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2015/11/14

やはり、「評価」という言葉をなるべく使わない方がいい。

よく言われることだけど、評価を語るときに、ABCと生徒を値踏みするための評価(エヴァリュエーション〕と、生徒の学習が進んでいるかどうかを見るための評価〔アセスメント)とが混同していることが非常に多い。私自身も時々ごっちゃに考えてしまっていることがある。
そしてそれらの「評価」も、同時期、全員に対して行う必要があるものと、全体をざっと眺めたり、抽出児で把握できるものもある。〔そうでないとやっていけない)
さらには、教師にとっての授業評価と、生徒にとっての能力評価とも混在している。
もっと言えば、教師が確認できる評価と、生徒自身が実感できる評価もある。(自己評価チェックなどで)
これらの多様な意味が全て「評価」の一言で語られてしまうのだ。
これで食い違いが起きない方がおかしい。
授業で評価が大切なことは誰でも理解している。そして意識的にせよ、無意識的にせよ、誰だって、学習状況から何らかの判断(それが「評価」なのだが〕をしているはずだ。
だから、たとえば、教師の授業中の評価は、「評価」という言葉を使わずに、「今日のみどり」とか、「ここに注目する」などのタイトルで、つけたい力に応じて
「この姿を注意して見る」
とか、
「こういう表情が見られるはずだ」
「こういう発言や動きを見逃さない」
という程度の記述がギリギリのところなのではないか。
やってないこと、やりたくてもできないことを論じる、建前のための評価の議論ほど不毛なものはない。〔それがさらにエスカレートすると、評価のためのアリバイ作りの授業になる。ああ!)
※もちろん、単元終了後の評価〔エヴァリュエーション〕の方策は別途検討するべきだろう。

2015/09/28

いわゆる通知表の「所見」についての私見

一体、通知表の所見はいくつまで増えるのか?

小学校教諭の妻は、いま学期末の評価のかき入れどきらしい。家まで仕事を持ち帰って、家事の合間に遅くまで通知表の仕事をしている。昨夜は一体何時までかかっていたんだろう。先に寝てしまったので分からないほどだ。
通知表の何がそんなに忙しいかといえば、最近やたらと文章で書く評価が増えてきたかららしい。
・総合所見
・総合的な学習の時間
・英語活動
などなど。
総合所見だけでも生徒数分考えるのが大変なのに、それに輪を掛けて、総合、そして英語と、3倍の文量を書かなければいけなくなってきている。今後はさらに道徳の評価も文章でということになってくるのだろうか、うんざりしてしまう。
新しい教育が入るたんびに、新しい評価項目が入ってくる。そしてそれに教員は忙殺されていく。(でも評定の数字ほど、文章評価は読まれるのだろうかという疑念も……)
一体、通知表の所見はいくつまで増えるのだろうか?

文章表記と細かい評価観点と、どちらがいいのか?
帰国生の関係で、海外の現地校の通知表?指導要録?(のようなもの)を拝見する機会がある。
だいたい分厚い冊子で、教科ごとに細かい観点がわけられ、それぞれA・B・C・D・E……のような評価が付けられている。
日本では、国語科で言えばその評価が、5段階の評定と、5つの観点別評価のABCだけれども、海外は、おおむねその5倍くらいの量で評価項目を立てて評価をしているものが多い。もちろん、文章表記のものも多い。しかし決して文章による評価だけではなく、むしろ驚かされるのは、具体的な評価観点の豊富さにある。日本のように5つの観点だけでなく、20個ぐらいの観点のABCがあり、その上で文章表記の評価があるというわけだ。
日本ではそれと同じようなような評価は望むべくはないけれども、なんとなく、日本の評価観というものは「文章で書く評価はエライ」「数字で切る評価は手抜き」みたいな感覚がないだろうか。だから、新しい教育内容が入るたびに、「エライ」文章表記が増えてくるというからくりになっているし、「数値で評価したい!」と、それを大きな声で主張もできにくい風潮がある。
文章だから愛がある、数字だから冷たいというのは、評価の一面的な見方に過ぎない。どんな数値で評価するか、BにするかCを付けるか、一晩悩むぐらいのことは、どんな先生だってしているではないか。むしろ、文章のように曖昧にできない数字だからこそ、悩みに悩み抜くものなのではないだろうか。
いっそのこと、英語活動も、総合的な学習の時間も、数値で評価するべし。AからB、BからCのギリギリの選択のなかに、教師の迷いがあるし、愛だってあるはずだからだ。
もしそのリスクが大きいなら、曖昧な文章表記の文章を増やすのではなく、評価項目、評価観点を増やすようにするべし。そのほうが、こども本人や親からしてみれば、よっぽど分かりやすい、具体的なフィードバックになるのではないだろうか。

2015/05/19

「仮説の自己成就」を超えて

「仮説実験授業」に傾倒していたことがある。といっても「仮説実験授業」はほとんどが理科の実践だから、自分の実践にはあまり影響を与えられていないとは思う。
しかし、「何をするにも仮説実験」のあの発想の面白さには、何度も膝を打ったものだ。


よく校内研究などの実践研究で、仮説が必要かどうかが議論になる。仮説のない研究はよくないのか? むしろ仮説かあるほうが悪いのか?
私の結論をいうと、仮説はあってもいいと思う。仮説を明示することの効果も確かにあるだろう。
しかし最大の問題は、一度立てた仮説に実践が縛られすぎることと、縛られるようなチンケな仮説をそもそも立てていることにあるのではないか?
 (それは実は仮説を明示しているかどうかは関係が無い。明示していなくても無意識の前提や思い込みが隠されていることだってあるのだ)

