに感謝している)

授業の詳細については、またどこかの機会で書きたいとは思うけど、学生さんたちが真剣に「伝え合って」アイディアを練り上げている姿を見られたのは、とてもほほえましかった。
普段は中学生を相手にしているんだけれども、大学生だって、私にとっては、授業の中では生徒のような存在だ。学生さんたちの素直な反応に触れているうちに、私も肩の力を抜いて、いつもの中学校の教室と同じように語りかけ、また学生さんもそれに応えてくれたと思う。

さて、私なんかよりも、ずっと中学生たちと年齢が近い大学生なんだけれども、どれくらい教師の立場で特別活動をイメージすることができたのだろうか? どれくらい中学生の目線に立って、中学生のつぶやきを拾い上げることができたのだろうか?
たった一日では、知るすべはないのが少し残念だ。
いや、残念だと思えるだけの、素敵な学生さんたちと出会えることができてよかったと思うことにする。

2014/08/08

リフレクションの装置としての「教養」

教養について改めて考えたい。
教養とは何か?
お茶をたしなんだり、美術館に行ったりするセレブな生活が「教養」なのか?
教養の本質とは何か??

大学時代、ひたすらたたき込まれたのが「教養」だったとあらためて感じている。
ここでの教養は、もちろん茶道や華道ではない。
教養は、ドイツ語では「ビルドゥングス」というらしい。英語の「ビルディング」のように「形成する」という意味合いがある。「教養=ビルドゥングス=自己形成」だ。
教養とは、煎じ詰めれば自己を形成するための土台であり、リソースである。
人間の存在をビルのような建物だとして、その柱であり、土台に当たるものが教養。
だから、それがある人にとっては、スポーツだったり、文学だったり、音楽だったりと何でもいいんだけれども、ようは、自己形成に資するという視点が決定的に重要だ。
教養は、人生を貫く価値観を形成するものである。だから普段は表には出ない。しかし、その人の意識の底では、ものの見方や考え方、判断をする際の「よすが」となって機能する。
ものの見方や考え方は、社会で生きていく上では他者とのやりとりの中で洗練されていくものである(おそらく)から、その土台となる教養は、多くの他者の間で価値あるものとして存在しているもの、歴史的に淘汰され、継承されてきたものであるほうが、圧倒的に力がある。
だから、ぽっと出の、すぐに「時代遅れ」となってしまうようなテキストではなく、長い時間をかけてウイスキーのように蒸留された、時間や場所を越えた普遍性のあるテキスト「古典」であるものがよい。

大学時代、斎藤孝先生からたたき込まれたのはまさにこの「教養」であった。(し、ここに書いてあることもほぼ100パーセント、恩師の考えの受け売りだ)
斎藤先生は「ビルドゥングス研究会」という読書会を隔週で開いていた。(このほかにも、「斎藤ゼミ」も隔週で開かれていて、そこでは教育、思想関係の本(ルソーとか新書とか)を読む。つまり、毎週ひたすら本を読み、そしてひたすらディスカッションをする。そして夜は終電まで酒を飲んで語り合う……どんだけ体力があるんだと思うほどエネルギッシュだった。(斎藤先生も、学生たちも)
もちろんこの「ビルドゥングス」とは「教養」という意味合いで、また、狭義として「ビルドゥングスロマン(教養・自己形成小説)」を読んでディスカッションし合う読書会だった。
「ビルドゥングスロマン」とは、主人公が成長していく過程を描いた小説で、ドイツものには多いらしい。読書会では、ドイツものに限らず、次のような作品を立て続けに読んでいった。

※記憶をたどると次の作品だ。
トーマス・マン『魔の山』『トニオ・クレーゲル』
ヘッセ『デミアン』『車輪の下』
ニーチェ『この人を見よ』『ツァラトゥストラ』
ドストエフスキー『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』
谷崎潤一郎『痴人の愛』
フローヴェル『ボヴァリー夫人』
夏目漱石『坊っちゃん』
坂口安吾『堕落論』『風と光と二十の私と』
ゲーテ『エッカーマンとの対話』『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』
サリンジャー『ライ麦畑で捕まえて』『フラニートゾーイー』
などなど。

