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2016/03/01

教師が作ったカリキュラム、生徒が学んだカリキュラム〜「どの授業が良かった?」アンケート〜

国語科が他の教科と違うなと感じるのは、一つの指導事項、内容を教えるのに、ほとんど無数のアプローチがあるということだ。
たとえは、「俳句を読む」学習といっても、教師が練りに練った発問によって深めていくという方法もあるし、子どもたちの活動を通してねらいに迫っていくという方法もある。
ようは、指導事項、ねらいが達成すれば、どんなアプローチも「アリ」なのだ。
その授業内容(カリキュラム)を再考するときに、「教師はどう授業を作ったか」という視点と、「学習者はどうそのカリキュラムを学んでいたのか」という視点の、双方向からのふり返りが必要になってくる。
そのための一番お手軽は方法は、学習者に「この授業どうだった?」と聞いてみることだ。中学生目線で「やって良かった授業」「授業でついた力」についてのフィードバックをもらい、それをカリキュラム改善のデータとして蓄積していくのだ。

というわけで、受け持った生徒に、「二年間の授業で印象に残った学習ベスト3は? どんな言葉の力を高めたと実感している?」という調査を実施した。
生徒がどのような意識でこれまでの授業に取り組んでいたかフィードバックしてもらう。生徒によるカリキュラムの評価、教師の評価だ。
結果はどうなったか。ベストテンを選んでみた。(直前に学んだ「故郷」「バースデー・ガール」はあえて除外)リンクがあるものは、以前ブログに実践の概要をレポートしたもの。

2年生

3年生
・「テクノロジー」についての正反対の評論を読む(比べ読み)
・百人一首を現代版に書き換える学習(古文和歌)
・古文のテスト問題を自分たちで作る活動(古文読解)

となった。最も多かったのは帯単元。やはりその威力は絶大だ。
うれしかったのは、これ以外でも「よく覚えてたなあ」と思うようなマニアックな授業にも必ず票が入っていたこと。その生徒にとってはヒットした授業だったということなのか、全体として、得票のばらつきがとても大きかったのが特徴だ。
反省点としては、「授業内容」と「どんな言葉の力を高めたと思う?」と聞いたときの、後者の「言葉の力」についての押さえが弱く「しっかり読む力がついた!」というレベルの、具体性のない記述で終わっている生徒がいること。これはもちろん授業の構成上の反省点だ。言語活動のなかの「言葉の力」を具体的に意識し、自分の言葉でメタ認知できるようにしていくのが今後の課題。

カリキュラムは当然、学習指導事項に示されている教科、各領域の目標や指導事項、年間指導・評価計画によって教師が作っていくものである。しかし、それだけでは空回りしてしまうことも多々ある。学習者からのフィードバックも得て、それを蓄積していくことでよりよいカリキュラムを作り上げていくことができる。その当たり前の流れを作っていきたい。そして、学習者自身が「この学習は、この言葉の力を高めるために取り組んでいる」と言えるくらいまでの力と学習活動にしていきたい。
日本中の学校で「どの授業が良かった?」「どんな言葉の力を高めた?」アンケートを実施し、その結果が蓄積されて教科書などに反映されていく。それができるようになると、どえらいことになると思うんだけどなあ。全国学力・学習状況調査よりも先にやるのはそれでしょう。

2016/01/01

今年の実践&研究テーマ

なんとなく気分も高揚している今のうちに、意気込みのようなものを書いておきます。

次のキーワードで実践&研究を進めていきます

・「メディア情報リテラシー」に関する研究
情報の受け手、伝え手を育てるカリキュラム開発。
情報活用能力(ICT活用スキル、情報モラル等を含む)
学校図書館、webなどの多様な情報を活用した探究的学習のカリキュラムづくり(小・中・高司書と共同で行う)(※科研費申請中)

・レトリックに関する研究
身体感覚とメタファー、
語彙に着目した指導、ことわざ、慣用句などの慣用的表現の研究
言語活動を機能させる文体、話型などの分析、
身体表現によるコミュニケーションなど
情報デザイン力の育成(※科研費申請中)

・テキスト(教科書含む)に関する研究
表現を、既存のテキストを受容し、編集し、発信する過程と捉え、そのためのテキスト(学習材)のあり方を考える。
教科書のあり方(アナログ、デジタル)を模索する
生徒の学習意欲を換気するテキストの開発
著作権関連の条件整備と環境づくりに参画する
(↑「ICT CONNECT 21(みらいのまなび協創会議)」学習資源・データ利活用SWGで取り組む予定)

・きくこと、応答することに関する研究
ノンバーバルなきく能力
コミュニケーション、対話のやり取りのなかで発揮される能力
プレゼンテーション、説明などの多様なコミュニケーションのスタイル(文体)を分析する
談話分析、会話分析
(※国語教育実践理論研究会で取り組む予定)

・読書活動
図書委員会と協働で読書活動の推進
学校図書館の機能を活かした探求学習の支援
学校図書館の「場」の機能を活用した授業

・作文教育
大学教員と協働で実践交流&研究を行う。
(※科研費申請中)

・国語科の評価に関する研究
パフォーマンス評価、ポートフォリオ評価
形成的アセスメント
学力テストの改善
実践に役立つ、手軽にできる評価法の開発
(※校内研究と連動させて)

これらのキーワードにぴぴっときた方、是非一緒に実践&研究しましょう。
研究の相談、交流、情報提供等よろしくお願いします。

2015/11/27

ワークショップデザインの授業で中学生は何を学んだのか?

「ワークショップを作るワークショップ」の授業もワンサイクルが終了。
実践の紹介は過去の記事に。
2クラスが7時間で授業に取り組んだ後に、他の2クラスも同じ流れでワークショップ作りにチャレンジしていく。(今日からスタート)
最初にワークショップ作りに取り組んだ生徒たちに、授業後に「これから授業に取り組む二つのクラスにワークショップづくりのアドバイスをして!」と投げかけた。
授業を終えた生徒たちが、ワークショップデザインにおいて何が大切だと思っているのか、この記述からある見てとることができる。

〇課題設定のアドバイス

  • QOLを向上させるために必要なのは本当になんなのかをしっかり考えた上でテーマを決めた方がよい。
  • 「本当にこれでQOLが向上するの?」というのもあったから、実際の生活に役立ちそうな内容にするとよい。
  • どういうワークショップの活動にするのかというイメージをもつことから、ワークショップのテーマを考えていくのもよい。
  • ワークショップの考え方がまとまらないときは、アドバイザーの先生に聞くのが非常に効果的である。
  • ただ自分たちが知りたいことだけでなく、参加者は最も何を知りたいのか?何に興味があるのかを探ろう。
  • テーマはうけねらいではなくて、みんなの役に立ちそうなことにした方がいい。
  • ワークショップのタイトルで参加者をひきつけるべし。


〇プログラム内容のアドバイス

  • 最初にワークショップの内容を決めるときは、目的や方法等を明確にして、進めていくなかで方向性を見失わないようにする。
  • 「体験」と「説明」を上手くバランスをもたせて組み合わせるのがすごく大切。
  • 説明は根拠と主張がしっかりしていると聴き手も納得しやすい。科学的な根拠や参考文献を提示できるようにしておく。
  • どんな情報を言ったらみんなに興味を持ってもらえるか、こんなこと誰も知らないだろうみたいなことを言った方がパンチがあって良い。
  • 一つ強調したい部分を持つとお客さんのウケがよくなる。
  • 時間配分や順序をよく考える。(長すぎず、短すぎないように)
  • 時間が20分と短いので、その時間の中で簡単にできるテーマにするべき。短い時間で急ぎながら深いところについてのワークショップにすると少し中途半端になってしまうので、簡単なことについてじっくりよく考えたり体験する方が得るものは大きい。
  • 調理20分はかなり無理があった。少し時間がかかるようだったら途中まであらかじめ作っておくとよい。(片付けまで20分でやらなければいけないので、遅れると次のワークショップに行けなくなる)
  • ブースに分けて少人数でやるなどの会場レイアウトも工夫する。
  • 映像や音楽などで気分を高めるのも効果的。
  • 小道具などが必要な班は、分担を決めて、休み時間を使って計画的に準備しよう。(道具のリストを作っておく)
  • CD科の授業でとれる準備時間はとても短いので、自主的に準備をしていった方が良い。
  • 班員との情報共有を大切に。分担も公平にする。

 
〇ワークショップ本番では?

