先日の、学術出版の編集者の方々とお話をして印象に残ったこと。
編集者の方は、自分が売り出そうとする本の内容を必ずしも理解をしているわけではないそうだ。(本の中身を理解できなくても売ろうとするというのが驚きだ。)でも、「何かこれは良さそう」という嗅覚は働くのだという。
この嗅覚通りに出版されて高い評価を得られれば、それは無上の喜びとなるし、そうでなければ商売としては失敗ということになってしまう。学術書の場合は、必ずしも大衆受けして「売れる」ことは念頭に置いていない、だから、他の出版よりも、かなり繊細な嗅覚が必要となるのだろう。むしろその嗅覚を楽しんでいるともいえる。
「大御所に執筆を依頼してそこそこ売れる本を作ること」や、「はじめから内容が分かっているような本を作るのは面白くない」ともいう。自分の嗅覚で「何かいい」という感覚をかぎつけることが重要であり、それに編集者の矜恃があるようだ。
実践も、研究も、本来はそういうものなのだろう。一番大切なのは「何かこれはいい!」とか、「お宝が埋まっているんじゃないか?」いう嗅覚を大切にすること。
それが言葉でうまく説明できるとか、ましては評価できるかどうかということは置いておいて、その「何か」に向けてじりじりと迫っていく。トリュフをかぎつける犬のように? くんくんと迫っていくようなものが、本来は一番わくわくするのだ。
2015/10/18
「答えは人を分け隔てるが、問いは人を結びつける」
「答えは人を分け隔てるが、問いは人を結びつける」
何度でも引用したい言葉だ。(引用元は何だっけ??忘れちゃった。)
どうも話がかみ合わないなあと感じるとき、だいだい、この「問いのレベル」が違いすぎる、つまり共有できていないところに問題があるようだ。
こちらは大きな問題を考えようとしているのに、実に卑近な例で突っかかってくる、また、自分は具体を取り上げているんだけど、世の中を動かすような大きすぎる問いで構えてくる。そうすると、話がかみ合わなくなってしまう。
また、こちらは「問い」を問題にしようとているのに、相手は「答え」で応戦してくる場合もある。「私はこうしています」「ここではこうなっています」と。この場合も話がかみ合わない。「それで?」「だから?」といいたくなる。「自分のフィールド」を引っ張ってきて、「自分」を開陳する。それが「各自の勝手な都合」にすぎない場合、「問い」を深めることはできない。
合意形成とは、実は「答え」を他の人と一致させることではなく、「問い」のレベルをそろえることなのだ。「問い」のレベルさえ共有できれば、その時点でたいていの「答え」についても許容できるようになってくる。
合意形成とは「誰もが同じ考え(答え)を持つこと」ではなく、「誰もが同じレベルの問いに向かうこと」である。
とすれば、「市民の日本語」として重要なのは、他者の問いのレベルをつかまえようとすること、共有しようとする身振りにあるのではないか。解決策は、問いが共有できてから、それぞれが考えればよい。
何度でも引用したい言葉だ。(引用元は何だっけ??忘れちゃった。)
どうも話がかみ合わないなあと感じるとき、だいだい、この「問いのレベル」が違いすぎる、つまり共有できていないところに問題があるようだ。
こちらは大きな問題を考えようとしているのに、実に卑近な例で突っかかってくる、また、自分は具体を取り上げているんだけど、世の中を動かすような大きすぎる問いで構えてくる。そうすると、話がかみ合わなくなってしまう。
また、こちらは「問い」を問題にしようとているのに、相手は「答え」で応戦してくる場合もある。「私はこうしています」「ここではこうなっています」と。この場合も話がかみ合わない。「それで?」「だから?」といいたくなる。「自分のフィールド」を引っ張ってきて、「自分」を開陳する。それが「各自の勝手な都合」にすぎない場合、「問い」を深めることはできない。
合意形成とは、実は「答え」を他の人と一致させることではなく、「問い」のレベルをそろえることなのだ。「問い」のレベルさえ共有できれば、その時点でたいていの「答え」についても許容できるようになってくる。
合意形成とは「誰もが同じ考え(答え)を持つこと」ではなく、「誰もが同じレベルの問いに向かうこと」である。
とすれば、「市民の日本語」として重要なのは、他者の問いのレベルをつかまえようとすること、共有しようとする身振りにあるのではないか。解決策は、問いが共有できてから、それぞれが考えればよい。
2015/10/07
授業の「かたさ」を考える
ここ最近、授業の様子を形容する言葉「かたい」「やわらかい」が気になっている。
実習生の、あまり上手くいっていない授業を見ると例外なく「かたい」という印象をえる。
そう考えると、一面においては、教師の熟達とは「かたい」授業から「やわらかさ」を獲得していくプロセスと言えなくも無い。
「かたい授業」とは、一体何がどう「かたい」のか。
・表情がかたい
→能面のように感情を表に出さない。生徒の反応を受け止め、それに対して教師が反応できない。
・授業の展開がかたい
→決まり切ったことしかせずに、授業の流れに変化が乏しい。臨機応変な脱線などが無い。
・表現がかたい
→言葉遣いや所作に、子ども相手にはふさわしくないようなフォーマルさがあり、他人行儀に感じられる。
・扱う内容がかたい
→取り上げる内容やエピソードなどが、生徒の実感などとかけ離れた「教科書的」なものとなっている。(いわゆるサブカル的なものへの目配せが皆無である)
など。もっとあるかな。
こう考えると、「かたさ」にもさまざまな要素があり、そのなかでも「やわらかく」していく方がいい場合と「かたい」からこそいいものがあるのかもしれない。クラスによる雰囲気の違い、教師の身体性やキャラクターの差違などとも密接に関わるものであるはずだ。
実習生の、あまり上手くいっていない授業を見ると例外なく「かたい」という印象をえる。
そう考えると、一面においては、教師の熟達とは「かたい」授業から「やわらかさ」を獲得していくプロセスと言えなくも無い。
「かたい授業」とは、一体何がどう「かたい」のか。
・表情がかたい
→能面のように感情を表に出さない。生徒の反応を受け止め、それに対して教師が反応できない。
・授業の展開がかたい
→決まり切ったことしかせずに、授業の流れに変化が乏しい。臨機応変な脱線などが無い。
・表現がかたい
→言葉遣いや所作に、子ども相手にはふさわしくないようなフォーマルさがあり、他人行儀に感じられる。
・扱う内容がかたい
