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2015/11/06

批評の目覚めとしての食レポ

批評の題材に何を選択するか。結構頭を悩ませる問題だ。
「批評」というとどうしてもちょっと背伸びしたテーマ(時事問題とか社会について)語らせたくなる。それはそれでもいいんだけど、なんとなくそういう題材だと、実感からかけ離れた空理空論になってしまうような気がする。
結局は、批評の表現指導の力点をどこに置くかが問われるんだけど、そこを私は「自分の固有の感覚を言葉にして他者と共有する」と位置づけた。
その「固有の感覚」とか「自分なりのとらえ方」というものを前提にしないと、借り物の意見をいくら語らせたところで、それではそもそも批評はなり立たないと思ったからだ。
で、前置きが長くなったけど、その批評の入門的な題材として「食レポ」を取り上げた。

「食レポ」とは、グルメ番組などでリポーターが味を紹介することをいう。
「味覚」という、最も身体的で私的な感覚を、言葉の表現を駆使して他者と共有する。それこそが、ちょっと大げさに言うと「批評の芽生え」につながってくるのではないかと考えたのだ。
「おいしい」という感覚を「おいしい」だけでなく、こんなふうにとか、こんな感じで、と具体的に表現していく。そのための学習を考えた。
参考にした文献はこれ。知る人ぞ知る、大学生向けの文章表現のワークショップの本。面白いよ。

まず最初に、谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」の有名なくだりを紹介。
何の食べ物だと思う?? (横書きでちょっとかっこわるい)
正解は……

と、こんなふうに、一切れの羊羹でもこれだけ奥行きのある表現ができるのだ。
つづいて、このように味わいを表現するためのテクニックを紹介。(このへんは『日本語上手』の内容をそのまま借用した)
食レポの比喩の例として彦摩呂さんは外せないだろう。
彦摩呂さんの巧みな比喩を、その場でwebで検索していくつか紹介した。
やってみよう①は、『日本語上手』で取り上げられていたもの。
この活動で面白いのは、オノマトペでも多くの人が共有できるものと、共有できないもの(イメージしづらいもの)があるということ。「自分ならではの味覚」を共有してもらうために表現するのは難しい!ということに気づきはじめた。
そして最後の課題はこれ。

こんな感じで、自分の好きな食べ物、最近食べた美味しかった料理の批評文(食レポ)を400字で表現する課題を提示した。

生徒の作品は次の通り。
なかなか気合いを入れて書いてくれた。これだけノリノリに表現できれば、もう「批評」と呼んでも差し支えないのではないだろうか。いや、批評じゃないなあ、なんだこれ?

らぽっぽのアップルパイ
らぽっぽのアップルパイ。それはアップルパイといえどもリンゴに加えて薩摩芋も入っている。まず箱を開けたときのおいしそうなにおい。そしてシンプルな見た目。口に入れるとシットリとした薩摩芋と歯ごたえのあるリンゴ。それにさくさくのパイの味が感じられる。こんなにしっとりとした満足感のあるパイは他にはないだろう。薩摩芋はほどよい甘さで、量が多いので少しずつ食べることに意味がある。リンゴは柔らかく、砂糖はあまり使われていないので、素材そのものの味を楽しめる。その二つの下で支えているパイの生地は薄く、まるでしっかりとした畳が敷かれているようだ。この三つの素敵な要素があるからこそ、このアップルパイが成り立っている。
今日もあの、おいしそうな、甘いにおいに誘われて思わず立ち寄ってしまうかもしれない。らぽっぽに。

梅干し
見た目はシンプルなシルエット。しかし、よく見ると少しシワシワしていて、ここまで来るのにどれだけの苦労があったのかと物語っている。情熱的な太陽のような赤さを一目見るとよだれが出てくる。
一口、口の中に放り込むと深い世界が広がってくる。それと同時に酸味が口の中に広がる。思わず顔をしかめたくなるような酸っぱさだ。しかし、その酸っぱさがたまらなく美味しい。そこらへんに売っているものよりも酸っぱい。彼らにかけられた苦労が他のものとは違うからだ。おばあちゃんが腰を曲げながら一階から四階の屋上まで登って干している。そんな様子が浮かんでくる。口の中でつるつるした皮がめくれると柔らかい実が出てくる。今までの酸っぱさとは一変し、あたたかくわたしを受け入れるようだ。舌に触れただけで実はとろける。最後に口の中には種だけ残る。種にも味がついている。とても美味しい。他にこんな美味しい梅干しがあるんだろうか。いや、ない。

三ツ矢サイダー
僕はオアシスを求めていた。まるで、砂漠のど真ん中で、今にも干からびてしまいそうな植物のように。
すると、遠くにキラキラと太陽の光を反射させた泉が見えた。僕は走った。友のために走るメロスのように。手を伸ばすと、そこにはキンキンに冷えた天然のミネラルがあった。頭に手をかけ、反時計回りに回し、最後の障害物を取り除く。すると、僕を歓迎するかのようにシュワシュワと音を立ててはじけた。一気に流し入れると、今にも死んでいきそうだった僕の細胞が気力を取り戻し、活性化した。ほんのり甘い天然水の中に、パチパチとはじける元気な泡たちがたまらなく刺激的だ。乾ききった身体にしみこみ、うるおいを取り戻した。僕のなかでの飲料ナンバー1だ。何十年もの間、飲まれ続けた理由は、僕の身体で立証されたといえる。

クドすぎる食レポに挑戦
もう過ぎてしまった夏を思い出して欲しい。部屋の中まで入り込んでくる熱気を抑えようとクーラーをかけ、一向に減らない宿題にさじを投げたあのとき、一体何を食べただろう。冷蔵庫の扉を開けた私を迎えたのは、常磐色の表面に、その楕円形の上下を結ぶ幾本もの黒い紋様を浮かべる。大きな大きな西瓜だった。両手でやさしく抱え出したそれはずっしりと、中には隙間なく詰められた果肉の重さを伝え、そっと当てられた包丁に力が込められると、ザッという音が響き、薄暗い部屋に光を灯すようなまぶしい白。さらに刃を降ろせば、今度は奥に隠されていた深紅と珊瑚朱色が斑に顔を出しゆっくりと左右に割れた。
半球となった西瓜が透きとおるガラスの容器から飛び出すように置かれたそれは、光沢のある銀色のスプーンに刺されるのを今か今かと待ちわびているようで、一人っ子の特権のように思われる幸せな瞬間でもある。
薄く平らな凹みの縁を真っ赤な表面にあてれば、予想よりも遙かに軽い力で中に進み、その亀裂が同じ様に広がって欠片となる。浸みだした赤の果汁と一緒にすくえば、さわやかな甘い芳香がただよって口元に運ばれる。たっぷりと音を立てて砕かれ溶けるように一瞬で消えてしまう。ほどよい涼しさと蜜のような甘さだけが残ると、ついさっきのあのザラザラとした粒の集まりが恋しくなる。勢いよくすくって口に入れれば、漆黒で平べったい僅かな大きさの種が混ざっていて、ほんの少し後悔する。噛まないように咀嚼してがりっという堅さを感じてしまったときの悔しさは誰かに伝えたくなってしまう。
誰もいないリビングで一人黙々とスプーンと口を動かし続ければ、永遠に続くように思われた掘削の時間も、うっすら見えだした白の皮が露になることで冒険が終わってしまったと空虚な気分になる。