  • ワークショップと発表(プレゼン)との違いを意識する。どうしても一方通行になってしまって「参加型」にするのが難しかった。
  • まじめすぎず、ふざけすぎずにやるといいと思う。
  • パワーポイントに頼りすぎない。参加者とやる人の発言量が同じくらいが理想。
  • 参加者を巻き込んで一緒に楽しむ気持ちが大切!
  • 和やかな雰囲気にする。
  • 時間配分が思ったよりかかったので、一度実際の時間で通して練習してみるとよい。(調理系のワークショップは必ずリハーサルを!)
  • ワークショップをしている間は全く相談しなくてもできるようにしておく。もたつくと印象がすごく悪くなる。事前の準備が超重要。
  • 根拠となる資料を集めておいて、質問にちゃんと答えられるように。

2015/11/14

問いを吟味する授業

とある中学校の公開研究会から考えたこと。

「問い」そのものを授業の対象にするという発想が面白い。
調べ学習の時になんとなく問いを立てて、(あるいは教員が設定して)そのまま探究に突入しちゃうというパターンが多いんだけど、「問いについて問う」というワンクッションがあるとないとでは、その後の研究の成否が大きく違ってくる。きわめて重要な視点。しかしとっても奥が深い。「問いが持てる子」って、「答えを知っている子」よりもずっとずっと価値があると常日頃から感じている。
授業では、夏休みの宿題で地域について調べたレポートを題材に、さらにそれを深める問いを考え、その立てた問いについて小グループで「問い相談会」(「価値ある問い」かどうかを話し合う)をするというのが今日の展開だった。
問いを吟味することの必要性は、大学のアカデミックライティングでは必須のスキル。高校などでの探究的な学習でも取り入れられている。(「問いを作るスパイラル」など) ほとんどの人は知らないと思うけど、国研の「中学校授業アイディア例」にも、かつて似たような実践が取り上げられた。( http://www.nier.go.jp/jugyourei/h25... )
授業を開発する際には、それをどの程度、対象である中学1年生に落とし込み、他の探究的な学習でも使えるような汎用的なスキルとして習得させることが鍵となるのだろう。汎用的なスキルとするためには、「授業の文脈につかず離れず」ぐらいな距離感が必要だ、つまり、「この授業のための」とか、「この調べ学習のための」問いの吟味の仕方とするのではなく、どんな探究にも使えそうな吟味する視点や方法を対象化、意識化させるのだ。
例えば、問いを吟味させる話し合いで、「良い問いか、悪い問いか」と話し合わせるのではなく、「問いのレベル」を話題にするという方法はどうだろうか。この問いは「深い問いだ」「浅い問いだ」というように、問いを対象化して「問いのレベル」を評価し合うのだ。(って、大人は普通そう感じているでしょ)
また、「問いの方向性」を提示する方法もある。「広げる問い」『深める問い」「連想される問い」「具体化する問い」「ひねくれた問い」「すぐに答えの出そうな問い」「答えは絶対にでない問い」など。このような「問いの方向性」が見えてくるレトリックが活用できると、問いを検討するための発想を広げることができる。発想を広げるという意味では「アタリマエを疑う」という観点も重要だ。常識を壊し、発想を広げるためには「異化」をしていくための道具立てをする。「六色ハット法」や、「なぜなぜ五回」のような「異化」を促すテンプレート、フレームワークを活用させるとよいだろう。
しかし、「問い」を吟味する視点で最も重要なのは、言うまでもなく、調べている本人の「知りたい」という探究心だ。だから「問い」を広げる活動を行いつつも、「そもそも自分の知りたいことは何なのか」という問題意識の根っこにもどっていくような感覚も(感覚こそ?)大切なのだと思う。「問い」を吟味し、あれこれ「問い」を評価していく中で、「この問いは私が知りたいことに近づいている」「この問いだと知りたいことから離れてしまう」「むしろ本当はこの問いを探究したかったんだ」などと感じるような、「問いへの繊細な感覚」を大切にすべきなのではないかと感じた。
つまり、直観レベルでの「問いの吟味」(気になる,知りたい、どうもスッキリしない。モヤモヤする……など)と、論理レベルでの「問いの吟味」(検証は可能か、方法は適切か、つじつまが合っているかなど)の必要性だ。熱いハートと冷たいノーミソで、問いをためつすがめつしていくような学習ができればいい。

そもそも、葛藤や対立に気づこうとしているか

月末に行われる公開研究会に向けて指導案検討。
全員分の授業プランが出そろうと、ようやく公開研に向けてのスタートラインに立ったような気分になる。
指導案検討の後、校長先生か感想を述べる。校長は異文化対立や葛藤を研究する大学の研究者でもある。その研究のバックボーンをもとに興味深いコメントをなされていた。
「日本では、そもそも世の中に葛藤や対立が存在することを認識することに苦手意識を持っている。葛藤や対立があるんだけど、それをなるべく考えないようにしている。気づかないようにしている。それが問題をより深刻にさせているのだ」と。
確かにそうなのかもしれない。身近な葛藤や衝突、軋轢を極力避ける事なかれ主義が重視される世の中だ。異議申し立てや、波風を立てることそのものが煙たがれる。社会に存在する葛藤や対立に目をつぶる身振りが、日本社会のあらゆる場面で学ばれてきている。
まず問題のスタートは、安易にわかったふりをするのでは無く、迎合するのでも無く、葛藤、対立の存在に気づこうとすること、そこからが、あらゆる課題を解決する第一歩なのかもしれない。

汎用的な「メタ認知」というものは存在するのか?

ねらいを決めたり、見通しをもったり、振り返りをしたりという、モニタリングやコントロールに関わる認知をメタ認知というらしい。
最近はどの実践ても「メタ認知」が大流行りだ。とりあえず「メタ認知。といっておけばいいやという感も無きにしも非ずだ。
しかし、そもそも汎用的で、文脈を離れても通用する「メタ認知」というものは、どの程度通用するのだろうか?
たとえば、料理の段取りが上手い人は、同様にテスト勉強も上手なのか、テスト勉強が計画的にできる人は、何かのプロジェクトも同様に段取りよくできるのか?
安易に「メタ認知」とひとことでくくって言うけど、ある程度の幅で、メタ認知(という名の、共通して活用できる知識や技能〕が適用する分野なりジャンルが存在するだけなのではないか?
たとえば、図形の証明と、論理的文章の証明はどこまで一緒なのか。論文を書くことと、料理を作るときのメタ認知はどの程度「転移」するのかしないのか?
何でもかんでも「メタ認知」といったところで、何も言ったことにはならないのではないか?
探求学習には課題解決のステップとしてある程度、定型化されたものがある。イベントなどの企画、運営には、段取りの適否というものは確かにある。しかし、それらの分野の特殊性を離れた「段取り力」とか、「見通し力」などという「メタ認知」なるものは存在するのか?あくまで、探求学習、イベント運営に限る、手続き的知識なのではないか?
ジャンル、文脈、状況を離れて、汎用性のある「メタ認知」というものがあるのか、それを学ぶことができるのか、それを知りたい。

やっぱり、教材が命。

これからはコンテンツじゃなくてコンピテンシーだ!とかいっても、知識じゃなくて課題解決能力だ!っていったって、単なる薄っぺらい操作スキルの習得や、スカスカの課題解決じゃあ「深い理解」「深い関与」にはなっていかないのだろう。
噛めば噛むほど味がしみ出るようなチキストがあってこそのディープさなのだ。
エビで鯛は釣れないように、チープな教材からはチープな学びしか得られない。だからこそ、ディープな学びを引き出すためには、何をおいても学習材の開発が必要なのだ。
という反省のつぶやき。

アクティブ・ラーニング型授業を作るための教科を超えた汎用的な能力はあるか?

