大学時代、「書くように話せ」とよく先生に言われた。
学生たる者、「やばい」「すごい」「ちょーサイコー!」ばっかりの感動語中心の薄っぺらい言葉ではいけない。書き言葉に使われるような硬質な言葉も、大学のディスカッションでは話し言葉トとして使いこなせないといけないということだった。その方が「意味の含有量」が増えると言うことなのだ。
ただ、書き言葉と違って話し言葉の場合、論理的に整理して話すことは難しい。
最後まで言い終わったときに、何が言いたかったのか自分でもよくわからないことがある。話が途中で脇道にそれたり、本筋と離れた付け足し部分が余分だったりすることがある。
そこで、こんなのはどうだろうか?
音声入力ソフトを使って、話し言葉を瞬時に書き言葉に書き換えて、ふりかえるトレーニング。
きっと、短く整理された文章、文がねじれず,最後まで着地している文章、滑舌よくはっきりわかりやすく言葉が届けられていれば、音声認識もスムーズだろう。
そういう学習にはどんな相乗効果があるのだろうか?
2014/03/11
2014/03/07
なぜ省察せずに言い訳ばかり言ってしまうか? ~「ふりかえり(省察)」と「いいわけ」の似て非なる関係~
「いいわけ」は「惰性」と「あきらめ」から生まれ、
「ふりかえり(省察)」は「工夫」と「チャレンジ」から生まれる。のではないかな?
イノベーションなきところ省察なし。省察なきところにイノベーションなし。
「ふりかえり(省察)」は「工夫」と「チャレンジ」から生まれる。のではないかな?
イノベーションなきところ省察なし。省察なきところにイノベーションなし。
2014/03/06
スタイルを交差させる授業研究
よく、実践者の個性を生かすために、それぞれの先生が自由気ままに題材を決め、授業をして見合ったりする。それでもいいんだろうけど、先生方のスタイルを際立たせるためには、むしろまったく同じ授業プランを複数の先生でやってみる方がよっぽど勉強になると思う。
スタイルとは「モチーフに対する一貫した変形」と言われる。同じ山や林を描いても、ルノアールとゴッホではまったく異なる。対象の切り取り方が異なるのだ。
授業もそれに似ている。まったく同じ題材でも、授業者によって味付けが異なるものだ。それがとても勉強になる。他人から良いところを盗むだけでなく、自分が無意識に形成してきたスタイルやこだわりにも自覚的にならざるを得ないからだ。
スタイルとは「モチーフに対する一貫した変形」と言われる。同じ山や林を描いても、ルノアールとゴッホではまったく異なる。対象の切り取り方が異なるのだ。
授業もそれに似ている。まったく同じ題材でも、授業者によって味付けが異なるものだ。それがとても勉強になる。他人から良いところを盗むだけでなく、自分が無意識に形成してきたスタイルやこだわりにも自覚的にならざるを得ないからだ。
2014/03/05
研究者と、現場の実践家の断絶を論ず~教育「研究」と教育「実践」が相容れな い理由~
教育現場でよく言われるのが「研究」と「実践」との断絶だ。
もっとわかりやすく言うと、
大学の研究者がやろうとしていることと、現場の教師が日々やっていることが、なんかズレているんだよね、と感じる感覚だ。
その「相容れなさ」の感覚はいったいどこから生まれるのだろうか?
ひと言で言ってしまうと
現場の教師は共通項をひたすら追い求め、
大学の研究者は、差異をひたすら追求する
という点にあるのではないか?
(一応断っておくが、大学の教員でも実践家はいるし、現場の教師にも研究者的なスタンスを取ることがあり得る。ようは立場ではなく機能の問題だ)
(私も含めて)現場の先生は、目の前の子どもを少しでも良くしようと、日々研修に励んでいる。
誰かが取り組んだ良い実践があればそれをまねしてみたり、
長年取り組んできた定番の実践や、得意な方法があればそれを(多少バージョンアップしつつも)何度も繰り返して取り組んでいく。
子どもを見る目も同様だ。自分の、過去のいろいろな子ども達と関わった経験を土台に、そこからある程度のパターンを導きだし、想定しつつ、目の前の子どもに向き合うことになる。
これらの「実践」の中心にあるのは「共通項」である。
うまくいった実践を同じように当てはめて、まねしたり、
過去の経験から、ある程度同じようなパターンになることを当てにして、子どもを見たり。
実践において「まねること」や、「くりかえすこと」は決して否定されない。それが子供にとってベストだと思えば、マネを恥じずに堂々と実践すれば良い。(それに、まねしようにも、その教師個人のキャラや子どもの実態が異なるので、全く同じようにすることは不可能だ)
「実践」を病気や怪我にたとえよう。
「実践」においては、怪我をした場合は長年使っている「赤チン」を塗ればいいわけだし、身体が冷えたら定番の「養命酒」を飲んでおけば良いのだ。
そうすればある程度は怪我も,体調も良くなっていく。
あえて「新薬」に手を出す必要なんて無い。そういうものだ。
一方、大学の研究者は、怪我や病気の時に「赤チン」や「養命酒」がベストだとは決して思わない。いや、思ってはいけない職業なのだ。「新薬」を生み出すためには。
常に現状を疑い、常に改善を目指し、常によりすぐれたもの、より新しいものを生み出そうというベクトルで「研究」は進められていく。現状肯定、追認は不可能だ。
それが、いわゆるひとつの「アカデミック」な世界というものなのだ。
だから、今まで取られてきたよい方法を、そのままなぞるようなものは「研究」の名に値しない。
ちょっとでも現状から「違い」を生み出し、少しでも「新奇性」をアピールすることが「研究者」たちの使命である。
「違い」や「新奇性」が「研究者」たちのコミュニティーでは幅をきかすようになる。
その研究のおかげで、教育が発展してきたことはある程度はあるだろう。
しかし、些末な差異を取り出し、新奇な流行を追い求める、およそ「実践者」の立場からみたら明後日の方向にいってしまっているマニアックな「研究」がそこにないとは言い切れない。
では「研究」と「実践」をつなぐためには、どんなことが必要なのだろうか?