「予言の自己成就」という言葉がある。仮説がお粗末だと、なんとか研究を形にしようと、そのお粗末な「仮説」という予言に実践を従わせる結果になる。
そうならないための、とっておきの方法がある。それは、仮説を100パターン立てることだ??
まあ、そんなにオーバーでなくても。正反対の可能性や、別の角度からの検討も、等しく「仮説」として念頭においておくのが有効だ。
そして途中の路線変更や撤回も柔軟に行っていく。そうすればはじめに立てた仮説に縛られずに、常に前向きに、貪欲に実践を捉えようという気になる。


「こんなのアクティブラーニングじゃない」「これぞアクティブラーニングだ」とか、「この指導法は誰々先生がおっしゃってたものといっしょだ」「ちがっている」とかいう、お粗末な「仮説の自己成就」のさまを見聞きするたびに、なんてつまらない研究してるんだろうなあ、なんと勿体無いと、残念な気持ちになってしまう。
彼らの頭の中には「あるべきアクティブラーニング」や、「望ましいカリスマ実践家の理論」という「仮説」が鎮座ましましているからだ。

2015/01/09

クリティカルな議論をする力は、クリティカルな聞き方を学ぶことから。

二年生の総合で、学年ディベート大会をすることになった。
早速、学年スタッフでディベートの論題について考えた。結果、以下の論題が候補に挙げられた。
全国の中学校は給食を義務化すべし。(アレルギーなどには配慮する)
全国の中学校は制服を義務化すべし。
全国の中学校は定期テストを廃止すべし。
全国の中学校は週6日にすべし。
全国の学校の入学試験を廃止し、全て抽選にすべし。
全国の学校を男女共学にすべし。
と、なかなか挑戦的な論題が揃った。

ところで、ディベートについてありそうな研究だけど、ディベートなどの討論を聞いている人は、話し手の何に説得力を感じるのだろうか?
『弁論術』などではそれをロゴス(論理)、パトス(熱意)、エトス(人柄)の三つに腑分けしているが、どこが一番強く聴衆に訴えかけるか?
中学生はどうか?大人とは違うか?
もし、論理は滅茶苦茶でも熱く語ったほうが聴衆に評価されるのだとしたら、そういう弁論術を意図的に選択するのは、戦略的には正しいということにはならないか?

何が言いたいかというと、論理的に話すスキルを学ぶことはもちろん大切だけど、それを評価する聴衆の「耳」が育っていないと、そのスキルは十分に伸びていかないのではないかということだ。
この「聴衆」は、もちろん中学生に限った話ではない。社会の大人たち、国民全体が、話し手の感情的な物言いに踊らされる現状であるならば、話し手は扇動的な物言いを選択したほうが有利と言うことになる。そして結局、こう言うのだ。「論理なんて必要ない。肝心なのはその人の熱意だ。」と。

それについてフェイスブックで投げかけたところ、早速いくつかの反応をいただいた。ディベート連盟に関わるIさん。
私たちの全国教室ディベート連盟では、あくまでも論理で勝敗を決めます。伝え方はコミュニケーション点としてカウントし、リーグ戦の勝敗の得票数が同じ場合、コミュニケーション点で勝敗を決めるようになっています。
と。競技ディベートの世界では、コミュニケーションと論理とを区別して評価しようとしている。このように聞き手の聞き方をコントロールすることも有効な方策だろう。
一方、社会ではロゴスもパトスもエトスも重視される現状がある。その現状の中で、話す力をどう指導していけばいいか、一つの視点を、ある中学国語教師Sさんは次のように語った。
泣き落としも戦略ですね^_−☆
冗談はともかく、説得力は論理だと誰もがいう。でも、熱意をもって訴える人の説得力は時に論理を凌駕する。しかし、論理的に熱く語れば通るかといえば、どんなにそれを極めてもあいつの言うことはなぁ…と思ったら人は説得されない。
論理は学んで鍛えられる。熱く語ることは、本当に実現したい思いがあれば今の君にもできる。しかし、信頼は一朝にはならんぞ。誠実な論理と誠実な熱意の積み重ねしかない。
と、話してますけどね、私は。
戦略的に熱意を用いるのも時には必要でしょうけどね^_−☆
まあ、でも戦略的にじゃ彼氏・彼女はゲットできんな〜って。
と。やはり、人柄や熱意は指導できにくいから、まずは学んで力を伸ばすことのできる「論理」を国語科の学習では重点的に鍛えるべしということなのだろう。

話し手を育てることと、聞き手を育てることは車輪の両輪のようにどちらも両立しないといけない。
すぐれた話し手、すぐれた書き手は、きっとすぐれた聞き手、読み手なはずだ。
クリティカルに聞けるからこそ、クリティカルに話すことができる。
クリティカルに話す人で、クリティカルに聞けないという人はおよそ想像できない。逆に、クリティカルに聞けても話せない人はたくさんいそう。
やはり、まず着手すべきは、よき聞き手、読み手を育てることなんだろうと感じる。
聞く力不在の話すこと指導では、いかにも心もとない。
では、クリティカルに聞くとはどういうことなのだろうか。どんな視点で聞けばいいのだろうか。それについて、高校でディベートを実践されているNさんは次のような視点を提示してくださった。

