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2015/01/20

読書メモ『民主主義と教育』(随時更新中)

デューイ『民主主義と教育』をちびちびと読んでいる。
読みながら、この一冊は教育のあらゆる問題を根底から問い直している名著であるという予感を感じた。そこで、ちびちびと読みながら、主要なポイントと思われるところをこちらに書き出して備忘としておきたいと思う。
ちなみに所有しているのはこの三冊。
1冊目、岩波文庫版これが一番入手も容易。ただ、訳がかなり生硬で読みずらい。


そこで、次に入手したのが、人間の科学社・河村望訳版 。しかし期待していたほど読みやすくはなかった。


 結局、玉川大学出版部の金丸弘幸版に落ち着いた。これが現在邦訳で入手しうる最も読みやすい一冊だと思う。(が、それでも読みにくい文体であることは確かなので、英語に自信のある人は原文で読まれるといいと思う)

 
以下、原文よりチェックした個所をメモ。

序より
・この本は、民主的社会に込められている諸理念を見いだし、明示し、それらを教育という事業に応用しようとした一冊。
・公教育の建設的な目標や方法の指摘を含む。
・民主主義の発展を、科学における実験的方法の発達や、生物学における進化論の諸観念や、産業機構の再編成と結びつけ、これらの発達が指示する教育の教材や方法の変化を示そうとする。(進化論的、弁証法的な教育観)

第一章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育
「生命(ライフ)」とは、環境への働きかけを通して、自己を更新していく過程。
「生命」の連続とは、生物体の必要に環境を絶えず再適合させていく過程。
「生命(ライフ)」とは慣習、制度、信仰、勝敗、休養、職業を含む。
「経験」に対しても、更新による連続という原理が当てはまる。
人間の場合には、肉体的存在の更新に、信念や理想や希望や幸福や不幸や慣行の再生が伴う。そんな経験でも社会集団の更新を通じて連続する。
社会集団を構成する各成員が生まれ、そして死ぬという根本的な不可避の原理が教育の必要性を決定する。
社会は、生物学的な生命と全く同じ程度に、伝達の過程を通じて存続する。この伝達は年長者から年少者へ行為や思考や感情の習慣を伝えることによって行われる。
社会は伝達(transmission)によって、通信(communication)によって存在し続けるばかりでなく、伝達の中に通信の中に存在するといって良いだろう。
共通(common)、共同体(community)、通信(communication)という語の間には単なる言語上の関連以上のものがある。
人々は、自分たちが共通に持っているもののおかげで、共同体の中で生活する。また通信(communication)とは、人々がものを共通に所有するに至る方法なのである。
共通の目的を知っており、それに関心を持っており、そのためにそれらがその共通の目的を考慮しながら自分たちの特定の活動を調整するならば、それらは共同体を形成することになる。
目的の共有と関心の共有
あらゆる通信(communication)は教育的である。
共に生活するという過程そのものが教育を行う。その過程によって、経験が拡大され、啓発される。想像力が刺激され、豊かにされる。言明や思想を正確にし、生き生きとしたものにする。
他の人々と共に生活することから受ける教育(非制度的教育)と、計画的に子どもを教育すること(制度的教育)との間には著しい差異がある。
教育哲学が取り組まなければならない最も重要な問題の一つは、教育のあり方の非制度的なものと制度的なものとの間の、付随的なものと意図的なものとの間の、正しい近郊を保持する方法である。
communicationとは経験を分かち合っていく過程。
人間の共同生活のあらゆる様式の奥深い意義は、それが経験の質を改良するために貢献すること。

第二章 社会の機能としての教育
社会集団に広く行き渡っている関心や目的や観念を共有するに至るまで、経験の質を変えていくこと。

一定の反応を呼び起こす際の環境からの作用。
生活環境は、その人の中に一定の行動体系や行動傾向を作り出す。
環境は、ある生物に特有の活動を助長したり、妨害したり、刺激したり、抑制したりする諸条件から成り立っている。
生活は、単なる受動的生存に過ぎぬものではなく、行動の仕方を意味するものであるからこそ、環境または生活環境とは、この活動の中に、それを維持したり、挫折させたりする条件として入り込むことを意味する。
訓練と教育とを分けるのは、それに「参加」しているかどうか。
社会的生活環境は、一定の見たり触れたりすることの出来る具体的な行動様式を刺激するような状況を設定することが最初の段階である。そして、個人をその共同活動の参加者すなわち仲間にして、彼がその成功を自分の成功と感じ、その失敗を自分の失敗と観ずるようにすることが、その完成段階なのである。

言語は観念を伝え、獲得するために用いるが、事物は共有された経験すなわち共同の活動において用いられることによって、意味を獲得するという原理の拡張である。
言語が共有された状況の中へ要素として入り込まないときには、意味すなわち知的価値を持つものとしては作用しない。

社会的環境とは、一定の衝動を呼び覚まし、強化し、また一定の目的を持ち、一定の結果を伴う活動に、人々を従事させることによって、彼らの中に知的および情動的な行動の所特性を形成する。

環境からの無意識な影響の例……言語の習慣、行儀作法、良い趣味と美的鑑賞眼

特殊な環境としての学校
未成熟者がその中で行動し、それゆえ、そこで考えたり、感じたりするところの環境を統制すること。環境によって間接的に教育すること。
社会の伝統が非常に複雑になって、その社会的な蓄積の相当な部分が文書に書き留められ、文字記号によって伝達されるようになるとき、学校が出現する。
文書には日常の生活には比較的に縁の無い事柄を選んで記述する傾向がある。
学校の特徴
1、部分に解体され、漸進的な段階的なやり方で少しずつ同化させるため、単純化された環境を提供する。
2、価値のない諸特徴を出来るだけ取り除く。
3、いっそう広い環境に活発に接触するようになる機会を設定する。



2014/11/04

良い本の評価指標、一つの例

良い本は……
・他の文献にしょっちゅう引用されたり話題にされている。
↑これは言うまでも無い、多くの理論の土台になっていたり、批判の対象になっているということは、それだけ価値があるということ。
・その本を読むと、関連する他の文献が読みたくなる。
↑価値ある本は、唯一無比の孤高の価値を持つようでいて、実はそれは独断ではなく多くの文献、知的遺産を継承して成り立っている。しかもそれを隠さない。
だから、そういう優れた本を読むと、関連して取り上げられている他の本へと必ず手を伸ばしたくなるものだ。

2014/10/26

なぜ人は書くのか~「書く意欲」と「書くきっかけ」とは違うということ~

小学生とは違う中学生の書く行為
新卒2年目。ある地域の研究会で作文指導の提案をした。
提案内容は今考えても稚拙なものだったんだけども、それが問題ではない。
そこで、いただいたご意見が、今でも忘れられない大切なご指摘だったのだ。
私がした提案は、中1で論理的な意見文を原稿用紙一枚で書くというもの。
その提案の協議の時に、小学校の先生から
「たった一枚? 小学生だったらもっと何枚だって書きますよ」
というご指摘をいただいたのだ。
いただいた意見は悔しかったが、全くもってその通りだったので返す言葉もない。
私の授業では、中学生は1時間で1枚を書くのがやっとだったのだ。(まあ、今だったら「長けりゃいいってもんじゃないでしょ」と反論するかもしれないけど……)
悔しかったけれども、この発言をきっかけに、私は「なぜ同じ子どもたちが、小学校のときは書けても中学生になると書けないんだろう」という疑問を持ち続けることになった。いまでもその問いは胸に抱いている。


中学生にとっての「書くこと」の断層
現時点でのその答えは、「書く意欲」は、必ずしも「書くきっかけ」にはならないということだ。
言い換えると、書く意欲、書きたいという思いを持っているからといって、それですぐに書きだせるようにはならないということだ。
「書く意欲がない」ことの内実を考える必要がある。
書きたいという思いと、実際の書く行為までの間には、小学校時代とは比較にならないくらいの断絶が存在するのではないか。とりわけその断絶は中学生になると大きくなるのではないか。

たとえば、思いっきり分かりやすい例で説明してみる。
男子がある女子を好きだとする。一刻も早くこの思いを伝えたい。しかし、小学生時代では言えた「好きだ!」という一言を、中学生の私はすんなりと言えるだろうか? 言えるわきゃない。
何度も何度も逡巡して、ようやく「好きだ!」の一言を伝えることができるようになる。中学生ってそういうものではないのか。
語彙があっても、伝えたい思いがあっても、中学生にとっては、それが伝えるきっかけにはならないとはこういうことだ。
作文も「伝える」というその本質は同じだ。書くのがめんどくさい場合は小学生だって中学生だって書かない。しかし、いくら書きたいと思っても、いや、むしろ書きたいという思いが、書くことを邪魔するということさえ中学生ではまま見られる。自我が表現行為にブレーキをかけてしまう。


茂呂雄二『なぜ人は書くのか』から考えたこと
難解な本で、何度読んでもほとんど理解はできていないけれども、断片的な理解をもとに、自分なりに考えたことを書こうと思う。




目次
序章 問題の発掘
1章 書くことの発生と前史
2章 書きことばと知の発達
3章 書かれたものの意味―シンボル・センス・対話
4章 生成的記号活動としての作文
5章 書くことを支えること、育てること
終章 なぜ書くのか
補稿 書くことと「やさしさ」(汐見稔幸)

最初に紹介めいたことを書くと、この本は認知心理学者の立場から「書くこと」の営為、本質を考究している一冊だ。ヴィゴツキーなどの状況主義的学習観に立って「書くこと」の始原の姿を追っている。しかし、理論が先行するのではなく、世界中の様々な文化的背景を持った人たち(主に子どもたち)の「書かれたことば」を取り上げつつ、それがどのような状況で書かれ、そこから「書くこと」において何が見えてくるかを論じている。
茂呂氏は、「書くことを」を状況や場の中で引き出され、生み出されていくものとしてとらえている。
読み手との関係の中で、また、書かれたものが共有されていく「場」の中で、「私」が関わっていく参加の姿として書かれていくものである。(これを「身ごなし」と表現している)

先ほどの告白する男子中学生の例で言うと、
1、「好きだ!」という言葉を気軽に言える関係性があり、
2、それを相手が受け入れてくれるという見通しが立てば、
誰だって「好きだ!」と言うことができる。
しかし、そう言えるだけの見通しも、自信も持ちにくいのが中学生なのだ。(もちろん、かつての中学生である私も、今だって、ほいほいと告白なんてできません!)

これを「書くこと」に敷衍して思いっきり図式化して言うと
「関係性」の認識、、「読み手」の認識、、そして「自己」への認識の3つの認識が、書き手の中で十分に確立されていると了解されない場合、人はおいそれと自己を表現することができない。(どれかに自信を持てなかったり、迷いがあると、伝えることはできない)
反対に、この三つが安定的に了解できると、どこまでも書くことができる。(Lineで一日にやりとりしている会話は原稿用紙だと一体何枚になるんだろう??)