素朴な疑問
・技能教科はほとんどがアクティブ・ラーニング型授業であるといえる。
・小学校の先生は技能教科も教える。
・ゆえに、小学校ではどんな初任者でも、アクティブ・ラーニング型授業をしていない人はいない。
そこで疑問。
小学校の先生で国語の一斉指導が上手い人は、体育のアクティブラーンング型授業もうまいのか?
反対に、
体育のアクティブ・ラーニング型授業が上手い人は、国語の一斉授業もすべからくうまいのか?
アクティブ・ラーニング型授業や一斉指導型授業を作る、教師の「教科横断の汎用的なスキル」ってどの程度有効なのか?
ひょっとしたら、その汎用的なスキルって割合的には少なくて、他教科の授業にはあまり転移しにくい、領域固有の知識、能力の比率が高いのではないのか?
結局はその教科、授業の教材研究に依拠しているのではないか??

失敗例も価値ある実践

というか、陥りがちな失敗の発見こそが、その研究のもつ新規性なのだと思う。
だからこそ、どんな試みも「未完成な試み」である限りは価値ある実践だ。
完成品として取り繕うのではなく、未完成品であり続けること。そういう前向きさの伝わる実践には心から共感できるし、得るものも大きい。完成されたパッケージはあっという間に忘れられてしまう。
研究はコミュニティによって育てられる協同的な実践なのだ、ということをみんなが共有できれば幸せになるなあと感じる昨今。

場数を踏む、あるいは創造的な失敗

場数を踏むという視点が大事
アクティブ・ラーニング型の学習のような、学習者の自由度が高い学習活動では「場数を踏む」という経験値がどうしても必要になる。だから、研究授業だからとか、思いつきでたまーにやる程度では「場数」はこなせない。うまくいくかは運次第になる?
結局、生徒も教師もいっぱい失敗しながら、その失敗をしたたかに次のステップとさせていくような、「次はこれこそは!」というフィードフォワードの発想が、アクティブ・ラーニングでは大切なんだろう。
だから、たった一回の授業の成否を、それだけの良し悪しで判断するのでは無く、子どもたちが場数をこなせばできるようになるものなのか、それともそもそも無理な活動だったのかという視点で見ていくことが必要になるのだ。場数をこなさないうちからあれやこれや言っても仕方がない。

場数を踏むのための「場」の条件
というわけで、生徒にとってどういう「場」が値打ちがあるのかという問いにつながっていく。
一言でいうと、「ルーチンでありながらルーチンを超えるもの」となるのかな。
子どもにとってルーチン(反復して取り組む価値のあるもの)という認識が無いと、そもそも経験として定着しずらい。教師の思いつきで振り回されているだけ、という意識では次への取り組みにつながらない。
反対に、単なるいつものルーチンで、出来合いの力で自動的にさくっとできてしまうようなものではあまり力とはなっていかない。「箸の上げ下ろしでは筋肉がつかない」のと同じだ。
「ルーチンでありながらルーチンを超える経験の場」を、どう設定するかなのだろう。

2015/11/01

指導案を書く力と授業を作る力

昨日の協議会では「指導案」の内容についての発言があった。曰く、指導案に示されている目標と、活動、評価との整合性は?など。
「授業」の協議会なんだから「授業の案」を取り上げて協議するのは意味あるの?とも言いたいけど、やはり実際の授業、そして子どもの姿と、指導案との齟齬は気になる人は気になるものらしい。それだけ丁寧に読んでくれたということなんだけど。
そういう意味でも「実際の授業を見るだけでは伝わりきれない何か」を伝えるためのツールとして「指導案」は必要だし、伝わってるかを確かめるために、念密に指導案の検討を進めていく必要があるのではと感じた。自分の思いを吐露するだけではなく、参観者に「伝える」という位置付けの指導案。だからもっと丁寧にするなら、本当は指導案だけでなく、その単元の授業で使ったワークシートや、その授業に至るまでの生徒の学びのプロセスをたどって示すことも必要なのだ。一時間で完結しない、学習者の自由度が高い単元ならなおさらだ。
指導案を見なくても参観者に授業の意図が伝わるものが本当は一番なんだろうが、授業ってそんなに単純なものばかりではない。

辞書の語釈について考える授業は何を提起していたのか

参観した授業から授業考えたこと。
授業の構成自体はまだまだ練り上げる要素は多いけど、提起している問題はなかなか興味ぶかい。

◆授業のおもな内容
1 身近な言葉の語釈を考えてみる
「旅」とか「友だち」とか「思い出」など。
「あなたの言葉を辞書に載せよう」という大辞泉のサイトがある

2、辞書の言葉について考える
大辞泉や三省堂国語辞典では、読者参加型の辞書づくりに編集をシフトさせていっているそうだ。
その試みのおもしろさや意義について考える。

◆この授業が提起しているもの
1、「辞書上の意味」を考えさせようとした
学習指導要領の指導事項には「辞書上の意味と文脈上の意味との関係に注意し、語感を磨くこと」という文言がある。これはほとんどの場合、小説などを読んだときに出会った見知らぬ言葉を辞書で調べ、辞書上の意味を文脈に沿って書き換えていくという学習が行われる。
しかし、今回の授業は何かの文脈が先にあるのではなく、まず「辞書上の意味」そのものを考えさせようとしたところに特徴があり、提案性があるのだ。
「辞書上の意味」ってどうやって書くべきなんだろう、そもそもなんのためにあるんだろうか。
言葉の意味は、そもそも文脈から離れてはあり得ない。Aくんの感じる「かわいい」とBさんがつぶやく「かわいい」の意味は同じではない。しかし、いくつかの「かわいい」の文脈を集めていくとそこにおぼろげながら「かわいい」の「辞書上の意味」が浮かび上がってくる。どんな文脈でも「この意味として使われているとは言えそうだな」という「語釈」がにじみ出てくる。(言語学では「ラング」「パロール」というらしいことを大学のときに習ったけど、「パロール」から「ラング」を取り出していく作業だと思っていいのか?)

2、言葉の意味のフローとストック
といいながら、「辞書上の意味」が書かれている「辞書」そのものも大きくかわりつつある。大辞泉などの辞書では、インターネットによって、自由に語釈を書き込んで読者を参加させ、辞書の語釈をを豊かにしていこうという取り組みを進めているのだ。まるで掲示板のような辞書。
初めから「ラング」が決まっているものとしてトップダウンに読者にあたえるのではなく、ボトムアップに作り上げていく試み。しかも辞書の編集者だけでなく、様々な「文脈」を持つ一読者もそれに関わることができる。
「文脈を持つ言葉」はTwitterの「つぶやき」のようにあっという間に消えていき、移り変わっていく「フロー(流動的)」の言葉だ。しかし辞書は「ストック(不変・不易)」を志向する。言葉の意味のフローとストックのせめぎ合いを、具体的な辞書の編集のプロセスを知ることで、学習者は目の当たりにすることになる。
そういう観点で、言葉の意味のフローとストックを考える機会にすることができる。

3、編集の参加性と権威性
そもそも、読者は辞書に何を求めているのだろうか?
それをひと言で言うと「辞書に載っている正しい意味」という安心感、信頼なのではないか。もっというと「辞書の権威」にすがっているのではないか。
「辞書に載っている」といえば、その語釈は規範となり、正しいものとして安心して許容することができる。しかし「隣のA君が言っていたよ」というのでは当てにならない。
辞書は「権威性」の高いメディアなのだ。
しかし、最近は百科事典の世界ではご存じのようにWikipediaによってだれでも百科事典作りに参加できるようになった。
誰でも書き込めるという「参加性」が高まると「権威性」は薄まる。
国語学者でしか書けないという「参加性」が低くなると「権威性」は高まる。
もし辞書が「参加性」を高めた場合、「権威性」はどうやって担保していくのか、どうすれば信頼できる語釈になるのか、それこそが辞書の編集ポリシーが問われることになる。
そういう観点で、編集の権威性、参加性を考えさせてもよかった。