とってもありきたりな結論だが、私は、「研究者」こそ、現場としっかりとつながり、「実践」から真摯に学ぶ姿勢が求められると思う。
優れた実践、優れた教師、優れた学校のもつ暗黙知を引き出し、それを多くの人が共有できる「理論」を導き出して欲しい。「研究者」の狭いコミュニティーで通用する理論ではなく、多くの「実践者」から評価され、受け入れられるようなものを生み出す必要があるのではないかと思う。
そして、実践家にも課題がある。前例踏襲ではなく、同じことの繰り返しばかりではなく、研究者や他の実践者からの方法や理論を積極的に学び、ある程度はリスクを取ってチャレンジしていく柔軟な姿勢は必要だろう。また、それ以上に、自分の身体を通して取り組まれる「実践」を、目の前の子ども達をとおして批判的に検証し、不断に更新していく姿勢を忘れないようにしたい。
もっとわかりやすく言うと、
大学の研究者がやろうとしていることと、現場の教師が日々やっていることが、なんかズレているんだよね、と感じる感覚だ。
その「相容れなさ」の感覚はいったいどこから生まれるのだろうか?
ひと言で言ってしまうと
現場の教師は共通項をひたすら追い求め、
大学の研究者は、差異をひたすら追求する
という点にあるのではないか?
(一応断っておくが、大学の教員でも実践家はいるし、現場の教師にも研究者的なスタンスを取ることがあり得る。ようは立場ではなく機能の問題だ)
(私も含めて)現場の先生は、目の前の子どもを少しでも良くしようと、日々研修に励んでいる。
誰かが取り組んだ良い実践があればそれをまねしてみたり、
長年取り組んできた定番の実践や、得意な方法があればそれを(多少バージョンアップしつつも)何度も繰り返して取り組んでいく。
子どもを見る目も同様だ。自分の、過去のいろいろな子ども達と関わった経験を土台に、そこからある程度のパターンを導きだし、想定しつつ、目の前の子どもに向き合うことになる。
これらの「実践」の中心にあるのは「共通項」である。
うまくいった実践を同じように当てはめて、まねしたり、
過去の経験から、ある程度同じようなパターンになることを当てにして、子どもを見たり。
実践において「まねること」や、「くりかえすこと」は決して否定されない。それが子供にとってベストだと思えば、マネを恥じずに堂々と実践すれば良い。(それに、まねしようにも、その教師個人のキャラや子どもの実態が異なるので、全く同じようにすることは不可能だ)
「実践」を病気や怪我にたとえよう。
「実践」においては、怪我をした場合は長年使っている「赤チン」を塗ればいいわけだし、身体が冷えたら定番の「養命酒」を飲んでおけば良いのだ。
そうすればある程度は怪我も,体調も良くなっていく。
あえて「新薬」に手を出す必要なんて無い。そういうものだ。
一方、大学の研究者は、怪我や病気の時に「赤チン」や「養命酒」がベストだとは決して思わない。いや、思ってはいけない職業なのだ。「新薬」を生み出すためには。
常に現状を疑い、常に改善を目指し、常によりすぐれたもの、より新しいものを生み出そうというベクトルで「研究」は進められていく。現状肯定、追認は不可能だ。
それが、いわゆるひとつの「アカデミック」な世界というものなのだ。
だから、今まで取られてきたよい方法を、そのままなぞるようなものは「研究」の名に値しない。
ちょっとでも現状から「違い」を生み出し、少しでも「新奇性」をアピールすることが「研究者」たちの使命である。
「違い」や「新奇性」が「研究者」たちのコミュニティーでは幅をきかすようになる。
その研究のおかげで、教育が発展してきたことはある程度はあるだろう。
しかし、些末な差異を取り出し、新奇な流行を追い求める、およそ「実践者」の立場からみたら明後日の方向にいってしまっているマニアックな「研究」がそこにないとは言い切れない。
では「研究」と「実践」をつなぐためには、どんなことが必要なのだろうか?