茂呂氏はこう言う。「なぜ書くのか。われわれはわれわれ自身の声を作るために書くのだ」「なぜ書くのか。それは文化としてすでにある語り口から、固有の声を作るためだといえる。書くということはすでにそこにあった身ごなし・語り口から、あらたな身ごなし・語り口、すなわち声を組み上げることとして成り立っている。」と。
書くことは他ならぬ自分の声を聞き、自分の語り口をさぐることを意味する。
書くことで否応なしに自己の声と向き合うことになる。「書かれたもの」によって表現される「自己」を、書いている自己は見つめなおすことを余儀なくされる。それは、十分に自己を受容できない、自分の「声」が確立していない思春期の生徒にとっては、なかなかキツイものであろうことは容易に想像がつく。

『なぜ人は書くのか』の補論を汐見稔幸さんが書いている。汐見さんの文章はずいぶんわかりやすい。汐見さんは書くことの動機付けをこう述べている。

自分の書く行為と、作品を受け止めてくれる存在が、より抽象化された形で存在するのではないか。……これは、自分が属している集団の中で、自分がどう評価され処遇されているかということについての自己評価のことと言い換えてもよい。そういう自己評価がポジティブな形で存在しない限り、人は書こうとしないだろう。ところで、そうだとすると、この集団における他者の目、評価をいわば内面化したような自我の存在が、人間の書くという行為を励まし、動機づけているのではないかという仮設が成り立つ。……書くという行為をある段階以降支えているものの一つは、自我の中に、何かを行っている意識や思考の働きをいわばモニターする働きが育っていて、そのモニター部分が書くという行為を肯定的に受容するような構造ができあがってくる、ということになるだろう。
初任2年目以来考え続けてきた「中学生はなぜ書かないか」ということに対するヒントをこの本から得るできた。さて、では、ここからどうするかという話だ。

2014/09/28

人を惹きつけるデザインとは、実は……だったのだ!~『心を動かすデザインの秘密』~

デザインはファッションだけじゃない
「デザイン」という言葉にどんなイメージがありますか?
洋服のデザインが素敵!とか、この車のデザインがかっこいいとか、「デザイン」というのはどちらかといえば見た目のカッコよさとか美しさといった面が強調されやすい言葉だと思います。

デザインとは人工物を作り上げるプロセス
しかし、「デザイン」の本来の意味はそうではありません。
人が作り上げたもの(人口物)すべてを作り上げるプロセスが「デザイン」と呼ばれます。
洋服や車はもちろん、建築、テレビやパソコンのような機械、おはしやスプーンのような道具、そして言語などの「記号」も、すべてこれらは自然に生まれたものではありません。何らかの人の手がかかり、作り手の思いや感性がこめられているものなのです。つまり「デザイン」されて作り上げられたものなのです。

認知心理学によって解明されつつあるデザインの秘密
近年、認知心理学の発展により、こうしたデザインされた人工物がなぜ魅力的なのか、どのように感性を揺さぶるのか、優れたデザインとはどのようなものなのか、ということに関する研究がかなり進んできました。
そんな「デザイン」の原理や理論を、初学者にもわかりやすく述べている本が、この「心を動かすデザインの秘密」という本です。
 心を動かすデザインの秘密 認知心理学から見る新しいデザイン学



筆者は荷方邦夫さん。
金沢美術工芸大学でデザイン学を教えている先生です。
認知心理学というアプローチでデザインの世界を解明しようと研究をされています。

内容紹介と目次(アマゾンから転載)
なぜ、これを買ってしまうのかーー
その理由は「デザイン」にあった! 人とモノとの関係をとらえ直し、「認知デザイン学」の可能性を切り拓く入門書。
“人はどんなものに魅力を感じ、何に感動するのか" 
“デザインのアイデアはどうやって生まれるのか" 
“使いにくいデザインやありふれたデザインがなぜできてしまうのか"……
★「人間中心のデザイン」って何だろう? デザイン化された世界の現実と未来について、「わかりやすさ」を追究する認知心理学者が考察します。 
★D. A. ノーマン(『誰のためのデザイン?』)、R. ベルガンティ(『デザイン・ドリブン・イノベーション』)など、著名な研究者の理論もやさしい言葉に置き換えて解説します
★デザインの現場に立つクリエイター、売るためのデザインに頭を悩ますマーケッター、そして「良いデザイン」を求めるすべての人におすすめします。

目次
序 章 心ときめく日常生活の心理学
第1章 魅力あるもののフィールドウォッチング
第2章 感性と感情の認知科学
第3章 感じることはわかること
第4章 経験と物語が支える魅力
第5章 デザインの現場では何がなされているのか
第6章 魅力・感動デザインの光と影
7章 実践から理論へ
最終章 デザインとデザイン学の向かう先へ

人はどのようなものに惹きつけられるのか?
あなたのお気に入りのものは何ですか? あなたは今日着ていく服はどのような基準で選びましたか?
人を引き付けるものは、万人受けするものとは限りません、その人の感性や価値観に大きく左右されます。
「デザイン学」でも、もちろん「万人受けするモノ」を作り上げることを目的とするのではなく、「人が惹きつけてやまないモノ」とはどのようなデザインの原理で作られているのかをまず知ろうとします。
そのひとつめの要素が「愛着」です。
考えてみれば「愛着」とはとても不思議な言葉です。人は愛してやまないものにはいつまでも、肌身離さずそばに置いておきたくなるものです。(自分も、大好きな本をいつも枕元に置いておかないと落ち着いて寝れないという習性をもっています。)
そういう、好意とか愛着というものが「デザイン」の根っこの部分にはあります。
女子高生がノートやプリクラを「デコ」るのも、おじいさんが庭で盆栽を育ててめでるのも、その本質は変わりません。
デコったり、カスタマイズすることで、「自分だけのモノ」となっていきます。その「自分らしさのあかし」が愛着や好感を生み出すデザインの原理となります。
デコったノート
感性や人間性への洞察が「デザイン学」
愛着や好感のような「感情を伴う認知」を認知心理学では「温かい認知」と呼んだりします。
同じノートでも、自分がデコったノートはそれだけで持っている人の感情を揺さぶる、魅力的なデザインになります。つまり「温かい認知」を呼びさまします。
「魅力」をはじめとするさまざまな感覚には、このような温かい認知を土台としているのです。
さて、ここからが「デザイン学」の真骨頂。この温かい認知を認知心理学では様々なキーワードで解き明かしています。
キーワードを挙げてみましょう
・好意的感情の増加
・関与の継続
・記憶成績の高進
・快刺激の活性化
・魅力条件理論の9つの要素
・エクマンの6つの表情
・シュロスバーグの感情の次元
・単純接触効果
・知覚的流暢性誤謬帰属説
・熟知性と新奇性
・最適複雑性モデル
。示差性と注意の関係
・アフォーダンスとシグニフィア
・メンタルモデル
・ヒューリスティック
・コモディティーと付加価値
・経験価値
・ノーマンのデザイン理論ー本能・行動・内省
・ナラティブ・ストーリー
・デザイン・プロセス
・ベルガンティーのデザイン理論

などなど。これだけ列挙すれば、おおー、すげーと思うことでしょう。
一つ一つを解説してしまうと、それこそ「デザインの秘密」がネタばれしてしまうので書きません。
なにやら難しい言葉がたくさん並んでいるように見えますが、実はこの本自体がとっても「デザイン」的に工夫が凝らされていてわかりやすい構成なのです。それがこの本の最大の魅力といっても過言ではありません。身近な例を取り上げ、その例からデザインの秘密を解き明かす、というように、どんな人でも読み進めていくうちにこれらのキーワードが頭に入っていくようなからくりになっています。きっと高校生くらいからでも読めると思います。

ここまで読んで下さった方は、もうお分かりのように、「デザイン」とは決して芸術家やファッションデザイナーだけの話ではありません。
人が何かを作ろうというとき、何かを伝えようとするとき、いかにして相手に印象深く伝えるか、どうやって好感を持ってもらうか工夫をしていくものです。その秘訣やプロセスを知りたいと思う人にとっては、目からうろこの知見が、これでもかといわんばかりに述べられています。
まずこの一冊を手に取って見ることを強くおススメします。無から有を生み出すどんな人間も、すべからく「デザイナー」なのです。


2014/09/10

ビブリオバトル文学決戦 ふりかえり

ビブリオバトル二回目。
今回は文学(小説、随筆、詩など)に限定してバトルを行った。
夏休み前に一度取り組んでいるので、一通りの流れなどは定着してきているが、やはり取り組んでみていろいろ難しい面があると感じた。

1 文学作品の魅力を説明することはなかなか難しい。
前回は理科系の本を紹介するビブリオバトルだったんだけど、理科系のよりも小説などの紹介をする方が難しかったようだ。
あらすじをネタバレしない程度に伝えることはできても、それがなぜ、どのように魅力的なのかを伝えることはなかなか難しい。(大人だって難しいだろう)
笑いあり涙ありです! 感動です! って言っても、何がどうそう感じられるのかが分かりづらい。
理科系の本の時は、一人四分で紹介&質疑応答としていたが、とても四分間は持たない。途中から三分に短縮してやっと間延びせずに取り組ませることができた。
次回取り組むさいは、ナンバリング&ラベリングなどを活用して、いくつか観点やポイントを整理させてプレゼンをさせるほうが、より分析的に、伝わりやすいプレゼンができるかもしれない。

2 文学作品を味わう語彙が必要
1と同じだけれども、面白い! 泣ける! 以外の、文学作品を味わう表現や語彙のようなものになじむ必要があるかもしれない。
たとえば、効果的に作品の魅力が伝わっているブックガイドの文章を例示したり、ダビンチなどの雑誌や、文学コンクールの選評コメントなどを提示し、どのような言葉で文学作品の良さを語っているか、どのように語れば、作品の良さがより効果的に伝わるかを吟味させるとよいかもしれない。
生徒が選んだ同じ本を、大人が紹介したビブリオバトルの動画を提示するのも良さそうだ。
もちろん、これらの語彙を獲得するということは、文学をより深く味わう力にもつながってくるはずだろう。

2014/07/24

本を薦める教師になりたい

高校時代、大好きだった国語の先生に、
「君たちは死ぬまでに『源氏物語』と『史記』を読みなさい。現代語訳でもいいが、原文の方が圧倒的に面白い」と卒業間際に言われた。
そこまで迫力を込めて言われると、この歳になっても忘れないものだ。
私もそれくらいの気迫で、何かの一冊を生徒に薦められるだけの人間になりたい。
あっ、でも、その前に『源氏』も『史記』も読んでおかないと。死ぬまでには読みたいが。

……という話題をフェイスブックに投稿したら、さっそく友人からこんな本を紹介された。
史記列伝の韓非子や、項羽本記、
原文だったら『新釈漢文体系』
中島敦『李陵』
パールバック『大地』
スタインベック『怒りの葡萄』
曹雪芹の『紅楼夢』
ちなみに私が好きなのは、武田泰淳『司馬遷ー史記の世界』
いやあ、中国モノは熱い! 久しぶりに読んでみたくなった。

・・・・・・・・・・

四月当初、ヘッセを愛読していると言っていた生徒に『デミアン』を紹介したらすっかりはまってくれたらしく、会うたびに選書の相談をしてくれる。
今日は『ファウスト』か、『カラマーゾフ』か、どちらがいいか、迷ってるらしい。なんでも、夏休み開けのビブリオバトル文学決戦で、どちらかの本でエントリーしたいらしい。これもビブリオバトルの効果か?
しかし……デミアンからファウスト、カラマーゾフはいくらなんでもは飛びすぎだろう……まずは『罪と罰』読んだら?と紹介させていただいた。
げに、先達はあらまほしきことなり。
罪と罰も、ファウストも、何度も挫折して、やっと大学時代に通読したことを隠しているのは言うまでもない。

国語で古典と言うと、決まって源氏だ、枕だ、というのが不思議で仕方が無い。なぜ日本の古典に限定するのか?
そんな偏狭な「古典教育」で、世界の古典的作品に触れる機会がどれだけ生まれるのだろう?
それでも、知的関心が高い生徒は自分から古典の価値を見出し、読もうとしている。
もちろん彼らには、日本も世界もない。
ギリシャ神話、聖書、ドストエフスキーなど、そういう類の本を背伸びしても読みたくなる中高生が必ずいる。そんな彼らの意欲を後押しすることはできないだろうか?