根拠がその通りだ、と思えば、説得力があると感じます。
「パトス(熱意)、エトス(人柄)」があっても、主張と根拠が乖離していれば、説得力を感じません。(普通はそうだと思うのですが…)
次にディベートでは、議論の大きいほうが勝ち、となります。
議論の大きさは「実際に起こるか否か」と「起きたとして、それがどのくらいの意義(インパクト)があるのか(どの程度良いのか、悪いのか)」の2つの要素の掛け算のような形で判断します。
「実際に起こるか否か」は、 「パトス(熱意)、エトス(人柄)」とは切り離して判断されるべきです。
そして、「起きたとして、それがどのくらいの意義(インパクト)があるのか(どの程度良いのか、悪いのか)」は、価値観が絡むので、「軽く考えないでください。なぜならば…」という形で、「パトス(熱意)、エトス(人柄)」がやや絡んで、(「起きたとして」の前提をクリアできていると)総合的な説得力に繋がる、とご理解頂ければと思います。
先日のディベートの経験がほとんどない大学生にディベートを教えてきたのですが、「起きるか否か」と「インパクト」とを切り分けて判断する、という《議論の聴き方のコツ》を、教わっていないがゆえに知らない、という人は結構多いと思っております。

なるほど!
1、主張と根拠の整合性、
2、議論の大きさ(「実際に起きるか否か」×「起きたとして、それがどのくらいの意義(インパクト)があるのか(どの程度良いのか、悪いのか)」
など。このようなクリアな視点を提示した上で、ディベートなどの討論で、聞いたり、話したりできれば、クリティカルな議論のやりとりが出来るようになるだろう。
ディベートのような論理のやりとりは、日本語の論理にはなじみにくいということもある。だからこそ、それを意識的に視点を提示したり、トレーニングする必要があるのだろう。Nさんから紹介していたいただいたこの本もとても参考になった。

この本では、英語のもつロジックと比較して「日本語の論理」の特異性を取り上げ、ロジックを学ぶことの重要性を論じている。国語教師(英語教師も)必読の一冊といって良いだろう。
まだ自分自身が、ディベートとか論理とかが自家薬籠中のものにはなっていないが、中学生でも理解できる形に、教える内容を精選、構造化して学習できるようにしていきたい。

2014/11/01

作文の授業についてのよくある質問集

作文指導のカリキュラムや評価について
年間の書くこと指導のカリキュラム上に、この小説を書く授業をどのように位置づけていますか
 2年生の書くことの学習では年間30~40時間を計画しています。そのうち、取り立てて学習する言語活動として、実用的な文章として手紙(5時間)を、文学的な文章として詩(3時間)と小説(7時間)を、そして説明的文章として意見文(投書)(5時間)を書く学習を取り上げます。また、短作文や長期休業中の作文課題などにも生徒たちは取り組んでいます。そのほか、読むことや話す聞く学習と関連した書く活動を指導時数にあてています。(調べ学習のレポートなど)

書いた作文をどのように評価するのですか
 小説の表現の特徴(設定・登場人物・プロットなど)を踏まえて、それを自分の作品に生かすことができているかどうかをみるようにしました。
 具体的には、読むことの学習で学んだ「小説の極意」を、意図的、効果的に自分の文章に活用できているかどうかを評価します。書き上がった作品と「創作ノート」とを比較し、実際に活用できているかを、活用しようと努力しているかを見ていきたいと考えています。
 小説の表現の工夫とその効果を、自覚的に自分の表現に活用していき、小説らしい描写やプロットの工夫などをした表現を書くことができるようになることを学習のゴールとしました。

作文を書いたらその作品はどうなりますか
 生徒には同一ジャンルごとに「同人誌」を編集し、それを作品集としてクラスや学年内で読みあうようにしたいと伝えています。また、学校で年に一度作成している雑誌に、クラスで最も好評を得た作品を掲載してもらおうと考えています。

指導方法について
この授業では、学校図書館とどのような連携がされてますか
 司書はこの授業では次のような学習支援をしています。
 ・様々なジャンルの小説の書き方マニュアルや創作のヒントとなる本を用意する。
 ・子どもたちが創作するモデルとなる、ごく短い文章の短編小説のアンソロジーを集める。
 ・それらをブックリストにして配布し、授業の中で紹介する。
 ・生徒が「こんな主人公で、こんな内容の小説を書きたい」と相談をしてきたときに、似たような  設定の小説や、参考になる本を紹介する。


小説を書くテクニックを学ぶと、自由にのびのびと書けなくなり、型にはまってしまうことはないですか
 自由にのびのびと書くことと、技術や型を学ぶこととは矛盾せず、両立できると考えています。むしろ、技術や型を使いこなせるようになることで、より表現したいことが効果的に表現できるようになると考えています。
 技術や型を教える際に配慮したいことは、それを生徒の書きたい思いや必要感を無視して押しつけるようにしないことです。さまざまな技術や型を、生徒が主体的に選択できる余地がある活動とすることで、技術を学び、それを目的や意図に応じて選択し、使いこなしてより効果的に表現できるような状態にしたいと考えています。

話し合うことで、その人の主体性が損なわれて、オリジナリティーがなくなることありませんか
 自分が書きたいことを話し合うことで、もやもやしていた作品のイメージを明確にさせたり、創作の課題を明らかにすることを目的にして交流を設定しました。小説家が小説を書く場合も、編集者や読者と対話しながら創りあげていくことはよく行われています。他者からの多様なフィードバックを得ることで、書き手のもつオリジナリティーは独りよがりのものではなくなり、より読み手に効果的に訴えかけることのできる洗練されたものになるのではないでしょうか。

個に応じた支援について
書くことが思いつかない生徒はいませんか? それをどのように支援していますか?
その人の持っているものを最大限引き出そうと努めました。その上で、断片的なイメージを小説の設定やプロットとして結びつくように支援をしました。
 具体的には次のような投げかけをしています。
 ・普段どんな本を読んでいるの? どんな本が好き? お気に入りの作者は?
 ・どんなイメージの小説を書きたい? 不思議な話とか、怖い話とか……
 ・ジャンルで言うと何が一番近い?
 ・設定は現代? それとも未来? 
 ・『 (本の名前) 』のような雰囲気のお話を書きたいの?
 など、思いつくところから言ってもらい、イメージを一緒に創っていきました。
 また、他の生徒と雑談させたり、プロットを見合ったり、学校図書館にある短編小説などを参照させたりして、発想のヒントとなるように支援しました。
 