とってもありきたりな結論だが、私は、「研究者」こそ、現場としっかりとつながり、「実践」から真摯に学ぶ姿勢が求められると思う。
優れた実践、優れた教師、優れた学校のもつ暗黙知を引き出し、それを多くの人が共有できる「理論」を導き出して欲しい。「研究者」の狭いコミュニティーで通用する理論ではなく、多くの「実践者」から評価され、受け入れられるようなものを生み出す必要があるのではないかと思う。
そして、実践家にも課題がある。前例踏襲ではなく、同じことの繰り返しばかりではなく、研究者や他の実践者からの方法や理論を積極的に学び、ある程度はリスクを取ってチャレンジしていく柔軟な姿勢は必要だろう。また、それ以上に、自分の身体を通して取り組まれる「実践」を、目の前の子ども達をとおして批判的に検証し、不断に更新していく姿勢を忘れないようにしたい。
2014/03/02
論文は「問題の所在」が八割。
論文には、ふつう「問題の所在」と呼ばれる序論部分が存在する。
なぜそれが問題なのか?
それが今までどのように論じられてきたのか?
それらの先行研究と、自分が論じようとしていることの違いは何か?
など、問題にする意義、論じる価値を説明するのだ。
読み手と問題が共有され、共通の土台に立てられれば、その論文は半分以上は成功したものと言える。
が、論じるに足る問いを見出すこと、それをうまく組み立てて他者に説得することほど難しいことはない。
そもそも問題が曖昧なことがほとんどだ。
問題が存在しても、先行研究で、とっくに同じアプローチがなされている場合がある。
取り上げる問題が壮大すぎることに気づかず突進するドン・キホーテだったりすることもある。
そうして今日も私は悩まされるのである。
なぜそれが問題なのか?
それが今までどのように論じられてきたのか?
それらの先行研究と、自分が論じようとしていることの違いは何か?
など、問題にする意義、論じる価値を説明するのだ。
読み手と問題が共有され、共通の土台に立てられれば、その論文は半分以上は成功したものと言える。
が、論じるに足る問いを見出すこと、それをうまく組み立てて他者に説得することほど難しいことはない。
そもそも問題が曖昧なことがほとんどだ。
問題が存在しても、先行研究で、とっくに同じアプローチがなされている場合がある。
取り上げる問題が壮大すぎることに気づかず突進するドン・キホーテだったりすることもある。
そうして今日も私は悩まされるのである。
虚構との関わり方~人はなぜ「ものまね」に笑ってしまうか?~
人はなぜ「ものまね」とか「そっくり」なもの、フェイクに興味を持つのだろうか?
モノマネがなぜ笑いを生むのだろう?
完全な別物、オリジナルでは笑いは生まれない、そっくりに似せてある作り物を目の当たりにしたとき、そのギャップ、信じたくても信じられない、認知的不協和に耐えられなくなって笑ってしまうのだろう。
しかし、その「そっくり」も度を越せば不気味になる。「不気味の谷」はその認知的不協和の限界を示しているのだろう。
不気味の谷とは? 以下「デジタル大辞泉」より引用
モノマネがなぜ笑いを生むのだろう?
完全な別物、オリジナルでは笑いは生まれない、そっくりに似せてある作り物を目の当たりにしたとき、そのギャップ、信じたくても信じられない、認知的不協和に耐えられなくなって笑ってしまうのだろう。
しかし、その「そっくり」も度を越せば不気味になる。「不気味の谷」はその認知的不協和の限界を示しているのだろう。
不気味の谷とは? 以下「デジタル大辞泉」より引用
ぶきみ‐の‐たに 【不気味の谷】
人型ロボットなどの様態があまりにも人間に近いときに、見る者に違和感や嫌悪感を抱かせるとされる現象。
◆ロボットの他、CG映像などについても用いられる。単純な機械に対しては抱かれない親近感が、人を模した単純なロボットなどに対しては高まるが、人に似すぎると違和感の方が勝るようになるというもの。さらに人と見分けがつかないほど似せることができれば、再び親近感が勝るという仮説に基づき、親近度のグラフにV字の谷が現れることからいう。
論文はタイトルが9割
・論文の内容やウリを端的に表すから
・タイトルの切れ味で、その論文の質がある程度規定されるから
・多くの人は、論文の内容を読んではくれないから
・研究業績に一生残るから(恥ずかしいタイトルの論文を書いちゃったらそれが一生残る)
など。
というわけで、自戒を込めて論文のタイトルに最も気を遣うべきだと思っております。
9割は言いすぎかな。こんなセンセーショナルなタイトルはつけるべきではない。
・タイトルの切れ味で、その論文の質がある程度規定されるから
・多くの人は、論文の内容を読んではくれないから
・研究業績に一生残るから(恥ずかしいタイトルの論文を書いちゃったらそれが一生残る)
など。
というわけで、自戒を込めて論文のタイトルに最も気を遣うべきだと思っております。
9割は言いすぎかな。こんなセンセーショナルなタイトルはつけるべきではない。
登録:
投稿 (Atom)