本を、しかも、一生で何度も読み返し、味わうことのできる作品を薦められる教師になりたい。そして世代を超えて、一つの作品について語り合いたい。
そんなことのできる作品は、やはり、日本に限らず世界の古典的な作品しかないだろう。

2014/07/22

正しい斜め読みの作法

正直に告白すると、持っている本の三分の一もまともには読んでいないだろう。
だが、ちょっとしたコツで読んだことにしてしまう秘策がある。
斜め読みという技である。
斜め読みなんて、何と無く、不真面目で手抜きかもしれないので、おおっぴらには言いづらいことだったけどが、先日、ある。超読書家の方も私と同じような読み方をしているときいて、これでよかったんだ!と安堵し、公開に踏み切ることを決断したのである。

正しい斜め読みの作法
1、本の紹介文、作者のプロフィールをじっくりよむ。時間があればWikipediaなどで調べる。Amazonやブクログなどのレビューも目を通す。(あてにならないことが多いが読者のリアクションとしての意味はある)

2、前書き、あとがきをじっくりよむ。
(その本のウリや、要約が書かれていることが多い)

3、目次に目を通して、だいたいの内容や全体のトーン、主張を類推する。索引や参考文献が紹介されていれば、それが文章のキーワードになるし、文章の根拠や系譜を知るために役立つ。

4、とりあえずページを始めから最後まで全めくりする。
(ここが斜め読みの核心。面倒だけど全てのページを見る。大変だけど、ものの10分でしよ。
こうすることで全体の構成が把握てきる。そして、どの辺が必要な情報か、どの辺が気合いを入れて書いているかがわかる。)

5、全体の中から優先順位の高い順にページを開き、読む。
最初からという順序を気にせず、いきなり核心から読む。必要があれば遡って読む。

2014/07/19

授業プラン 「なぜ怖い??怪談の世界」(夏季限定)

怪談(怖い話)は子どもたちに大人気だ。
とくに宿泊行事などでは、夜になると「怖い話をして!」と必ずリクエストをしてくる。
先日2年生と一緒に行ってきた林間学校では、キャンプファイヤーのイベントの一つとしてクラスごとに車座になり怖い話を聞くという取り組みがあった。話をしたのはレク係のメンバー。レク係がしっかり練習をしてきたおかげか、怪談は大成功。夜の林に、ところどころ悲鳴が上がっていた。
それを聞きながらひらめいたのが「怪談」を授業で取り上げるということ。今回はタイミングを逃してしまったが、もし次に2年生を持つことになったら怪談の語りを授業で取り上げてみようと思う。
そこで、忘れないうちに授業の構想を書き留めておく。

単元名 
なぜ怖い??怪談の世界

単元の趣旨、概要
みんなで怪談を語る言語活動。
怪談を語ったり作ったりすることを通して、文学的文章の描写の特徴や音読の技術を学ぶ。

○怪談の語りの特徴
怪談の語りには様々な音読の技術が必要とされる。
顔色を作ったり
声のトーンをぐっとおとして声色を落としたり、
抑揚をつけたりつけなかったり
ゆっくりとしたテンポで話したり急に早口になったり、
突然「わあー!」っと叫んだり、「ごおーっ」という効果音を挿入したり、
そしてなにより、音読に不可欠な(それでいて学ぶことが難しい)「間」の大切さを実感することができる。
怪談の音読のいいところは、立て板に水の饒舌な人が必ずしもいいのではなくて、とつとつと話すような人のほうがむしろ怖さが増すというところだ。普段音読を苦手としている人こそ、この学習では生き生きと活躍するかもしれない。

○怪談のレトリックを学ぶ
一方、怪談「怖い話」には、怖くなるような書き方がなされている。
端的に言うとここぞとばかりにリアリティーを追求した描写をしつつも、ある場面では「身体感覚に訴えること」と「想像力をかきたてる余白」を書きこむことポイントになるだろう。
たとえば「突然、背筋にツーっと冷たいものが走った」とか
「背後に人影を感じた」などなど……、「五感」に訴える描写が怪談のレトリックの特徴だ。
そして、あえてあからさまに言わないところに、読者の想像力をかきたてる怖さがある。
「その後、女の子の姿は二度と現れませんでした」とか「後ろを振り返ると、さっきまで座っていた女性はいなくなってしまいました」など。
「お化けが出た」なんてべたなことを言わなくても、そうと感じさせる「余白」を配置することが特徴だったりする。(これは日本の怪談の特徴かもしれない)
これらの、「怪談の仕掛け」である表現の意図と効果を、作り手の立場から考えさせることが、怪談の学習から得られる学習内容となる。
(きっとこの学習が、怪談に限らず文学作品の描写の学習にも生きてくることだろう)

学習の流れ

A、音読をメインにした場合の授業
1、怪談を聞く
2、怪談の音読の特徴を分析する(
稲川淳二さんの怪談を聞く(たとえばこんな映像。こえ~)



こっちは伊集院光さん。これもこえ~
3、稲川淳二さんなどのネタで自分も怪談話をしてみる。
(ここまでが共通課題)
4、自作したり、インターネット等で調べた怖い話を再話する。
5、クラスで怪談発表会「2年○組百物語」を行う。

B、怪談のレトリックをメインにした場合の授業
4、上記の4の学習で、怪談がなぜ怖くなるか文章の工夫を分析する。
できれば文字起こしした資料があるといい。
日本の古典的な怪談や、世界の怖い話などを調べれば、ちょっとした比較文学の学習にもなる。

以下のサイトが参考になる。子どもたちに調べさせても、授業で提示してもいいだろう。
「怖い話の作り方」
どうすれば怖いホラーが書けるか

5、4で学習したことを参考に、怖い話を自作する。または、元々あった怖い話を、全く怖くない笑い話に作りかえる。(怖い話が苦手な人向け)

6、怖い話発表会を行う。






2014/07/04

ビブリオバトルを授業でやってみた

勤務校の中2のクラスで初ビブリオバトル。どうなることやらと不安もあったけど、何事も挑戦、やってみることにした。
「ビブリオバトル」について初耳の人はこちらへ→クリック

勤務校バージョンのビブリオのシステム
1、6人グループを作る
2、一人2〜3分プレゼンを行い、その後質疑応答などのディスカッション。(合計の持ち時間は4分)
3、グループごとに「チャンプ本」を一冊決定。
4、各グループの「チャンプ本」が集まり、頂上決戦。クラスのチャンプ本を決定する。
5、iPadで映像を撮影しておき、それを文化祭でパブリックビューイング!

正式なルールとの違い
・前もってブックガイドを作成し(課外)、それを製本して配った。
・ブックガイドを書いているため、話す内容に詰まる生徒はいなかったが、ノー原稿で話すのが難しい生徒もいた。
・発表時間を5分から3分へと短縮した。
・ディスカッションの時間が1・2分程度しかとれなかった。
・今回は「理科系の本」から紹介することとした。
だいぶ簡略版になってしまったが、それでも子どもたちはかなりノリノリで取り組んでくれたことと思う。
ビブリオバトル「公式ガイドブック!」(という名のブックガイド)

ブックガイドの紙面


やってみてどうだったか
放課後、学校司書のNさんとふり返りをした。
・普通の本紹介よりも時間や内容がぎゅっと凝縮されている気がする。
・ビブリオバトルの方が、本を売り込み、PRする要素が強くなるのでは?
・本の内容(理科系など)によっては、関心がない分野だと質疑応答が盛り上がらなかった。
・「バトル」という言葉の響きほど、争うという雰囲気はない。ゲーム感覚で意欲的に取り組ませる仕掛けとしては、これも有効なのではないか。
・継続して繰り返すことが重要。何回も繰り返すことで、今まで読んだお気に入りの本だけでなく、新たに本を読まざるを得なくなり、本を読むサイクルを加速させることができる。

それと、技術的なこともひと言。
今回は各グループ一台のiPadで生徒が撮影をした。
小グループで同時展開していたが、かなり明瞭に音声も撮れている。
プレゼンターの声が聞き取れないという心配はなかった。また、iCloudで共有すれば、自分持ちのMacBookにすぐに同期できるので、各グループの動画を簡単に収集することができることもわかった。
来週は他の3クラスでも行う予定。
時間がなくて子どもからのフィードバックをとることができなかったので、今度は生徒からの反応も探ってみたいと思う。

2014/06/29

プロリサーチャー喜多あおいさんの百発百中の情報収集術

「リサーチャー」というお仕事
この世の中に「リサーチャー」という職業があるのを初めて知った。
リサーチャーとは、テレビ番組などで出てくる情報をとにかく「調べる」のがお仕事。
「行列のできる法律相談所」に登場する弁護士や相談事例を探し出したり、
「タイムショック」のクイズ問題が正しいかどうかを「裏取り」したり、(問題を作るのは「クイズ作家」さん、裏取りをするのは「リサーチャー」の仕事)
「ハケンの品格」のドラマをつくるためにひたすら派遣社員さんにインタビューしたりネット掲示板などでリサーチしたり、
報道番組などのコーナーでおもしろおかしいネタを提供したり、コンプライアンス的に大丈夫かどうか様々な角度から検証をしたり……
などなど、情報・バラエティー番組、クイズ、ドキュメンタリーなどあらゆる領域で「リサーチャー」の方々が活躍しているそうだ。
昨日はその「リサーチャー」喜多あおいさん(株式会社ズノー ジーワン調査部 チーフリサーチャー)のお話を、池袋教育同人社で行われた「メディアリテラシー研究会」でたっぷりと伺うことができた。
喜多さんの本。すぐに本屋に走ってこれをゲットしたのはいうまでもない。