どうやったらこれだけ書ける生徒が育ちますか?
 全員が書けるわけでもありませんし、苦手としている生徒もいます。しかし、授業では日常的に書く活動を取り入れていることと、書いた作品をクラスの仲間で楽しんで読みあえる環境を作ることを意識しています。
 具体的には、授業の終わりに200字程度の短作文に取り組ませたり、授業で書いた作品をクラス全員で読み合って感想のコメントを書き合ったり(書き込み回覧作文)といった交流活動を、生徒たちは積み重ねてきています。
 これらの活動を通して、文章を書くことに慣れ、また、作文を肯定的に受け止めてくれる仲間の存在を意識できています。それが、ある程度は書く意欲の向上につながっていると思います。

2014/09/05

厳密に評価しない方が的確に学力を捉えることができることもある

数学ネタをもう一つ。
数学では、例えば三角形の合同条件が、教える人によっていろいろな言い方があって混乱していたんだそうだ。
そこで、用語の混乱を防ぐために、学習指導要領解説で、三角形の合同条件の正しい言い方を示すことになった。
「これで混乱は無くなる、やった!」そう思うのはど素人だ。
結果、厳密に用語を規定したことで、子どもが、それ以外の言い方をしたときに、バツになってしまう可能性が生まれてしまったのだ。
厳密さ?が仇となる、教育現場あるあるでした。

2014/08/31

「話す聞く」「書く」の言語活動ばっかりやっていて、入試に出るような「読解」の力はつくのか?

「話す聞く」「書く」の言語活動ばっかりやっていて、入試に出るような「読解」の力はつくのか?
という問いがあるとして、それについてどのように考えればよいのか?
私なりの考え。

一つめ。話す聞く、書く、読むの力はそれぞれ別の力ではなく、共通して指導できることが多い。 
書いたり話したりという効果的な表現の仕方を学ぶことは、それを読むときの力にもつながるはずです。その関連性を意識して指導するようにすればよいのではと考えています。(し、最近では読んで、そこから自分の考えを書いて表現するような力も問われていますので、単純な文章理解力のみではまずいと感じています)
たとえば、「書くこと」の学習で詩を創作する学習をしたとします。詩を創作するときに活用する「比喩」や「擬人法」などの知識や、情景描写や心情描写、象徴などの表現の効果を考えながら書く学習は、「読むとき」の学習にも活用させていくことができます。そのような領域を関連させた指導が重要であると感じています。

2つめ。評価も変わりつつある。 
全国学力・学習状況調査を全国で実施し、その点数による序列化があおられる昨今、高校入試も全国学力……のテストのスタイルに少しずつ変わってきています。また、次の学習指導要領でも、従来のペーパーテストによる評価だけでなく、パフォーマンス評価が導入されることは確実です。高校入試にこびるのではなく、むしろ、社会に出てから役に立つ学習を、こちらが堂々と展開していくべきだと考えます。

3つめ、言語活動は目的ではなく手段である 
たとえば、音読は「話す聞く」の活動ではなく「読むこと」の言語活動として示されています。
現行の学習指導要領では、言語活動を通して指導事項を指導する、というスタイルになっています。言語活動は手段、指導事項の習得が目的です。
これは、たんに大きな声ですらすら読む、ということを目的にするのではなくて、音読という活動を通して、より文章を深く解釈するという指導事項を指導することを目的にして行われるものです。
だから、音読を通して文章の解釈を考えることがうまく行われるのであれば(たとえば、音読するときの読み方を考えるときに、文中の登場人物の気持ちを想像して書き込む活動をすることによって)いわゆる高校入試で問われるような「読解」の力を付けることが可能になるのではないかと考えます。

4つめ、読むことと話す聞く、書くことのバランスはそもそも等分ではなく、学習指導要領上でも「読むこと」は重視されている。 
学習指導要領の「指導計画の作成と内容の取り扱い」には、それぞれの領域の時数の目安が示されています。
それによると、1・2年の授業時数140時間のうち
「話す聞く」が15〜25時間
「書く」が30〜40時間と示されています。結果として
「読むこと」には95〜75時間割くことができます。
話す:書く:読むは、おおむね1:2:3ぐらいの割合で行われることになっています。この割合はそれほど多いとも少ないとも(私は)感じません。

2013/05/15

子どもを「みる」とはどういうことか

実習生指導で、学生と話をしていると、「教師の熟達」についていろいろと考えさせられる場面が多い。

たとえば、先日はある実習生のこんな言葉を聞いて心底驚かされた。
「授業をしていると、手を挙げる生徒が決まってきちゃっているんです。全員が手を挙げてくれないんです」
……?? 全員が手を上げないことが「異常」で、「悪い」の?
この実習生の考える、あるべき授業の理想は「全員が手を挙げる授業」らしい。
実習生にとっては、全ての生徒が手をあげないことが許せないのだ。
そういう自分は大学、小〜高の授業で毎回必ず手をあげていたのだろうか?
手をあげていないからといって授業に参加していないわけではあるまい。