2015/09/21

しゃべるのが得意か、書くのが得意か。

どちらも同じような力を持っている人の方が少ないだろう。
例えば作文を書かせてみるとそれがよくわかる。
とっても饒舌で、立て板に水のように調子よく話すことのできる生徒が、なぜか文章を書くと支離滅裂だったり、全然書けなかったりする。
書くことが得意で、文章にして表現すると、とても整っているし理路整然と丁寧に書ける人が、しゃべりだと、しどろもどろになったりすることがある。
実際に上手かどうかはともかく、書く方が好き、しゃべる方がいいと、結構どちらかに分かれるのではないか。
そして現在のペーパーテスト中心の評価システムでは、話すこと優位な生徒は、話し合いの授業では活躍することができても、ペーパーテストでは圧倒的に不利になる。
こういう認知や表現の個人差を意識せずに、なんでも話し合い、なんでもアクティブとか、なんでもペーパーテストとすると困る生徒はたくさん出てくるのではないだろうか?

人が書くというのは憤りから

昨日お話ししたK島さんの言葉。
確かにそういうものかもしれない。
人は不如意と出会ったときに、やり場のない思いをなんとか吐き出したいと思う。そして誰かに分かって欲しいと願う。
人が強く「書きたい」「書かずにはいられない」と思うのは、ある意味「憤り」という生命の力から生み出されるものなのだろう。
普段、平々凡々と生活しているように感じ、さしたる不満も、憤りも、問題意識も感じない生活からは「書く」というパワーを引き出すのは難しい。
反対に、憤らずにはいられないような事態があっても、それに生命のパワーが圧倒されている場合もまた、書くことができなくなってしまう。そういうものなのだろう。
で、書かずにはいられない私は、何に憤っているんだ?

2015/08/10

話題に論理がくっついてくる〜絵日記を論理的に書かせる愚〜

論理的に話したい、書かせたい場合は、論理的な文章が引き出されるような話題、テーマを設定することが最大のポイントだ。
授業で往々にして見落としがちなことは、論理的な文章の「形式」はしっかりと教えているんだけど、それを活用する「内容」、つまり話題、テーマの選択がいまいちで、そんなテーマじゃあ、論理的なものにならないよ、というようなものとなっているということだ。
例えば、「論理的な文章」で「夏休みの絵日記」を書くことはできるだろうか、できるかもしれないけど、それはかなり無理があるテーマじゃないかな。論理的にする必要性が感じられないし、論理を積み上げるというよりも、時系列的に、描写的に書く、物語という文体が似つかわしい。
こういう例に限らず、全ての表現は、形式と内容が密接不可分なものとして考えるべきだ、(考えてみれば当たり前なことだ。何かの「メッセージ」を伝えたいために「形式(文体)」を選択するのが自然な表現行為の流れなのだろう)だから、「論理的な文章」という形式を教えたいという場合は、どういうテーマだったら論理的な表現が必要感と必然性をもって引き出されるかということこそ、まず第一に教師は考えるべきなのだろうし、そのテーマの設定にこそ教師のセンスが求められる。
(ここでは「論理的」を例に挙げたけど、談話でも、他の文体でも全く同じだ)

2015/08/04

寸鉄は人を刺すか?

何かを批判したい、物申したい、意義申し立てをしたいとする。
そのときに、どの程度の「文の長さ」なら効果的に伝わるのか。
ここで問題にしたいのは「内容」ではなく、あくまで「文量」だ。
話し言葉なら、大声で叫ぶ、目を怒らせるなどの身体的な表徴でそれを伝えることはできる。しかし文字言葉ではそれはできない。デジタルの場合、字の大きさも均一だ。
長く書けば書くほど思いが伝わると思いきや、どうもそうではないと感じているのが私の予感。
相手に読む気をなくさせるような文量では意味がない。
かといって、短いスローガンや練りに練ったキャッチコピーでは、受け手が噛み砕く必要があるものはスルーされる可能性もある。
寸鉄は必ずしも人を刺さない。
反対に、内容なんてほとんどないような(シャれじゃないよ)いちゃもんも、たくさんの文量がならんでいると「こりゃ、相当な批判だなあ」とか「批判が盛り上がっている」と印象付けさせることがある。
読み手にじっくり考えさせるより、読み飛ばされても、雰囲気を感じさせたい場合、長々と言葉を羅列する「言葉のデモ行進」という手法もあるかもしれない。
要は、内容よりも量なんじゃない?
量って重要だよね、書いたもん勝ちだよね、という時代になっているような予感がするのだ。
紙時代の書き言葉は「原稿用紙何枚」ってあらかじめ文量が決められてから書くものだった。しかしデジタル時代に突入し、文量はほとんど無限大にまで膨れ上がった。だれでも、どんな内容でも、書きたいだけかけるようになった。
だからこそ、読みとばされるわけだし、書きなぐらせてしまう時代になった。
そんな時代の「寸鉄」とは、一体何文字くらいが適切なのだろうか。

2015/07/10

分類考

分類を学ぶとは?
今日は校内研究授業。一年生を対象に「分類」を学ぶ授業だった。
「分類」って考えれば考えるほど奥が深い。国語科としてはやはり「差異」とか「恣意性」といったような言語的な観点から「分類」を眺めてみたくなる。差異や分類の発想を突き詰めていくと数学的でもあるし、国語的でもある。連続量と離散量の概念など、こういう言語世界の精妙さに比べたら、シンキングツールなどで概念を図化することはどれだけ有効なんだろうか? (この場合の有効とは、他者に提示する場合と、自分の思考を深めるための足場がけにする場合の2パターンがあるだろう)
図表が有効なものもある気もするし、かえって粗雑に二分化してしまっているようなものもある気もする。そもそも最初から分類が明確にイメージできている場合はことさら図表を使う必要はないだろう。
やはり図表を使うと効果的なものとそうでないものの見極めが重要だ、というか、そもそも、そういう必要性を見極めることこそが学習内容なのではないか?

分類の恣意性
人が何かを分類しようとする。その分け方は常識的なものであっても、広い目で見れば結構いい加減なものだ。分類しようとする人の主観や文 化的背景に左右される。
たとえば良くある例だと、「兄と弟」「コメとメシとイネ」という差異、分類の体系は、日本語の文化を背景に持つ独特のものだ。
星座だって血液型だって、そういうのを知らない文化の人にとっては、必要としない文脈ではほとんど意味を持たない「差異」であり「分類」だ。
裏を返せば、「兄/弟」「コメ/イネ/メシ」や血液型の分類、差異のシステムを必要とする人がいるからこそ、文脈があるからこそ、こういう言葉が生まれ、分類が生まれたのだ。
だから分類をする背景とか意図、他の概念システムとの整合性のようなものを検討しないと「分類」を考えたことにならないのではないか?
なぜ「分類」をしたのか、「分類」をしたことで、どこに光が当たり、どんな世界が見えてくるのかを実感することが大切なのではないか?