情報を扱うプロと素人は何が違うのか?
端的に言うと、情報を調べる「前」にどれだけ入念に戦略を立てられているかによるという。
素人は、取りあえずGoogle、取りあえずWikipedia、と場当たり的に調べるがそれでは決して効率的に求めたい情報にたどり着くことはできない。
①クライアントがほしい情報とはどのようなものなのか、クライアントと入念に打ち合わせをし
②こちらが提供する情報を具体的にイメージし
③その情報が得られるためのありとあらゆる情報収集手段を検討する。
④時間とコストに見合い、効率よく確実に情報を収集していく。
⑤収集した情報をクライアントの満足のいく方法で提供、プレゼンテーションする。
ざっと考えてプロリサーチャーはこのくらいの綿密さ、周到さで「情報を調べて、提供する」という仕事を行っている。

①のクライアントが求める情報(「お題」)をイメージできたら、「まずアホになって」(喜多さん談)頭の中を真っ白にして、求める情報が得られるキーワードをひたすら列挙していく。
いきなり調べるのではなく、お題に関して考えられるすべてのキーワードをピックアップし、それらを手がかりにソースを当たり、あらゆる情報を集めていく。
これが「網羅」とよばれるプロセスだ。
この「網羅」がなしに、ピンポイントで情報を調べようとするから失敗をする。
どんな情報が価値ある情報なのか比較をしないと見えてこないし、ピンポイントで情報を得ようとすると必ず「取りこぼし」という致命的な失敗をしてしまうからだ。
まずアホになって、必要な情報はどんな知識の網(ネットワーク)でつながっているか「情報地図」を作り、ひたすら熟考することからリサーチはスタートする。
(情報収集の初心者は、まずクライアントが欲しそうな「理想の情報」を、架空に二、三行程度自分で書いてみて、そのような理想の情報にたどり着くためにはどのようなキーワードや情報収集手段が考えられるか逆算してみるトレーニングを行うといいという)

プロが提供する情報はもちろん、確実に「裏取り」ができているものでなければいけない。
「……らしいですよ」「……かもしれません」などということはプロは言ってはいけない。必ず「出典」を明記し、「原典」に当たるということは当然の作法だ。
また、一つの情報源だけではなく、さまざまなバリエーションを持ったソースを用意しなければ説得力がない。
ゲットした情報をドヤ顔でクライアントに提供するのではなく、情報がどのように活用されていくのか「アフターイメージ」をもって提供することもとても大切なことだ。情報は物知りのマメ知識自慢ではなく、活用される知識となるべきだからだ。(発信した情報が曲解され、思わぬトラブルを発生するということもテレビ業界ではよく起こることだそうだ。コンプライアンス的な検討もとても大切)

短期間で効率よく、確実に情報をゲットするためには、以下の五つのソースを順番に当たることが重要だ。
①書籍
②新聞
③雑誌
④インターネット
⑤対人取材

プロは間違っても最初からWikipediaに飛びついてはいけない。はじめにウィキの情報を見てしまうと、それに影響を受けてしまうからだ。
まずは①書籍、書籍もAmazonだけでなく、あるサイトと抱き合わせで検索をする。
②新聞、雑誌もそれぞれのメディアの特性に合わせたリサーチ法を取る。
……

うーん、これ以上具体的なテクニックに踏み込んだ発信をここでするわけにはいけない。
上記の『プロフェッショナルの情報術』を読めば、目からウロコのテクニックが掲載されているので読んでみてほしい。喜多さんがどんな本やサイトで情報に当たっていくのか、検索ワードをどのように工夫すれば情報にヒットするのか。得た情報をどう発信するのか、その自家薬籠中のワザが満載!

【目次】(「BOOK」データベースより)
プロローグ テレビ番組リサーチャーの仕事とは?
1章 脳内に「情報地図」を描くー集める前に「居場所」を作り、戦略を練る
2章 プロのネタ取りは五つのソースで!-書籍、新聞、雑誌、インターネット、対人取材で「網羅」→「分類」
3章 集めた資料を「情報」に変えるー相手に伝わる「報告書」と、必勝「プレゼン」術
4章 仕事の質を上げる!情報に強くなる習慣術ーあなたの情報力はたった一分の会話でわかる
エピローグ 情報は生きている

プロのリサーチャーの言語生活
プロのリサーチャーは、普段どのような心がけで生活をしているのだろうか。
そういう日常的な生活習慣のお話もとても興味深かった。
ひとつには「固有名詞を使って話せ」という心構えだ。
たとえば、「好きな料理は?」と聞かれて「焼き肉!」と答えるのではなく、「叙々苑の骨付きカルビ!」のように固有名詞で答えた方がよい、ということだ。
固有名詞の方が情報の含有量が格段に豊かになる。「情報のフック」が多いのだ。
だから、その固有名詞を切り口にさまざまに受け手がイメージすることができるし、そこから会話も発展しやすくなる。固有名詞を使うほうが記憶にも印象にも残りやすいのだ。
これはなるほどと思う知見だった。作文でもスピーチでも「なるべく具体的な固有名詞を使って話そう」と次から言ってみることにしよう。

もう一つは「読み込まなくてもとにかく全部に目を通す」という心構えだ。
たとえば、新聞や雑誌などの定期刊行物は出版されたその日のうちに、どんなに忙しくてもページを全めくりして「見て」おくという。忙しいから後でゆっくり読もうと思っていても、そんな余裕は永遠に現れない。そして雑誌がどんどんたまっていく。
だから、見出しを目に入れておくだけでも、必要になったときに読んでおこうという気になるのだ。
同様に、本屋や百貨店では買う必要がなくても全フロアを歩き、目を通すのだそうだ。
こうしてフックとなる情報を普段からいかに無意識にため込んでいくかが後々の情報検索に威力を発揮するのだという。
ここで必要なのは「全部に」という要素だ。
好きな情報だけを得ようとすると情報が偏ってしまう。
とくにインターネットはAmazonのおすすめ機能のように、売りたい人に都合良く「編集」されていることがとても多い。
たとえばTwitterやフェイスブックなどのSNSは、自分が選択した情報だけが自動的に入る仕組みになっている。そしてそれが世の中のすべてだと錯覚してしまいがちだ。
だから喜多さんはたとえば「AKB」の情報を得たかったら、「モー娘。」の情報が得られるように、必ず両方、対極のTwitterアカウントをフォローするようにしているそうだ。
こうやって情報がバランス良く得ることができているか常に目配りをわすれないのだそうだ。

こうやって得られる情報は、無味乾燥な意味の塊では決してあり得ない。情報をそのときの感情とともにインプットしておくこともとても大切な心構えだそうだ。
ちらっと見かけた見出し、偶然立ち寄ったレストランでの料理、そういう種々雑多な情報を「おもしろいな」「おしゃれだったな」とそのときの「気持ち」も一緒に乗っけて印象にとどめておく。こうすることで、あとで情報を取り出そうとするときに引き出しやすくなるのだという。
こういうインプット方法も、今日からすぐに生かすことのできるテクニックだ。Twitterやフェイスブックなどはそのような「気分」を書き留めていくためには効果的なツールだろう。
このように、情報収集術は、単なるテクニックの集積でなく、それを支える膨大な「知識の引き出し」から生まれる。ただ、その「知識の引き出し」は、机に向かったり、難しい顔をして本を読むことだけでなく、ちょっと町中を意識して見回してみるとか、気になったらケータイで調べてみるといった日頃の心構えから積み重なっていくもののようだ。
そういう、自分を豊かにしていく情報に囲まれる生活を送っている喜多さんの姿は、わたしにはとってもまぶしく見えた。



2014/05/03

『見える化』を読んで、授業のなかの「見える化」を考えてみた

近年、様々な領域で「見える化」(可視化)がキーワードとなっている。
「見える化」とは何なのか?何のために必要なのか?どんな効果が得られるのか?
「見える化」の原典を読んで、自分のフィールドでどのように活かせるか考えてみた。

「見える化」の原典は次の一冊だ。
『見える化-強い企業をつくる「見える」仕組み』遠藤 功



この本では「見える化」について次のように述べている。
「見える化」が何を目指しているのかここからよくわかる。
 私たちは普段、「見える」ことが当たり前だと思って生活している。そもそも「見える」ことの大切さを日常的には意識しないほど「見える」ことが当然のことだと考えている。しかし、実際には私たちには「見えていない」……そう、人間は当たり前のことだが、「すべてを見ることはできない」のだ。……自分の目の前に現れたこと以外には、人間は「見えない」のである。
 「見える化」というコンセプトは、こうした人間の視覚が持つ弱点を補うために生まれたと言ってよい。人間が何でも「見える」のであれば、「見える化」などというコンセプトはわざわざ必要ない。漫然としていれば「見えなく」なってしまうからこそ、自分の目の前にあらわれたことをきちんと「見る」ことが大切だし、必要なものをきちんと「見える」ようにすることが大切なのである。  「見える」ようにするのは人間の意思だ、 世の中には「見せたくないもの」がたくさん存在する。悪い情報、守秘性の高い情報、囲い込まれている情報など。 「見せよう」とする意思、「見える」ようにする知恵、その二つがなければ「見える化」は実現できない。 人間の意思と知恵があってこそ「見える化」は実現され、維持される。

つまり、、「見える化」の本質は「問題を『見える』ようにすること」なのだそうだ。
問題が見えていれば、自立的に物事を判断し、適切な行動をとることができる。
しかもそれが自然と目に飛び込んでくる状態が理想だ。

「見える化」にとって重要なのは幾つかある。
「悪い情報」「後ろ向きの情報」が見えていること。
しかも名人的、属人的に見えているのではなく、誰でも見られ、組織として見えていること、
タイムリーに見えていること、
そして、伝聞ではなく、一次情報が見えていることだ。

たとえば、よく見かける「信号機」や「スコアボード」は「見える化」のお手本だ。
信号機……メッセージを伝える
情報やシグナルをタイムリーに誰の目にもわかりやすい形で見える。
シンプルさ、わかりやすさ。色の持つ意味を全員が理解している。

野球場のスコアボード……情報がコンパクトに凝縮されている。
無意識のうちに「見える」環境になっている。
野球場からスコアボードが消えたら??ゲームが成り立たないくらい重要なツール。

「見える化」には次のようなカテゴリーがあるという。これもとても参考になる。
問題の見える化 ・異常の見える化 ・ギャップの見える化 ・シグナルの見える化 ・真因の見える化 ・効果の見える化
状況の見える化 ・基準の見える化 ・ステータスの見える化(進捗状況・リソース)
顧客の見える化 ・顧客の声の見える化 ・顧客にとっての見える化
知恵の見える化 ・ヒントの見える化 ・経験の見える化
経営の見える化 タイムリーにモニタリングする
そして、最終的に目指すべき「見える化」とは「問題解決のための情報共有」である。
 ・信号情報
 ・支援情報

 ・基礎情報


「見える化」のルーツはトヨタ自動車だそうだ。
トヨタ自動車は、自動車製造に「カンバン方式」のような見える化の手立てを次々と行い、イノベーションを成し遂げた。
社長の渡辺氏は、かつて「見える化」について、次のようにコメントしている。
「成長している時は問題点が潜在化して見えなくなる。開発や調達、生産、販売など各部門が抱えている兆候を『見える化』し、何が足りず何を補強すべきなのかを明確にする」
 この言葉を、授業に置き換えるとどうなるだろうか?
「授業がうまくいっていると、問題点が潜在化して見えなくなる。一人一人の子どもが抱えている問題の兆候を『見える化』し、何が足りず何を補強すべきなのかを明確にする」 
このように、「見える化」の本質は、まずなにより「問題を『見える』ようにすること」にあるらしい。