4、実は「編集方針」を考えていたのだ
授業のなかで最も欠けていた何か?
それは「辞書を読む読者」の存在だ。
世の中にはさまざまな辞書が作られている。
これは裏を返せば、それだけ多様な読者のニーズがあると言うことなのだ。
たとえば、「日本国語大辞典」や「広辞苑」のようなごっつい辞書を使いたい時もいれば、「新明解国語辞典」のほうが必要なときだってある。誰にとっても「日国」が必要なのではなく「日国」が必要な時があり、それを必要とする読者がいるから、マーケットが成立しているのだ。
だから、「こういう読者のニーズがあるからこういう辞書が必要だ」、「こういう辞書があればこういうニーズを満たす」、「この語釈は誰々向きだ」、という議論ができればさらに深まりがあったのではないかと思う。
「自分のお気に入りの語釈」を考えることは楽しい活動だし、言葉の感性を磨くためには有効には違いないんだけど、もっと「辞書」というメディアの「編集」に目を向けさせる、作り手と読み手との「あいだ」に存在する「辞書」の微妙な立ち位置のようなものをもっと考えさせてもよかったのではないだろうか。
そしてこのことについて考えさせることは、いうまでもなく「辞書」だけでなく、全てのメディアの成り立ちを考えさせるときにも有効な「汎用的な資質能力」の一つとなっていくのではないか。

「ワークショップを作るワークショップ」のうらばなし

公開研の授業「ワークショップをつくるワークショップ」について、忘れないうちにいくつか書き留めておこうと思う。

◆授業のそもそもの発想
この授業は「コミュニケーション・デザイン科」の授業。
そもそも、コミュニケーションはどこに向かうべきなんだろう、何のためのコミュニケーションなんだろう。情報を効率よく伝えたり、相手を意のままに動かそうとする力が本当にコミュニケーションの力なんだろうか。そんなレベルのものでいいのだろうか。
「コミュニケーション」の語源は「分かち合う」にあるというのを聞いたことがある。(諸説あるらしいが)本当のコミュニケーションって、相手を意のままに動かしたり、情報を一方通行に流し込んだりするものではなくて「一緒に考えようよ」とか「これやってみよう」という共有とか共感がともなうものなのではないか。
中学生のコミュニケーションスタイルもそうだ。優等生ほど、しらじらしい「未成年の主張」の演説会プレゼンテーションになってしまう。本当にそれが優れたコミュニケーションなんだろうか。育てたい力なんだろうか。それだけでいいんだろうか。
昨今、一方通行的なコミュニケーションがなんだか増えてきているような気もする。
自分の主張を一方的に相手に押しつけたり、炎上させるようにのべつまくなしにまき散らしたり。必要なコミュニケーションって、一体何なのか? 
これからのコミュニケーションで必要なのは、相手をねじ伏せるのではなく「一緒に考えようよ」というものであって欲しい。それを探究するのが「コミュニケーション・デザイン」なんじゃないか。
そんなふうに、求めたいコミュニケーションのカタチがだんだんとはっきりとしてきた。
では、そのようなコミュニケーションが埋め込まれた活動のモデルって社会のどこにあるんだろう、それは何なんだろう。そう考えたときに探し出した答えが「ワークショップ」だった。
(実は、この夏休みに、私自身が先生向けのワークショップを作って実践したんだけど、それがことのほか楽しく貴重な経験になった。ワークショップデザインを自分でやってみて楽しかったという経験も単元の発想にはある)

とりあえず、以下の文献を読み返した。
『協同と表現のワークショップ』

『ワークショップデザイン論』

『市民の日本語』、これはまちづくりなどのワークショップを精力的に取り組まれていた加藤さんの遺作。これからの日本に必要な「市民の日本語」としてのコミュニケーションについて次のようなことが述べている。加藤さんがファシリテーターとして取り組んだワークショップでのさまざまな「言葉」やエピソードがとりあげられていて、国語教師としてずきずきと刺さってくる一冊だ。
「声が大きくて、理路整然と話ができる人だけではなく、声が小さくても、まとまっていなくても重要なことばを発する人もいる。多数決だけでは、貴重なことばを練り合わせていくことは難しい。過去の美しいことばを美しく朗読しても、それは市民のことばにはなりにくい。新しい社会を作り出していくためには、新しいコミュニケーション方法が生み出されなければならない。」

近年、まちづくりなどのコミュニティーの問題を考えるワークショップや、ものづくりなどの制作系、そしてダンスや演劇などの表現活動でワークショップの手法が取り入れられてきているそうだ。
そこでのワークショップの特徴はいくつかある。
・お客さんではなく主体的な「参加者」「参画者」であること。
・具体的な活動、しかも楽しいものが含まれていること。
・この活動を通して「気づき」が得られるものであること。

私なりに、ワークショップの定義をつぎのようにした。
「参加、体験を通して『気づき』が得られる活動」である、と。

ワークショップに特定のフォーマットはない。(むしろ既存の学び方をくずしていく「まなびほぐし(アンラーン)」がその本質だという人もいる)しかしそれでは中学生は途方に暮れてしまうので、取りあえず『ワークショップデザイン論』を参考に、流れの例を提示した。


こうして、「ワークショップ」に焦点を絞って授業開発をすることに決意した。
次はこれをどう授業にしていくかだ。

◆ワークショップを考えることはコミュニケーションを問い直すこと
ワークショップづくり、ちょっとかっこよく「ワークショップデザイン」は「分かち合う」ためのコミュニケーションを成り立たせるために必要な要素がぎっしりと含まれている。
総合などの学習でプレゼンは行うことが多い。しかし、プレゼンのような伝達手段と、ワークショップのようなコミュニケーションのデザインは大きく異なる。
たとえば、ワークショップでは次のような要素を考えなければならない。
空間……座席配置、部屋の広さ、レイアウト
時間……無理のない活動の流れ(導入・活動・ふりかえり)
伝え方……相手の立場に立った説明、行動や気づきを促すファシリテート
道具………活動を構成するためのツールの検討
などなど。
だから、ワークショップはプレゼンや研究発表の延長線上ではなく、全く違う次元で相手と共有するための方法や関わり方を考えなければならない。二次元のパワポから、時間、空間を伴った三次元の活動デザインへと意識を変えていかなければならない。

ワークショップを作ることは、効果的な学びの場、コミュニケーションのあり方を子どもたち自身が問い直すことになる。学びは与えられるものでも、一方的に与えるものでもなく、参加者が自分で生み出していくもの。そしてその気になれば、そんな学びの場を自分たちでも作ることができる。それがワークショップづくりの醍醐味だ。
もっと言えば、ワークショップづくりに目覚めてしまうと、普段の授業が何でつまらないかも見破ることができるようになってしまう。空間への配慮、活動や時間への配慮、インストラクションの配慮など……。そこまでは、さすがに子どもたちには言わなかったけど……。

◆ワークショップのテーマをどうする?
子どもたちがワークショップをするとして、そのテーマや場の設定をどうするか?
ワークショップの相手は、本当は下級生とか外部の人とかがいいんだろうけど、たった7時間でそんなに大がかりなことができない。
結局、同じ学年の生徒どうして、ワークショップを作り、お客さんとして体験してもらうことにした。
これには裏テーマもある。中三の今の時期のかれらが取り組むことの意義だ。
本校は中高一貫のように見えて、実は完全には直結していない。多くの生徒はそのまま系列校に進学できるが、そうでなく、男女とも外部への受験を余儀なくされる生徒も一定の割合存在する。(内部入試は11月に行われ、それでほぼ帰趨を決することになる)だから、実はクラス、学年内の同級生はライバルでもあるのだ。決してクラスで「みんなで頑張って合格しよう」とは口が裂けても言えない状況。ちょっと考えれば想像できないようなプレッシャーに負われている状況であることがわかるだろう。そんな受験生たちが、この今の時期に、ひとときでも協働で何かを作り上げる経験をする。そのこと自体にとてつもない価値があるような気がする。
もう一つは、学習者にとって最も切実なテーマとは何かという問いだ。
いわゆる学習発表会なら、こちらが具体的なテーマを示して、それに沿って調べてきて、発表して……という流れになるだろう。しかし、そんなあてがわれたテーマで、学習者が本当に「共有」したい、ワークショップを作りたいと思えるようなテーマとなるだろうかという不安があった。
結局、彼らにとって一番の問題である、「受験生の心身の健康」に焦点を当てた。
これは、前任校での「ヘルスプロモーティングスクール」(健康的な生活を、自分たちで作り上げていくことのできる力を育成する学校)の実践に触れたのがヒントになった。
受験生としての彼らは、想像以上のプレッシャーに追い込まれている。休日になれば昼と夜の模試のダブルヘッダーも当たり前、学校に行けば競争に追い込まれる。不規則な生活や孤立した日常など、心身に与えるダメージは計り知れないだろう。
そういう自分たちのQOL(生活の質)そのものに目を向け、高めていく。しかも自分たちで助け合ってその課題を解決していく。それがいいんじゃないかと思ったのだ。

