和歌の学習は正直きつい。
何がきついって、いくつもの作品(教科書には20首程度採録されている)の解説を、ひたすらやらないといけないからだ。どうしても単調になる。
かといって、古典なので、生徒に任せっきりで活動させても、どこまで正確に理解させることができるかも不安だ。任せっきりでも不安、ひたすら説明し続けても寝てしまう。諸刃の剣だ。
そこで、苦肉の策だけれども、生徒に授業をさせてみることにした。
発表ではなく「授業」、「授業風プレゼン」といったほうがいいかな。
次の流れで行う予定。
1時間目
①和歌についての基本的な事項の確認。
これは一斉授業で、私が効率的に教えてしまう。
②教科書に掲載されている和歌のうち、三首を選んで感想を書く。
感想カードを用意し、それぞれの和歌ごとに感想を集める。
2・3時間目
①教科書に掲載されている和歌8首の疑問点をグループで出し合う。
脚注を読めば分かることではなく、しっかりと読み取ったり、イメージしないと分からないような疑問点を考えさせる。
グループで全ての和歌について疑問点を出し、疑問カードに記入する。
②8首をグループで分担し、授業案を考える。
1時間目で書いた感想カード、2時間目の①で書いた疑問カードを、和歌の作品ごとに分け、それぞれの和歌を分担したグループに渡す。
各グループでは、その感想や疑問を切り口に、授業プランを考える。
学校図書館の資料などを活用し「教材研究」をする。
②それぞれの作品ごとに「授業風プレゼン」を行う。
「授業風プレゼン」に必ず入れる内容
・和歌の音読(オプション:皆さんで音読をご一緒に!)
・クラスから出た感想の紹介
・疑問点とそれについての解説(オプション:抜き打ち指名も!)
・和歌の意味について
※なお、授業ではホワイトボードか電子黒板(iPadなどで撮った画面を拡大提示する)をつかえるように準備しておく。
こんな感じで「授業風プレゼン」をやらせてみようと思っている。
さて、どうなることだろうか。
2015/09/03
2015/06/18
つぶやくのか、つっこむのか ~授業の中の「生活言語」と「学習言語」~
ここ最近の関心は、授業の中にいかに生活言語を組み入れ、それを学習言語につないでいくかという課題がある。
実習生の授業でも、どこで生活言語が生かされ、そして学習言語へと転換されているのかを注意深く観察している。
昨日からの授業で、実習生は一つの試みをした。それは、文学作品を読んで感想を書き込む際に「突っ込みを入れるように書いてね」という助言のパターンと、「つぶやくつもりで書いてね」というパターンの二つを試してみたのだ。まさに迷ったときは仮説実験。
で、予想通りに、「つっこみ」と「つぶやき」とでは、明らかに表出される『感想」は異なるのだ。
「つっこみ」の場合は、「……なのかよ!」というような、登場人物の行動を対象化し、批評的なまなざしの感想になっていく。
いっぽう「つぶやく」ように書き込ませると、「……の言葉が分からない」という感触を書いたり、「……なのかも」というような、登場人物の心情にやや寄り添った「感想」が増えてくる。
ちょっとした切り口を変えてみるだけで、これほど表出される「感想」が違ってくることに、実習生と軽い驚きを感じた。
ちなみに、いうまでもなく「つっこみ」も「つぶやき」も、生徒にとっては生活言語に近い。一方「感想」は学習言語に属する語彙だろう。
「感想を書きましょう」という、いかにも学校的な「学習言語」をちょっと生活言語によらせるだけで、これだけの変化が生まれるのだ。
もう一つの課題は、
生活言語……日常的なコミュニケーションで用いられる言語
学習言語……授業でのやりとりや教科の学習で使われる言語
と、
社会で使われている言語との3つをどうつなげていくかという課題だ。