授業における「見える化」を考えてみた

1、「見える化」をするまえに、そもそも何が見えていないかを明らかにする
 授業では、子どもたちはさまざまな反応を見せる。試行錯誤をしたり、つまずいて立ち止まったり。しかし、それらの多くは、教師のコントロールは及ばない潜在化したものとなる。
また、人は得てして、都合の悪い面から目を背けたり、隠してしまう傾向もある。それらの問題点を顕在化して対応していくようにすることが「見える化」のポイントということになろうか。
 学習の中で見えにくいもの、見たくないものは何か? そこを省察するところから「見える化」がはじまるのだろう。

2、何を学習すべきか「見える化」して伝える
 教師主導の授業では、子どもたちは与えられた指示通りに学習に取り組めば良い。しかし活動中心の授業においては、子どもたちは自分で考えて学習に取り組まないといけない。子どもが学習に向かうために必須なのが、次の三つの「問い」である。

 WHY  「なぜ」この学習活動に取り組むのか?【学習の目的】
 WHAT そのために、「何を」すればいいのか?【学習の内容】
 HOW  その活動に、「どのように」取り組めばいいのか?【学習方法】

 この三つの問いが具体的であり、誰でもわかるようなものであれば、ことさらに「見える化」は必要ない。しかし抽象的な課題であるときには、それが具体的に「目に見えて」イメージできるようなものであることが必要だ。
 たとえば、単元が始まる時に、取り組むべき課題を板書したり、学習の見通しをプリントして配布すること、制作する課題であれば、事前に作ってみたモデルや見本を提示することなどによって、何をすればいいのかが具体的にイメージできるようになるだろう。

3、一人ひとりの学習プロセスを支援するために「見える化」する
 一人ひとりの子どもの学習状況を的確に見取るのは難しい。
名人級の先生は、顔つきとか、つぶやきとか、ノートの記述を見てその場で状況をつかむことができるのだろう。しかし、工夫次第で「見える化」によってある程度、学習状況を把握することは容易になる。
たとえば、次のような手立てが考えられる
・毎時間の振り返り作文
・学習内容をまとめて集積するポートフォリオ
・模造紙やホワイトボードなどに書き出す、教科書やプリントに書き込む
つまり、頭の中に考えていることを、いかに文字や記号などで表出させるか、その具体的な手立てを高じるということだ。
 煩雑なので、あまりおすすめはできないが、学習状況をビデオなどで撮影するという方法もある。たとえば、スピーチや話し合いの様子をビデオに撮って後でふりかえる活動などだ。
 最近はiPadなどのタブレットにより、これらの記録はとても簡単にできるようになっている。しかし情報量が膨大になりすぎるので、それらをどう編集してタグ付けしたり、抽出するかが鍵となるだろう。

4、共同的に問題解決をするための情報共有として「見える化」をする
 「見える化」は、教師が子どもの学習状況を見取るためだけでなく、子どもたち同士でモニタリングできるような状況を作る配慮が効果的だろう。しかも、目に見える形で。
 たとえば、「書き込み回覧作文」や付箋によるアドバイスなどの交流は「見える化」の手立てだ。
 ツールによって交流を可視化することで、子どもたち同士の共同的な問題解決を促していくことができる。

5、学習成果を振り返り、定着させるために「見える化」をする
 子どもたちは学習した成果をどのように自覚しているだろうか? 
 たとえば学習成果を「テスト」という形で可視化することはできる。しかし「テスト」だけが学習成果なのだろうか?そうではあるまい。もっと、学びにつながる発見や気づき、実感があるはずだ。それらを「見える化」して定着させていきたい。
 そのためには一手間をかけ、学んだものをポートフォリオや振り返り作文の形で「見える化」し、意味づけて残すことが重要になる。
 活動したらそれで終わりではなく、学習活動によって何を得て、それをどう活かしていくのか「見える化」によって積み重ねていくことが大切なのだ。

 問題を発見するための「見える化」、問題を解決するための「見える化」、そして課題を協同で解決するための「見える化」、そして、学習成果を定着させるための「見える化」の四つが授業における「見える化」のポイントとなってくるだろうと思う。

2014/02/19

「歴史的に見る」とはどういうことか~『西洋音楽史』の手法に脱帽する~

あの佐村河内事件をきっかけに読んでみようと思った一冊。
今年はいい本によく巡り会う。
この本も、近年まれに見るヒットだった。

『西洋音楽史』とは言っても、無味乾燥な通史ではない。それぞれの「芸術作品」が生まれた潮流をダイナミックに捉えようとしているところが面白い。
そしてなにより、この一冊で、クラシック音楽の歴史だけでなく、「ものを観る目」のようなものも、鍛えることができた。
(そういう意味では、クラシック音楽にあまり興味がない人も、機会があればぜひ読んでみて欲しい)
以下の私の駄文を読むよりも、Amazonのレビューの方が参考になる。そして原著を読んだ方が圧倒的に面白い。

1、歴史的に見るとは?
この一冊は「歴史的に見る」ということの意義を感じさせる好著だ。
クラシック音楽(に限らず,どんな芸術も)は、その土地と、そして時代、そしてそれを享受する人々に強く規定される。術には、それを生み出す装置があり、時代の制度に縛られ、それらの,システムの中で生み出されていくのである。

歴史的に見るとは、次のような問いをもつこどである。
「このような音楽はどこから生まれてきたのか」
「それは一体どんな問題を提起していたのか」
「こういう音楽を生み出した時代は、歴史のどの地点にあるのか」
「そこから何が生じてきたのか」

どんな芸術作品も、作家が好き勝手に書き散らかしたものではあり得ない。その芸術が生まれるためには、時代背景や社会の状況などと分かちがたく結びついているものなのだ。

2、芸術とは「書かれたもの」である。
筆者は芸術作品としての音楽を実に明瞭に定義している。
それは、「書かれたもの」であるということだ。
「書かれたもの(ここでは楽譜)」があるからこそ、
1、世界中で演奏されるという普遍性を手に入れることができた。
2、時代を超えて継承していくことができた。
3、書くことで、格段に大規模で複雑な芸術へと発展させることができた。

ここで、最も注意して欲しいのは、音楽の本質と、「書くこと」は、それだけではほとんど関連がないと言うことだ。
音楽を楽しむために、即興で歌ったり、楽器を演奏したりする人もいるだろう。
そのなかには、きっと優れた演奏をする「芸術家」がいたはずである。
しかし、「書かなかった」からこそ、それは芸術として認められることはなかったのである。
優れた芸術は、すべて書かれているわけではない。
しかし芸術は書かれないと芸術にはならない。
この発見は、ものすごく示唆的である。
パフォーミングアートと「書くこと」との関連。
優れたパフォーマンスだけでは、「芸術」へと昇華していかないというジレンマ。
しかし、「書かれていない」もののなかにも、きっと優れた芸術はあったはずだ。
それは「書かれなかった」ことにより、消えていってしまったのだ。

3、西洋音楽史とは何だったのか?
とてもざっくりと言ってしまうと,次のようになる。
神のための音楽(グレゴリオ聖歌など)
  ↓
バロック……王様のための音楽(モンテベルディのオペラなど)
  ↓
古典派……ブルジョアのための音楽(ベートーヴェンなど)
  ↓
ロマン派……市民、大衆のための音楽(ワーグナーなど)

このように、芸術を享受する層によって、求められる音楽は異なってくる。
かつてのグレゴリオ聖歌の時代は、誰が作ったかという「作家性」はほとんど求められなかった。
しかし、王様やブルジョアに向けて音楽を作るためには「作家性」のプレミアムがより必要とされるようになった。作曲だけで生計を立てることが可能になった時代ならではだ。
さらには、ベートーヴェンの時代になると、作家としての「自意識」がさらに強くなっていくことになる。自己表現の手段として作曲をすることが可能になったのだ。
ベートーベン以降から新たに生まれたのは「感動のための音楽」という思潮である。
市民たちは、日常からの解放、夢とファンタジー、魂を揺さぶる何かを「音楽」のなかに求めるようになったのである。
「どんどん無味乾燥な時代になったからこそ生まれたロマンティックな音楽」が量産されていくのである。筆者はそれを「疑似宗教体験」としての音楽と呼んでいる。

ロマン派以降の音楽は、ひたすら「感動」を否定する方向に向かっていくようになった。
調性を破壊し、楽音を破壊し、拍節を破壊する。そして「作曲家」さえも解体されていくようになる。

現代音楽はもはや「公衆が不在」な、アングラ音楽である。
クラシックは「公式文化」から「サブカルチャー」へと転落しているのである。
アーノンクールはこう言っている
「18世紀までの人々は現代音楽しか聴かなかった。19世紀になると現代音楽と並んで、過去の音楽が聴かれるようになった。そして20世紀の人々は、過去の音楽しか聴かなくなった」
人々の関心は「誰が何を作るか」から、「誰が何を演奏するか」へと決定的に移行していったのである。(楽譜の問題とか、複製芸術の問題とかも関連することだろう)

4、西洋音楽史の末裔としてのポップス
ポピュラー音楽の大半は、19世紀のロマン派音楽をほとんどそのまま踏襲している。
「市民に夢と感動を与える音楽」がそのコンセプトにある。
クラシック音楽の作曲家と、演奏家、そしてポピュラー音楽の三つは、いまや後戻りできない「分裂」を生んでいる。
前衛音楽家の場合は「公衆を置き去りにした独りよがり」
クラシック演奏家は「過去にしがみつくだけの聖遺物崇拝」
ポピュラー音楽家は「公衆との妥協」「商品としての音楽」のように。
しかし、これはとりもなおさず、西洋音楽(ポップスも含めた)における、音楽を作る人と演奏する人の断絶、音楽家と聴衆との断絶を物語っている証左なのだとも言える。

5、社会が生み出す芸術
作者は現代の音楽状況をこう結んでいる。
「宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒、神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしている」

2014/02/11

『魔女狩り』森島恒夫著(岩波新書)を読んだ

中世ヨーロッパで猛威をふるった「魔女狩り」。
なぜ行われたのか? それがどのように行われたのか?
以前より興味があったが詳しく知るきっかけがなかなかなかった。
今回この一冊を読んで「魔女狩り」についてイメージしていたこととえらく違っていることが多く驚かされた。