こうして、単元の課題がまとまった。
「私たちのQOLを向上させるためのワークショップを運営する」

◆授業の流れ
授業は次のような流れで進められた。
3学年4クラスのうち、2クラス合同で7時間で実施。(他の2クラスは他のコミュニケーション・デザイン科の授業を同時間に行っていて、7時間実施したら入れ替わる)
この授業に取り組むスタッフは、学年の担任および副担任の4人。

1時間目 課題をつかむ
まず、QOLという考え方、ワークショップとはなんぞやというところを講義形式で伝えた。

もちろん、これだけで「ワークショップ」についてイメージが持てるわけではないので、ここで実際にワークショップを演じて見せた。演示をしたのは学年スタッフの他の先生。ワークショップを運営する経験もあり、手慣れているので短時間でポイントを押さえた楽しいワークショップを披露することができた。

2時間目 課題を絞る
このあと、QOLについて具体的にブレーンストーミングで課題を出し合い、さらにそれらをKJ法でまとめ、班で取り組みたいワークショップのテーマを決めた。
そして現時点でのワークショップ企画書を次のフォーマットでまとめた。
2時間でここまでまとめるのが精一杯。
次の授業は秋休みを挟んでいたので、この間に各自で書籍やWebなどで調べてくるように宿題を出した。学校司書は、この授業がスタートする前にはすでに本をかき集め、この授業用の資料コーナーを校舎の一角に作ってくださっていた。
調べ学習では、必ず複数の情報に当たるように、また出典を示すように指示し、それらを明記したワークシートを配布した。

◆3・4時間目 監修者(スーパーバイザー)にワークショップの相談をする。
子どもたちの発想だけではどうしても浅いものとなってしまうので、ここでゲストティーチャーを教室に招き、ワークショップの内容についての相談をする機会を設けた。
授業に協力したのは次の三人
・医師&栄養学の研究をしている大学の先生
・認知心理学を研究している大学の先生
・起業家を応援する会社を経営している社長
この三名のうち、自分が探究するテーマに近い先生を選び、自分たちが調べたことやワークショップで取り上げたい内容についての相談を行った。
やはり、専門家に自分たちのテーマについて質問をすることは、学習者にとって大きなインパクトがあったようだ。ちょっとした思いつきのテーマでも、そのテーマにまつわる膨大な知の世界の蓄積がある、研究の厚みがある。探究してきた研究者たちがいる。それらを知ることで、自分たちが探究しようとするテーマの背後には大きな世界が広がっていることに気づかされたようだった。(実際にどの程度ワークショップに活かされたかはうーんだけど……)
これらのリサーチを経て、20分間のワークショップの活動案をまとめていった。

◆5時間目 ワークショップの準備を行う
本来の計画では、ここまでの4時間で準備を済ましておく予定だったが、とても時間が足りなかったので、一時間授業を増やして準備をする時間とした。ワークショップに必要な道具を用意したり、説明用のパワポを作ったりする活動を行った。

◆6時間目 ワークショップのリハーサルを行う
実際のワークショップを行う前に、リハーサルを行うことにした。
これは「よいワークショップとは何か」を考えさせるための取り組みだ。
子どもたちにとっては、リハーサルは「よいワークショップにする」という目的の活動である。しかし「よいワークショップ」にするためには「よいワークショップってこういうものだ」というイメージができていないといけない。リハーサルを行うことで、「ワークショップのよしあしを評価すること」に意識が向くようになる。「よいワークショップとは?」(よい「コミュニケーション・デザインとは?」と言い換えてもいいだろう)という問いが生まれること、それがこの授業の目的だ。つまり「ワークショップ」を運営側、参加者側の目からメタ認知する機会となるのだ。
そのようなメタ認知を促すための助言を次のように示した。



参加者を「モニター」として設定し、主催者は参加者から積極的に「聞き取り」をするという場になるようにリハーサルを設定した。
さらに、リハーサルをするために事前に、主催者側の意図と、モニターに聞きたいことをホワイトボードにまとめ、提示させるようにした。

たとえば、このグループは「こんなときDoする??」というテーマで、ややこしい人間関係のトラブルをロールプレイングするワークショップを作った。

二段目の、「QOL」と「CD科」と書かれていることは、それぞれQOLの観点からのねらい(人間関係のトラブルを起こさないよう)、コミュニケーション・デザインの観点からのワークショップのねらい(楽しく体験……)となっている。さらに下段には「モニターに聞きたいこと」と示している。
これはモニターからの聞き取りの際に、自由にフィードバックしてもらうだけだとやや不安なので、事前に質問事項を示した上でモニターに体験してもらうという意図がある。
「モニターに聞きたいこと」も、やはりQOLとCD科の観点に対応した質問事項に一応なっている(つもり)

というように、ワークショップのリハーサルにおいては、事前に自分たちで評価ポイントを設定、評価ポイントに沿ってモニターから聞き取りという流れで、ワークショップ運営のメタ認知を高めようとした。

◆リハーサルの授業を行ってみて
「言うのとやるのは大違い」「言うほど簡単ではない」というのが実際のところだ。
ワークショップだって、大人が作るようなものにどのくらい近づけたか比較すると、それは厳しいものとなるだろう。モニターからのフィードバックがどれだけ有益だったかも疑問だ。しかし、彼らなりに、プレゼンではないワークショップをイメージし、作り上げようとしていた。そのチャレンジに意味があると思いたい。
実際、授業後のふり返りには「よいワークショップ」についての気づきがたくさん書かれていた。

「よいワークショップとはどんなワークショップだと思いますか? そのために本番ではどうしていきたいですか?」についての生徒のコメント

◆お客さんをうまく誘導しながらも、お客さんに主体となってもらう学びの場だと思います。お客さんに主体となってもらおうとして学びが浅くなってしまったり、学びを深めてもらおうとするあまりお客さんが学ぶことに受け身となるだけになってしまうとあまり良いワークショップとは言えないと思うので、バランスが大切だと思います。
◆モニターが楽しくかつなにか学んで帰れるもの、ファシリテーターとモニターの間に意見交換などコミニュケーションがあるものだと思う。
◆いいワークショップとは、ファシリテーターとお客さんが等しく話したり、行動しつつ、お客さんだけでなく、ファシリテーターもたくさん気づきがあるワークショップだと思います。
◆お客さんがどうしたら楽しめるかのかを一番に考える。ワークショップをやる側も体験する側も同じテンションで温度差がなく、一緒に楽しめるワークショップにしていきたい。
◆きちんと計画が練られているもの。サプライズ(考えをくつがえすような)があるもの。教えるだけでなく、気づかせるもの。
◆相手に主権がある体験コーナー。楽しいもの。→一方的に発表して、体験しても何も言わせないものだと、プレゼンになってしまい楽しくない。
◆進行があいまいで、共感してもらうことができなかった。体験してもらうことが少なかったのも原因だったと思いました。雰囲気づくりを心がけたのですが、なかなか本番ではうまくいかなかった。
◆ロールプレイングをして、それが、やりっぱなしになってしまったので主催者側も意見を伝え、それをやった趣旨を説明するべきだと思いました。また、やってみてどうだったか意見を聞けると良いです。

