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2014/08/31

「話す聞く」「書く」の言語活動ばっかりやっていて、入試に出るような「読解」の力はつくのか?

「話す聞く」「書く」の言語活動ばっかりやっていて、入試に出るような「読解」の力はつくのか?
という問いがあるとして、それについてどのように考えればよいのか?
私なりの考え。

一つめ。話す聞く、書く、読むの力はそれぞれ別の力ではなく、共通して指導できることが多い。 
書いたり話したりという効果的な表現の仕方を学ぶことは、それを読むときの力にもつながるはずです。その関連性を意識して指導するようにすればよいのではと考えています。(し、最近では読んで、そこから自分の考えを書いて表現するような力も問われていますので、単純な文章理解力のみではまずいと感じています)
たとえば、「書くこと」の学習で詩を創作する学習をしたとします。詩を創作するときに活用する「比喩」や「擬人法」などの知識や、情景描写や心情描写、象徴などの表現の効果を考えながら書く学習は、「読むとき」の学習にも活用させていくことができます。そのような領域を関連させた指導が重要であると感じています。

2つめ。評価も変わりつつある。 
全国学力・学習状況調査を全国で実施し、その点数による序列化があおられる昨今、高校入試も全国学力……のテストのスタイルに少しずつ変わってきています。また、次の学習指導要領でも、従来のペーパーテストによる評価だけでなく、パフォーマンス評価が導入されることは確実です。高校入試にこびるのではなく、むしろ、社会に出てから役に立つ学習を、こちらが堂々と展開していくべきだと考えます。

3つめ、言語活動は目的ではなく手段である 
たとえば、音読は「話す聞く」の活動ではなく「読むこと」の言語活動として示されています。
現行の学習指導要領では、言語活動を通して指導事項を指導する、というスタイルになっています。言語活動は手段、指導事項の習得が目的です。
これは、たんに大きな声ですらすら読む、ということを目的にするのではなくて、音読という活動を通して、より文章を深く解釈するという指導事項を指導することを目的にして行われるものです。
だから、音読を通して文章の解釈を考えることがうまく行われるのであれば(たとえば、音読するときの読み方を考えるときに、文中の登場人物の気持ちを想像して書き込む活動をすることによって)いわゆる高校入試で問われるような「読解」の力を付けることが可能になるのではないかと考えます。

4つめ、読むことと話す聞く、書くことのバランスはそもそも等分ではなく、学習指導要領上でも「読むこと」は重視されている。 
学習指導要領の「指導計画の作成と内容の取り扱い」には、それぞれの領域の時数の目安が示されています。
それによると、1・2年の授業時数140時間のうち
「話す聞く」が15〜25時間
「書く」が30〜40時間と示されています。結果として
「読むこと」には95〜75時間割くことができます。
話す:書く:読むは、おおむね1:2:3ぐらいの割合で行われることになっています。この割合はそれほど多いとも少ないとも(私は)感じません。

2014/05/07

説明文の書き込みにも習熟が必要?

今日は説明文の授業の第一回目。教師が範読をし、その後、教材文を拡大したプリントに各自が書き込みをしていく活動を行った。

書き込みに取り組む際に次のような視点を示した。
・筆者の言いたいこと
・構成や表現についての気づき
・構成や表現の特徴・工夫
・語句の意味
・読者反応(つっこみ)
・わかりにくい箇所・疑問

しかし、視点を示すだけでは、自分からがんがんと本文に書き込むことが難しかったらしい。
取り組む時間もそれほど多くとれなかったのが問題かもしれない。

日常の読書では線を引くことはほとんどないし、そういう読み方は不自然でもあるだろう。しかし、文章表現や文章構造をなんとなく読み取っていくのではなく、しっかりと書き込み、可視化をして読んだ足跡を示せるようになって欲しい。書き込みによって文章表現や構造に意識的になって欲しい。
「接続詞にはマーク」などのように、読解問題のテクニック的に機械的にマークさせる方法はあまりとりたくないが、ある程度のガイドラインを具体的に示した方が取り組みやすいのではと反省した。

俯瞰的、大局的な読み取り
・段落構成(段落の役割)
・話題の変わり目、転換

微細な表現の読み取り
・キーワード
・指示語が指し示している内容
・言い換え表現、同じことを言っているつながり
・対比と類比(良い意味、悪い意味)
・まとめているところ
・事実と意見
・筆者の主張
・文体から伝わる雰囲気、息づかい(偉そうとか、謙虚とか)
・わかりやすい表現、わかりにくい表現