発問→挙手の一問一答型授業の工夫がないのがもちろん問題だろうけど、なぜ挙手をしないのか、その生徒の内面をもう少し考えてみることはできなかったのかなあと思う。

単に「生徒のやる気がない」と言いきらずに、その原因を十個以上挙げることができるようになれば、きっと研究的資質のある教師になれるような気がする。

もうひとつ、実習生が授業をした後のミーティングでの話。
まず実習生に振り返りをしてもらっている。こちらからの評価をさしはさまずに、感じたこと、考えたことを思う存分言ってもらうのだ。
その振り返りは、ほとんどの場合、こういうパターンになる。
……の手順を間違えてしまいました。
……の指示が悪かったです。
……をするとき、もうちょっと時間配分が……。
つまり、振り返る視点が「教師のしたこと」にのみフレームが当たってしまっているのだ。
私の経験上、ほぼ全員がこの状態になる。
そこで、私はこう切り返す。
「自分がしたことだけじゃなくて、子どもの姿で気になったこととか感じたことはないかな?」
この質問で、ぱっと答えられる人はまあまあセンスのある人だ。
大雑把な教室の印象ではなく、個人名を挙げて、「……君の……したことが」などとコメントできる実習生は、それだけでも及第点を上げてもいい気さえする。
少なくとも、自分が実習生時代や初任時代はそれができていなかったと思う。


つねに目がべったり生徒に張り付く。
私が見て、すごいと思うような力のある先生は、例外なく、べったりと眼差しが生徒についている。
「べったり見る」という言い方があるのかどうかわからないが、私にとっては「べったり」という形容がしっくりとくる。
常に生徒から目を離さないのだ。それも、一点を凝視するというのではなく、全体にまなざしを注ぎつつ、細部をも敏感に感受できる視線だ。


「視線」という言葉は、受容機関にもかかわらず、射たり、注いだりするという「与える」イメージがあるのが面白い。見るというのは間違いなく受動ではなく。能動的な行為なのだろう。
教師に必要な「視力」は、一個の記号を識別する能力ではない。教室内に、同時に生起する多数の予想外の事象を、能動的に、的確にキャッチする看取力ではないか。
「見る(観る・診る・看る)」ことこそ、「子供から学ぶ」という理念を最も具体的に表している身振りであると思う。

では、「子供が見られない」場合、その原因どこにあるのだろうか?


・授業の進行など、自分のことでいっぱいいっぱいだから
・独りよがり、独り相撲になってしまっているから
・子どもの見方を知らないから
・そもそも「子供をみる」重要性をあまり感じていないから
・どうせこうなるはず、という固定観念や思考のパターンから抜け出せないから
・細かい思念や配慮とかがなく、なんとなく流してしまっているから

「子どもをみる」場合、どこに着目すればいいのだろうか
・子供の表情、
・子どもの目線
・姿勢、息遣い
・発言、つぶやき、会話
・ノート、ワークシートなどに書いてある言葉
・人柄、性格、嗜好
・人間関係
・学びのスタイル、学習観
・学習への興味関心
・子供に直接聞く

子どもをみることは、単に現象を「冷静に」「客観的に」見ることだけではないだろう。
子どもをみることは、「ミロのヴィーナスの両手を描くこと」に似ている。
今生起している現象から、子どもが育っていく未来の姿を重ね合わせながら見るのだ。
ビーナスの手がないことを楽しみながら見るのだ。
ある意味、好意的に、教師の「欲目」をも加味して見ることが、この場合大切ではないかと思う。





2013/04/21

メモ:評価を学習に生かす一つの方法


(1)評価が学習に生かす方法
授業(教育活動)は次のように行われることになっている。
計画P→実行D→評価S

しかし実際は
計画P→実行D
で終わってしまっている場合がほとんどだ。
やったらやりっ放し。
評価はしないか、しても次の学習に受け継がれないのだ。

理想は
計画P→実行D→評価S→次の計画P……
となることだろう。

いや、いっそのこと、次のような実践はどうか。
いきなり実行→評価(形成的評価・質的評価)
→計画→実行………評価(総括的評価・量的評価)
とりあえずやってみて、やってみた結果を評価(アセスメント)して、計画を立てるのだ。
このようなサイクルで回せば、評価を学習に生かすことができるだろう。

質的な評価と量的な評価とをうまく組み合わせることができればさらに効果的だろう。


(2)ミクロの目とマクロの目と
教育評価の研究者は、学力•能力の研究者でもある場合がほとんどだ。そしてその多くはカリキュラムの研究者でもある。
しかし、カリキュラムや評価を研究することで、即、毎日の授業が魅力的になるとは限らない。
(たいてい、評価や学力の研究をしている人の提案する授業はおそろしくつまらないことが多い)
反対に、毎日の授業が魅力的であろうと努力することが、評価やカリキュラムの改善には即つながらない。
ミクロの目とマクロの目と、評価•能力•カリキュラム研究と授業実践研究の相互乗り入れ、越境が必要だ。

(3)待ち受ける評価と追いかける評価

A 待ち受ける評価
授業を行う前にルーブリック(評価基準)などを設定しておいて、それにあてはめて測定する評価
メリット 確実、客観的・公平に力をみとることができる。
デメリット 評価基準に左右され、見ようとするものしか見られない
タイミングを揃えて一斉に評価できる。

B 追いかける評価
子どもの学びのあらわれを即時的に、臨機応変に受け止め、価値づける評価
メリット 柔軟に、実態に応じて複雑に生起する多様な力を見取ることができる
デメリット 学びの表れが偶発的なので、計画的に見取ることが難しい。固定観念や教師の信念に左右される。
オープンエンドの課題に適している。

(4)量的評価と質的評価

「量的評価」
100点満点のテストを作って、そこから減点していき判断する。
数値や記号による表現
設問を作る=分節化→合計点を出す=総合化の流れ。
※評価のポイントは妥当性・信頼性
 相対評価に便利
 異質なものを総合できるかどうかの吟味が必要。
(たとえば、描写がうまくて誤字がありまくりの作品を、誤字の数だけで作文力が低いと言えるのかどうか、など)