たとえば、学校でしか使われないような特殊な言葉(学校方言?)をどう教師はとらえていけばよいのか。
一方、学校ではなかなか触れない言葉でも、社会では一般的に使われる言葉がある。
たとえば今日の授業では「コンセプト」とか「差別化」という言葉を「教えた」。しかし、これらの言葉は学校ではほとんど使われない言葉でもある。それらは教えなくてもいいのか、教える(習得させる)べきなのか。
そのへんのジレンマに悩まされている。
実習生の授業でも、どこで生活言語が生かされ、そして学習言語へと転換されているのかを注意深く観察している。
昨日からの授業で、実習生は一つの試みをした。それは、文学作品を読んで感想を書き込む際に「突っ込みを入れるように書いてね」という助言のパターンと、「つぶやくつもりで書いてね」というパターンの二つを試してみたのだ。まさに迷ったときは仮説実験。
で、予想通りに、「つっこみ」と「つぶやき」とでは、明らかに表出される『感想」は異なるのだ。
「つっこみ」の場合は、「……なのかよ!」というような、登場人物の行動を対象化し、批評的なまなざしの感想になっていく。
いっぽう「つぶやく」ように書き込ませると、「……の言葉が分からない」という感触を書いたり、「……なのかも」というような、登場人物の心情にやや寄り添った「感想」が増えてくる。
ちょっとした切り口を変えてみるだけで、これほど表出される「感想」が違ってくることに、実習生と軽い驚きを感じた。
ちなみに、いうまでもなく「つっこみ」も「つぶやき」も、生徒にとっては生活言語に近い。一方「感想」は学習言語に属する語彙だろう。
「感想を書きましょう」という、いかにも学校的な「学習言語」をちょっと生活言語によらせるだけで、これだけの変化が生まれるのだ。
もう一つの課題は、
生活言語……日常的なコミュニケーションで用いられる言語
学習言語……授業でのやりとりや教科の学習で使われる言語
と、
社会で使われている言語との3つをどうつなげていくかという課題だ。
たとえば、学校でしか使われないような特殊な言葉(学校方言?)をどう教師はとらえていけばよいのか。
一方、学校ではなかなか触れない言葉でも、社会では一般的に使われる言葉がある。
たとえば今日の授業では「コンセプト」とか「差別化」という言葉を「教えた」。しかし、これらの言葉は学校ではほとんど使われない言葉でもある。それらは教えなくてもいいのか、教える(習得させる)べきなのか。
そのへんのジレンマに悩まされている。
生活言語と学習言語
実習生の授業2時間目。二人の実習生はそれぞれ文学教材を取り上げ、ゆるーくグループでディスカッションするスタイルの授業で展開している。
昨日の授業。グループディスカッションからのシェアリング。そこで、「これは新兵衛の死亡フラグが出て……」という生徒の発言が飛び出し、(私が)ひやひや?びっくりしてしまった。(菊池寛「形」)
しかしそこからの実習生のコメントがあざやかだった。
「……さんは、新兵衛が最後に死んでしまうという『伏線』をつかんだということですね」と。
ゆるーいディスカッションだと、生徒の話し合いは、限りなく日常の話し言葉に近づいてくる。つまりおしゃべりと見分けが付かなくなる。だから「死亡フラグ」とか「若侍ってイケメンだよね」という生活言語も飛び出してくる。
そういう生活言語を土台とした交流を、授業の中で実習生の二人は大切にしている。今日の授業でも、生徒がリラックスして、物語の世界で楽しんでいるのが良かったよね、と三人で振り返ったところだ。
「生活言語」によって表現される生徒のなまの気持ちをうまくすくい取って「学習言語」につなげようとしている実習生の姿勢に敬服させられた。
昨日の授業。グループディスカッションからのシェアリング。そこで、「これは新兵衛の死亡フラグが出て……」という生徒の発言が飛び出し、(私が)ひやひや?びっくりしてしまった。(菊池寛「形」)