つまり、「よいワークショップ」について
「わかっていて、できる」を最上級だとすると、
「わかっているけど、できない」をB
「わかっていないし、できていない」Cとすると、そのうちBくらいまでには、あと二時間の授業で到達させることができるのではないかと思う。

あとは、取り上げるワークショップの内容の質をどう高めていくかという問題がある。
やはり、たかだか3時間くらいでリサーチを済ますのはもったいなかった。あらかじめ決められた授業の制約上、仕方がないが、やはり総合的な学習の時間の活動とからめるなどして、全体で20時間くらいとって、もっと課題にどっぷりとつからせて、リサーチも十分にさせたものをワークショップとして取り組むべきなんだろう。その辺の浅さが露呈してしまったことは反省すべき点だ。

◆研究授業としてこの授業を取り上げてみて
授業をご覧いただいた方は気づいていると思うけど、この授業は「完成形」では決してない。「これはいい授業ですよ」「全国の学校でもそのままこれができますよ」というつもりはさらさらない。
自分の役割は、面白い授業を開発すること。研究授業では、その授業を「未完成」であってもたたき台、踏み台として提案し、「コミュニケーション・デザイン」のような現代的な課題に対する解決策を一歩進めるヒント(反面教師??)としてもらうことが使命だと思っている。(最後はちょっといいわけを……)

2015/10/18

「よく分からないけど、なんかいい」っていう嗅覚を大切にしたい

先日の、学術出版の編集者の方々とお話をして印象に残ったこと。
編集者の方は、自分が売り出そうとする本の内容を必ずしも理解をしているわけではないそうだ。(本の中身を理解できなくても売ろうとするというのが驚きだ。)でも、「何かこれは良さそう」という嗅覚は働くのだという。
この嗅覚通りに出版されて高い評価を得られれば、それは無上の喜びとなるし、そうでなければ商売としては失敗ということになってしまう。学術書の場合は、必ずしも大衆受けして「売れる」ことは念頭に置いていない、だから、他の出版よりも、かなり繊細な嗅覚が必要となるのだろう。むしろその嗅覚を楽しんでいるともいえる。
「大御所に執筆を依頼してそこそこ売れる本を作ること」や、「はじめから内容が分かっているような本を作るのは面白くない」ともいう。自分の嗅覚で「何かいい」という感覚をかぎつけることが重要であり、それに編集者の矜恃があるようだ。
 
実践も、研究も、本来はそういうものなのだろう。一番大切なのは「何かこれはいい!」とか、「お宝が埋まっているんじゃないか?」いう嗅覚を大切にすること。
それが言葉でうまく説明できるとか、ましては評価できるかどうかということは置いておいて、その「何か」に向けてじりじりと迫っていく。トリュフをかぎつける犬のように? くんくんと迫っていくようなものが、本来は一番わくわくするのだ。

2015/10/17

誰にでも通用する「幸せ」はないと気づくということ〜コミュニケーション・デザイン科のキモとは何か?〜

昨日の授業で印象的なことをがあったので忘れないうちに書いておく。
それは今、うちのコミュニケーション・デザイン科(総合みたいな学習活動)で取り組んでいる「QOL向上大作戦」の中のひとこまだった。
この授業では各グループが、自分たちのQOL(Quality of  Life・生活の質)を向上するための様々な取り組みをすすめている。活動の最終的なゴールは「学年内でQOLを向上させるためのミニワークショップをグループで運営する」というものだ。
各グループがどんなワークショップを開催するか、活動内容についての限定はしなかったため、テーマには中学生のさまざなな願望が投影されていて面白い。

・勉強で集中するためには?
・エナジードリンクを作る
・短くても効率的に睡眠する方法
・食べてもやせる方法
・1000円を幸せに使う方法?
など。

昨日の授業では、それぞれのテーマについて、各グループで調べてきたことを更に深めるために、ゲストティーチャーをお呼びし、その人たちに自分たちの探求内容について相談をするという学習を行った。お呼びしたのは、ベンチャー企業を応援する会社を起業した経営者の方、医師(栄養学の研究も)、心理学の研究者の三人だ。
ゲストティーチャーへの相談を通して何を一番学んだのか、それは、自分たちの活動内容についての意味や価値についての気づきだ。この活動が「どんなQOLを向上しているのか、ということについての思考の深まりだ。
たとえば「1000円を幸せに使う方法」をワークショップで参加者に伝えたいという活動をするグループがある。中学生の彼らが考えた当初のアイディアは、「1000円で効率的に、安くてお得に買い物をする方法」のようなものだった。しかし、それを経営者をしているゲストティーチャーはこう突っ込みを入れる。「1000円をどう使えばその人にとってのQOLが上がるのかというのを考えないとね、」と。
たとえば、「お金が増えるのが幸せだ」と考える人にとっては、その1000円を利殖に回すだろう。「1000円は人のために使いたい」と考える人は、1000円を募金に使うとその人のQOLは向上する。「効率的に使いたい」という人は、安くていい品物を手に入れることで生活が豊かになると感じる。つまり、お金の使い道ひとつとっても、その人の価値観や生活が反映されていく。

他のグループ「食べてもやせるための方法」についてワークショップをしようとしているグループでは、医師のゲストティー-チャートのやりとりでこんな場面があった。医師が「やせることがどうして必要なの?」と突っ込むと、ある生徒は、「いやあ、私みたいな人は、やっぱりちょっとやせないといけないなと思っているんですけど……○○ちゃんだったら必要ないとは思うけど……(と、同じグループのスリムな子を見ながら笑って)」と。そこでゲストティーチャーが、「やせるということよりは、その人にとって必要な最低限の栄養素はとるということを考えないといけないよね。」と。
この例は、「QOL向上ワークショップ」の一番の本質に迫る場面であったと思う。つまり、「QOLを向上させる」と考える前提には、「人それぞれの幸せがある」ということを想像しなければいけないということだ。こうして言葉に出してみると実に当たり前のことなんだけど、「幸せが人それぞれである」ことを理解してはいても、それを行動として、実践に移すことができるかは、大きな隔たりがあるようだ。

概して、中学生の発想は「自分が幸せになると感じることは、他の人も幸せになるはず」という単純なものが多い。いや、ひょっとしたら「他の人も」という発想さえなく「自分がやりたいこと」をやろうとしているのが素朴なモチベーションになっているのかもれない。しかし、そのような独りよがりではなく、その「自分にとっての幸せ」を、他の人と共有できるようにするためには、他の人の多様な考えや生活や生き方のようなものへの想像力を持つことが必要となる。その多様な生き方への省察が「QOL向上」のキモでもあり、いま、学校で取り組もうとしている「コミュニケーション・デザイン」のキモであるということは間違いないだろう。
「自分にとっていいこと」が「他のひとにとってもいいこと」とは限らない。他の人にとっての「いいこと」を想像すること、想像しようとすること。または、「自分にとってよいこと」を他の人とも共有し、分かち合っていくこと。そのプロセスこそ「分かち合い」としての「コミュニケ―ション」なのだ。

2015/10/07

授業の「かたさ」を考える

ここ最近、授業の様子を形容する言葉「かたい」「やわらかい」が気になっている。
実習生の、あまり上手くいっていない授業を見ると例外なく「かたい」という印象をえる。
そう考えると、一面においては、教師の熟達とは「かたい」授業から「やわらかさ」を獲得していくプロセスと言えなくも無い。
「かたい授業」とは、一体何がどう「かたい」のか。

・表情がかたい
→能面のように感情を表に出さない。生徒の反応を受け止め、それに対して教師が反応できない。

・授業の展開がかたい
→決まり切ったことしかせずに、授業の流れに変化が乏しい。臨機応変な脱線などが無い。

・表現がかたい
→言葉遣いや所作に、子ども相手にはふさわしくないようなフォーマルさがあり、他人行儀に感じられる。

・扱う内容がかたい
→取り上げる内容やエピソードなどが、生徒の実感などとかけ離れた「教科書的」なものとなっている。(いわゆるサブカル的なものへの目配せが皆無である)