「質的評価」
いくつかの評価の観点を決めて(または決めないで)、それらの観点をもとにして学力の伸長を判断する。
記述表現が中心。
※評価のポイントは信憑性(リアリティー、説得力)
 個人内評価(個人の伸び)に便利
評価者の暗黙の前提や予断がないか、甘くなりすぎないか、常に評価者の省察が必要



2013/03/28

自己評価や相互評価を成績に加えるのはよいことか



自己評価や相互評価などを授業の一環としてさせることがある。
とくにグループ活動や、生徒が主体的に動き回る活動などの場合、それを教師がすべて見て回ることは難しいので、相互評価や自己評価を活用することになるケースが多いのではないか。
○○グランプリや○○コンクールも、広い意味での相互評価であるといえる。
わたしは、これらの相互評価は授業を活性化させるためには有効な方法の一つであると思うが、その結果を成績として加味するのは適切ではないと思っている。

相互評価の本質は「他者の視点を通して、自分の良さを引き出すためのコミュニケーション」であろう。
それ以上でもそれ以下でもない。
相互評価といっても、基本はコミュニケーションだ。
そしてそのコミュニケーションは、自分に向けられる価値付けを伴ったメッセージだ。
相互評価が「できたかどうかのチェック作業」であったり、「ケチのつけあい」であるなら、そんなコミュニケーションはまっぴらごめんだ。だれだって、人に否定的な評価なんてしたくない、されたくないはずだし、それを教師が無理に強いる必要もない。
ならば、どうすれば、そういう「良さを引き出し合う」相互評価ができるか、そういう理想的な相互評価の方法を設定することこそ教師の課題ではないのか。
(「評価」という方法ではなく、自分の課題を解決するためのアドバイスをしてもらう、というコミュニケーションならありうる。たとえば、プレゼンをしたときに、わかりやすかったかどうかを他の人に判断してもらうなどの場合だ。これは「評価」の要素が含まれるが、趣旨としては「アドバイス」という目的があり、その目的を、自分も、相手も納得しているからこそ成立するコミュニケーションである)

一方、自己評価のメリットは「学んだことの手応えを実感することと、自分の課題を発見するための内省」にある。
自分のことは、ある意味、自分が一番厳しく見ることができる。
その「自分と向き合った感」を、いかに自己評価という形で表出させることができるかが、自己評価の成否を分けるのだと思う。

相互評価は「他者に良さをひきだしてもらう」目的
自己評価は「自分の学びを実感し、課題を明確にする」目的
そう考えるとと、自己評価や相互評価を、成績をつけるという目的で教師が参考にするやり方には反対である。

成績は、評価基準という枠組みの中で、「できたか/できないか」を峻別する評価だ。
しかし、自己評価では「何ができたか/できないか」を問題にするのではなく、むしろ「何を、どう感じているか」が問題となる。客観的に見て「できて」いても、自己評価では「できていない」と感じることはありうる。
相互評価は「できないこと」をはっきりさせるために用いるべきではない。そのような評価が多用される教室では、学級の人間関係に深刻な影響を与えることになるだろう。相互評価によって「できていない」ことを浮き彫りにするのは「良さを引き出す」という相互評価本来の趣旨にはそぐわない。

2013/02/23

どういちゃもんをつければいいか~重箱のつつき方入門~


授業を公開したり、研究成果を発表したり、とにかくいろいろな発表をする機会に、しばしば参加者からいただく「ご批判(いちゃもん)」のいろいろをいくつかパターンで分類したいと思う。
こういう批判のパターンをあらかじめ頭に入れておくと、どんなご批判がきても心の準備ができるかもしれない?? 
(もちろんパロディーですよ! これを逆手にとって人の欠点をあげつらうときに使ってはいけません)

重箱のつつき方パターン(もう少しパターンが増えるかもしれない)
~研究授業後の協議会を想像してください~

A 「重箱の隅をつつく」……細部に対するいちゃもん
例文)授業の時に先生が言った「……」という一言はいかがなものか?
例文)指導案のこの言葉だけ「  」が付いていないのは何か意味があるのか?


B 「重箱の箱の模様をつつく」……ややポイントがずれたいちゃもん
例文)すばらしい授業でした。ところで、授業で使ったプリントはどうやって保存しているんですか?
例文)生徒が作成した掲示物に誤字があったのですが、日頃どのような指導をしているのでしょうか?
例文)この教材の著作権についてはどのようにご配慮されていますか?


C 「重箱ではなく、隣のお椀をつつく」……カテゴリー外からのいちゃもん
例文)古文の内容を読み味わう授業で
「古文の音読をしなくていいんですか?した方がよくないですか」

例文)ICT活用がテーマの授業で
「ITCばかりでなく、ノート指導が必要ではないですか」

例文)意見文を批判的に読むことが目標の授業で
「文章にどっぷりひたって共感させることが大切なのではないですか」


D 「重箱をつつく、とみせかけて自分語りをする」……自己主張のためのいちゃもん
例文)私もこの実践をしたことあるんですが……で、……だったんです。どう思いますか?

E、「重箱の説明書を取り出して批判する」……権威に寄りかかっていちゃもんをつける
例文)「学習指導要領では……と書かれています。それをどのようにふまえたのでしょうか」
例文)「学習指導要領の指導事項でいうと、この授業はどの領域ににあてはまりますか?」
例文)指導事項にはないことを教えています。この授業は国語ではなく、道徳ではないですか?