しかしそこからの実習生のコメントがあざやかだった。
「……さんは、新兵衛が最後に死んでしまうという『伏線』をつかんだということですね」と。
ゆるーいディスカッションだと、生徒の話し合いは、限りなく日常の話し言葉に近づいてくる。つまりおしゃべりと見分けが付かなくなる。だから「死亡フラグ」とか「若侍ってイケメンだよね」という生活言語も飛び出してくる。
そういう生活言語を土台とした交流を、授業の中で実習生の二人は大切にしている。今日の授業でも、生徒がリラックスして、物語の世界で楽しんでいるのが良かったよね、と三人で振り返ったところだ。
「生活言語」によって表現される生徒のなまの気持ちをうまくすくい取って「学習言語」につなげようとしている実習生の姿勢に敬服させられた。
2015/05/18
実習生と文学的文章の教材研究をする
今日は放課後2人の実習生が来校し、来月から始まる実習の教材研究を一緒に行った。
取り上げる教材は「形」(菊池寛)と「風の唄」(あさのあつこ)の文学教材。
お互い下読みをしてきているので、雑感や印象を述べ合いつつ内容を確認していった。
一通り内容がつかめたあとで、この文章を授業として取り上げるための、素材研究の段階に入る。
大学生ならこれらの文章をなんとなくセンスで読めてしまっているんだけれども、それにはどのような方略を選択しているのか、それをあらためて言語化して取り出していく作業を行った。
その結果、上記二つの文章を読みときに、私たち三人は次のような方略を取り上げているということが明らかになった。
・場面の移り変わりに注意して読む。(回想シーンなど)
・登場人物の人間関係を押さえる。
・登場人物のキャラクター設定を考える(性格・能力・考えの傾向など)
・主人公と他の登場人物と対比してみる。
・カギとなる場面、クライマックスはどこになるか考える。
・印象的な場面や、キーワードとして頻出する言葉に着目する
・ものごとの因果関係でわかりにくいところを推測する。
・主人公の行動の動機をさぐる。
・視点(話者)をとらえる。視点の転換を考える。
・伏線とその回収の対応関係を考える。
・登場人物の心情の変化とそのきっかけに着目する。
・心情をつかむ(モノローグ・態度などから)
・言葉の持つイメージ、象徴性・暗示・隠喩の示すものを考える
・情景描写の効果について考える
・文体の特徴、印象について考える
たった二つの文章でも、実にこれだけ(もっとある?)の方略を使って、文学的文章を読み取ろうとしていることがわかる。
もちろん、授業では、これらの方略の全てをしらみつぶしに取り上げ、教える必要はない。それでは授業がくどすぎてしまう。
そうではなくて、この文章の、この「ツボ」を押すと、読みが一気に深まるようなポイントを考え、焦点化させることが必要だ。その「ツボ」につられて、他の方略も自然と引き出されていくような活動にしていこうということになった。
その「ツボ」がなんなのか、どういうアプローチをしていけばいいかを考えるのは、次回の打ち合わせで。それまでに、これらの方略を活用しながら読むことのできる言語活動を考えてくるように宿題としてもらった。
それにしても、ある程度文章が読めるようになった段階の学習者なら、このように読む方略を言語化して取り出すのは、シンプルなようでなかなか効果的な学習になるかもしれないと思った。(もっとも、それができないから苦労するのだけれども)
取り上げる教材は「形」(菊池寛)と「風の唄」(あさのあつこ)の文学教材。
お互い下読みをしてきているので、雑感や印象を述べ合いつつ内容を確認していった。
一通り内容がつかめたあとで、この文章を授業として取り上げるための、素材研究の段階に入る。