→取り上げる内容やエピソードなどが、生徒の実感などとかけ離れた「教科書的」なものとなっている。(いわゆるサブカル的なものへの目配せが皆無である)
など。もっとあるかな。
こう考えると、「かたさ」にもさまざまな要素があり、そのなかでも「やわらかく」していく方がいい場合と「かたい」からこそいいものがあるのかもしれない。クラスによる雰囲気の違い、教師の身体性やキャラクターの差違などとも密接に関わるものであるはずだ。
2015/10/06
教師も学習の輪に加わる
最近の流行に過ぎないのかもしれないけど、どうも、教師は子どもに勝手にやらせておくのが良い、教師が介入しなければしないほどよいという極端な物言いがあって、(もしそれを言葉通りに受け止めるとすれば) 何か物足りないなあという気がしていている。
かくいう私も、ひょっとしたら日本の平均的な授業スタイルよりもずっと「勝手にやらせている」ほうなのかもしれないけど、「介入しなければしないほどよい」なんていうことは、全く、これっぽっちも思っていない。
その理由はとてもシンプルだ。
私も一緒にその学習に参加したいから。
私も、学習者となって、学習の輪の一つとして加わっていたいという思いがあるから、子どもと同じように、話し合いに加わってつい発言をしてしまうし、ちょっかいも出してしまう。(それに多少の後ろめたさがないわけではないけど。)
「教師は手出しをしない方が良い」というのは、まあ、理屈としては理解ができなくもないけど、「学習ってそんな不自由なものなんですかね? 加わりたくなったら大人だって、教師だって学習に参加したっていいでしょ」と言いたくなってしまう。
だいたい、大人(教師)がちょっと発言したぐらいで、自分の考えを捨ててコントロールされてしまうような子どもを育てている方がずっと問題でしょ。
「アクティブラーニング」っていうくらいなら、どうして、教師自身がアクティブに学んでる姿を子どもたちに見せないんだろう。
かくいう私も、ひょっとしたら日本の平均的な授業スタイルよりもずっと「勝手にやらせている」ほうなのかもしれないけど、「介入しなければしないほどよい」なんていうことは、全く、これっぽっちも思っていない。
その理由はとてもシンプルだ。
私も一緒にその学習に参加したいから。
私も、学習者となって、学習の輪の一つとして加わっていたいという思いがあるから、子どもと同じように、話し合いに加わってつい発言をしてしまうし、ちょっかいも出してしまう。(それに多少の後ろめたさがないわけではないけど。)
「教師は手出しをしない方が良い」というのは、まあ、理屈としては理解ができなくもないけど、「学習ってそんな不自由なものなんですかね? 加わりたくなったら大人だって、教師だって学習に参加したっていいでしょ」と言いたくなってしまう。
だいたい、大人(教師)がちょっと発言したぐらいで、自分の考えを捨ててコントロールされてしまうような子どもを育てている方がずっと問題でしょ。
「アクティブラーニング」っていうくらいなら、どうして、教師自身がアクティブに学んでる姿を子どもたちに見せないんだろう。
2015/10/01
頻出度順の、慣用句、ことわざ、名言などの本が欲しい
現在、「論語」について本で調べ、それをアンソロジーとして編宇する学習に取り組んでいる。この学習の成否を大きく左右するのが、学習者がどんな資料に触れていくかという資料の選択にある。
「子どもに自由にアクセスさせ、その中から選ばせれば良い」ということもあるけど、それは理想論、というか、限られた時間で、効率的に、価値ある言葉と出会わせることが授業のねらいであるとするならば、それに見合った資料の選択がとても重要な要素となってくる。
私は次のような要素を加味して資料をそろえている。
①解説が平易でどの生徒にとっても抵抗感なく理解できる、分かりやすい資料。(3学年くらいレベルを下げ、学習者が簡単すぎると感じるくらいのものでちょうど良い)
②収録されているテキストが厳選されているもの。
③そのほか、装丁や見た目などの要素も考慮。文字がぎっしりと2段組とか、紙が焼けて茶色いような紙面のものでは読む気をなくしてしまう。
この①〜③のうち、意外に盲点なのが②だ。
ことわざや慣用句、名言などが必要以上に多すぎるものも困ってしまう。
たとえば、「ことわざ1万語収録の辞典」なんて、ことざわが何でも載っていて頼りがいがありそうだけれども、ほとんどの人が知らないようなことわざを覚えても、実生活でそんなマニアックなことわざを使っても相手にきょとんとされるのがオチだ。
必要最低限の、教養として知っておくと良い程度のボリュームの資料がちょうど良いのだ。そう考えると、概して、大人向けのことわざ、慣用句辞典のようなものは量が多すぎて使いにくい。マニアックすぎることわざに埋もれてしまうリスクがある。
頻出度順のことわざ、慣用句辞典のようなものがあれば、教材として願ったりかなったりなんだけど、探せばそういう本はあるのだろうか。
「子どもに自由にアクセスさせ、その中から選ばせれば良い」ということもあるけど、それは理想論、というか、限られた時間で、効率的に、価値ある言葉と出会わせることが授業のねらいであるとするならば、それに見合った資料の選択がとても重要な要素となってくる。
私は次のような要素を加味して資料をそろえている。
①解説が平易でどの生徒にとっても抵抗感なく理解できる、分かりやすい資料。(3学年くらいレベルを下げ、学習者が簡単すぎると感じるくらいのものでちょうど良い)
②収録されているテキストが厳選されているもの。
③そのほか、装丁や見た目などの要素も考慮。文字がぎっしりと2段組とか、紙が焼けて茶色いような紙面のものでは読む気をなくしてしまう。
この①〜③のうち、意外に盲点なのが②だ。
ことわざや慣用句、名言などが必要以上に多すぎるものも困ってしまう。
たとえば、「ことわざ1万語収録の辞典」なんて、ことざわが何でも載っていて頼りがいがありそうだけれども、ほとんどの人が知らないようなことわざを覚えても、実生活でそんなマニアックなことわざを使っても相手にきょとんとされるのがオチだ。
必要最低限の、教養として知っておくと良い程度のボリュームの資料がちょうど良いのだ。そう考えると、概して、大人向けのことわざ、慣用句辞典のようなものは量が多すぎて使いにくい。マニアックすぎることわざに埋もれてしまうリスクがある。
頻出度順のことわざ、慣用句辞典のようなものがあれば、教材として願ったりかなったりなんだけど、探せばそういう本はあるのだろうか。
2015/09/28
いわゆる通知表の「所見」についての私見
一体、通知表の所見はいくつまで増えるのか?