うーん、無理に重箱にまとめようとして難しくなってしまった。
もっと色々なパターンはあると思います。




授業の批評には次のレベルでの評価(批判)がある。
そしてその評価には往々にして「信念対立」(価値観の相違)が見られる。

A、教育観・授業観・子ども観レベル
……どのようなスタンスや教育観でその教師の授業が構成されているか。

B、学習内容レベル
……何を学習内容として取り上げ、子どもに学ばせようとしているか。

C、単元・学習計画レベル
……Bをどのような学習プロセスで教えようとしているか。

D、授業技術、手法レベル
……どのような授業技術でそれらを教えようとしているか。

どのレベルで評価しようとしているのか、評価する人は意識する必要がある。
さらには、自分の授業の見方が偏ってはいないかを自己チェックすることも大切だろう。
(授業技術にばかり目を向けている人は、計画や内容、根底にある哲学について検討する。教育観や哲学にばかり目を向けてしまう人は、授業技術の評価もする)



それらの念頭に置いた上で、1時間の授業を批評するポイントは、
1、教えようとしていること(教師の意図、ねらい)
2、教えている内容や活動(学習方法や計画)
3、子どもの様子、変容(実態)
の3点に絞って判断すればよい。
この3点以外に、観察者の予断や憶測、先入観や自己顕示欲がまじると、見当違いのいちゃもんになるのではないか。


国語の授業だったら、私はまず指導案の次のつながりを確認する。
・授業の狙い(指導事項)
・言語活動
・学習材
そして、その観点に従って子どものようすから、狙いが達成されているか、どんな学びが広がっているかを見る。
研究授業だったら、この授業に「賭ける」研究上の課題がどのように具現化されているかを見る。

たとえば、次のような質問は出て当然だし、それについて事前に考えておくことは必要だろう。
・子どものいままでの学習履歴と、それをふまえて、この学習内容を取り上げる必然性は?
・なぜこの学習内容を取り上げたのか、その意義は?
・狙いと言語活動(学習活動)はマッチしていたか?
・子どもはどんな目的意識を持って学習に取り組んでいたか?
・ゴールとして、どのような子どもの姿をイメージしているか?
・この授業を通してどんな子どもを育てたいか?
・学習材にはどのような工夫や配慮が見られるか?
・授業の計画は子どもの思考に沿って無理のないものであったか?
・授業の展開は自然な流れか? 首尾一貫していたか?
・授業中の教師の手立てに必然性があったか?効果的だったか?
・なにを、どのように評価するか、それをどのように次の指導へとつなげていくか?
など。


実際のところ、意図・方法・実態の3つを的確に捉えるのはなかなか難しい。

・教師が意識していない狙いが授業の中に隠れていることがある。
・そもそも指導者が狙いが明確でないことも多い。
・学習方法と狙いがマッチしているとは限らない。
・むしろほかに狙いを設定したほうがふさわしい学習活動もある。
・狙っていること以上の多様な学びが広がっていることもよくある。
・当然、子どもの反応も千差万別、ある学習方法がうまくはまる子もいるし、そうでない子もいる。全員に適合する授業などほとんど難しい。しかし授業の批評は往々にして子どもを十把一絡げにして語られることが多い。

こう考えると、むしろ「いちゃもん」は建設的な価値を生み出す契機になるかもしれない。
多様な批判にさらされることで、授業を違った側面から振り返ることができる。その結果、授業の新たな価値や魅力を引き出すことができる可能性がある。
意地悪な「いちゃもん」を、愛のある「ご指摘」に転換させて、研究授業をより実りあるものにしていくくらいのどん欲さ、胆の大きさが、研究発表をする人には必要なことなのだろう。


2013/01/29

メモ 評価のいろいろ(未整理)




「評価」という言葉はとても幅広い概念だ。
「評価」という言葉は、聞き手によって、さまざまな意味に受け止められる。
「評価」について考える際に、「評価」が示す言葉の意味を腑分けする必要があるのではないか。

「評価」のいろいろ
主として授業時間前に行われる評価
A「診断」としての評価
……いわゆるレディネス(学習の準備状況)を把握するための評価。
生徒の関心や問題意識、授業で必要とされる知識や技能を把握しておく。
それを授業づくりに活かしていくことが目的。

主として授業時間内に行われる評価
B「アセスメント」としての評価
………学習の進捗状況を教師がリアルタイムでキャッチする。
的確に学習状況を知り、教師がそれを学習活動に反映させていくことが目的。

C「フィードバック」としての評価
……学習の適否を生徒に伝える。丸を付けたり、レベルを示したり。
学習の達成度を学習者自身が知って、学習を促進させることが目的。

主として授業時間後に行う評価
D 総括的な評価……授業終了後、どの程度の学力が付いたかを診断する→次の授業に活かす
E「評定」としての評価……いわゆる成績評価。通知表などに評価を下すこと。

全部で5つ。
もうすこし評価の機能を調べれば出てくるだろう。

2013/01/28

「子どもも教師も前向きになる評価のあり方」の課題


評価なきところ印象はびこる~評価についての一考察~

評価について最近考えたことをまとめる。

1、評価について考えたくない??心理について
評価の研究は、何となく「後ろ向き」のイメージがある。
評価の研究をするくらいなら、もっと面白い教材を開発している方がよい。
評価をすればするほど実践がやせ細る。
実際に耳にしたことがある評価についての批判である。
これほど重要だと皆が認めておきながら無関心な領域もない。

そのほか、評価について考えたくなくなるような、次のようなつぶやきもある。
評価の資料を集めるのが煩雑だ。
どのように、何を評価したらいいのかわからない。
果たして自分に評価ができるのか?
公正公平な、客観的な評価はできるのか?
5年後、10年後力が付いたかどうかを、現在評価できるのか?
評価するということは、子どもの可能性を限定してしまわないか?