一番驚いたのは、魔女狩りが、「合理主義とヒューマニズムの旗色鮮やかなルネサンスの最盛期」に起こり、しかも宗教改革の機運とほとんど時を同じくして流行したということだ。
さらには、当時の一流の知識人や、ルネサンスの科学者たちも率先して魔女狩りに賛成している。魔女狩りを行ったのはカトリックだけでなく、プロテスタントも率先して行っている。
このように、最も「不合理」な蛮行が、滑稽なほどに「理性的」に進められたという事実には驚きしかない。(ナチスによるホロコーストもこれと似た構造なのだろう) 魔女が「合理的」に、神学的に定義され、そして裁判にかけられる。もちろんそれには現在の裁判と同じく弁護士もいる。(当時の拷問や裁判の記録が詳細に残っているのは、そういう「理性」のおかげでもある)
この本では、魔女狩りの拷問の様子や、凄惨な処刑の描写などを、冷静な筆致でこれでもかというほどに表現されている。(そういう「魔女狩り」についての好奇心を満足させる意味では、期待以上の一冊だった) 一次資料や貴重な文献からの引用も多く、資料性に優れている。日本において「魔女狩り」をしるためには最重要な文献の一つであるだろう。

筆者はこう述べている。

魔女裁判の後を振り返ってみて、しみじみ感ずることは、魔女裁判(いや、それを含めて宗教裁判一般)を一貫している「モラルの倒錯」である。そこでは、残虐、違法、偽善、欺瞞、貪欲、不倫、軽信、迷信、歪曲、衒学、……およそ思い浮かべられる限りのあらゆる不義、悪徳が、むしろ正義、美徳として、何のためらいもなく、確信に満ちて堂々と行われているのである。この確信が、あらゆる不義と悪徳を正当化している。
科学は宗教の敵ではなくむしろ宗教を高めるものであり、科学の敵は宗教ではなく神学的ドグマである。
「人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない。」(『パンセ』)
そして、この一言で本を閉じている。
しかし、「新しい魔女」はこれからも創作され、新しい『魔女の槌』の神学が書かれるかもしれない。

以下メモ

  • 魔女裁判は異端審問の一つとして発展した。異端審問が過激化する以前は、魔女は民衆の中で存在していると考えられていた。(日本の妖怪のようなもの?)そして、それはそれほど問題とはされなかった。しかし、「異端」に対する風当たりが厳しくなり、カトリック教会が絶対的な権力を握るようになってからは、魔女も異端の一つとして裁かれるようになった。
  • 魔女が悪さをしたから法律で罰せられる、というレベルから、そもそも魔女だから死刑、というように過激化していった。
  • 魔女の立証は困難。魔女は体に悪魔の噛み傷がつけられているということから、それを針で刺してチェックする職業の人もいた。(悪魔の刻印は無痛らしい)
  • 魔女の逮捕は密告による。そして魔女かどうかの決め手は本人の自白。その自白はほとんど過酷な拷問によって「白状」させられた。そして自白のあげく、関係者の密告も推奨したため芋づる式に魔女がしょっ引かれていった。(拷問を慣習的に行っていなかったイングランドでは、諸外国と比べて魔女狩りの被害が極端に少なかった)
  • 魔女狩りというが、処刑されたのは男性も多い。
  • 魔女狩りで処刑された人の遺産は、教会や異端審問官などの役人が没収した。金持ちを魔女として処刑すると遺産を総取りできるので、魔女狩りを「新しい錬金術」とうそぶく僧侶もいた。じじつ、魔女の処刑による財産没収を禁じたら魔女狩りが激減している。
  • 魔女狩りが最も盛んだったのは、実はルネサンスの時代である。ケプラーの母も魔女狩りの被害者であり、ガリレオも異端審問(宗教裁判)にかけられている。
  • 魔女狩りはカトリック(旧教)が率先して行ったようなイメージがあるが、プロテスタント(新教)も猛烈な魔女狩りを行っている。
  • 近代的なルネサンス運動と、宗教改革運動とは、その開始から消滅に至るまで中性的な魔女裁判とその時期を同じくした。
  • 魔女狩りの背景にはペストの流行や教会の堕落など社会的な不安があった。
  • 「世界国家」としてのキリスト教的ヨーロッパの聖俗両界の権力的支配者が力を失い、異端審問などを必要としなくなった結果、魔女狩りも終息していった。

2014/01/20

『情報大爆発 コミュニケーションデザインはどう変わるのか』メモ

ICT技術の進展により、情報量はとんでもない量に増大している。
社会は「情報爆発」と呼ばれる様相を呈している。

情報化社会は、我々の行動様式にどのような変化をもたらしているのだろうか?
そんなことについて語っているのがこの一冊だ。

内容は、情報化社会の行動様式というような、いかにも硬そうな内容だ.。それも、広告代理店のスタッフが書いた本だから、その業界に向けての内容も多い。縁遠そうな内容の話も多いけれども、たとえ話がとても具体的でイメージしやすいのと、脱線して話される「豆知識」的な小話がとても興味深く、最後まで一気に読み進めてしまった。
この本はプレゼン資料がもとになっている。そのため、プレゼンのスライド(上段)とそれについての説明(下段)がセットになって紙面が構成されている。ビジュアル的にも工夫されているので、おもしろい講演を聞いているような気になる。
以下に、気になったことを以下にメモする。実際はこんな専門用語ばっかり飛び交っているばかりではない。本を手にとって読んだほうが圧倒的にわかりやすい。
(しかし、後半は電通の広告戦略に関する話が中心になるので、広告の現場で述べられていることにあまり接点が感じられない人とっては興味が持てないかもしれない。)

以下備忘メモ(まとまっていなくてすいません)

1、情報爆発時代の情報の特徴
筆者は社会に流通する情報の変化を二点に整理している。
一つは、「情報化社会」から「情報過剰社会」に突入しているということ。
情報の流通量は消費量をはるかに追い越し、処理しきれないくらいに飽和している。

もう一つは、流通される情報は、メディアによってパッケージされた「硬い情報」であったものが、「やわらかい情報」(消費者によっていくらでも変形できるもの、未完成なもの、断片)になってきているということ。
飛び交っている情報は、パーツとしての自由に組み替え編集することができる状態になっているということ。
このように、情報の「過剰性」と情報の「可塑性」が大きな特徴となってきているという。

2、情報爆発時代の大きなニーズは「情報整理」
情報が過剰で、かつ可塑性に富むものであることから、、情報産業は「情報整理産業」へとシフトしていっている。
情報整理産業では、情報を一方的に発信するのではなく、さまざまな情報をまとめる「プラットフォームビジネス」としての機能を持つ。(たとえば、グーグルやアマゾン、YOUTUBEなどが典型的な例だ。)それは、自ら情報を生み出すのではなく、発信された情報を編集することを目的としている。

情報爆発時代の消費者は、あふれる情報の中から信頼するに足る情報にたどり着くためには、機械的な検索だけではどうしても限界がある。
そこで、情報についてよく知っている「人」を頼って、必要な情報を手に入れるようになる。(端的な例だと、ヤフー知恵袋とか、Amazonのレコメンド機能のような。)
そういう行動を「コラボレイティブ・フィルタリング」と呼ぶ。
情報過剰時代には、何が自分にとって役に立つ情報で、何が「ゴミ」なのかを分別してくれるフィルターが役に立つ。「コラボレイティブ・フィルタリング」は消費者同士が、お互いをフィルターとして利用して、役に立つ情報とそうでないものを区別しようという考え方に立っている。
このように、情報爆発時代では他の消費者に対する依存度が上がる。

3、情報爆発時代のボトルネックは[Attention(注意)」
いくら情報が増えても、人々がそれに注目できる時間は限られている。
情報過剰時代においては、Attention(注意)が希少になり、それを消費する膨大な情報源に対して、attentionを効率的に割り当てる必要が生じる。
このように、希少になってきたアテンション(時間コスト)をどのように配分するかというテーマに関心が集まってきており、それを「アテンション・エコノミー」と呼ばれている。
より多くの人に、より多くの時間、より効果的に情報に集中させることができるかどうかが、そこでは問題にされるようになる。

・ロングテール化する業界(例 Amazon)
ヘッドの方では「人気が人気を呼ぶ」という傾向(求心性)が働いている。
テールの部分では「私好みのアイテムを探し求める」という傾向(遠心性)が働いている。

プラットフォーム・ビジネス
「レーザーブレード型(自社取り込み)」と「カジノ型(マーケットプレース)」とがある。

3、過剰の経済学
過剰の時代は、「希少な資源を節約するのではなく、過剰なものをジャブジャブ浪費すること」が正しい経済戦略だ。(クリス・アンダーソン)
「過剰性を存分に活用する国民、企業、個人では、他のすべてのライバルを押さえてマーケットシェアを獲得する」(ジョージ・ギルダー)

「過剰の経済」では、何が過剰になっているかをいち早くみつけて、大胆に浪費することが大切。
同時に、新たに希少になってくるものは何かを予測することが重要になる。
「相対的な希少性」を察知する力が求められる。

4、ネットワークの歴史
ネットワークは、ツリー型(1対1)→スター型(1対多)→そしてメッシュ型(多対多)へと移行する。
情報は「偏在」するものでなく「遍在」するようになる。

分散型ネットワークの特徴(ポール・バラン) (インターネットの発想はこれ)
・すべての結節点(ノード)を平等に複数のルートでつなぐ
・中央機関を置かない
・デジタル信号を使う
・管理をしない

5、産業革命のパラダイム
マスメディアは、中心から末端への情報の配信コストを飛躍的に下げ、配信スピードを上げた。
その後、インターネットがもたらしたのは、末端からの情報配信コストの驚異的な低下と、スピードの加速。
インターネットがもたらしたのは、インタラクティブ・コミュニケーションではなく、マルチ・ディレクショナル(全方向型)なコミュニケーションであった。

既存メディアによる「乗合馬車」から、個人の乗り物へ。(アンバンドリング)

6、ネットワーク・ダイナミクスと広告戦略

ネットワーク化された「個」の挙動の特徴
(グレイグ・レイノルズの人工生命体の研究から)
・セパレーション(分離)仲間に近づきすぎたら離れる
・アラインメント(整列)仲間と同じ方向に同じ速度で飛ぶ
・コーヒージョン(凝集)仲間の中心方向に飛ぶ

・インターネットのコミュニティーの特性
特性1「スモール・ワールドネットワーク」(ダンカン・ワッツ)
小さいまとまりと、他のネットワークへの広がりを同時に持っている。

「六次の隔たり」・「弱い紐帯の絆」

インターネットの特性2「スケールフリー性」
二割のハブが八割のコネクティビティーを持つ
「ネット上の100人のうち、
1%が、コンテンツを自分で作っている。
10%が、それにコメントを書いたり、言及している。
89%は、mそれを見ているだけだ」(英新聞「ガーディアン・アンリミテッド)

「インフルエンサー・マーケティング」

・インターネットの掲示板
誰しもが受信者であり、発信者である。
そこではスレッドという「場」が主人公となる。
全体としては水の分子のように「流れる」という状況が発生する。

「インターネット環境は、情報の流れを受信と発信の関係でとらえるのではなく、探索と支援という関係で理解することも可能である」(『創発する社会』)

相互編集性
「発振→共振→増幅」

・広告の戦略
「ブロックバスター方式」(ハリウッド映画ような大型広告戦略)
「雪だるま方式」(ボトムアップ式に流行が生まれる)