小学校教諭の妻は、いま学期末の評価のかき入れどきらしい。家まで仕事を持ち帰って、家事の合間に遅くまで通知表の仕事をしている。昨夜は一体何時までかかっていたんだろう。先に寝てしまったので分からないほどだ。
通知表の何がそんなに忙しいかといえば、最近やたらと文章で書く評価が増えてきたかららしい。
・総合所見
・総合的な学習の時間
・英語活動
などなど。
総合所見だけでも生徒数分考えるのが大変なのに、それに輪を掛けて、総合、そして英語と、3倍の文量を書かなければいけなくなってきている。今後はさらに道徳の評価も文章でということになってくるのだろうか、うんざりしてしまう。
新しい教育が入るたんびに、新しい評価項目が入ってくる。そしてそれに教員は忙殺されていく。(でも評定の数字ほど、文章評価は読まれるのだろうかという疑念も……)
一体、通知表の所見はいくつまで増えるのだろうか?
文章表記と細かい評価観点と、どちらがいいのか?
帰国生の関係で、海外の現地校の通知表?指導要録?(のようなもの)を拝見する機会がある。
だいたい分厚い冊子で、教科ごとに細かい観点がわけられ、それぞれA・B・C・D・E……のような評価が付けられている。
日本では、国語科で言えばその評価が、5段階の評定と、5つの観点別評価のABCだけれども、海外は、おおむねその5倍くらいの量で評価項目を立てて評価をしているものが多い。もちろん、文章表記のものも多い。しかし決して文章による評価だけではなく、むしろ驚かされるのは、具体的な評価観点の豊富さにある。日本のように5つの観点だけでなく、20個ぐらいの観点のABCがあり、その上で文章表記の評価があるというわけだ。
日本ではそれと同じようなような評価は望むべくはないけれども、なんとなく、日本の評価観というものは「文章で書く評価はエライ」「数字で切る評価は手抜き」みたいな感覚がないだろうか。だから、新しい教育内容が入るたびに、「エライ」文章表記が増えてくるというからくりになっているし、「数値で評価したい!」と、それを大きな声で主張もできにくい風潮がある。
文章だから愛がある、数字だから冷たいというのは、評価の一面的な見方に過ぎない。どんな数値で評価するか、BにするかCを付けるか、一晩悩むぐらいのことは、どんな先生だってしているではないか。むしろ、文章のように曖昧にできない数字だからこそ、悩みに悩み抜くものなのではないだろうか。
いっそのこと、英語活動も、総合的な学習の時間も、数値で評価するべし。AからB、BからCのギリギリの選択のなかに、教師の迷いがあるし、愛だってあるはずだからだ。
もしそのリスクが大きいなら、曖昧な文章表記の文章を増やすのではなく、評価項目、評価観点を増やすようにするべし。そのほうが、こども本人や親からしてみれば、よっぽど分かりやすい、具体的なフィードバックになるのではないだろうか。
小学校教諭の妻は、いま学期末の評価のかき入れどきらしい。家まで仕事を持ち帰って、家事の合間に遅くまで通知表の仕事をしている。昨夜は一体何時までかかっていたんだろう。先に寝てしまったので分からないほどだ。
通知表の何がそんなに忙しいかといえば、最近やたらと文章で書く評価が増えてきたかららしい。
・総合所見
・総合的な学習の時間
・英語活動
などなど。
総合所見だけでも生徒数分考えるのが大変なのに、それに輪を掛けて、総合、そして英語と、3倍の文量を書かなければいけなくなってきている。今後はさらに道徳の評価も文章でということになってくるのだろうか、うんざりしてしまう。
新しい教育が入るたんびに、新しい評価項目が入ってくる。そしてそれに教員は忙殺されていく。(でも評定の数字ほど、文章評価は読まれるのだろうかという疑念も……)
一体、通知表の所見はいくつまで増えるのだろうか?
文章表記と細かい評価観点と、どちらがいいのか?
帰国生の関係で、海外の現地校の通知表?指導要録?(のようなもの)を拝見する機会がある。
だいたい分厚い冊子で、教科ごとに細かい観点がわけられ、それぞれA・B・C・D・E……のような評価が付けられている。
日本では、国語科で言えばその評価が、5段階の評定と、5つの観点別評価のABCだけれども、海外は、おおむねその5倍くらいの量で評価項目を立てて評価をしているものが多い。もちろん、文章表記のものも多い。しかし決して文章による評価だけではなく、むしろ驚かされるのは、具体的な評価観点の豊富さにある。日本のように5つの観点だけでなく、20個ぐらいの観点のABCがあり、その上で文章表記の評価があるというわけだ。
日本ではそれと同じようなような評価は望むべくはないけれども、なんとなく、日本の評価観というものは「文章で書く評価はエライ」「数字で切る評価は手抜き」みたいな感覚がないだろうか。だから、新しい教育内容が入るたびに、「エライ」文章表記が増えてくるというからくりになっているし、「数値で評価したい!」と、それを大きな声で主張もできにくい風潮がある。
文章だから愛がある、数字だから冷たいというのは、評価の一面的な見方に過ぎない。どんな数値で評価するか、BにするかCを付けるか、一晩悩むぐらいのことは、どんな先生だってしているではないか。むしろ、文章のように曖昧にできない数字だからこそ、悩みに悩み抜くものなのではないだろうか。
いっそのこと、英語活動も、総合的な学習の時間も、数値で評価するべし。AからB、BからCのギリギリの選択のなかに、教師の迷いがあるし、愛だってあるはずだからだ。
もしそのリスクが大きいなら、曖昧な文章表記の文章を増やすのではなく、評価項目、評価観点を増やすようにするべし。そのほうが、こども本人や親からしてみれば、よっぽど分かりやすい、具体的なフィードバックになるのではないだろうか。
2015/09/22
もう当分、この手の研究はやめたほうがいいです。
今から15〜20年くらい?前、ある日本でも有数の規模である国語教育の研究会でEメールの授業の実践提案があった。(Windows95だったかな)
で、その実践は、新卒ペーペーのわたしから見ても「なんじゃこりゃ」「こんなのでも提案になるの?」というような惨憺たるものだった。コンピュータ室に生徒を集めて、ひたすらメールを打つというものだったからだ。
事後の協議会では「これが国語教育か?」「なんでわざわざPCを?」「手書きのほうがずっと効率的だ」という集中砲火を浴びたことはいうまでもない。
で、締めの言葉で、指導助言者の偉いセンセイが「もう当分この手の(ICTの)研究はやめたほうがいい」とまで言い放たれたというオチが付く。以後、その研究団体ではICT活用系の国語教育の実践はほとんど出てきていない。