おまけ、たとえば……
こんな「分類」の学習はどうだろう?
課題、絶対に分けられないものはあるのか?あるとしたらそれはどんなものか?
課題、九教科を、誰も思いつかないような分け方で分類してみよう。
なぜそのような分類にしたのか、どんな時にその分類が役に立つか、説得しよう。
課題、空欄に入る面白い言葉を考えなさい。
この世には2種類の人間が入る。それは( )と( )である。
など。

強烈な「癖」かあるからマネしたくなる

今日の岡田斗司夫さんのメールマガジンは面白かった。
曰く、文章が上手くなりたいなら、いいなと思う文章を丸写ししてマネよ、真似る場合は、強烈な個性のあるやつを選べ、というもの。
モノマネだって、ビギナーはまず森進一さんからでしょう。強烈な癖のある人の方がマネしやすい。かえって月並みで優等生的なモデルは、モデルとして機能しないということなのだ。そういうものなのかもしれない。
文体で言えば「天声人語」みたいな、毒にも薬にもならない立派すぎる文章は、いくら書き写しても多分身にならない。やはり私にとっても、「こういう文体っていいな」と思うのは、どれも強烈な個性をもっている。森進一のハスキーボイスのような文体の「癖」に魅了されることで、知らず知らずにマネして、そのうちの0.001パーセントくらいは自分の身体に刷り込まれていくのだろう。
ちなみに、いいなと思う文体と、マネしたくなる文体は必ずしも一致しないけれども、マネしたくなる文体は坂口安吾、板倉聖宣、あと加藤典洋(「言語表現法講義」は「文体」に目覚めさせた一冊)。あと最近は茂木健一郎さんの文章も結構好きだったりする。
とくに安吾と板倉さんのは、雑誌の埋め草のようなコラムでも、内容なんかがなくても文体を眺めているだけで愉しくなってくる。こういう文体で書きたいって思うのはこのメンツだ。どれもが全然似てないところもまた面白い。

2015/06/13

ちなみに、私は作文の処理(添削、朱書など)をどう考えているか

・時間があればやる、なければ無理をしない。
・文量は、他の生徒と平等になるよう配慮する(全ての人に一言づつとか)
・添削というよりも「この文章を読んでいる読者としての反応」を心がけ、コメントを書く。(つまり評価としてではなく、自分が読者として感じたことを話しかけるようなつもりで書いている)
・誤字脱字、表記ミスなどは相手によって1,2個程度ならばスルーし、別の指導の機会をうかがう。
・なるべく赤で書かないようにする。(採点っぽくなるので。でも黒だと見えにくいから青ペンとか)
つまり、添削とか評価、指導と言うよりも、読んで私はこう感じたという対話の一環として捉えている。
(短作文や条件作文のような明確な作文スキルの育成を狙う活動の場合は、その視点に沿って「評価」するために朱書することはありうる)

子ども目線から見た、読書感想文、作文指導のトラウマ体験を集めたら??

作文を書く、それを教師が読む、そして赤ペンで添削をする。それはごくごく一般的な「作文指導」の流れだ。
しかしその「作文指導」のちょっとした添削とか声かけで、ひどく傷ついたり、作文が嫌いになったりという「トラウマ体験」をしたというのをいたるところで耳にする。
しかもそういうトラウマ体験をさせてしまう先生ほど「私は作文指導に熱心だ」と認識してしまっているのが手に負えないところでもある。(一つ一つ添削をするくらいの先生だから、方向性はさておき「熱心」なのだろう)
だから、こういう子どもにとってのトラウマ体験、作文指導の失敗事例を集めて、「熱心な先生」に考えてもらったらどうかとも思うのだ。その気になればいくらでも集まってくるように思える。

ついでに、人のいちゃもんをつけているばかりのようで面白くないので、私は「添削」をどうとらえているか

添削の考え方
・時間があればやる、なければ無理をしない。
・添削の文量はなるべく平等にするに配慮する(全ての人に同じ文量)
・添削というよりも「この文章を読んでいる読者の一人としての反応」を心がける。(つまり感じたことを話しかけるようなつもりで書いている)
・誤字脱字などは直さない、どうしても気になるところのみ。(テストの記述問題の採点は別。)
・なるべく赤で書かないようにしている。(採点っぽくなるので。でも黒だと見えにくいから青ペンとか)
つまり、添削と言うよりも、読んで私はこう感じたという対話の一環として捉えている。
もちろんこの「添削」についてもいろいろな考え方があるだろう。

2015/06/06

班ノートでリレー小説、ミニ読書タイム

今年の三年生の授業から毎時間、帯取りで班ノートと読書タイムの実践を行っている。

基本的なルールは次の通り。
・授業開始10分程度で。
・六人班で輪番でノートを回してテーマを決めて作文を書く。
・他の人は読書タイム。(好きな本を読む)
つまり同一時間帯に、読書をする生徒と班ノートを書く生徒の二パターンが存在することになる。

班ノートの活用
班ノートのテーマは自由。
しかし班員が一周するまでにはテーマを変えてはいけないという縛りがある。
まだ始まって日が浅いけれど、生徒達は次にようなテーマを選択していた。
○自己紹介、好きなもの系
私の趣味
私の好きな芸能人
私の好きなラーメン
班員紹介(他己紹介で次の人を紹介する)

○リレー小説系
学園恋愛小説
学園いじめ小説
ミステリー「○組○班殺人事件」(自分の班を舞台にしたミステリー)
リレーキーワード小説(次の人にキーワードを設定してそのお題で話をつないでいく)
恋愛小説

次の人にキーワードを指定する

学園ミステリー

もちろん一番盛り上がったのがリレー小説だ。
前の文脈を受け継ぎつつ、自分の番でどう話をひねっていくかに全力を傾注していく。そして次の人に上手くつながるように書き終える。
みんなで一つの文章を書くというのは簡単なようでなかなか難しい。でも「連句」のように、テキストが次々に解釈され、新しく生まれ変わっていくのはとてもスリリング!
なんと言っても,こういう形で日常的に書き手を育てる活動となるのは面白い。「表現の出口」が常に設定されていることで、「次はどうやって書こてみようか」という気にもなるから。
「書き手」として育てば、小説の読み方も自ずと変わってくるだろう。
早速国語の授業以外でも話題になるくらいのちょっとしたブームを巻き起こしている。
なお、文量は国語ノート半分以上をノルマとして、余ったスペースは班員がどんどんツッコミなどを書き込むようにさせた。10分で書きあがらなかった場合は、次の日の朝までに提出するようにさせた。
この実践は国語の作文指導と言うよりはむしろ学級作りの側面の方が大きいかも知れない。
文学という虚構を共に作り上げて行く楽しみ。リレー小説を通して引き出されるそれぞれの個性を味わうことなど。国語科の枠に留まらずになかなか面白い展開を見せている。