これらの本を読み進めながら、主人公が自己形成したきっかけとは? 自己形成の要素とは?というのを、わいわいと出し合っていった。(たとえば、要素として「主人公が年上の婦人とつきあう」とか!?)
斎藤先生のものすごいところは、こういう古典的な文学作品をテキストとして論じながらも、さまざまな領域へとつぎつぎに話が広がっていくところだった。(これはじかに話を聞いた人なら誰でも感じることだろう)
・先生の好きなプロレスとか、スポーツにつなげたり
・マンガとか、テレビタレントとか
・武道、芸道へとつなげたり
・マルクスとかメルロ・ポンティーのような難解な哲学とか
・下ネタとか……

斎藤先生の縦横無尽な脱線話を聞きながら「古典の生かし方」のようなものを私は学んだんだと思う。
「古典」をマニアックに理解したり研究したりするのではなく、領域をまたぎ超して読む、現代に置き換えて読む、自分の生活や関心との繋がりを見いだしながら読む。そういう読み方を身をもって示していただいたと思う。

「教養」とは、「古典」とは、それだけで、決して人生を要領よく渡り歩く処世術のようなハウツーにはならないだろう。日々の生活とは「距離がありすぎる」からだ。
しかしこの「距離がある」ということそのものに、教養なり古典の価値があるのだろうと思う。
今をいきる自分自身との生活を、距離を置いて、別の視点で振り返るための「装置」として、教養が、古典作品が機能している。教養はリフレクションの「装置」なのだ。
今目の前で起きている出来事は、「デミアン」のあの状況と似ているな、とか、この事件は、まるで「ファウスト」のようなものだ。とか、ニーチェだったらこのニュースについてなんて言うだろうなあ、とか。
こんなストレートな言い方で古典を思い出すものでさえないかもしれない。もっと自分の底で、価値観に影響を与え続け、ものを見るときの「めがね」の一つとなっているかもしれない。

先日、ある人とお話をして非常に感銘を受けたエピソードがあった。
教育哲学の研究者。現在は退職をされて悠々自適の生活を送っている。
その先生が、いまは自宅に、地域の先生方を集めて、教育関係の古典的な作品を読む読書会を開いているのだという。
で、それに参加しているある先生が、普段はそれこそ日々の仕事や生活に追われて、じっくりと本を読むような生活を送っていなかったんだという。
それが、この会で、教育哲学に関する本を読んで、目を開かされたのだという。
「今まで自分のしてきたことが、この本を読んで、何だったのかが分かってきた」というのだ。
きっとその先生の中で、教育哲学の本が、日々の仕事をふり返り、体験を意味づけるリフレクションの「装置」として機能したのだろう。

柱も土台もないリフレクションは、ひょっとしたら「下手の考え休むに似たり」になりかねない。柱や土台を意識するからこそリフレクションが回り出すということがある。
日々の生活とはちょっと縁遠いようにみえる古典や哲学は、まさにそれゆえに、日々の生活を掘り下げ、自分の柱や土台がどこにあるのかを確認する機能を持つ。
古典を、自分の生活に引きつけ、領域をまたぎ超して洞察し、リフレクションの装置として機能させることが、真に「古典を読んだ」「教養としての古典」となるのだろう。

教師教育をめぐって様々な研究や議論がなされているが、教師の自己形成(教養)という視点は外すことのできない根幹だと感じている。
目先の状況に要領よく対応する知識や技術(もちろん重要には違いないども)は、それだけでは、リフレクションの装置としてどれくらいの有効性があるのだろう。