大学生ならこれらの文章をなんとなくセンスで読めてしまっているんだけれども、それにはどのような方略を選択しているのか、それをあらためて言語化して取り出していく作業を行った。
その結果、上記二つの文章を読みときに、私たち三人は次のような方略を取り上げているということが明らかになった。
・場面の移り変わりに注意して読む。(回想シーンなど)
・登場人物の人間関係を押さえる。
・登場人物のキャラクター設定を考える(性格・能力・考えの傾向など)
・主人公と他の登場人物と対比してみる。
・カギとなる場面、クライマックスはどこになるか考える。
・印象的な場面や、キーワードとして頻出する言葉に着目する
・ものごとの因果関係でわかりにくいところを推測する。
・主人公の行動の動機をさぐる。
・視点(話者)をとらえる。視点の転換を考える。
・伏線とその回収の対応関係を考える。
・登場人物の心情の変化とそのきっかけに着目する。
・心情をつかむ(モノローグ・態度などから)
・言葉の持つイメージ、象徴性・暗示・隠喩の示すものを考える
・情景描写の効果について考える
・文体の特徴、印象について考える
たった二つの文章でも、実にこれだけ(もっとある?)の方略を使って、文学的文章を読み取ろうとしていることがわかる。
もちろん、授業では、これらの方略の全てをしらみつぶしに取り上げ、教える必要はない。それでは授業がくどすぎてしまう。
そうではなくて、この文章の、この「ツボ」を押すと、読みが一気に深まるようなポイントを考え、焦点化させることが必要だ。その「ツボ」につられて、他の方略も自然と引き出されていくような活動にしていこうということになった。
その「ツボ」がなんなのか、どういうアプローチをしていけばいいかを考えるのは、次回の打ち合わせで。それまでに、これらの方略を活用しながら読むことのできる言語活動を考えてくるように宿題としてもらった。
それにしても、ある程度文章が読めるようになった段階の学習者なら、このように読む方略を言語化して取り出すのは、シンプルなようでなかなか効果的な学習になるかもしれないと思った。(もっとも、それができないから苦労するのだけれども)
2015/05/14
アクティブラーニングな俳句学習〜「改悪例」で俳句鑑賞〜
以前から注目している詩歌鑑賞の手法で「改悪例を作る」というものがある。
「改悪例」の元ネタは、穂村弘さんに関連するブログで発見した
元の作品の魅力を台無しにしてしまうような「改悪例」を引き合いに出しつつ、それと比較してその作品の良さを表現する方法だ。
例えば、高浜虚子の名句
「春風や闘志いだきて丘に立つ」
だったら、
「春巻や豆腐いだきて丘に立つ」
といってみるように、あえて改悪例を引き合いに出して、元の句の良さを強調させていく。
ただでさえ取っつきにくい俳句の鑑賞学習を、「改悪例」というワンクッションを置くことで親しみやすいものになってくれるかもしれない。
ということで、早速授業をしてみた。
生徒には次のように四枚のスライドを紙で作ってもらう。
こんな感じで「改悪例」を作っていくことになる。
おおむね次のような思考の流れで作成していくことになる。
①俳句の意味、情景をつかむ。
②その俳句の「キモ」を探す。
③「キモ」を色々な言葉で言い換えて変化させてみる。
④③を元の俳句と比較して、どのように印象が変化したかを考える。
「改悪例」の作成は、俳句に苦手意識を持っている子ほど活躍できる楽しい活動となったようだ。
「改悪例」の活動の良さはいくつかあげられる。
・子どもは結構パロディーが好き。高い興味を示す。
・自然と俳句の「キモ」に近づいていき、元の作品や俳人のセンスに驚嘆できる。
・どんな子も活躍できる。どんな俳句も「改悪例」として許容できる。
・「よい」ことが「わるく」、「わるい」ことが「いい」と価値観が転倒している。(トランプゲーム「大富豪」の「革命」状態?)