読書タイムの効用
貴重な授業時間を「ただ本を読むだけ」に使うのは無駄ではないのか?
そう感じてしまうかも知れない。
「読解は授業で」「読書は家で」というのがこれまでの常識だったからだ。
私も去年まではその認識だった。
しかし、ある友人から「読書は家で」って言っても、それで、本当に読書生活を育てているといえるのか、読むようになっているのか? むしろ教室の中でこそ読書をさせるべきなのではないか、という問題提起をいただいたのだ。
つまり、「畳の上の水練」と一緒で、十分に海で泳がせずに、「水泳の仕方」を教えているだけなのではないかという反省だ。
「そんなことはない!」とそのときは反発したくなった。
しかし、その後、生徒にアンケートを取った結果、予想通りというか、私の不安は的中した。
多くの中学生にとっては、「読書は嫌いじゃないけど、忙しくてしていられない」と感じるの回答がほとんどだったのだ。塾などで生活時間が押しつぶされてしまっているのだ。
このまま放置していたら、読書の楽しみを感じないままに大人になってしまう!
この結果を見て、生徒達のために、一日10分だけでも読書を親しむ生活を日常化させようと決断をした。
そういう経緯から、毎時間「ミニ読書タイム」を設定するに至った。
たった十分だけれども,この読書生活が根付くことで
・本を読む習慣 だけでなく
・本を選ぶ習慣
・本について語り合う習慣
なども身についてくれるだろう。
今のところは「好きなものを読む」時間となっているが、そのうちにテーマ読書に取り組んだり、ビブリオバトルなどの読書活動と関連させて取り組んだりと活用していきたいと考えている。
また、10分間継続して取り組んだ読書から、どのようなことを身につけていったのか振り返ったり交流する機会も設定していきたい。
そういう、読書活動に割けるフレキシブルな時間を設定した意味は小さくないと感じている。


2015/05/19

「謎句」を探求する句会

以前お誘いがあって参加した句会では、ユニークな方法で作品を批評をしあっていた。
それは、句会の中で「一番いい句」を選ぶだけでなく「気になる句」「しゃべりたい句」についても選んで語ってもらうという方式だ。
「いい句」だけのチョイスだと、どうしても読み手の理解の範疇に入る「わかりやすい句」「きれいな句」が選ばれる傾向になってしまう。
しかし「気になる句」「しゃべりたい句」を選ぶ際は、よくわからないんだけど何か引っかかるんだよなあという句や、なぜこういう表現になるか理解のできない句に対しても鑑賞してみようという構えが生まれる。

この方式で語り合った句会が実に楽しかったので、早速、授業で行う句会でもこの方式を試してみることにした。
題して「謎句」部門。
 
句会ではグループごとに二つの部門から「天・地・人」を選出してもらう。
二つの部門とは「名句部門」と「謎句部門」である。
「謎句部門」とは前述の「よく意味が分からないんだけどなぜか気になる句」や「多分こうなんじゃないかなと予想した句」、「本人に聞いてみたくなる句」を選び出してもらう。

披講では、各グループから「名句」「謎句」の選を述べてもらうが、そのときに名句に対する鑑賞コメントか、謎句に対する疑問、多分こうなんじゃないかという予想コメントのどちらかを必ず述べてもらうことにした。

なんといっても面白いのは「謎句(なぞく)」に対する読みだ。
しばしば作者が想定したものと全く違う解釈を読者がしていて、その意外性に大爆笑をしてしまう。

たとえば、こういう句。
 
桜散り二つの視線が交差する
 
この俳句だけを読めば、散る桜を目で追っていた二人の目が偶然会ってしまった、という情景か。(しかも、ちょっと気がある二人なのかも??)
おおかた生徒はそういう予測をしていた。
しかしその結果は……
夜、民泊先でドライブに連れて行ってもらったときに偶然発見した鹿の二つの目が、ライトで照らされて光っていたことなのでした!


もうひとつ。

ごめんでも春のあなたは多すぎる

という句。
「春のあなたっていったいなんなんだ?」と読み手はいろいろと想像するけれども、いっこうに答えが出ない。まさに「謎句」だ。
しかしその答えは……なんと「つくし」だった。
春の野原を歩いていた時に、たくさんのつくしが生えていた。それをよけてあげようと思うんだけれどもあまりにも多くて踏んでしまった。
そのつくしにむけて「ごめん。多すぎて」と感じているのだ。
そういうエピソードを聞いて、この子はなんて優しい子なんだ、とクラスメートの誰もがそう感じたのは言うまでも無い。



今回の俳句は「謎俳句」として、地の文と響き合って始めて理解できるような俳句にするようにあらかじめ作らせたという経緯もある。
「謎俳句」についての記事はこちら

だから、どの俳句も、俳句だけを読んでもなかなかわかりにくいような作品に仕上がっている。
そういう「謎俳句」だからこそ、読み手にとって、想像力が喚起されていろいろな「誤読」が続出するという活動になった。

俳句だけを読んで意味が分からないようなものだダメだ、と思うかも知れない。
それには二つの反論がある。
一つ目。「おくのほそ道」のような文章では、地の文と句とが融合した表現になっている。
融合すればするほど、句単独では意味が取りにくいものになっているという事実だ。
たとえば、この句

「若葉して御目の雫ぬぐはばや」

の御目を、あなたはどう読みますか?

「むざんやな甲の下のきりぎりす」

のかぶとは誰にものか、分かりますか?
『おくのほそ道』のこの句の該当部分を知っている人は答えられるけれども、知らない人は永久に理解することはできないだろう。
そもそもそういうふうに地の文と融合して作られているのだ。

もう一つ。「誤読」をどう考えるかという問題だ。
作者は「ある世界」を描き出そうと思って俳句を表現している。
しかし、その「ある世界」に、読者は完全に到達することができるのだろうか。「誤読」をゼロにすることは可能なのだろうか?
むしろ誰でも多かれ少なかれ「誤読」をしながら、それでも楽しめるのが俳句の魅力なのではないか。
俳句のことばが、作者を離れて勝手に歩き出し、読み手に「誤読」の世界を生み出していくという楽しさだ。

桜散り二つの視線が交差する
の「二つ」を、ちょっと気のある二人と読んで楽しんだってそれが間違いとは言えないし、

ごめんでも春のあなたは多すぎる
に、いろいろな含意を感じ取る人がいたっていい。
むしろそういう「創造的な誤読」のできるような楽しみ方こそ、俳句の世界の醍醐味なのではないかとさえ思う。

「謎俳句」の創作&鑑賞は、このような「創造的な誤読」を誘発するなかなか楽しい学習になった。
少しだけ生徒の作品を紹介する。
芭蕉の『おくのほそ道』のように、地の文と俳句とが融合した表現に近づいているだろうか?