私は大学時代、教育技術や授業技術というものをほとんど学んではこなかった。
大学での学習が、教師という仕事に、人生に、具体的にどれくらい役に立ったの?といわれると、それに答えることは難しい。確かに古典や文学を読むことは直接は役には立たなかったかもしれない。しかし、自分の価値観、教育観を磨くために、古典をたっぷりと読み、「教養(ビルドゥングス)」を身につけた4年間はかけがえのない価値を持つものであったと感じている。

2014/07/14

読書メモ 教師必読!『子どもと創る授業 学びを見取る目、深める技』(奈須正裕著)

奈須正裕著『子どもと創る授業 学びを見とる目、深める技』 
なんともわくわくする本の題名。

奈須さんは教育心理学を研究している研究者。大学での研究の他に、かつては国立教育研究所などで教育政策の現場(総合的な学習の立ち上げなど)でもご活躍されていたことがある。現在、全国さまざまな学校を視察し、また校内研究のアドバイザーとして多くの学校の研修をサポートしてきた。
その奈須さんが、教師に向けて、歯に衣着せぬ、渾身のメッセージをプレゼントしてくれたのがこの一冊だ。
研究者にありがちな、上から目線で最新の理論を紹介するという形ではなく、一つ一つが、子どもや学校の事実に立脚して確かにつかみ取ったものだけを語っているので、私のような現場人から見ても大いに腑に落ちる内容であった。直球勝負で辛辣。かつ、痛いところを突いてくる。自分のみみっちい教育観を大きく揺さぶられる、そんな一冊だった。
多くの先生に是非読んで欲しい、そしてその感想を語り合いたい!と強く思った本だった。
ざっくりとだが、内容のさわりを紹介する。