など。もっとあるかな。
こう考えると、「かたさ」にもさまざまな要素があり、そのなかでも「やわらかく」していく方がいい場合と「かたい」からこそいいものがあるのかもしれない。クラスによる雰囲気の違い、教師の身体性やキャラクターの差違などとも密接に関わるものであるはずだ。

2015/09/22

もう当分、この手の研究はやめたほうがいいです。

今から15〜20年くらい?前、ある日本でも有数の規模である国語教育の研究会でEメールの授業の実践提案があった。(Windows95だったかな)
で、その実践は、新卒ペーペーのわたしから見ても「なんじゃこりゃ」「こんなのでも提案になるの?」というような惨憺たるものだった。コンピュータ室に生徒を集めて、ひたすらメールを打つというものだったからだ。
事後の協議会では「これが国語教育か?」「なんでわざわざPCを?」「手書きのほうがずっと効率的だ」という集中砲火を浴びたことはいうまでもない。
で、締めの言葉で、指導助言者の偉いセンセイが「もう当分この手の(ICTの)研究はやめたほうがいい」とまで言い放たれたというオチが付く。以後、その研究団体ではICT活用系の国語教育の実践はほとんど出てきていない。
歴史に「もし」が可能なら、もしそのとき、国語教育の御大が「まだこの手の研究は未成熟だから、もう少しこの研究を進めていこう」と号令したなら、随分見通しが変わっただろうなあという思いを強くする。
国語教育の実践家たちにとって、Eメールとは手紙指導の一環であり、ワープロとは原稿用紙の代わりであるという認識から捨てきれなかったのだろう。Eメールで「しか」できないこと、ワープロだから「こそ」できる「何か」に着目して研究を進めていたら、日本の国語教育はもう少し風通しが良くなったのだろうと夢想している。どうせならそういう研究を私はしていきたい。

2015/08/11

見るアホウから踊るアホウへ

昨日懇親会でお話しした、徳島の先生のお話しが興味深かった。
昨年までは中学校の校長、今年からは、ある大学の教員をやっている。とてもパワフルな女性の先生で新しいものもいいと思ったらすぐ取り入れていく。
今年の提案では、校長として学校をあげて「ホワイトボードミーティング」に取り組んだ学活の実践を提案されていた。
その先生が、しみじみと語っていた。
「この研究会って、偉い先生の教えをみんなで学んでいくという会ではなくて、みんなが自分なりに学んできたこと、工夫してきたことを学び合うところがいいと思うんですよね。どうせなら、見るアホウじゃなくて、みんなで踊るアホウになる方が楽しいでしょ」と。
だから、どんな実践でも、いいものはいいと受け入れるし、そうでないものはダメと批判される。
若手が提案して、それを大御所が上から教えを垂れて指導するスタイルではない。よくある教師向けのセミナーのように、すごい先生の話を一方的に聞いて学ぶというものでもない。ワカモノも、ベテランも、小中学校の教員も、大学の教授も、全く同じ時間のワクのなかで、今まで学んできたことを提案しあい、協議しあう。
とかく流派や派閥にとらわれがちな国語教育において、こういうゆるい研究会は、地方レベルではあるのかもしれないけど、全国レベルで実践家や研究者が集まるのはほとんどないのではないか、そしてそれがどうして難しいのか、なかなかに考えさせられるお話しだった。

2015/08/10

能力をより繊細に定義することができるか

授業研究は、面白い授業、効果的な授業について探るのは当たり前のことなんだけれども、それをもっと突き詰めていくと、どんな能力を取り上げるべきかという能力論に行き着く。
例えば「聞く力」について授業で取り上げるとして、それにはどんな能力があるか、ひとことで「聞く力」といっても、その中には無数の能力が埋め込まれているはずだ。
それの具体を一つ一つ取りだし、学習者にどの能力がついていて、どれが足りていないのか、「聞く力」のどんな系統が考えられるのかを繊細に捉えられているだろうか。こういう能力論に対する分析、考察は、系統主義だろうと、経験主義だろうと、どちらのスタンスに立つにせよ、およそ授業を考えていく際に避けることのできない不可欠な要素だ。
「学習指導要領に書いてあるから」も一つの根拠にはなりうるけど、それだけでは目の前の学習者をみとることはとうていできない。それでも学習指導要領はかなりよく書けているから(個人であれほどの系統性を立ててカリキュラムを作れる研究者はいないだろう)、それを参考にしつつも、よりかみ砕いて、より繊細に、授業ごとにカスタマイズしていくことが重要なのだろう。

2015/08/05

会話分析の知見から「きくこと」を捉え直す

 聞き手の力、質問の力とは何なのか。これまでぼんやりと考え続けてきた。聴衆に向かって一方的に話すプレゼンのような独話と、話し手と聞き手が質疑応答をしあう、やりとりのある対話的活動とは何かが違うようだ。そこには、話し手、聞き手の構えが本質的に異なるのではないか。
 調べていくうちに、社会学の領域では会話分析、さらにそこから発展したエスノメソドロジーという学問領域があるというのを知った。エスノメソドロジーとは人々(エスノ)が暗黙のうちに従っているルールや規範などの方法(メソッド)を記述する学問のことをいう。会話分析では、人と人との会話のやりとりに焦点を当て、会話に潜む目に見えないルールの存在を次々と明らかにしていっている。この会話分析の知見から、授業改善へのヒントを得ることができるかもしれない。

会話分析の入門書としては以下の三冊がおすすめ。






「会話の順番取りシステム」と聞き手の価値
 会話分析が明らかにした基本的な会話のルールに「一度に話せるのは一人」というものがある。考えてみれば当然のことだ。どんなに大勢でも、聖徳太子のような人が相手でない限り、話す人は一人だけだ。だから会話とは「一人の話し手と、一人または複数の聞き手が、何度も入れ替わる発話のやりとり」であると定義することができる。そしてその素朴な発見から、会話分析の研究が大きく進んでいくことになる。それは「話し手がいつ交代できるかというタイミング(完了点)のルール」と、「話し手が交替するときに、次に誰が話すか決めるルール(会話の順番取りシステム)」についての知見である。(H.サックス)

会話の順番取りシステム(次に話す人はどのようにして決まるか?)

A 現在の話し手が次の話し手を選べば、その選ばれた人に話す権利と義務があり、順番がかわる。

B 現在の話し手が次の話し手を選ばなかったら、最初に話し出した人が話す権利があり、順番がかわる。

C AでもBでもない場合は、現在の話し手がそのまま話を続けることができる。


 このように、自由な会話の中では、発言する順番は上記の見えないルールが存在していることが明らかになっている。この場合の「次に話す人を選ぶ」というのは、普段の生活では、必ずしも具体的に指名をしたり、挙手をさせたりするわけではない。日常では、指名や挙手の代わりに、話し手や聞き手の目配せやうなずき、身体の向きといった微細な身振りが順番交代の合図として機能している。
この「会話の順番取りシステム」の知見として重要なのは、会話は、誰かが一方的に話したり、他の人が聞いたりする行為であるととらえるのではなく、双方が話し手(聞き手)となる可能性を常に持っているという前提があるということである。「会話という場」に参加する人々が、いつでも交換可能な存在として、発話のタイミングをはかっている「駆け引き」が行われていると捉えるということだ。
 会話分析における話し手と聞き手との関係ついて、西阪(2009)は「活動の空間的および連鎖的な組織: 話し手と聞き手の相互行為再考」『認知科学』16-1: 65-77.」のなかで、

 「会話分析」の伝統においては、相互行為における発言の組織が、話し手の一方的な決断にもとづくのではなく、つねに聞き手との協働のもとで成し遂げられること、このことが当初よりその主張の中心にある。