・(本歌取りの効果)改悪として書き換えることで、優れた表現に馴染む。
・さらに、生徒が作った「改悪例」が必ずしも「悪く」なく、むしろ元の句よりも良くなる可能性に開かれている。元の句を越えてしまうこともあり得る。
などなど。
この学習の面白いのは、どんなに脱線しても最後はちゃんと俳句の「キモ」に迫ってくるということ。むしろ、無意識で「キモ」である表現を読み取れているからこそ、「改悪」で遊ぶことができるのだろう。そういう「キモ」に気づかせる手段として「改悪例」はなかなかの威力を発揮する。
俳句の表現の微妙なニュアンスをストレートに迫らせ、味わう学習を成立させるのは結構難しい。どうしても教師の解説中心で退屈な授業になる。俳句の鑑賞には取っつきづらいと思っている生徒が多いのは長年の悩みだった。
そんなときにふと思いついた「改悪例」の学習は、ちょっとしたゲーム感覚で、俳句の言葉の働きに気づくことができるなかなか使える学習活動になったと思う。
「改悪例」の元ネタは、穂村弘さんに関連するブログで発見した
元の作品の魅力を台無しにしてしまうような「改悪例」を引き合いに出しつつ、それと比較してその作品の良さを表現する方法だ。
例えば、高浜虚子の名句
「春風や闘志いだきて丘に立つ」
だったら、
「春巻や豆腐いだきて丘に立つ」
といってみるように、あえて改悪例を引き合いに出して、元の句の良さを強調させていく。
ただでさえ取っつきにくい俳句の鑑賞学習を、「改悪例」というワンクッションを置くことで親しみやすいものになってくれるかもしれない。
ということで、早速授業をしてみた。
生徒には次のように四枚のスライドを紙で作ってもらう。
1枚目
元の句を紹介。意味などを説明する。
2枚目
改悪例1
ちょっと言葉を変えてみる。
3枚目
改悪例2
やや大きく言葉を変えてみる。
4枚目
最後のこの俳句の「キモ」(魅力の中心)を説明。
こんな感じで「改悪例」を作っていくことになる。
おおむね次のような思考の流れで作成していくことになる。
①俳句の意味、情景をつかむ。
②その俳句の「キモ」を探す。
③「キモ」を色々な言葉で言い換えて変化させてみる。
④③を元の俳句と比較して、どのように印象が変化したかを考える。
ポイントは次の二つ。
・言葉の変化をなるべく小さくして、意味の変化を大きくさせる。
・元の俳句の良さが際立つ「改悪例」になるようにする。
さっそくグループで夢中になって取り組んでいった。
4枚のスライドを作成したら、その場でiPadでパチリ。
教室のプロジェクターでそれを投影してグループごとに発表を行っていく。
完成した改悪例は次の通り 。
手書きスライドの順番は、
元の俳句の説明
↓
改悪例1
↓
改悪例2
↓
この俳句の「キモ」
の順番です。
・言葉の変化をなるべく小さくして、意味の変化を大きくさせる。
・元の俳句の良さが際立つ「改悪例」になるようにする。
さっそくグループで夢中になって取り組んでいった。
4枚のスライドを作成したら、その場でiPadでパチリ。
教室のプロジェクターでそれを投影してグループごとに発表を行っていく。
完成した改悪例は次の通り 。
手書きスライドの順番は、
元の俳句の説明
↓
改悪例1
↓
改悪例2
↓
この俳句の「キモ」
の順番です。
「改悪例」の作成は、俳句に苦手意識を持っている子ほど活躍できる楽しい活動となったようだ。
「改悪例」の活動の良さはいくつかあげられる。
・子どもは結構パロディーが好き。高い興味を示す。
・自然と俳句の「キモ」に近づいていき、元の作品や俳人のセンスに驚嘆できる。
・どんな子も活躍できる。どんな俳句も「改悪例」として許容できる。
・「よい」ことが「わるく」、「わるい」ことが「いい」と価値観が転倒している。(トランプゲーム「大富豪」の「革命」状態?)
・(本歌取りの効果)改悪として書き換えることで、優れた表現に馴染む。
・さらに、生徒が作った「改悪例」が必ずしも「悪く」なく、むしろ元の句よりも良くなる可能性に開かれている。元の句を越えてしまうこともあり得る。
などなど。
この学習の面白いのは、どんなに脱線しても最後はちゃんと俳句の「キモ」に迫ってくるということ。むしろ、無意識で「キモ」である表現を読み取れているからこそ、「改悪」で遊ぶことができるのだろう。そういう「キモ」に気づかせる手段として「改悪例」はなかなかの威力を発揮する。
俳句の表現の微妙なニュアンスをストレートに迫らせ、味わう学習を成立させるのは結構難しい。どうしても教師の解説中心で退屈な授業になる。俳句の鑑賞には取っつきづらいと思っている生徒が多いのは長年の悩みだった。
そんなときにふと思いついた「改悪例」の学習は、ちょっとしたゲーム感覚で、俳句の言葉の働きに気づくことができるなかなか使える学習活動になったと思う。
登録:
投稿 (Atom)


















