目次
1 子どもは自分に引きつけて学ぼうとしている
  未だ知られざる教育
  自分に引きつけて学ぶ
  中身がぎゅっと詰まった知識の創出
  転んでもただでは起きない心がけ
  教育は「地のもの」
  存在の底へと潜りこんでいく学び
  身体でわかる
2 こんなにも難しく、そしてステキな出来事である授業
  教師としての仕事と授業技術
  授業のラインは誰が生み出すのか
  子どもは常に新たな自分を生きている
  教材は二つある
  だまされたと思ってついてこい
  共有かすべき情報をきちんと共有する授業
3 おいしい授業づくりの厨房拝見
  授業が元気な学校はここが違う
  正面突破の潔さは素直でまっとうな教育原理の証
  リッパ過ぎる研究からの脱却
  先を急ぐ前に考えたいこと
  学校改革をめぐる五つのウソ
4 「習得」と「活用」について心理学者の意見を聴いてみよう
  活用は習得の基礎でもある
  幼児教育が培う学力の芽
  リアルな学習とバーチャルなテスト
5 点数競争なんかやめにして、子どもの育ちで勝負したい
  教育を論じる言葉にもっと鋭敏になろう
  権威によりかからず、目の前の事実をしっかりまなざそう
  「学力」という名の呪縛
  ていねいな「育ち」
6 やっぱり最後は現場の力なんだ
 教育と社会の関係
  未来への希望であり、現在の存在理由でもある
  気分はオーセンティック・アバンギャルド
  最後は現場の力
内容の紹介
1 子どもは自分に引きつけて学ぼうとしている
この章では、主として子どもの側から、どのように学んでいくかという「学びの本質」が述べられている。
子どもたちは、白紙の状態から学んでいくのではなく、それまでの人生を背負って、全存在をかけて学んでいくということ、そして目の前の現象を、自分なりに意味づけていくことから学びが生まれることを、さまざまな事例を元に描き出している。(こんな言い方だととても抽象的で小難しくきこえるが、授業の風景を紹介した事例がめちゃめちゃ面白い)
たとえば、次のような記述が印象に残った。 
教科の学習は生き方の学習
教科の学習として純然たる教科内容がしっかり習得されていると同時に、その学びが直ちに自分自身を見つめること、生き方の探求になっている。さらに、教科としての学びが深まれば深まるほど、生き方としての学びもそれにつれて深まっている。それどころか、むしろ教科の学習であることが、生き方の探求を自己存在の核心に迫る深い水準で始動する必須の要件にすらなっている。 
子どもは本来、どんな教材でも自分に引きつけ、「自分事」として対象に肉薄しながら学ぼうとするのではないか。さらに、わかる・できるといった教科的な学びと、自分自身を見つめる生き方を深めていく学びを、渾然一体のものとして同時的に推し進めようとしているのではないか。
自由闊達に学ぶことが許容されている教室では、子どもは教材を自分に引きつけ、経験や知恵を総動員し、実に創造的に学ぼうとします。
子どもたちの、特に生活実感をも持ち込んだ具体的で特殊的で個別的な思考の経路を通過することにより、中身の詰まった、豊かな文脈を伴う、カラフルな知識となります。シンプルな提案でも知識は獲得されますが、空っぽで文脈のない、無色透明な質に留まるでしょう。そんな知識はおよそ「活用」が効かないし、「とりつく島」がない分、「習得」だけを考えても実に不安定で、したがって忘却も早い。
もちろん、今日の目当てや指導事項は大切です。でも、それを通して僕らは「教科」を教えている。そのことを忘れてはいけません。……今日の指導事項にとらわれることなく、広く「国語科」の学力を見渡せたからこそ生まれたのです。
「私の考えは○○です。そのわけは○○だからです」に代表される定型的な語りの強要と訓練とが、いかにこの定型に収まりきらない思考や感情へのアクセスを子どもたちに断念させているかを想像するだけでも空恐ろしくなるのは僕だけでしょうか。教師はより明晰な思考や端的な表現を訓練しているつもりでしょうが、実際には容易に明晰になる浅さでしか思考や感情を持てない子どもにしてしまっているのです。 
特に危惧されるのは、思考や感情を内面へと深く掘り下げる働きを阻止しかねないという点でしょう。定型化した語りの訓練は語りをもっぱら上へ、外へと向かわせます。堀川の語りは逆で、下へ、内へと向かう。だからこそ、語りが進行する中で真の自分と向き合うのです。
2 こんなにも難しく、そしてステキな出来事である授業
この章では、そのような学びを生み出す授業の心構えや技のようなものを説明している。ここでの記述も、現場の先生が語るようなテクニックとは一風違って、教育観の根底まで揺さぶる洞察にあふれたものだった。
子どもたちの心理は象徴的に、黒板の向こうに権威的な空間を常に見ています。