歴史に「もし」が可能なら、もしそのとき、国語教育の御大が「まだこの手の研究は未成熟だから、もう少しこの研究を進めていこう」と号令したなら、随分見通しが変わっただろうなあという思いを強くする。
国語教育の実践家たちにとって、Eメールとは手紙指導の一環であり、ワープロとは原稿用紙の代わりであるという認識から捨てきれなかったのだろう。Eメールで「しか」できないこと、ワープロだから「こそ」できる「何か」に着目して研究を進めていたら、日本の国語教育はもう少し風通しが良くなったのだろうと夢想している。どうせならそういう研究を私はしていきたい。
で、その実践は、新卒ペーペーのわたしから見ても「なんじゃこりゃ」「こんなのでも提案になるの?」というような惨憺たるものだった。コンピュータ室に生徒を集めて、ひたすらメールを打つというものだったからだ。
事後の協議会では「これが国語教育か?」「なんでわざわざPCを?」「手書きのほうがずっと効率的だ」という集中砲火を浴びたことはいうまでもない。
で、締めの言葉で、指導助言者の偉いセンセイが「もう当分この手の(ICTの)研究はやめたほうがいい」とまで言い放たれたというオチが付く。以後、その研究団体ではICT活用系の国語教育の実践はほとんど出てきていない。
歴史に「もし」が可能なら、もしそのとき、国語教育の御大が「まだこの手の研究は未成熟だから、もう少しこの研究を進めていこう」と号令したなら、随分見通しが変わっただろうなあという思いを強くする。
国語教育の実践家たちにとって、Eメールとは手紙指導の一環であり、ワープロとは原稿用紙の代わりであるという認識から捨てきれなかったのだろう。Eメールで「しか」できないこと、ワープロだから「こそ」できる「何か」に着目して研究を進めていたら、日本の国語教育はもう少し風通しが良くなったのだろうと夢想している。どうせならそういう研究を私はしていきたい。
2015/09/21
紙の本はクリティカルな読みに適している?
今日の授業で、ちょっとびっくりした場面があった。
あるグループの生徒たちが、複数の万葉集の本を見合いながらああだこうだと話し合っている。
「この訳は意味分からない」
「この解説は書いている人の思い入れを言っているだけの気がする。いまいち納得できない」
などと、自然と比べ読みをして、複数の解説本の表現を吟味しあっているではないか。
これがネットの調べだったら、すぐにコピペしておしまいにしてしまいそうな気がする。これが教師の解説を聞くだけの授業なら、そもそもクリティカルに聞こうという構えさえもたないだろう。
やはり紙だから、本だからこそ、それも、硬軟取り混ぜた本が揃っているからこそ、クリティカルに読むことが自然とできたのではないか?
司書さんが、土日に、この授業のために、あらゆるところから資料をかき集めてくださったことの真価に、私自身が気づくことができてよかった。
「この訳は意味分からない」
「この解説は書いている人の思い入れを言っているだけの気がする。いまいち納得できない」
などと、自然と比べ読みをして、複数の解説本の表現を吟味しあっているではないか。
これがネットの調べだったら、すぐにコピペしておしまいにしてしまいそうな気がする。これが教師の解説を聞くだけの授業なら、そもそもクリティカルに聞こうという構えさえもたないだろう。
やはり紙だから、本だからこそ、それも、硬軟取り混ぜた本が揃っているからこそ、クリティカルに読むことが自然とできたのではないか?
司書さんが、土日に、この授業のために、あらゆるところから資料をかき集めてくださったことの真価に、私自身が気づくことができてよかった。
分からないことがなくなってからが教師の出番
あるクラスの授業。
今日の授業ではちょっと考えさせられる場面があった。
資料集で現代語訳を確認したあるグループ。そうしたら「先生、もう全部分かっちゃったから、調べることがありません」と言ってきたのだ。
俄然燃える私。
「分かったって言っているけど、もっと深く掘り下げられることはあるんじゃない?
例えば、「防人」の言葉の意味だけじゃなくて、何年間赴任しているとか、どんな人がかり出されるとか、そういうところまで調べれば、もっと作品の世界がよくイメージできるようになるよ。もっと分からないことがないか探してごらん」と。
せっかく探究できる時間を確保しているのだから、表面的な理解で終わらせるのではなく、ぐいぐいとテキストに食い込んでいくような学びをさせていきたい。そのためには、「分からないことがない」と生徒が言った後の教師の出方が必要だと思う。
資料集で現代語訳を確認したあるグループ。そうしたら「先生、もう全部分かっちゃったから、調べることがありません」と言ってきたのだ。
俄然燃える私。
「分かったって言っているけど、もっと深く掘り下げられることはあるんじゃない?
例えば、「防人」の言葉の意味だけじゃなくて、何年間赴任しているとか、どんな人がかり出されるとか、そういうところまで調べれば、もっと作品の世界がよくイメージできるようになるよ。もっと分からないことがないか探してごらん」と。
せっかく探究できる時間を確保しているのだから、表面的な理解で終わらせるのではなく、ぐいぐいとテキストに食い込んでいくような学びをさせていきたい。そのためには、「分からないことがない」と生徒が言った後の教師の出方が必要だと思う。
追伸
山上憶良さんは何歳のときに子供を授かったか?
そこまで疑問に思わなかった私に、衝撃の事実を生徒が教えてくれた。まだまだ私も探求が甘い!
山上憶良さんは何歳のときに子供を授かったか?
そこまで疑問に思わなかった私に、衝撃の事実を生徒が教えてくれた。まだまだ私も探求が甘い!
おばあちゃんのテクニック
某女子大前の道路沿いには、とっても古くからやっている庶民的なおまんじゅう屋がある。
見た目からしてかなり気合いが入っている。昭和の香り漂うお店だ。
通りかかるたんびに、気になって中を覗いみるんだけど、見ると、老夫婦がいつも一緒にテレビを見ながら番をしている。
通りかかるたんびに、気になって中を覗いみるんだけど、見ると、老夫婦がいつも一緒にテレビを見ながら番をしている。
どうしても気になったので、今日は勇気を振り絞って声をかけてみた。
「すいませーん。どら焼きと豆大福、二個ずつくださーい」
「あいよ。500円。」
と、ゆっくりゆっくり、パックにどら焼きと、豆大福を詰め込んでいる。1個130円。
あれっ、なんか変だぞ、これは、ひょっとして、おばあちゃん……。
「値段が違ってませんか」と言い出す前に、
「はい」と、袋とおつりを渡されてしまった。
あれは、おまけだったのか、それともお年寄りで計算がうまくできなかったのか。一体どっちなんだ?