2、評価についての考えたいこと
評価について、現場レベルで取り組むべき喫緊の課題は、
「子どもも教師も前向きになる評価のあり方」だろう。
どんな評価法が子供を伸ばすか、
どんな評価法だったら負担感なく、なおかつ妥当な評価ができるか?
どんな評価法だったら教師の授業改善のモチベーションがあがるか?
評価の負のイメージをポジティブな営みとしてとらえ直すとしたらどのような発想が必要か?

3、研究者の視点
という発言をあるところでしたら、大学の研究者として活躍しておられる、無藤先生、黒上先生から以下のようなコメントをいただいた。

無藤先生(白梅学園大)
「教師は、相手が,5分先か、1年先かはともかく、なってほしい状態をかなり具体的に思い描き、それに向けての働きかけをする。
それは通常の人間関係とやや異なるもので、そこに評価と指導という二つの教師の専門的働きがセットになるゆえんがあるのでしょうね。」

黒上先生(関西大)
「根源的な話をすると…人と接するとき,必ず相手を評価しています。
評価を否定する人も,必ず自動的に子どもを評価しています。
でなければ指導なんてできません。
そういう評価の良いところを活かして,主観的に過ぎて歪んでいる部分を剪定するような評価の仕方が大事なのだと思っています。
そして,それが,指導という目的的な活動に沿うようにするための工夫も必要なのだと思っています。
評価を否定する気持もわかりますが,その人(あるいはかなり多くの普通の人々)の評価のイメージが問題なのでしょうね。
あまりに負のイメージがつきまとうなら,言葉を変えるという手もあるかも知れませんね(私は嫌ですが)。」

4、評価をどうとらえ、どう実践していけばよいか、その3つの視点
視点1 質的評価と量的評価の特質を理解し、使いこなすことが重要。
教育評価の本質は「質的」なものであること。
「量的」な評価が客観的で正しいという思い込みを捨てる。
すべての評価は、「相対的」に、正しかったり客観性があるに過ぎない。
重要なのは、「信憑性」があるかどうかである。
評価は、他ならぬ人間が、人間を評価するわけだから、もやもやしていいんだ。
もやもやしているものなんだ。
質的研究の考え方による評価はそういう、もやもやを自覚する営みでもある。
そのもやもやを、どう束ね、相手に了解できる形で表現するか。信憑性をもたせるか。
そこに評価の大きな課題がある。

視点2 教師が見ようと思うものしか見えない。
何かを見ると言うことは、何かを見ないと言うことでもあること。
ルビンの壺
ルビンの壺のように、何かを見るということは、何かを見ないということでもある。
何かを見ない(評価しない)という断念がないと、何かを見よう(評価しよう)ということはできない。
教師のしている行為(教育活動)は何を意図しているのか?
教師のしている行為(教育活動)によって子どもがどんな姿になって欲しいのか?
それをどのような観点や方法で見取るのか?質的か?量的か?
その結果、何が見えて、何はわからないのか、何を断念したか。評価の範囲や限界を自覚することが必要だ。









これは何に見える? 何に見えない?
















視点3 子どもの理想像をイメージできることが必要であること。
それは評価者(教師)の力量に大きく依拠するということ。
教師の意図や、理想像というフィルターがあって、はじめて評価という行為が成立する。
教師の意図がないぼんやりとした活動であれば、子どもの何を見たらよいかはわからない。
教師が理想を描き、それを目の前の生徒に当てはめたり、イメージすることなければ、それは評価ではなく感想であり、印象批評にすぎない。
その意図や理想をどこにおくか、理想像をどのような姿にイメージするかが教師の評価の力量の一つだろう。
結局は、自分(教師)の身の丈にあった評価しかできない。生徒を評価することは自分自身のちっぽけな教育観をふりかえることでもある。だからこそ、教育(授業)の大きな可能性を信じ、イメージし続けること、試行錯誤を繰り返すことで、自分のちっぽけな教育観(評価観)を更新していかなければいけない。

5、「子どもも教師も前向きになる評価のあり方」の課題
課題1 評価のさまざまな方法とその特徴を理解する。
質的・量的評価のさまざまな方法を、現場の先生が理解し、それを使いこなせるようにする。
とくに、質的研究のさまざまな手法を知ることで、現場レベルでの評価法は大きく前進することができるだろう。

課題2 子どもの見方を学ぶ
子どもの学ぶ姿や成長をどうやって見ればよいか、その見方、マインドを体得する。
熟達した教師がどのように子どもを見ているかを学び、知見を活用できるようにする。

課題3 子どもへのフィードバックの方法を学ぶ
どのように子どもへ評価結果を返していく(フィードバック)のが効果的か、その方法を開発していく。
教師の声かけや通知表の所見などの方法も含め、コーチングやファシリテーションなどのさまざまな技術や知見を活用することができるだろう。

課題4 手間のかからない、効率的な評価方法を開発する
簡便で、誰でも手軽に取り組める評価方法を開発する。
ノートチェックの方法、ポートフォリオの活かし方、自己評価と連動させた評価、パフォーマンス評価などのさまざまな評価法の日常的な実践例の掘り起こし。そのノウハウを共有する。

「授業時間内」に評価をする工夫を開発したい。
「指導と評価の一体化」というのなら、授業時間内に評価をするのは当たり前のことだ。
(もちろん、ほめたりなどの声かけは日常的に行っている。
それらの評価をいかに意識的、意図的に行うか)
評価は授業後にやったり、家に持ち帰ったりしなければできないようなものではないはずだ。
ある程度は仕方がないにせよ。
観点を絞り、評価手法を吟味し、授業時間内でフィードバックを返す。
全員なくても、一部の観点でも、授業時間内でできる範囲の評価を積み上げていく。
「授業時間内で」っていうのがポイント。
なんとか突破口はあるはずだと思う。