 

2015/04/28

「謎俳句」はアリか、ナシか 〜「おくのほそ道」の翻作にチャレンジ〜

「おくのほそ道」の俳句は、前段に紀行文があるからこそ、なのではないか。セットで鑑賞するのが、本来の姿なのではないか。
俳句だけでも世界は完結するけれども、あの紀行文とセットになることで、相乗効果になって解釈が広がっていくものなのではないか。
という一つの仮説にたって、修学旅行帰りの授業で芭蕉にならって、「おくのほそ道」のような紀行文+俳句の文章を書く活動を設定してみることにした。
手順は次の通り
1、修学旅行を思い出す
2、「おくのほそ道」に書くテーマを絞り込む
3、俳句を作る
※この俳句は「謎俳句」として、俳句だけでは意味がよく分かりにくいものとする。前段の紀行文と併せて読むと、初めて腑に落ちる内容になるように工夫させる。
4、本文(紀行文)を書く
※「謎俳句」につながる伏線となるようにする。(多少話を盛っても良い)
なぜ「謎俳句」なのか?
修学旅行を俳句にしようという課題を出した場合、たいていの場合、一生懸命修学旅行の内容を盛り込んで伝えようとする意識が働く。
その結果、つぎのような説明的な俳句が量産されるだろう。
一 春の夜遠野で眺める大銀河
二 満開の桜の下の金色堂
もちろんこれでもいいんだけれども、ここで一ひねりさせたい。
こういう説明的な部分は前段の文章部分で書いてしまって、俳句はその雰囲気やイメージをぼやっと暗示させるようなものを作っていく。
説明を読まないと意味が分からないので「謎俳句」とネーミングした、(このネーミングが適切かどうかは迷っているところ)
つぎのようになろうか。
一 いつまでも眺めていたい大銀河
二 大屋根をひらりと滑る桜かな
ただ、一の「大銀河」の句もまだ説明的と言えば説明的かもしれない。「眺めていたい」という気持ちをそのまま言って種を明かしてしまっている。
じゃあ「眺めていたい」という部分を「謎」となるような表現にするためには、さらにどうひねっていけばいいのだろうか。
春の夜遠野で眺める大銀河

いつまでも眺めていたい大銀河

大銀河四人の影を映し出す
↓・・・さらに説明っぽさをなくすために「を」「に」を削る。
大銀河遠野の里に影四つ

↓ 

うーん、「遠野」ってあえて言わなくてもいいかな、いや「遠野」という言葉の響きが謎めいていていいのかな?

大銀河見上げて黙る影四つ (雅辺さん)
このような、一読しては意味が分かりにくい「謎俳句」となるようにひねっていく。
句会では俳句のみを読み合って、お互いのイメージを交流させていく。
種明かしは紀行文の部分で補完していく。
こうすることで、短詩系文学のもつイメージ喚起力や、多義的な解釈を可能にする表現について考えさせることができるかもしれない。

2015/02/08

ワザを説明する

昨日の修論発表で個人的に一番面白かったのは、「ワザを説明する」という実践だった。
小学五年生が、剣玉の大皿に乗せる方法を他の人に説明する文章を記述する。
構え、動作の開始、そして完成と、三つに区切らせて書く。
もちろん、事前に剣玉を与え、さんざん遊んだ後に、課題に取り組んでいく。
明確に伝えられるように、だらだらとした文章を一文一義で区切って書き直すというテクニカルライティングの基本を学んだり、スポーツオノマトペの活用なども学んでいく。なにより、「わざ」という自分の身体感覚を、言葉を媒介に、意識的に伝えていくという、大人でも難しい課題に挑戦させている。これぞ体験と知識をつなぐ「言語活動」といえるような実践だった。
この実践は、例えば中学校では、後輩に部活のワザを伝えるときなどの学習として活用することができるだろう。保健体育のダンスの学習とコラボしても面白い。
早速参考文献もゲット。岸先生はテクニカルライティングの第一人者だそうだ。
岸学『説明文理解の心理学』

これは読み応えがありそう。


2015/01/26

【論文抄録】中学校国語科における編集力を高める授業の開発

1 問題の所在
 そもそも、人間の創造的行為には既存の情報を組み替え、再創造する広義の編集力(エディターシップ)が欠かすことのできないものであるという言及は、外山(1975)や松岡(1996)らによってなされてきた。
 この編集力の必要性が、情報社会の進展に伴い一層高まってきている。情報社会において、誰しもが様々なメディアを通して発信できるようになり、情報を効果的に発信する編集力が求められるようになった。他方、大量の情報が流通する中で、その情報に埋没しないために、人の手によって情報をまとめたり、価値付けしたりしていく「キュレーション」(ローゼンバウム,2011)としての編集力の重要性が言及されるようになった。
 国語教育においては、従来より雑誌や文集などの製作で編集が取り上げられてきている。しかし、個別のメディアに対応する学習は実践されてきたが、様々なメディアに通底する編集力そのものを取り上げた実践および研究はほとんど存在していない。 また、平成20年改訂の学習指導要領において、書くことの言語活動例に編集が取り上げられるようになったものの、学習指導要領上では読むことと書くことが分断された構成となっているため、両者を関連させた能力としての編集力を位置づけることが難しいという課題が存在している。
 これらの課題から、国語科で扱うべき編集力とはどのようなものであるかという問いを持ち、授業開発をすることとした。

2 本研究の目的と方法
 本研究では、中学校国語科における編集力を高める授業を開発するという目的のもと、以下の三点の研究に取り組む。
 一つ目は、国語科で取り上げる編集力の要素や構造を具体的に解明するということである。そのために、編集に関連する先行学習事例の検討を行うとともに、文献研究と編集者への取材を行う。これらの検討から、編集力の構造について考察する。
 二つ目は、編集力を高める授業プランを開発し、筆者の勤務する中学校で実践することである。
 三つ目は、編集力を高める学習において、学習者はどのように思考し、編集を学んでいるのか、その編集プロセスをとらえることである。これらの検討により、中学校国語科における編集力を高める授業の開発に有効な知見を得ることを企図した。
 
3 研究内容
(1)編集を取り上げた学習事例の検討
 編集の学習自体は、新聞や雑誌の製作活動などとして以前から取り組まれてきている。そこで、中学校国語科においてこれまで編集学習がどのような位置づけで取り組まれてきたのか教科書の記述から概観することとした。どのようなメディアを取り上げてきたのか、また、それぞれのメディアの編集学習が、どのような意義や位置づけで取り組まれてきたか考察した。
 編集学習で取り上げてきたメディアについては、文集、新聞、雑誌、パンフレットやニュース番組など様々あるが、1990年代以降、メディアの種類が急速に多様化してきていることと、また、メディアによっては教科書への掲載が大きく増加したり、減少したりしているものがあることが分かった。そのことは、時代の変遷にともない、メディアも大きく変化してきていることと、それに伴って国語教育で取り上げるメディアにも変化があることを示している。
 続いて、これまでの編集学習では、以下の五つの意義をもって取り組まれてきたことが分かった。
・書くことを振り返る
・多種多様な情報を活用する
・文種に応じた表現の技術を学ぶ
・多様なメディア表現の特徴を学ぶ
・作り手の意図を学ぶ
 編集学習は、このように様々な意義を持って取り組まれてきている。課題として、様々なメディアにおいて活用できる編集力の要素を精選、構造化することや、編集学習において学習者が編集者としての視点を持つことと、編集技術を学ぶことの両立を図ることの重要性が示唆された。