とのべ、具体的に、会話における聞き手の役割を次のように述べている。

 現在の話し手が、次の話し手の選択を行っていない場合、現在の順番の実際の終了は、いずれかの聞き手が、その可能な完了点において自ら話し始めるかどうかにかかっている。つまり、現在の発言順番がどのような大きさとなるかは、しばしば聞き手の出方に依存している。
 (中略)
 あるいは、可能な完了点(筆者注 会話が終わりそうなタイミング)において、聞き手はあえて「順番を取るのを控えること」をすることがある。例えば、現在の発言が可能な完了点にいたったとき、聞き手は「ん」とか「ええ」とだけ言うことがある。そうすることで、一方で、自分が順番を取ってもよい場所がいま出現しているという理解を明らかにしつつ、他方で、その場所で実質的な順番を取ることなく、順番交替の機会をあえてやり過ごす。こうして現在の話し手はさらに発言し続けるよう、いわば促される。だから、可能な完了点を超えて発言が続くという事実も、聞き手との協働の産物でありうる。

 このように、会話分析の立場から「聞き手」の役割をとらえると、そこに「話し手」を支える「聞き手」の能動的な存在を再確認することができる。「聞き手」はいつでも「話し手」に交代しうる、「待機する」存在であった。それは裏を返せば「聞き手」の沈黙は「黙って行儀良く聞いている」というだけではなく、「あなたが話し続けていいですよ」「あなたに話す権利を委譲しますよ」という承認や支持、促進のメッセージとしても機能することも示す。これは、一方的に話し、それを一方的にきくスピーチなどの「独話」とは大きく異なる対話の特徴なのではないか。(より本質的には「スピーチ」も聞き手との対話なのだろうが) 聞き手が話し手と場を共有すること、そこで聞き手として「待っている」こと。話し手の話を「期待」しながら聞き、いつでも聞き手がその会話に介入しうる、「待機する」存在の呈示そのものが、「話し手」の自律と責任を促す。その両者の駆け引きの緊張感こそが「話しがい」のある関係性となっていくのではないか。会話における「聞き手」とは、このように会話という相互行為の場において「待機」し「期待」して、引き出されていく話し手の語りを「待つ」人であるということができる。

鷲田清一も「聴く」「待つ」ことの価値について論述している





②生き生きとした対話を引き出す「隣接ペア」

もう一つ、会話分析が明らかにした重要な知見は、どのような言語であっても、会話のやりとりには連鎖的につながるパターン(「隣接ペア」という)が存在するというものだ。例えば、目の前にいる人が「こんにちは!」と挨拶をしてくれば、見知らぬ人とでも反射的に挨拶を返さなければと感じるだろう。挨拶のような決まり文句は「隣接ペア」の分かりやすい例であるが、それだけに限らず、我々の会話のなかには、依頼ー受諾、提案—承認、質問—応答、激励—感謝などの「投げかけ—応答」の連鎖的なパターンがあり、その隣接ペアのパターン、ルールに従いながら会話をしていることが明らかになっている。
 たとえば、「ただいま」と言えば、「お帰りなさい」とこたえる。この「お帰りなさい」という言葉(第二発話)は、「ただいま」という発話(第一発話)によって引き出された言葉である。投げかけられる第一発話によって、第二発話はあらかじめ規定されている。その隣接ペアのルールをあえて破って会話をしていくことは、実は容易なことではない。(相手に失礼に感じさせたり、ちぐはぐした会話になる)何気ない会話のなかにも「隣接ペア」というルールが厳然と存在している。 
隣接ペアのルール
 ①2つの発話からなる。       
(例「ただいま」(第1)—「おかえりなさい」(第2)
 ②それぞれの発話は隣り合っている。
 (隣り合う=連続して発話される)
 ③第1発話と第2発話の話者は異なる。
 ④第1発話の次に第2発話が来る。
 ⑤第2発話は、第1発話の影響を強く受ける。
この知見によって我々が学ぶことができるのは、会話には、お互いが自由に、好きなように発言をしているように見えて、その中には無数の「隣接ペア」のような「投げかけ—応答」のフォーマットがあるということだ。これを対話学習に活用できないだろうか。
 しばしば教室での「交流」が、順に自分の考えを述べ合うというような、情報の報告会に終始するのは、そこに生き生きとした対話(話し手と聞き手とが相互にやりとりし合う)が存在しないからではないか。
 生き生きとした対話、相互作用の場とするためには、「投げかけー応答」などの「隣接ペア」の活用が効果的である。たとえば、意見を順に報告し合う「独話」スタイルの交流から、「質疑—応答」「提案—承認」「勧誘—受諾」のような「隣接ペア」の埋め込まれた「対話」スタイルへと意図的に変えていくのだ。
 意見や感想を一方的に伝えるよりも、「聞き手」からの依頼や質問をうけて、それに応じて「話し手」が語り出すスタイルにした方が話し手のモチベーションは高くなる。そして対話が引き出されていくものである。「聞き手」を一方的な情報の受け手とするのではなく、「話し手」との対話を促す存在へと変えていくために、やりとりを生み出す「隣接ペア」のフォーマットを意識的に活用することが有効である。

③「成員カテゴリー化装置」によってコミュニケーションをずらす
 最後に、会話分析から得られる知見として有益だと思われるものを一つ取り上げる。それは「成員カテゴリー化」という概念である。「成員カテゴリー化」とは、会話を通して話し手、聞き手の立ち位置が自然と浮かび上がってくる作用を指す。
 例えば、筆者は中年男性であり、夫であり、千葉県出身であり……というさまざまなカテゴリーに属する主体である。しかし、学校という制度的な空間の中で、15歳の少年と会話をする、そのやりとりの中において、筆者は「中学校教師」となり、15歳少年は「生徒」というカテゴリーに属することになる。「成員カテゴリー化装置」とはそのように、会話などの相互作用を通して立ち現れてくる立ち位置や役割をうながす暗黙のシステムを指す。この「成員カテゴリー化装置」には以下のルールが内包されている。

「成員カテゴリー化装置」の運用ルール
【経済規則】 ある人を特徴付けるには一つのカテゴリー集合で十分である。
【一貫性規則】同一の場面内であれば、ある集団に含まれる人がカテゴリー化される場合、最初の人に適応されたカテゴリー集合が以下の人にも適応される。
この運用ルールからわかるように、人とのコミュニケーションにおいては、そのコミュニケーションのやりとりを通じて、自ずとお互いの立ち位置や役割が一つに規定され、そしてその規定に沿って行動や会話が仕向けられるということである。
 重要なのは、そのような役割や立ち位置が、初めから決まっているわけではないということだ。人は、会話を通して、複数のカテゴリー(男性、夫、教師etc.)の中から、一つのシンプルな役割(中学校教師)に導かれていく。筆者が「教師」でいられるのは、社会的な身分だけでなく、より本質的には、生徒や同僚とのあいだで「教師らしく」会話し、振る舞っているからに他ならない。また、そのようなカテゴリーに属していることによって、状況や関係性に埋め込まれている固有のコミュニケーションの様式を、自然に身につけていくことになる。(教師らしく話せるようになってくる)
 さて、この「成員カテゴリー化」という概念を、学習にどのように活用していくことができるだろうか。
 「中学生」は、コミュニティーの中でさまざまな表情を見せる。学校の中では「生徒」として、家庭では「子ども」として、部活動では「先輩」としてetc.……それらの相互の関係性がコミュニケーションの質を、表現の幅を規定している。実社会では、教師は教師らしく、医師は医師、芸能レポーターは……それぞれが、それぞれの社会的な立場に応じたコミュニケーションの様式、スタイル(文体)を獲得し、活用している。
 中学生が豊かなコミュニケーションを学び、生み出すためには、「生徒」というカテゴリーをずらし、多様な関係性と、さまざまなコミュニケーションのスタイルを学ぶ場を与えることが効果的なのではないか。たとえば、擬似的ではあるが、生徒がニュースキャスターになってリポートしてみる、親と子の関係を演じてみるなど。このようにして「生徒」というカテゴリーをずらし、話し手、聞き手の関係性をずらしてみることによって、日常生活に埋め込まれたコミュニケーションの暗黙の前提を振りかえる契機となるのではないか。このような視点に立てば、「成員カテゴリー化装置」の概念を、授業改善のヒントとして活用することが可能となる。
 このように、会話分析の知見(会話の順番取り、隣接ペア、成員カテゴリー化装置)から、授業を開発するためのヒントとしていきたい。