・消費者行動モデルはAIDMAからAISASへ
A…attention(注意)
I…interest(興味)
D…desire(欲求)
M…memory(記憶)
A…action(行動)

A…attention(注意)
I…interest(興味)
S…search(検索)
A…action(行動)
S…share(共有)

AISASモデルは、企業と諸費者が互いにアクティブに関与し合っている。インタラクティブなモデルになっている。

・「フィルター」の共有
レコメンド・プレイリスト・タグ・リンク
フィルターを共有することで、消費者は時間コストである「アテンション」を節約することができる。
フィルターを共有することによって、思いがけない「フェイバリット」を発見することがある。
「フィルター・マーケティング」(フェイスブックなど)

・「アテンション・マーケティング」のキーワードは「キャッチ」
いかにして注目を引くかという要素が必要。
ノイズレベルを超える広告の大量投下など

・「ベネトレーション・マーケティング」(浸透させるマーケティング)のキーワードは「マッチ」
「パーソナライズ」「ローカライズ」「オケージョナライズ」
共感性(あなた目線・なかま目線・みんな目線)

BUZZは情報格差があるところに発生する。
消費者同士の間に情報格差があるところに発生する。
情報は「より深く知っている人」から「より浅い人」に伝わる。

2014/01/04

「治安維持法」の教訓~『治安維持法 なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』レビュー~

『治安維持法 なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』を2日かけて読了
関連する用語などをWikipediaなどでたどりながらちびちびと読んで行った。


本書は著者の博論をもとにした一冊。
治安維持法の成立過程、そして暴走していった過程などを、かなり客観的に、史実を綿密に押さえて記述している。文章は生硬で教科書的な記述だが、バランスのとれた堅実な論述には好感が持てる。
わかりにくいところはネットで調べながら読むことで、当時の時代状況をより立体的に、リアルにとらえることができた。
高校の日本史で習った言葉が、さまざまな歴史の因果関係で結ばれていくのは快感でもあった。

以下メモ
・ロシア革命、シベリア出兵とそれに伴う米の暴騰、米騒動へ
・日ソ国交樹立と、ロシア革命の輸出、共産主義の脅威
・普通選挙運動と治安維持法の「アメとムチ」法案成立
・京都学連事件(最初の治安維持法適用は京大生)
・3・15事件と4・16事件(共産党員の一斉検挙、共産党員の「スパイM」の暗躍)
・日本共産党の崩壊による、一斉検挙から日常検挙へ、大量検挙による転向政策へ
・天皇機関説事件(学説に対する封殺)
・大本事件(宗教団体に対する弾圧)
・人民戦線事件(合法左派組織への弾圧)
・横浜事件(でっち上げ、小林多喜二への見せしめ)
・予防拘禁制度による拘束
・築地小劇場などのプロレタリア演劇への弾圧、京都大学俳句の会の弾圧!
・極右団体の暗躍(血盟団事件、5.15事件) 大川周明、


大正デモクラシーを経て、昭和前期のテロリズム全盛へ、そして軍部の台頭へと、日本が戦争に突入していったプロセスは空恐ろしい。
そもそも治安維持法は、ロシア革命の余波による日本の共産主義化を防ぐために、内務省及び司法省が協働で作成した法律だった。

大正14年(1925)4月21日に治安維持法が公布された。
この法律は、第1条第1項に「国体ヲ変革シ又は私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」とあるとおり、「国体」の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社を組織することと参加したりすることを取り締まるものであった。つまり、当初は、国体を変革する「結社」を取り締まることを前提としたものであった。もちろん、その結社とは共産主義的な組織(共産党)を指していた。
成立したのは大正デモクラシー全盛、護憲三派内閣といわれる加藤高明内閣である。
若干の反対運動はあったものの、成立した当初はさしたる問題は取り上げられなかった。
成立時点では「反社会的な結社」を取り締まる法律が、個人の思想信条に立ち入るとは思えなかったからだ。
しかし、その後、治安維持法は、なし崩し的に拡大解釈、改悪をされていく。
「結社」への取り締まりから、「結社の目的に協力するもの(目的遂行罪)」も罪に問われることに。つまり、党の目的に寄与すると見なされるあらゆる行為に拡大解釈されて取り締まれるようになった。また、「国体」の定義が極めて曖昧で融通無碍に解釈可能であったがために、共産党だけでなく、マルクス主義の研究や極右団体への適用、国家を批判する学説への適用(天皇機関説)、宗教への適用(大本教などの新興宗教)など、あらゆる領域に渡って思想統制の道具として猛威を振るうようになる。

治安維持法は大正デモクラシーの「政党政治」、民主主義の中で生まれた。そして皮肉にも「政党政治」が弱体化していくなかで膨張、暴走し、そして「政党政治」の滅亡(大政翼賛会)を導くことになる。
治安維持法が生まれた当初、少なくともある程度の言論の自由は守られていた。
明治憲法下でさえ、自由民権運動、普通選挙運動、そして政党政治の中で、自由な言論の場は確保されていた。
治安維持法への反対意見を論じることはできた。共産主義などの研究も可能でさえあった。それを論じる自由な空気もある程度はあった。
しかし、政党政治が崩壊し、5.15事件、2,26事件などのテロリズムを経て、軍部が台頭していく中で、政党政治が守っていた自由な言論さえ圧殺されていくようになった。

読みながら一番感じたのは、暗黒時代といわれる戦前でも、それなりに政党政治が機能し、「言論の自由」を主張する余地があったということだ。
この映像は、日中戦争の拡大を憂慮した斉藤隆夫の「反軍演説」。
斉藤はこの演説をした後、圧倒的多数の賛成によって衆議院議員を除名させられた。

そして昭和17年の「翼賛選挙」において、軍部を始めとする選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区(但馬選挙区)から最高点で、2位と7000票以上の大差で再当選を果たし、見事衆議院議員に返り咲く。しかし、大政翼賛の挙国一致内閣、国家総動員体制になり、言論は死に絶えたのだ。
斉藤の他にも、尾崎行雄や浜口雄幸、幣原喜重郎など戦前の気骨ある政治家を知ったのも、この本のおかげだ。戦争に向かう日本にも、こんな真の「愛国者」がいたのだ。これから、尾崎らの本を読んでさらに知りたいと思った。

筆者は、結びに「治安維持法」の教訓を次のように述べている。

治安維持法は、暴力や革命の発生源となる結社を取り締まろうとした。しかし、本来は暴力から保護されるべき言論へと手を広げ、あまたの悲劇を招いた。
政党は言論の自由を守るために、共産主義思想よりも、まず不法な暴力(いわれのない誹謗中傷も含まれる)を排除することを目指すべきだった。
………
「国体」の定義は、日本の命運を背負わせるには漠然としすぎていた。政党は何を守るかを明確にするために、もっと真摯に言葉を選ぶべきだった。
現代社会においてまず尊重されるべきは、個人の言論であり、そのためには思想、出版、結社の自由は皆大切である。そして個人の言論を不当に抑圧することは方法を問わず許されない。そのような結社はやはり規制されるべきである。
治安維持法の「悪法」としての歴史は、戦前の政党政治の全盛、衰退、消滅の歴史とも重なる。そして、自由と民主主義を守る上で何が必要かを、我々に遺してくれた。

2014/01/01

梅棹忠夫『文明の生態史観』を読む~「革命」と「脱皮」~

「文明」とは何だろうか。今さらながらに思う。
この『文明の生態史観』は「文明」を真っ正面から取り上げた一冊だ。

梅棹さんは民族学者としてアジアをはじめさまざまな国を探検した。
その体験から「文明」を「生態史観」という立場で観るというユニークな視点を獲得した。
「生態史観」とは、砂漠や熱帯雨林のように、地域の自然環境によって独自の発達をしていく植物の植生と同じようなとらえ方で、人間の文明も地域・環境によって似通った発達をしていくという見方をすることだ。
文明を「東洋」対「西洋」、「イスラム」対「仏教」のように、単線的な時間の流れとしてとらえるのではなく、異なった地域で、似たような文明が同時進行、同時発達に平行進化していることを示唆した点がとてもユニークなところだ。
梅棹は、イギリス、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパ諸国と日本を「第一地域」と名付けた。
そして「第二地域」として、ロシア、中国、インド、トルコの4大帝国と、その周辺にある多数の小国とを位置づけた。


その詳細な分析については本書を読んでもらうなり、さまざまなブログで説明されているので割愛するとしよう。(梅棹さんの文章は中学生でも読めるような易しい文体だから原典に当たるのが一番だ)
第2地域が砂漠の灌漑からうまれた四大文明に端を発していること、その文明が、常に砂漠の遊牧民族(匈奴やスキタイ、元のような)の脅威に頭を悩ませていたこと、また、4大文明の影響を直接は受けなかった「辺境」である日本やヨーロッパが、結果的には現在の文明の発達を得たことなど、興味深い関連性が次々と取り上げられている。
梅棹がこの「生態史観」を発表したのが戦後まもなくのころというのも驚くべきことだ。平成の現代、インドや中国、イスラムなどの、かつての巨大帝国が力をもたげてきているのも「生態史観」の新たな展開を予想させる。
やや強引なところもなきにしもあらずだが、見方としてとても面白いし、それによっていろいろな現象を捉えることもできるのだ。

この本を読んで一番考えさせられたのは、日本の位置づけだ。
第二地域(中国やロシア)は、王様のような強大な権力があり、その下に圧倒的な数の、無力な庶民の存在があった。そのため「革命」が一気に進み、新たな圧政的国家(社会主義国家など)が生まれた。
一方、日本を含めた第一地域は、王様のような権力と、無力の庶民の間に、中間層として力を持っている「ブルジョア」の存在があったために、「革命」のような急速な改革はおきなかった。「革命」ではなく「脱皮」としての近代化を成し遂げることができたのだ。
日本やヨーロッパなどの地域は、本質として「革命」は起きえない。ぐだぐだと(表現は悪いが)なし崩し的に変容していくかか、急速に変わっていくとしても、その本質は「脱皮」であるということだ。
中間層であるブルジョア(という表現が適切かどうかは??だが、)がどう変化していくかが、日本やヨーロッパが変わっていく鍵であるということなのだろう。
しかし、この現在、日本などの第二地域における「中間層」の存在は、「大衆」の誕生とともに、その位置づけは大きく揺らいでいることと思う。

また、工業社会から情報社会に移行するに伴い、「生態」そのものの様態も変わってきているのではないかと思う。
いまは砂漠のなかでさえ、世界の情報にアクセスできるようになっている。
モロッコの砂漠のなかをを車で通過しながら、屋根にはパラボラアンテナ、遊牧民は携帯電話を持っている姿をいくつも見た。また、世界のたいていの地方都市には、カルフールのような巨大なスーパーマーケットがあり、そこで人々はマックやケンタッキー、スターバックスに行くことをステータスとしている。「百均」のような店もいろいろな国で見かけることができる。
グローバル化はあらゆる地域の「文明」で進んでいる。この世界が「ジャスコ化」「ファスト風土化」(三浦展)していることは間違いない。
そのグローバル化は「生態」をどのように変えるのだろうか??
サイバー的な社会と、ローカルな社会との「生態」はどのように変わっていくのだろうか?
梅棹さんだったらなんていうのだろうか、生きていたら質問してみたい。