(2)編集力の構造についての検討
 様々なメディアの編集に共通する編集力について、その構造を明らかにするために、文献研究及び編集者への取材を試みた。
 その結果、編集力とはメディアの中で、読者に向けて様々なコンテンツを構成し、プロデュースする能力であること、その編集力には、編集方針と編集技術との二つの側面から整理できることが分かった。
 編集方針には、発信メディアの特徴の吟味、コストへの見通し、読者層の設定や、読者のニーズなどの分析、そしてコンテンツへの理解が含まれる。また、編集技術には、情報(テキスト)を収集するための取材技術、適切に整えるための加工技術、複数の情報を組み合わせたり配列したりする構成技術の三つに大別できる。(表1)

  表1 編集技術の構成要素と編集例
┌──┬──────────────┐
│取材│情報を選択する               │
│    │取材をする                   │
│    │執筆依頼をする               │
│    │写真・動画を撮る             │
├──┼──────────────┤
│加工│【情報を減らす】             │
│    │ 削除する                   │
│    │ 要約する                   │
│    │【情報を書き換える】         │
│    │ リライトする               │
│    │ 校正する                   │
│    │ イラスト化・図化する       │
│    │【情報を付加する】           │
│    │ 解説・注釈を付ける         │
│    │ 見出しを付ける            │
├──┼──────────────┤
│構成│組み合わせを考える           │
│    │順番・配置を考える           │
│    │デザインを考える             │
│    │レイアウトを考える           │
└──┴──────────────┘
 編集力を製作プロセス全体を俯瞰する編集方針が中心となり、様々な編集技術を活用していく力の総体として整理した。

(3)編集力を学ぶ授業の開発と実践
 編集力を高める授業の開発では、教材研究の視点と学習支援の視点と、二つの観点から授業を検討することとした。
 まず教材研究の段階では、学習者がどのようなメディアで発信していくのかという発信メディアの検討と、何を加工していくのかという編集テキストの検討、そしてそれらをどのようなプロセスで編集していくのかという編集プロセスの検討との、三つの視点を取り上げた。
 また、編集プロセスの学習支援として、編集方針の形成プロセスと、編集技術の活用プロセスの二つの側面から学習者を支援していくこととした。

第一実践 「小林一茶企画展」
 中学1年生を対象に実践した授業は、一茶の俳句を組み合わせて展示するミニ企画展を各自で製作するというものである。
 屏風状のディスプレイ型ポートフォリオによる「展示」を発信メディアとして、そこに各自が設定したテーマで編集した一茶の俳句などを展示する学習を展開した。
【おもな学習の流れ】
①一茶の俳句を読む。
②テーマを決めてコレクションを作る。
③展示の企画を考える。
④構成やレイアウトを考え、展示を作る。

第二実践 「戦争の記憶を受け継ぐ」
 中学2年生を対象に実践した授業では、「戦争体験者から当時の暮らしなどをインタビューしたり調査をしたりして、読者対象である中学校の後輩たちに、戦争について考えてもらうための雑誌を作る」という学習活動を展開した。
 プロの雑誌編集者をアドバイザーとし、戦争体験者を教室に招き、雑誌編集について学んだり、インタビューを体験したりしながらグループで雑誌を製作した。
【おもな学習の流れ】
 ①構成ラフを描く
 ②戦争体験者へインタビュー取材する
 ③見出しやリードを作成する
 ④紙面のレイアウトを考える
 ⑤文章を考える

4 成果と課題
(1)実践から見えてきたもの
 実践を行い、学習者の編集プロセスについて次のことが見えてきた。
・多様な解釈を許容する懐の深いテキストが編集テキストとして適している。
・編集方針の形成プロセスと編集技術の活用プロセスの双方が密接に関連することのできる授業デザインが重要である。
・編集方針と編集技術は編集テキストと向き合う中で相互作用的に高まっていく。
・編集活動ではテキストかテーマか、どちらを優先するかでジレンマが生まれる。
・切り口のあるテーマを設定することで、テキストへの解釈が深まっていく。
・様々なメディアが融合された現代のメディア表現に対応していくために、他教科との連携や、国語科の教科内容の更新の必要がある。
 このように、編集力を高める授業の開発および実践への有効な示唆が得られた。

(2)今後の課題
 本研究では、二つのメディアを別の学習者を対象に授業実践を行った。そのため、これらの学習によって得られた編集力が、他のメディアの編集にどのように転移していったかについては解明できていない。同一の学習者が、様々なメディアを対象とする編集に取り組んでいくなかで、編集力のどの要素が、どの程度転移したのかなどを検証することが必要であった。それらの系統的な編集力向上の実践および検証が今後の課題である。

参考文献
スティーブン・ローゼンバウム (著), 監訳・解説:田中洋 (翻訳), 翻訳:野田牧人 (翻訳)(2011)『キュレーション 収集し、選別し、編集し、共有する技術』プレジデント社
外山滋比古(1975)『エディターシップ』みすず書房
松岡正剛(1996)『知の編集工学』朝日新聞社

2014/12/13

高校生の演説はなぜ空疎か、または、日本人は演説ができるか?

先日、ある大学の先生からとても興味深いことをうかがった。
都内の高校のイベントで弁論大会に参加したんだけど、その高校生の日本語弁論が全く上滑りで、全然心に響いてこない、説得力のないものだったということだった。
反面、同じ高校生の英語スピーチのほうがよっぽどロジカルで、心に届くものだったということだ。
両方とも都内を代表する高校生、英語と日本語、この差は何なのか?と。
スピーチが下手?というとちょっとちがう。学校で選ばれ、都内でも代表になるくらいの生徒だ。しかし不自然に感情が出過ぎて、全国民の意見を代表しているかのような物言いが、ものすごく空疎に響いてしまう、そのくせジェスチャー、ボディーアクションはとっても巧みなのだ。だから、よけいに空回りして見えてくる。
(もっとも、外国人から見ても、日本人がジェスチャーをして演説するのはかなり奇異に映るらしい)
その先生はいくつかの仮説をおっしゃっていた。
一つは、日本語の演説の良いモデルがないのではないかということ。だから、うさんくさい政治家のような、思い入れたっぷりな空疎なボディーアクションなどを模倣してしまう。(某予備校の先生??)
もう一つは、日本語の書き言葉と、話し言葉とではまだ断絶がある。演説向きの話し言葉が十分成熟していないのではないか? それが英語の場合はわりとすんなりと書き言葉と話し言葉とがつながっているのではないか。
さらには、もしかしたら、その高校生を指導する教員が、「良い演説ってこういうものだ」というのを勘違いして指導してしまったいるのではないか、という仮説。
なかなか興味深いお話だった。
中学校でも同様の話はいくらでもありそうだ。優等生的な演説、優等生的な作文。よい演説のモデルの不在。(教師である私がそのよいモデルになれるかと言ったら、全然その自信は無い)