(黒板を背にして子どもに向き合う教師の姿)権威的な知の集積をその奥に持ち、その一つ一つが時々に顕れる場である黒板の前に立ちはだかって、それを意地悪く隠し、自分たちを試しているように子どもたちには映るのです。
(子どもと一緒の向きで黒板を見る教師)教師は子どもたちと同じ学ぶ側にいます。教師は自分たちとともに、今まさに知の洞窟の扉を開けようと、そのために必要な秘密の呪文を見つけ出そうと、一所懸命がんばっている心強い存在なのです。 
子どもは常に新たな自分を生きている 
子どもは時々刻々変化していて、一時たりとも同じ状態ではいません。それこそが発達や学習の本体であり、より教育的に価値的な方向でその変化を実現すべく、僕たちは日々の仕事に邁進しています。ところが、当の僕たち自身は、時折それを忘れてしまっている。そして、子どもたちに何日も前の自分を生きるように求めたりする。それが伸びよう、より納得のいく自分へと自己更新しようとがんばっている子どもたちを困惑させる。 
もしかするとその奥には、いつまでも子どもであって欲しいという多分にノスタルジックな願望が悪さをしているんじゃないかと、僕は考えています。僕たちの子離れ、自律が、こういった事態を乗り越え、子どもたちが自力でぐんぐん成長していける学校や教室の実現には、不可欠な気がするのです。 
僕たちは昨日の子どもの見取りでしか授業を構想できない。この深いディレンマに、僕たちはどのように立ち向かえばいいのでしょうか。一つのヒントは、いかに変化しているとはいえ、子どもの感情や思考は連続しており、何らかの一貫性、全体としての調和を保っているということです。学びが子どものものになっていればなおのこと、子どもの今日と昨日との緻密で構造的な結びつきの中に存在しています。変化すると言っても思いつきでころころ変わるわけではありません。 
「新たな自分を生きる子どもの今日と出会える。」 
現状ではナンセンスとしか思えない相手の思考の拠点に実感を持って立つことができるようになれば、自分の思考のあり方を、それも自分が一番得意とはしなかった新たな方面へと、大きく拡充できるに違いないからです。他者とともに学びを深めることの大きな意義が、ここにあります。自分ではおよそ思いつかないことを、至極当たり前のこととして考えてしまう他者の存在。その存在にまずは驚き、次に理解しようとする。考え自体が理解できたなら、次にはそんな考えを必然として要請する思考の拠点とはどんなものであるかを知り、それを自分の内面に取り込む。そうすることで私のものの見方や考え方は格段に幅と深さを増し、対象により多角的に肉薄できるようになるのです。 
3 おいしい授業づくりの厨房拝見
第三章は、学校を活性化させるための秘訣のようなもを語っている。奈須さんが様々な学校を渡り歩いた実践的な知恵とひらめきが随所に感じられる。私も研究校に所属しているが、耳の痛い言葉がたくさんあった。
「かけがえのない私」による自由で闊達な授業作り、その質と教師としての力量の向上が校内研究の目的のすべてであり、理論や仮説はそれを下支えする手段、道具、材料であってしかるべきだ。 
授業が元気な学校に共通する特質は、一人一人の教師の個性的成長と授業の質の向上が校内研究の目的のすべてであるとの認識を全教職員が抱いていること。それを成就するためにはどのような理論を校内で共有すれば「一番都合が良いか」という、いかにも理論的でははなさそうな問いを理論研究の中心に添え、日々理論的に精進していること。 
十数年前に共同研究に誘われた時に僕がお願いしたのは、どうしても曖昧さがつきまとう図〔バームクーヘン状の学力構造図や、矢印が螺旋を描いて立ち上がる研究構造図のたぐい)を研修冊子から原則廃すること。独自な造語は極力避け、伝統的な教育学や法令上の用語で語ること、理論的説明は毎日の授業づくりでどうしても必要なものだけに限定することの三つ。………理論編を大幅にダイエットしたことで、授業づくりと研究推進のよりどころは、実質的に目の前の子どもの事実と教師の願いの二つだけになった。ここで、二つを結びつける原理が必要になるが、これもオーソドックスにしてその妥当性が長年の実践を通して証明済みの、問題解決学習を基本とするようにお願いした。 
(研究のよりどころとする理論は)むしろ原理的にしっかりしたものでないと危なくて使えない。自前の怪しい理論もどきに依拠して授業を創るなんて危険なことは即刻やめた方が身のため、子どものためである。 
学校研究の進展とは、一人一人の授業者の個性的成長の総体と等価である。こう考えるとき、学校をあげて個々の教師を目的として支えることが研究の主軸となる。
どうですか?ここまで紹介したら、読まないというわけにはいかなくなってきませんか?
3章以降の後半は、学習心理学の紹介とか、いわるゆ「学力低下」論争などについての奈須さんの見解などが述べられています。