とにかく、もやもやが残ってしまった。
そして、ちゃんと聞けなかった後ろめたさで胸がいっぱいになってしまった。
今度通りがかったときは、再び、絶対に、どら焼きと豆大福を購入しよう。そして、真相を突き止めてみせる!
あれっ、ひょっとして、これが、あのおばあちゃんのテクニックなのか? まさか!
「すいませーん。どら焼きと豆大福、二個ずつくださーい」
「あいよ。500円。」
と、ゆっくりゆっくり、パックにどら焼きと、豆大福を詰め込んでいる。1個130円。
あれっ、なんか変だぞ、これは、ひょっとして、おばあちゃん……。
「値段が違ってませんか」と言い出す前に、
「はい」と、袋とおつりを渡されてしまった。
あれは、おまけだったのか、それともお年寄りで計算がうまくできなかったのか。一体どっちなんだ?
とにかく、もやもやが残ってしまった。
そして、ちゃんと聞けなかった後ろめたさで胸がいっぱいになってしまった。
今度通りがかったときは、再び、絶対に、どら焼きと豆大福を購入しよう。そして、真相を突き止めてみせる!
あれっ、ひょっとして、これが、あのおばあちゃんのテクニックなのか? まさか!
それでも明日学校がある。
2001年の911テロの時、私は新卒3年目だった。夜が白めるまで、友達とメールをしながらテレビに釘付けになっていたことを昨日のことのように思い出す。あのときは、もう世界が滅びるんじゃないかと本気で思ったけど、その翌朝にはいつもと変わらない朝がやってきて、いつもの通りの時間割の授業をこなしていた。そのことが何とも奇妙に映った。外国が戦争になるくらいでは、中学校は休みにならないものらしいのだ。
ひるがえって2015年。今日も、そして明日も、学校はある。日本が大きく変わろうとするこの一日にも、それには動ぜずに、中学校は動いていく。それがとても頼もしいことにも思えるし、これでいいのかという漠然とした不安もある。社会とはかけ離れても教育ができたかつての学校は、時代は、幸福すぎたようだった。
ひるがえって2015年。今日も、そして明日も、学校はある。日本が大きく変わろうとするこの一日にも、それには動ぜずに、中学校は動いていく。それがとても頼もしいことにも思えるし、これでいいのかという漠然とした不安もある。社会とはかけ離れても教育ができたかつての学校は、時代は、幸福すぎたようだった。
その時々の完成がある。
今日から二日間の「生徒祭」。うちの学校は文化祭はなく、代わりに生徒祭が行われる。学級を解体して好きな生徒同士でグループを作り、思い思いのパフォーマンスを繰り広げる。そこに教師の手はほとんど(全く?)入らない。入りようがない。生徒同士で作る方がよっぽどクオリティーが高いからだ。
こういう子供たちの姿を目の当たりにしていると、人間とは、大人に向かって成長していく、完成に向かっていくというよりは、その時々が完成形であり、その時々にしか表すことのできない輝きを持っているのだという思いを強く感じる。三十代の大人が「文化祭」をやってもパロディーにしかならないだろう。中学生たちは十代のこの時期だからこそ、この時期にしか表せない輝きを表現しているのだ。大人のまねごとなんかでは決してない。
生徒祭はあと一日。私が普段関わる三年生たちにとって、中学校最後のイベントとなる。彼らのまぶしい姿を、あともう一日だけ見ることができそうだ。
これを好むものは、これを楽しむものにしかず。
今日の生徒祭で三年生の様子を見て感心したことは、「勝ち負け」にちっとも頓着していないということだ。
うちの生徒祭は、毎年、来場者から、どのグループが一番良かったか投票してもらうシステムになっている。その順位に一喜一憂している姿が見られるのが、恒例となっていた。
しかし今年は、その順位発表にほとんど反応がなかった。勝ち負けなんていうものよりも、純粋に楽しんでいたのだろう。
多くの実行委員も、生徒祭の期間中、「楽しんでやりましょう」と生徒たちに伝えていた。それは意図的なものではない。「勝ち負け」よりも「楽しむ」というのは、多くの生徒にとって共感できる価値観となっているのだろう。
かつて(何年前だ?〕勝ち負けが絡むような取り組みで「楽しもう」とおおっぴらにいうのは、やや憚られていた風潮もあった。しかし今は違う。相対的な位置付けや評価よりも、自分たちの充実感に価値が置かれるようになってきている。そういう「絶対評価」がすっかり定着してきたとも言えるのだろうか?
それに良し悪しはあろうが「これを楽しむものにしかず」という真理は、古来から、人生を豊かに生きるための知恵であることは間違いない。
うちの生徒祭は、毎年、来場者から、どのグループが一番良かったか投票してもらうシステムになっている。その順位に一喜一憂している姿が見られるのが、恒例となっていた。
しかし今年は、その順位発表にほとんど反応がなかった。勝ち負けなんていうものよりも、純粋に楽しんでいたのだろう。
多くの実行委員も、生徒祭の期間中、「楽しんでやりましょう」と生徒たちに伝えていた。それは意図的なものではない。「勝ち負け」よりも「楽しむ」というのは、多くの生徒にとって共感できる価値観となっているのだろう。
かつて(何年前だ?〕勝ち負けが絡むような取り組みで「楽しもう」とおおっぴらにいうのは、やや憚られていた風潮もあった。しかし今は違う。相対的な位置付けや評価よりも、自分たちの充実感に価値が置かれるようになってきている。そういう「絶対評価」がすっかり定着してきたとも言えるのだろうか?