2014/12/06

何人くらいに理解してほしいの?? ~説明にはレンジがある~

今やっている研究内容で気づかされたことの一つは、説明には読み手のレンジ〈幅)への検討が必要だ言うことだ。
よく、読み手への意識のことを、「相手意識」という言葉でひとくくりにして語ってしまうが、その読み手の「幅」がどれくらいにするかという設定は案外いい加減だったりする。
たとえば、雑誌編集の現場では、どの程度の読者層の幅をターゲットにするかというのはとても重要な問題だ。ポピュラー路線で幅広い読者を相手にするか、マ ニアックな内容でコア層を相手にするか。そしてそのレンジによって当然表現内容も変わってくる。(言うまでもなく、どちらがいい悪いという話ではない)雑 誌編集とは「情報を共有するコミュニティーの創出」でもあるのだ。
そしてそのレンジの検討は、webによる情報発信の時代を迎えてさらに複雑さを増している。ロングテールなマーケットであれば、レンジについての戦略も自ずと違ってくるからだ。ニッチであることと、大きな網をはることとが両立しているのが今の言論状況だ。
リアルからヴァーチャル(何もをってというのはあるけど??)へのコミュニケーションの変質は、「だれへ」という意識から、「何人くらいの誰へ」という意識へと変質を迫っている。

2014/11/17

思い通りになんてならないところから思考が活性化する

今日の国語の授業はゲストを招いてのインタビューの授業だった。
生徒たちは事前どんな内容の記事にするしっかりと考えてきている。
そしてその内容に即して、うまく相手から言葉を引き出せるようにインタビューの質問内容を考えていた。「この質問の流れだったら、ばっちりいいコメントがもらえるはずだ!」と。
しかし、そんなに現実は甘いわきゃない。
インタビューしたら想定したのとは正反対のこたえが返ってくる。
逆に、想定以上にお話しをしてくれて、次の質問まで全然進めなくなるグループも。
……そうなのだ、世の中というものは甘いものじゃないのだ。

きっと明日の授業はそのインタビューでの惨敗? いや、新たなテキストとの出会いと発見を生かしつつ、もっといい記事にしていくために、みんなで知恵を絞ってわいわい話し合っていくことだろう。
なんと言っても、どんなテキストよりも「人」が最大のテキストであり、最高に扱いが難しいテキストなのだ。

2014/11/01

作文の授業についてのよくある質問集

作文指導のカリキュラムや評価について
年間の書くこと指導のカリキュラム上に、この小説を書く授業をどのように位置づけていますか
 2年生の書くことの学習では年間30~40時間を計画しています。そのうち、取り立てて学習する言語活動として、実用的な文章として手紙(5時間)を、文学的な文章として詩(3時間)と小説(7時間)を、そして説明的文章として意見文(投書)(5時間)を書く学習を取り上げます。また、短作文や長期休業中の作文課題などにも生徒たちは取り組んでいます。そのほか、読むことや話す聞く学習と関連した書く活動を指導時数にあてています。(調べ学習のレポートなど)

書いた作文をどのように評価するのですか
 小説の表現の特徴(設定・登場人物・プロットなど)を踏まえて、それを自分の作品に生かすことができているかどうかをみるようにしました。
 具体的には、読むことの学習で学んだ「小説の極意」を、意図的、効果的に自分の文章に活用できているかどうかを評価します。書き上がった作品と「創作ノート」とを比較し、実際に活用できているかを、活用しようと努力しているかを見ていきたいと考えています。
 小説の表現の工夫とその効果を、自覚的に自分の表現に活用していき、小説らしい描写やプロットの工夫などをした表現を書くことができるようになることを学習のゴールとしました。

作文を書いたらその作品はどうなりますか
 生徒には同一ジャンルごとに「同人誌」を編集し、それを作品集としてクラスや学年内で読みあうようにしたいと伝えています。また、学校で年に一度作成している雑誌に、クラスで最も好評を得た作品を掲載してもらおうと考えています。

指導方法について
この授業では、学校図書館とどのような連携がされてますか
 司書はこの授業では次のような学習支援をしています。
 ・様々なジャンルの小説の書き方マニュアルや創作のヒントとなる本を用意する。
 ・子どもたちが創作するモデルとなる、ごく短い文章の短編小説のアンソロジーを集める。
 ・それらをブックリストにして配布し、授業の中で紹介する。
 ・生徒が「こんな主人公で、こんな内容の小説を書きたい」と相談をしてきたときに、似たような  設定の小説や、参考になる本を紹介する。


小説を書くテクニックを学ぶと、自由にのびのびと書けなくなり、型にはまってしまうことはないですか
 自由にのびのびと書くことと、技術や型を学ぶこととは矛盾せず、両立できると考えています。むしろ、技術や型を使いこなせるようになることで、より表現したいことが効果的に表現できるようになると考えています。
 技術や型を教える際に配慮したいことは、それを生徒の書きたい思いや必要感を無視して押しつけるようにしないことです。さまざまな技術や型を、生徒が主体的に選択できる余地がある活動とすることで、技術を学び、それを目的や意図に応じて選択し、使いこなしてより効果的に表現できるような状態にしたいと考えています。

話し合うことで、その人の主体性が損なわれて、オリジナリティーがなくなることありませんか
 自分が書きたいことを話し合うことで、もやもやしていた作品のイメージを明確にさせたり、創作の課題を明らかにすることを目的にして交流を設定しました。小説家が小説を書く場合も、編集者や読者と対話しながら創りあげていくことはよく行われています。他者からの多様なフィードバックを得ることで、書き手のもつオリジナリティーは独りよがりのものではなくなり、より読み手に効果的に訴えかけることのできる洗練されたものになるのではないでしょうか。

個に応じた支援について
書くことが思いつかない生徒はいませんか? それをどのように支援していますか?
その人の持っているものを最大限引き出そうと努めました。その上で、断片的なイメージを小説の設定やプロットとして結びつくように支援をしました。
 具体的には次のような投げかけをしています。
 ・普段どんな本を読んでいるの? どんな本が好き? お気に入りの作者は?
 ・どんなイメージの小説を書きたい? 不思議な話とか、怖い話とか……
 ・ジャンルで言うと何が一番近い?
 ・設定は現代? それとも未来? 
 ・『 (本の名前) 』のような雰囲気のお話を書きたいの?
 など、思いつくところから言ってもらい、イメージを一緒に創っていきました。
 また、他の生徒と雑談させたり、プロットを見合ったり、学校図書館にある短編小説などを参照させたりして、発想のヒントとなるように支援しました。
 
どうやったらこれだけ書ける生徒が育ちますか?
 全員が書けるわけでもありませんし、苦手としている生徒もいます。しかし、授業では日常的に書く活動を取り入れていることと、書いた作品をクラスの仲間で楽しんで読みあえる環境を作ることを意識しています。
 具体的には、授業の終わりに200字程度の短作文に取り組ませたり、授業で書いた作品をクラス全員で読み合って感想のコメントを書き合ったり(書き込み回覧作文)といった交流活動を、生徒たちは積み重ねてきています。
 これらの活動を通して、文章を書くことに慣れ、また、作文を肯定的に受け止めてくれる仲間の存在を意識できています。それが、ある程度は書く意欲の向上につながっていると思います。