全般的に、奈須さんは理屈抜きに「現場の力」を強く信じ、その可能性を訴えているところがあり、まずそこに私は共感できました。現場に生きる身として、背筋の引き締まる思いを感じ、勇気づけられました。
また、教育心理学者らしく、子どもの学びや育ちを丁寧に、かつ温かく描き出し、かつそこから本質的な深みをのぞかせようとしているところがとても勉強になりました。
私も毎日の教室の中で、そのような豊かな意味を感じ取れるだけの教師になりたいと強く思った次第です。
ぜひ読んでみてください。

2014/07/02

本物の教師になれるかどうかを見分ける一つの指標

本物の教師になれるかどうかを見分ける一つの指標がある。
それは、つねに、まず、子どもを主語にして話す、考えるということだ、

「この授業では、きっと子どもたちは……のように感じるから……という手立てをとろう。」と考えるのが本物の教師になれる。
「この授業では、あの○○先生が……といっているから、……という手立てをとろう。」
「この授業では、(○○氏が提唱する)単元を貫く言語活動になっていないから……」
「この授業は、学習指導要領の指導事項では……となっているから……」
などなど、子どもを主語にする前に、子どもの論理の前に、他人(カリスマ教師??)の受け売りとか、教師の都合とか、定型的な授業スタイルとか、思想信条でのみ語ろうとする人は、きっと本物の教師には、なれない。
(=「本物の教師だ」とはいってはいない。本物の教師になるためにはここからスタートしてさらに研修を積んでいく必要があるのだろう)
そう思う。

2014/06/16

実習生指導「CAVScene」を使った映像リフレクション

今日から実習生の授業がスタートした。
今年から毎時間、iPadの授業観察用アプリ「CAVSene」を使ってビデオ記録をとり、それをストップモーション方式でリフレクションすることにした。
このビデオアプリは、動画を撮りながら、付箋や書き込みをその場でできたり、キャプション分けをできたりという機能があり、授業観察に特化したアプリだ。
事前の準備として、撮影をしながら気になった場所に付箋を貼ったりキャプション分けをして、後で見返しやすくしておく。
放課後、リフレクションを行った。
まず、ビデオを見ながら、授業の様子をひたすら思い出し、そのときの教師の心理状況(こうしたかった、こうなってほしかった、こうなる/するつもりじゃなかった)をひたすら語ってもらう。
その語りを聞きながら、実習生の、ぼんやりとした発想、つぶやきを拾い、それをより具体的でしっくりとくる表現になるように「指導教官」が言い換えるなどしてサポートしていく。
たとえば、今日のリフレクションで問題になったのはこんな場面だ。
子どもたちに、グループで分からない言葉の意味調べをさせた。
しかし、「わからない言葉はない」といって、意味調べの活動になかなか取り組もうとしない生徒がいた。
そこで、本心としては、「分からない言葉を自分から見つけて調べる」ことをさせたかったが、活動に取り組ませるために、思わず無意識に「他の○○班は20個も調べてすごい」と言ってしまった。
実習生は自分の本心とはズレているにもかかわらず、子どもを動かすために「数」にこだわって指示をしてしまった。しかし、それに気づいたときはもう遅かった。子どもたちは「ともかくたくさん調べればいいんだ」という気持ちになり、無理矢理機械的に調べる作業になってしまっていた。
活動の趣旨や目的を明確に示して伝えること、目的に対応した言葉がけ(評価)の大切さをこの授業で痛感した。
それと、教師の気持ちと行動にずれがあるときは、端から見ても、動きがロボットのようにぎこちなく、子どもへの指示も、自信を持ってできなくなるということを、この事例から実感することができた。

映像リフレクションの良いところは、授業を文節や要素に区切るのではなく、全体の雰囲気とか空気感まで振り返ることができると言うとこだ。
「ここではすっごく盛り上がって楽しそうだね。どんなことを感じていたの?」
「ここでは笑顔が消えて、声もだんだん小さくなっていったね。どんなきっかけで?」
「Aくんのほうを見ていたのは、どんなことが気になったの?」
「Aくんはなぜ作業を止めてしまったんだと思った?」
映像は言葉よりも膨大な情報量があるため、リフレクションするときに、そのときの雰囲気や空気感まで想起させることができる。なによりも、要素ではなく、全体的な文脈でとらえることができやすくなるようなメリットがあると思う。