それに良し悪しはあろうが「これを楽しむものにしかず」という真理は、古来から、人生を豊かに生きるための知恵であることは間違いない。
2015/09/04
万葉集は偏愛の古典。
色々な意味で、日本人にとって奇跡の詩集だと思う。世界遺産にしたっていい。誇るべき遺産だ。
なにがいいって、古典のなかでも群を抜いて親しみやすさがあるからなのだ。
万葉仮名とか、古代日本語とか、内容理解までのハードルは高いのは仕方がない。けれども、一度意味が取れれば、思わずはっとさせられたり、ほっこりとしてしまう作品がとても多い。
それは万葉集が庶民の歌がたくさん、しかも天皇、貴族と同等に並べられているという点にある。その庶民の作品が抜群に愛らしい。
例えば、教科書にはこんな和歌が掲載されている。「東歌」という東国の庶民が歌った作品だ。
「信濃道は今の墾り道
刈りばねに足踏ましなむ
沓履けわが背」
(信濃道は新しく作られた道。切り株に足をくじかないでね。靴履いていってね。わが夫。)
こんな感じで、遠くへ旅立つ夫をもつ妻のつぶやきが歌われている。まるで、単身赴任するだんなに口うるさく??指図している妻の姿が目に浮かんでくる。 きっと夫のことが大好きで、そして心配なんだろう。ああ、愛らしい、そして可愛らしい。こんな作品を偶然見つけてしまうと、思わずほっこりしてしまうの だ。
万葉集は、私たちのような庶民の目線で、人生の哀感、喜怒哀楽を素朴に歌っている。千年もの時を隔てた古典のなかで、今も昔も変わらない人間の情感、あわれさを感じると、それがたまらない味わいとなる。
定年退職したら、毎日、万葉集をちびちび読む余生を送るのが夢だ。歌枕巡りもいいかな。
刈りばねに足踏ましなむ
沓履けわが背」
(信濃道は新しく作られた道。切り株に足をくじかないでね。靴履いていってね。わが夫。)
こんな感じで、遠くへ旅立つ夫をもつ妻のつぶやきが歌われている。まるで、単身赴任するだんなに口うるさく??指図している妻の姿が目に浮かんでくる。 きっと夫のことが大好きで、そして心配なんだろう。ああ、愛らしい、そして可愛らしい。こんな作品を偶然見つけてしまうと、思わずほっこりしてしまうの だ。
万葉集は、私たちのような庶民の目線で、人生の哀感、喜怒哀楽を素朴に歌っている。千年もの時を隔てた古典のなかで、今も昔も変わらない人間の情感、あわれさを感じると、それがたまらない味わいとなる。
定年退職したら、毎日、万葉集をちびちび読む余生を送るのが夢だ。歌枕巡りもいいかな。
2015/08/25
疑問が湧いてくる授業
何か質問はありますか?
といって、質問が出ることは滅多にない。
だからといって、教師は「質問が出なくてよかった。疑問は氷解した」と思っていいのだろうか?
ほとんどの授業は、最終的には「質問が出ないこと」を目的に行われる。
その常識を疑ってみたい。
学問は、知の世界は、質問、疑問によって発展してきた。
「質問はありませんか?」と聞かれて、黙って分かったつもりになっている態度からは、決して知は生み出されない。
だから、授業のゴールを「質問、疑問が出なくなること」とするのではなく、「質問、疑問が湧いてくること」をゴールにしてみるのだ。
教師を困らせるくらいの質問を、深い疑問を、この一時間の授業で考えてごらん、と。
そんな授業はどうやったらできるのだろうか?
といって、質問が出ることは滅多にない。
だからといって、教師は「質問が出なくてよかった。疑問は氷解した」と思っていいのだろうか?
ほとんどの授業は、最終的には「質問が出ないこと」を目的に行われる。
その常識を疑ってみたい。
学問は、知の世界は、質問、疑問によって発展してきた。
「質問はありませんか?」と聞かれて、黙って分かったつもりになっている態度からは、決して知は生み出されない。
だから、授業のゴールを「質問、疑問が出なくなること」とするのではなく、「質問、疑問が湧いてくること」をゴールにしてみるのだ。
教師を困らせるくらいの質問を、深い疑問を、この一時間の授業で考えてごらん、と。
そんな授業はどうやったらできるのだろうか?
国語の話し合いと社会の話し合いでは何が違うのか?
「言語活動の充実」が言われ出してから、それぞれの教科で話し合い活動が取り入れられるようになってきた。
国語以外の教科の授業で話し合いの活動を参観する機会が増えた。他教科の授業で話し合いが行われていると、私はつい国語科的な視点で見てしまう。
国語科と、他の教科での授業での話し合い活動は何が違うのだろうか。
私が最も感銘を受けたのは、ある社会科の授業だった。
その授業では、原発問題について、グループで解決策を話し合う活動をしていた。でも、やはり問題があまりにも難しく、話し合いは一向に進まない。ついに黙りあってしまうグループもあるほどだった。
授業後、国語科の私と、社会科の先生の授業に対する評価は正反対なものだった。
「あれだけ沈黙して考えることができたから、この課題はよかったんだ」と。
国語科的な視点で話し合いを考えると、どうしても、教師はあの手この手で話をさせようとする。発言が止まってしまったり、盛り上がらなかったりしたらひやひやしてしまう。しかし、社会科の授業ではそうではなかった。
話している言葉の量、会話の盛り上がりではなく、どれだけ真剣に考えていたか、課題と向き合おうとしていたかを問題にしていたのだ。だから黙っていても思考は働いていればいいし、表面的な発言量は問題にはならないのだ。あの社会の授業は、話し合い活動について目を開かされた出来事だった。
国語以外の教科の授業で話し合いの活動を参観する機会が増えた。他教科の授業で話し合いが行われていると、私はつい国語科的な視点で見てしまう。
国語科と、他の教科での授業での話し合い活動は何が違うのだろうか。
私が最も感銘を受けたのは、ある社会科の授業だった。
その授業では、原発問題について、グループで解決策を話し合う活動をしていた。でも、やはり問題があまりにも難しく、話し合いは一向に進まない。ついに黙りあってしまうグループもあるほどだった。
授業後、国語科の私と、社会科の先生の授業に対する評価は正反対なものだった。
「あれだけ沈黙して考えることができたから、この課題はよかったんだ」と。
国語科的な視点で話し合いを考えると、どうしても、教師はあの手この手で話をさせようとする。発言が止まってしまったり、盛り上がらなかったりしたらひやひやしてしまう。しかし、社会科の授業ではそうではなかった。
話している言葉の量、会話の盛り上がりではなく、どれだけ真剣に考えていたか、課題と向き合おうとしていたかを問題にしていたのだ。だから黙っていても思考は働いていればいいし、表面的な発言量は問題にはならないのだ。あの社会の授業は、話し合い活動について目を開かされた出来事だった。
2015/08/22
ギャンブルには夢があるか?