2013/08/19

板倉聖宣『模倣と創造―科学・教育における研究の作法』の紹介


仮説実験授業の板倉聖宣氏がかつて直面した盗作問題の裁判をきっかけにして「模倣と創
造」について考察した一冊。
科学研究、教育研究や授業開発などでいつも直面する「模倣と創造」の相克、矛盾についてこの本以上に詳細に論じ尽くした一冊はないだろう。
また、こどもへの教育における「独創」「創造」についても鋭い問題提起を行っている。

この本の概要
教育研究には「独創」や「オリジナリティー」を尊重するあまり、「模倣」が軽視される風潮がある。しかし、「模倣より独創がいいに決まっている」という考えによって日本人の創造性をダメにしているのではないかというのが筆者板倉氏の中心的な関心である。
板倉氏は模倣を「創造のための必要悪」としてとらえるのではなく「模倣と創造は相対立しながらなおかつ不可分なものである」というようにとらえ、「模倣と創造」の関係を矛盾論的、弁証法的に考え直すことの重要性を説いている。

以下、私が気になった言葉
・もともと科学における創造とは、模倣を前提になりたつものである。創造は他人の研究成果の模倣の上にたって行われるというだけではなく、創造は他の人々が模倣するに足るような新しい知識の提供を目指すものだ。
・創造を大切にするためには模倣も大切にしなければならない。
・日本人の創造性のなさはむしろ模倣性のなさにその端を発している。
・翻訳、紹介だって単なる模倣ではなくて、そこには創造的な努力が含まれている。
・模倣はかっこわるいとか、独創がすばらしいという思い込みが盗作を生む。模倣を嫌うと独創性も失われる。
・教育者が過度に創造性を重んじ、それをカッコイイものと思い込むようになると、それは子どもたちにも悪い影響を与えるようになる。
・自由研究では……先生から「自分で考えてやってこい」といわれたことを気にする子どもたちは、そこで自分でやったようにウソをつくように追い込まれてしまう。何かの本を読んだり、親からヒントを得たことをひた隠しにして……
・決められた権威以外のものを模倣する創造性を
・無理に模倣しないことに独創性が表れる。「何をいかに模倣するか」独創的に考える
・模倣はやっぱりすばらしいいので、模倣することを無理に抵抗しない方が良いが、しかし、だからといって、特に受け入れがたいと思われることまで無理に受け入れずに、そんなときは自分で新しい考え方を探るとよい。
・権威を十分に尊重すること。しかし、その権威は自分が権威と認めることによって権威なので、自分どうしても納得できないと思うところがでてきてもなおかつ権威として信じ込むことはやめた方が良い。その権威を疑っても、それでもその権威を認めざるを得ないことの方が多いだろうが、たまにはその権威からそれて、新しいものを発見できるかもしれない。

2013/08/17

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』レビュー

民族とは何か? 国家とは何か? イデオロギーは人にどんな影響を及ぼすか?
普段、「平和」な日本に住んでいたらほとんど感じることのないこれらの問いを、切実に感じる時代と土地があった。それが冷戦崩壊前後のチェコスロバキアだ。

この『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』はチェコで幼少時代を過ごした作者、米原万里(マリ)の少女時代を描いた自伝的エッセイ(小説)である。

マリは少女時代、チェコの「在プラハ・ソビエト学校」に通っていた。
この学校は名前の通り、世界中から集まってきた共産党員の子弟のための学校だった。
当時ソビエト連邦は共産主義者の国際的なネットワークを築いていた。マリの父親も共産党員としてプラハに派遣され、『平和と社会主義の諸問題』という雑誌の編集局に勤めているばりばりの共産党活動家だった。
そのような一風変わった共産党員のための学校に集まってきた友だちとの出会いと交流がまず3つのエッセイの前半に描かれている。
しかし、のどかな子供時代とは対照的に、エッセイの後半には、卒業後、彼らが直面した過酷な人生の経過が明らかにされる。
冷戦の崩壊が始まり、「プラハの春」という民主化運動の大きなうねりがわきおこった。それとともに、ソ連の巻き返しによる紛争や弾圧が、各国共産党員や社会主義諸国に襲いかかってきたからだ。
大人になったマリは、仲のよかった友人のその後を、あらゆる手段で追跡し、再会しようと試みる。3人の友人との再会がかなったものの。彼らの意外な真実を知ることとなる。
イデオロギーに翻弄され、民族や国家に縛られ、傷つき変節し、たくましく生き延びる彼らの姿は痛々しいほどだ。
国家とは? 民族とは? イデオロギーとは? それらは人間にとってどんな影響を及ぼすものなのか、マリの友人たちのその後を通して描いている。
一番衝撃的だったのは、ルーマニア要人の娘だった、アーニャである。
チャウシェスク政権崩壊寸前のルーマニアは国民のほとんどがひどい困窮の中で暮らしていた。しかしアーニャの父のような政府の役人たちは、宮殿のような豪華な屋敷で暮らしていた。アーニャはそのような矛盾には全く気づかない「パパは労働者階級のためにブルジョア階級と戦っているのよ!」と、まるで模範的な共産党員のような発言を、何も悪びれることなくするのだ。
そしてチャウシェスク政権崩壊後、再会したアーニャは祖国ルーマニアをさっさと捨て、イギリス人の男性と結婚し、幸せな生活を築くことになる。そしてこう言うのだ。
「マリ、民族とか言語なんて下らないこと。人間の本質にとっては、大したものじゃないのよ。……人間は、そのうち、たった一つの文明語でコミュニケートするようになるはずよ」
それに対してマリ(米原万里)はこう言い返す。
「だいたい抽象的な人間の一員なんて、この世の中にひとりも存在しないのよ。誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡みついている。それから完全に自由になることは不可能よ。そんな人、紙っぺらみたいにぺらぺらで面白くもない」
…………
この一冊は、米原氏の単なるノスタルジーでも思い出話でもない。
社会主義に翻弄され、特異な経験をおくった米原氏の感性と批評精神が随所にうかがえる作品である。しかし決して理屈っぽくはない。時代に生きる個性的な人間たちが生き生きと描かれ、時折見せる米原氏の知性に何度もうならされた。
ちなみに、3つのエッセイの題名にもある「仕掛け」がある。それに舌を巻かされた。
時を置いて何回でも読み返したい作品だ。

2013/08/08

絵の見方を学ぶことの意義~『まなざしのレッスン』レビュー~

『まなざしのレッスン』についての内容を紹介する。
大学での美術鑑賞の講義をもとにして書いたテキストで、まるで講義を聞いているかのように分かりやすく説明している。
主として近代以前までの絵画作品を取り上げ、その絵の見方を具体的に伝授している。
解説のアプローチとして工夫されているのは、時代や作者ごとに作品を説明するというのではなく、何が描かれているのかという主題ごとに解説した点である。
取り上げている主題は、ギリシャ神話、キリスト教の宗教画、寓意画、歴史上の出来事、肖像画、風景、風俗画、そして静物。
それぞれの主題にどのような描き方のパターンがあり、それをどのように描いてきたか、どんな技術が反映しているか、それらにどんな意味が込められているのかを、代表作を取り上げつつ、具体的に説明している。
また、絵画鑑賞を楽しむための視点を10あげている。
たとえば、絵がどこに置かれていたか(教会や宮殿など)や、絵を注文した人の存在など。
こういう、一見美術の本質とは関係のなさそうな知識を身につけることが、絵の見方の大きな影響を与えていることをこの本から学ぶことができる。
一つ一つの説明が目からウロコで、筆者の解説を聞いただけで、今まで見たことのある有名な絵画作品の見方が一変したのはとても新鮮な経験だった、

ただ、難を言えば絵画の写真が小さかったりモノクロで見にくいのと、文章中心のレイアウトがやや取っつきづらところが残念だった。
その点、下記の本(シリーズにもなっている)は、美術鑑賞の手引きとして楽しく、分かりやすく読めてよい。東大生向けでなくぜひ一般向けにも書き下ろして欲しい。


















巨匠に教わる絵画の見かた

視覚デザイン研究所  (1996)



紙面はこんな感じ。とっても分かりやすい!楽しい!
さて、西洋絵画の見方や知識を学ぶということ以上に関心があったのは、そもそも「絵の見方」を学ぶとはどういう意味を持つのかという点だ。
筆者はそれを「自分自身のイメージのネットワークを作る」という言葉で表現している。絵を見る時の前提となる知識、さまざまな絵画を鑑賞してきたという経験、そして自分の生活経験から培われた価値観や審美観、その三者が網の目のような繊細なネットワークを作ることで、作品を十全に味わうことができるということである。
その「イメージのネットワーク」を広げることが、すなわち「まなざしのレッスン」であると言うことに他ならない。

作者は「絵の見方を学ぶことの意義」を次のように述べている。
***
絵など自分の目で自由に見ればよいとする考え方には、実は大きな錯誤があると私は思っています。たとえそう意図したとしても、私たちは必ずしも「自分の目」で見ているわけではなく、「自由に」眺めているわけでもないのです。どこかで聞きかじった断片的知識が、自分の絵の見方に全く作用していないと言い切れる人が果たしているのでしょうか。

「視線」は本来決して「無垢」ではない。見るという行為は学ぶものであり、まなざしは「すでに」教育されているものです。


しかし、純粋に主観的な視線が存在しないように、完全に客観的な視線も存在しえないのです。過去に属する特定の歴史的、社会的、文化的状況下で、自分とは異なる価値観を持つ人間が作り出したイメージという条件が無視できないように、そのイメージを今この私が見ている、特殊な人生を背負ってこの時代を生きているある個人の眼が眺めているという条件も決して消去できない。絵を見るとは、したがって、この二つの条件の間をまなざしが揺れ動くことに他なりません。……知的な手続きを通した作品理解と、文字通り絵肌に触れるような新鮮な視覚体験が、互いを損ねることなく折り合わされたときほど、言いかえれば、今この私が自分の目で歴史的な存在としての作品の内実を追体験したときほど、絵を見る醍醐味を感じる幸福な瞬間はないでしょう。


美術史家が絵に関してさまざまな判断を下したり、おもしろさを見いだしたりできるのは、単に知識の多寡だけの問題ではなく、十分な広さと密度の濃さを持ったイメージの網の目を、一種のデータバンクとして脳内に持っているからなのです。……専門家でなくても、実際の作品を見たり、作品相互を比較したりすることによって、誰のものでもないあなただけのネットワークがきっとできていくはずです。そうした自覚体験の蓄積とあなたの感性とが合わさった時、独自の「趣味」や「美的な判断」と呼べるものが生まれてくることでしょう。


「見ること」を意識化し、自らの「視覚の戦略」を立て直す必要がある。

「見ること」を媒介しにして他者を発見し、自らを再発見すること。

絵というのは自分流に見ても十分面白いが、筋の通った見方を知って接すると、もっと深く、さらに面白く見えてくるものなのです。