2014/10/26

なぜ人は書くのか~「書く意欲」と「書くきっかけ」とは違うということ~

小学生とは違う中学生の書く行為
新卒2年目。ある地域の研究会で作文指導の提案をした。
提案内容は今考えても稚拙なものだったんだけども、それが問題ではない。
そこで、いただいたご意見が、今でも忘れられない大切なご指摘だったのだ。
私がした提案は、中1で論理的な意見文を原稿用紙一枚で書くというもの。
その提案の協議の時に、小学校の先生から
「たった一枚? 小学生だったらもっと何枚だって書きますよ」
というご指摘をいただいたのだ。
いただいた意見は悔しかったが、全くもってその通りだったので返す言葉もない。
私の授業では、中学生は1時間で1枚を書くのがやっとだったのだ。(まあ、今だったら「長けりゃいいってもんじゃないでしょ」と反論するかもしれないけど……)
悔しかったけれども、この発言をきっかけに、私は「なぜ同じ子どもたちが、小学校のときは書けても中学生になると書けないんだろう」という疑問を持ち続けることになった。いまでもその問いは胸に抱いている。


中学生にとっての「書くこと」の断層
現時点でのその答えは、「書く意欲」は、必ずしも「書くきっかけ」にはならないということだ。
言い換えると、書く意欲、書きたいという思いを持っているからといって、それですぐに書きだせるようにはならないということだ。
「書く意欲がない」ことの内実を考える必要がある。
書きたいという思いと、実際の書く行為までの間には、小学校時代とは比較にならないくらいの断絶が存在するのではないか。とりわけその断絶は中学生になると大きくなるのではないか。

たとえば、思いっきり分かりやすい例で説明してみる。
男子がある女子を好きだとする。一刻も早くこの思いを伝えたい。しかし、小学生時代では言えた「好きだ!」という一言を、中学生の私はすんなりと言えるだろうか? 言えるわきゃない。
何度も何度も逡巡して、ようやく「好きだ!」の一言を伝えることができるようになる。中学生ってそういうものではないのか。
語彙があっても、伝えたい思いがあっても、中学生にとっては、それが伝えるきっかけにはならないとはこういうことだ。
作文も「伝える」というその本質は同じだ。書くのがめんどくさい場合は小学生だって中学生だって書かない。しかし、いくら書きたいと思っても、いや、むしろ書きたいという思いが、書くことを邪魔するということさえ中学生ではまま見られる。自我が表現行為にブレーキをかけてしまう。


茂呂雄二『なぜ人は書くのか』から考えたこと
難解な本で、何度読んでもほとんど理解はできていないけれども、断片的な理解をもとに、自分なりに考えたことを書こうと思う。




目次
序章 問題の発掘
1章 書くことの発生と前史
2章 書きことばと知の発達
3章 書かれたものの意味―シンボル・センス・対話
4章 生成的記号活動としての作文
5章 書くことを支えること、育てること
終章 なぜ書くのか
補稿 書くことと「やさしさ」(汐見稔幸)

最初に紹介めいたことを書くと、この本は認知心理学者の立場から「書くこと」の営為、本質を考究している一冊だ。ヴィゴツキーなどの状況主義的学習観に立って「書くこと」の始原の姿を追っている。しかし、理論が先行するのではなく、世界中の様々な文化的背景を持った人たち(主に子どもたち)の「書かれたことば」を取り上げつつ、それがどのような状況で書かれ、そこから「書くこと」において何が見えてくるかを論じている。
茂呂氏は、「書くことを」を状況や場の中で引き出され、生み出されていくものとしてとらえている。
読み手との関係の中で、また、書かれたものが共有されていく「場」の中で、「私」が関わっていく参加の姿として書かれていくものである。(これを「身ごなし」と表現している)

先ほどの告白する男子中学生の例で言うと、
1、「好きだ!」という言葉を気軽に言える関係性があり、
2、それを相手が受け入れてくれるという見通しが立てば、
誰だって「好きだ!」と言うことができる。
しかし、そう言えるだけの見通しも、自信も持ちにくいのが中学生なのだ。(もちろん、かつての中学生である私も、今だって、ほいほいと告白なんてできません!)

これを「書くこと」に敷衍して思いっきり図式化して言うと
「関係性」の認識、、「読み手」の認識、、そして「自己」への認識の3つの認識が、書き手の中で十分に確立されていると了解されない場合、人はおいそれと自己を表現することができない。(どれかに自信を持てなかったり、迷いがあると、伝えることはできない)
反対に、この三つが安定的に了解できると、どこまでも書くことができる。(Lineで一日にやりとりしている会話は原稿用紙だと一体何枚になるんだろう??)

茂呂氏はこう言う。「なぜ書くのか。われわれはわれわれ自身の声を作るために書くのだ」「なぜ書くのか。それは文化としてすでにある語り口から、固有の声を作るためだといえる。書くということはすでにそこにあった身ごなし・語り口から、あらたな身ごなし・語り口、すなわち声を組み上げることとして成り立っている。」と。
書くことは他ならぬ自分の声を聞き、自分の語り口をさぐることを意味する。
書くことで否応なしに自己の声と向き合うことになる。「書かれたもの」によって表現される「自己」を、書いている自己は見つめなおすことを余儀なくされる。それは、十分に自己を受容できない、自分の「声」が確立していない思春期の生徒にとっては、なかなかキツイものであろうことは容易に想像がつく。

『なぜ人は書くのか』の補論を汐見稔幸さんが書いている。汐見さんの文章はずいぶんわかりやすい。汐見さんは書くことの動機付けをこう述べている。

自分の書く行為と、作品を受け止めてくれる存在が、より抽象化された形で存在するのではないか。……これは、自分が属している集団の中で、自分がどう評価され処遇されているかということについての自己評価のことと言い換えてもよい。そういう自己評価がポジティブな形で存在しない限り、人は書こうとしないだろう。ところで、そうだとすると、この集団における他者の目、評価をいわば内面化したような自我の存在が、人間の書くという行為を励まし、動機づけているのではないかという仮設が成り立つ。……書くという行為をある段階以降支えているものの一つは、自我の中に、何かを行っている意識や思考の働きをいわばモニターする働きが育っていて、そのモニター部分が書くという行為を肯定的に受容するような構造ができあがってくる、ということになるだろう。
初任2年目以来考え続けてきた「中学生はなぜ書かないか」ということに対するヒントをこの本から得るできた。さて、では、ここからどうするかという話だ。

2014/10/08

「表現の自由」と「文学」

「文学なんか何の役にも立たないとかよく言われるんですけど、政治家が真っ先に弾圧するのも文学なんですよね」(安部公房)

最近、また安部公房にはまっている。
最近はyoutubeで安部公房の肉声に触れることができるようになった。うれしい。






安部公房は文学と自由との関係、いや、人間存在と自由との関係をとことん追求しようとした文学者である。

文学を創作する授業における「表現の自由」はどこまで尊重すべきなのだろうか?
いや、むしろこの問いよりも、「表現の不自由」なところに、いったいどんな文学が生まれるのだろう、と考えた方が建設的かもしれない。
文学とはある面において、「表現の自由」への戦いでもある。
それは、政治・社会・慣習・モラル・言語などおよそあらゆる制度によって囲まれた不自由や、自分でこしらえた不自由との戦いとも言える。
それらの間隙を縫って表現される「あるもの」が文学の胚胎となる。
それこそいわゆる「文学のふるさと」(坂口安吾)なのだ。