空襲から命からがら生き延びた、まんじゅう屋の祖父は、若い頃よく千葉けいりんに入り浸っていたそうだ。
我が子(つまり私の父)が盲腸になって、のたうち回っていたとき、その手術代を稼ぎ出したのも千葉けいりんだった。そんな祖父の博才に由来する武勇伝を、89歳で亡くなるまで私は何度となく聞かされた。
博打もまんじゅう屋もいまいちで、結局店を潰した子(つまり父)は、やはり若い頃パチンコにはまっていた。私もよく京成千葉駅のパチンコ屋に連れられていったことを思い出す。
しかしある時期から父は、ぱたっとギャンブルから足を洗う。それは、パチンコにはまる自分のそばで、幼い我が子(つまり私)が、床にはいはいしながら、落ちている銀玉を拾って打ち出そうとしたのを見たからだったという。
そんな父は、現在では宝くじを買うのをささやかな慰みとしている。
会うたびに「東京のマンション買ってやろうか?」が口癖だ。「こんど、サマージャンボ当ててやるからな!」というおまけつきで。
きっと、パチンコも、宝くじも、競輪も競馬も、一切やらない人生だったら、ずっと色々ものにお金使えただろうなあ、勿体無い!と思うんだけど、もちろんそんなことは口が裂けても言えない。
私はギャンブルには手を出していないけど、それにはまる理由は遺伝的に理解している。
きっと、欲してるのはお金ではない。いわんや未来ではない。結果が明らかになるまでのつかぬまのひととき、今、わくわくしていたいという気持ちなのだ。
だから父は「宝くじを買ったよ」ということは言うけど「当たったよ」「外れたよ」という結果を話すことほとんどない。本人も、買ったという今、期待しているというひととき以上に、当たり外れの結果にはそれほど関心がないのかもしれない。
でもいつか東京のマンションを買ってほしいと、子供はひそかに期待している。
我が子(つまり私の父)が盲腸になって、のたうち回っていたとき、その手術代を稼ぎ出したのも千葉けいりんだった。そんな祖父の博才に由来する武勇伝を、89歳で亡くなるまで私は何度となく聞かされた。
博打もまんじゅう屋もいまいちで、結局店を潰した子(つまり父)は、やはり若い頃パチンコにはまっていた。私もよく京成千葉駅のパチンコ屋に連れられていったことを思い出す。
しかしある時期から父は、ぱたっとギャンブルから足を洗う。それは、パチンコにはまる自分のそばで、幼い我が子(つまり私)が、床にはいはいしながら、落ちている銀玉を拾って打ち出そうとしたのを見たからだったという。
そんな父は、現在では宝くじを買うのをささやかな慰みとしている。
会うたびに「東京のマンション買ってやろうか?」が口癖だ。「こんど、サマージャンボ当ててやるからな!」というおまけつきで。
きっと、パチンコも、宝くじも、競輪も競馬も、一切やらない人生だったら、ずっと色々ものにお金使えただろうなあ、勿体無い!と思うんだけど、もちろんそんなことは口が裂けても言えない。
私はギャンブルには手を出していないけど、それにはまる理由は遺伝的に理解している。
きっと、欲してるのはお金ではない。いわんや未来ではない。結果が明らかになるまでのつかぬまのひととき、今、わくわくしていたいという気持ちなのだ。
だから父は「宝くじを買ったよ」ということは言うけど「当たったよ」「外れたよ」という結果を話すことほとんどない。本人も、買ったという今、期待しているというひととき以上に、当たり外れの結果にはそれほど関心がないのかもしれない。
でもいつか東京のマンションを買ってほしいと、子供はひそかに期待している。
学校で一番大切な時間は、休み時間!
学校生活で一番大切な時間って? 授業? 部活動? 掃除? ホームルーム……
いささか逆説的かもしれないけど、それは「休み時間」だと私は思っている。「休み時間」を過ごすために学校に来ているのだ。そう信じて疑わない。
勉強が得意な生徒も、そうでない生徒も、休み時間はどの生徒も自由でいられる、楽しむことができる、のびのびできる。そういうクラスならば、きっと授業でも、他の活動でも、自由でのびのびと取り組むことができるはずだ。休み時間が充実していない、心が満たされないクラス、学校ほど、窮屈なものはない。
これは煎じ詰めれば、人生の価値にもつながってくる。
あなたは仕事をしている時間と、それから解放されて自由でいられる時間と、どちらの時間が自分にとって価値があると思うだろうか……そう考えると自ずと答えは出てくるのだ。
だから、どんな練りに練った授業よりも、子どもたちが楽しみにしている休み時間よりは価値がないと思っているから、私はよっぽどのことがない限り、休み時間を削って授業を延長することはない。
だから、どんなに素晴らしい学級経営でも、休み時間が悲惨なものとなっていれば、それは失敗だ。
いささか逆説的かもしれないけど、それは「休み時間」だと私は思っている。「休み時間」を過ごすために学校に来ているのだ。そう信じて疑わない。
勉強が得意な生徒も、そうでない生徒も、休み時間はどの生徒も自由でいられる、楽しむことができる、のびのびできる。そういうクラスならば、きっと授業でも、他の活動でも、自由でのびのびと取り組むことができるはずだ。休み時間が充実していない、心が満たされないクラス、学校ほど、窮屈なものはない。
これは煎じ詰めれば、人生の価値にもつながってくる。
あなたは仕事をしている時間と、それから解放されて自由でいられる時間と、どちらの時間が自分にとって価値があると思うだろうか……そう考えると自ずと答えは出てくるのだ。
だから、どんな練りに練った授業よりも、子どもたちが楽しみにしている休み時間よりは価値がないと思っているから、私はよっぽどのことがない限り、休み時間を削って授業を延長することはない。
だから、どんなに素晴らしい学級経営でも、休み時間が悲惨なものとなっていれば、それは失敗だ。
2015/08/19
異国における異文化を受容する方略に関する一考察〜これはこれでありだよね体験〜
旅先で強烈に体験する異文化の筆頭にあげられるのが食事だろう。
どんなに風光明媚でも、趣きのある遺跡があっても、現地の食べ物が「うっ」というものだと、旅行期間中はある程度は気合を入れなければいけなくなる。それでハラを壊したら旅行どころではなくなる。つまり我々は「食べる」という行為を通して、旅行者は異文化をどう受け入れるかが試されているというわけだ。
異文化である食事をどのように楽しんでいけばいいか、おおよそ、次の5つのパターンがあろうかと思う。
1、「和食だったら…‥みたいなものかな?」パターン
例)「インド人にとってのカレーって、日本だったら味噌と醤油みたいなものでしょ?」
このように、日頃親しんだ食事のスキーマに当てはめて、異文化を理解しようという方略である。