読者反応
・共感・反感
・疑問
・突っ込み
・よくわかる・わからない
・想像したこと
・脱線して考えたこと


2012/12/14

詩の創作について考えたこと まとめ

このところ、詩の創作について考える機会があったので、ほうぼうで書き散らかしたことをここにまとめておきたいと思う。

結局のところ、最大の問題意識は次の二点。
1、詩と他のジャンルの文章とを分かつものは何か?
2、詩というジャンルの特質をいかした創作の指導とはいかなるものか?
(詩の鑑賞の指導はそれなりになされている。しかしそれが創作と十分に連携しているのかという疑念がある)

現在の詩の創作の授業では、詩の特質を十分につかんでいるような指導がされていないような気がする。
生活作文の学習と大して違いがないような活動をしているように感じるのだ。
いっぽう、その対極としてレトリック(表現技法)を集中的に教えている実践もある。
が、レトリックを教えているだけで詩を学んだことと言えるのか、という気もしている。

はっきり言ってまとまりはありません。自分でも答えがなく,もやもやとしています。

以下、フェイスブックなどでの発言を転載しておきます。

現行の指導要領下では「詩の創作」という取り立て項目はそもそもなく、生活作文の前座あるいは延長という意味合いが強いと思います。指導事項も「経験したことや想像したことなどから書くことを決め」という「意味」から入っている。「ことば」から入るアプローチもあってよいのに。

卯月啓子実践は、詩をたくさん読んで,書かせて……とそれだけなので、指導者の意図が見えにくい活動ではないかなと。(表現が難しいですが)こういう詩を書かせたいとか、こういう表現に気づかせたいとか、こういう楽しみ方もあるよとか、そんな手立てを工夫したいと思うわけです。
詩の創作指導が、作文学習の準備のための活動だったり、生活文に毛の生えたようなものにすぎなかったら、それで詩を書くことを学んでいると言えるのだろうか。単にレトリックを使いこなすため「だけ」の詩の創作や、レトリックにしか目が行かないような詩の鑑賞指導だったら、それで詩を読んだことになるのだろうか。
美術における表現が、素材や技法についての習熟と切り離せないのと同じように、言語による表現にも素材(言語表現の様式)や技法(言語技術)についての理解や習熟は欠かすことができないもののはずである。しかし、素材や技法を教えたからといって……というのもまた真であると思う。
美術科の表現教育について学ぶことで、国語科の表現指導についてのヒントが得られるかもしれない。指導のゴールは?評価は?交流は?

詩を創作したあとの交流について:作者が詩の様々な表現を通して何を伝えたかったか(作者の意図)と、読者が詩の表現からどのようなことを感じたか、伝わってきたか(表現の効果・印象)のズレを交流させると良い。お互いに「良かったところ」とか「工夫がみられるとこと」を指摘しあうことも、もちろん重要だが,より本質的なのは、作者の意図が、表現を通して伝わっているかどうかではないか。そして作者が伝えたかったことと同じくらいに、伝えるつもりでなかったけど伝わってしまったものが多い作品のほうが、詩としては豊かな表現であったりするのが、詩の表現の面白いところでもある。そういう言葉の豊かさもあわせて実感させたい。
詩の本質は「言葉が一人歩きする」こと。作者の意図や思いを離れて、言葉だけで勝手に世界が作られてしまう。そんな体験をするためにはどんな活動をすればよいのだろうか。散文を書くようなプロセスとは全く異なる「言葉が一人歩きする」詩の創作学習とはどのようなものだろうか。
 詩は詞であり、詩(うた)でもある。詩はうたわれると限りなく音楽に近づいてくる。音楽にも、「田園交響曲」のような「標題音楽」と「ゴルドベルグ変奏曲」のような「絶対音楽」があるように、詩にも「標題性」が限りなく少ない「絶対表現」というものがある。そういう言葉の遊びという意義が詩の創作にはある。
谷川俊太郎らが編集した私家版教科書『にほんご』や、惜しくも改訂された平成二三年度板の教育出版1年国語教科書、『高校生のための文章読本』における「ことばとあそぶ」、筑摩書房版『国語表現』の試みは、「絶対表現」としての言葉の可能性に近づこうとしたアプローチとして注目できる。また、レトリックに注目した実践として、鳴島甫の『俳句による“レトリック”原点からの指導』での取り組みも示唆ぶかい。