2、「この料理に醤油かければいけるでしょ」パターン
他の例)「これにマヨネースがあれば最高!」
このように、既存の文化を日本の食文化で染め上げるという態度である。実際に海外にマヨネーズや醤油を持参するという荒業もある。やや文化侵略的な後ろめたさが伴う。
3、「これはこれで、こういう食べ物だと思えばありかも」パターン
例)「メロンに生ハムって…‥、こういう食べ物だと思えばありかも。」
このように、メロン=単品のデザートという固定観念にとらわれずに、現地の食習慣、食文化の文脈で味わおうとする態度である。こういう発想で攻略できれば、その現地での食事をかなり楽しむことが可能になる。
4、「食べても死ぬわけじゃないから、大丈夫」パターン
どうしても切羽詰まった場合に使う方略。大丈夫だと思っていたらあとで本当に危なくなって腹を壊してしまうこともしばしばあるから要注意。
5、「来世に◯◯人にうまれ変わったら食べよう」パターン
パターン4まで努力してもどうしても喉を通らないことがある。
イヌを食べたり、サルの脳みそを食べる国もある。
そういう国に出かけたときは、泣く泣く、5の方略を選択して食事は遠慮することとなる。
この5つのパターン、たかが食事、されど食事。食文化を通して、異文化と向き合うときの姿勢や心構えを示していると言ったらいいすぎだろうか。
願わくば、どんな異文化に直面したときでも「これはこれでありだよね」「こういうものだと思えば味わえるよね」と思えるくらいの懐の広さは持ちたいものだ。
どんなに風光明媚でも、趣きのある遺跡があっても、現地の食べ物が「うっ」というものだと、旅行期間中はある程度は気合を入れなければいけなくなる。それでハラを壊したら旅行どころではなくなる。つまり我々は「食べる」という行為を通して、旅行者は異文化をどう受け入れるかが試されているというわけだ。
異文化である食事をどのように楽しんでいけばいいか、おおよそ、次の5つのパターンがあろうかと思う。
1、「和食だったら…‥みたいなものかな?」パターン
例)「インド人にとってのカレーって、日本だったら味噌と醤油みたいなものでしょ?」
このように、日頃親しんだ食事のスキーマに当てはめて、異文化を理解しようという方略である。
2、「この料理に醤油かければいけるでしょ」パターン
他の例)「これにマヨネースがあれば最高!」
このように、既存の文化を日本の食文化で染め上げるという態度である。実際に海外にマヨネーズや醤油を持参するという荒業もある。やや文化侵略的な後ろめたさが伴う。
3、「これはこれで、こういう食べ物だと思えばありかも」パターン
例)「メロンに生ハムって…‥、こういう食べ物だと思えばありかも。」
このように、メロン=単品のデザートという固定観念にとらわれずに、現地の食習慣、食文化の文脈で味わおうとする態度である。こういう発想で攻略できれば、その現地での食事をかなり楽しむことが可能になる。
4、「食べても死ぬわけじゃないから、大丈夫」パターン
どうしても切羽詰まった場合に使う方略。大丈夫だと思っていたらあとで本当に危なくなって腹を壊してしまうこともしばしばあるから要注意。
5、「来世に◯◯人にうまれ変わったら食べよう」パターン
パターン4まで努力してもどうしても喉を通らないことがある。
イヌを食べたり、サルの脳みそを食べる国もある。
そういう国に出かけたときは、泣く泣く、5の方略を選択して食事は遠慮することとなる。
この5つのパターン、たかが食事、されど食事。食文化を通して、異文化と向き合うときの姿勢や心構えを示していると言ったらいいすぎだろうか。
願わくば、どんな異文化に直面したときでも「これはこれでありだよね」「こういうものだと思えば味わえるよね」と思えるくらいの懐の広さは持ちたいものだ。
2015/08/11
見るアホウから踊るアホウへ
昨日懇親会でお話しした、徳島の先生のお話しが興味深かった。
昨年までは中学校の校長、今年からは、ある大学の教員をやっている。とてもパワフルな女性の先生で新しいものもいいと思ったらすぐ取り入れていく。
今年の提案では、校長として学校をあげて「ホワイトボードミーティング」に取り組んだ学活の実践を提案されていた。
その先生が、しみじみと語っていた。
「この研究会って、偉い先生の教えをみんなで学んでいくという会ではなくて、みんなが自分なりに学んできたこと、工夫してきたことを学び合うところがいいと思うんですよね。どうせなら、見るアホウじゃなくて、みんなで踊るアホウになる方が楽しいでしょ」と。
だから、どんな実践でも、いいものはいいと受け入れるし、そうでないものはダメと批判される。
若手が提案して、それを大御所が上から教えを垂れて指導するスタイルではない。よくある教師向けのセミナーのように、すごい先生の話を一方的に聞いて学ぶというものでもない。ワカモノも、ベテランも、小中学校の教員も、大学の教授も、全く同じ時間のワクのなかで、今まで学んできたことを提案しあい、協議しあう。
とかく流派や派閥にとらわれがちな国語教育において、こういうゆるい研究会は、地方レベルではあるのかもしれないけど、全国レベルで実践家や研究者が集まるのはほとんどないのではないか、そしてそれがどうして難しいのか、なかなかに考えさせられるお話しだった。
昨年までは中学校の校長、今年からは、ある大学の教員をやっている。とてもパワフルな女性の先生で新しいものもいいと思ったらすぐ取り入れていく。
今年の提案では、校長として学校をあげて「ホワイトボードミーティング」に取り組んだ学活の実践を提案されていた。
その先生が、しみじみと語っていた。
「この研究会って、偉い先生の教えをみんなで学んでいくという会ではなくて、みんなが自分なりに学んできたこと、工夫してきたことを学び合うところがいいと思うんですよね。どうせなら、見るアホウじゃなくて、みんなで踊るアホウになる方が楽しいでしょ」と。
だから、どんな実践でも、いいものはいいと受け入れるし、そうでないものはダメと批判される。
若手が提案して、それを大御所が上から教えを垂れて指導するスタイルではない。よくある教師向けのセミナーのように、すごい先生の話を一方的に聞いて学ぶというものでもない。ワカモノも、ベテランも、小中学校の教員も、大学の教授も、全く同じ時間のワクのなかで、今まで学んできたことを提案しあい、協議しあう。
とかく流派や派閥にとらわれがちな国語教育において、こういうゆるい研究会は、地方レベルではあるのかもしれないけど、全国レベルで実践家や研究者が集まるのはほとんどないのではないか、そしてそれがどうして難しいのか、なかなかに考えさせられるお話しだった。
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