2015/12/24

こんな一年だった(2015年編)

今日で学校は仕事納め。今年の業務は終了した。
今年は「起承転結」でいうと「承」の一年。激動の去年と比べて、外面的には大きは変化はあまりない。しかし「転」につながる、いろいろなきっかけをつかむことのできた一年だったと思う。
まず校内では、今年は持ち上がりの学年だった。そのため、ほとんど変化なく、同様のペースで進めることができた。
私にとっての進歩は、かなり大胆に子供たちに任せて、そこから微妙に介入する勘所のようなものをつかむことができたということだ。これは生徒たちをある程度理解できたからこそのことだとは思う。
もう一つは。一つ一つの授業のユニットを小刻みに進めつつも、ユニット間の連続性をかなり意識して授業を作ることができたということだ。来年はこの連続性を意識して、さらに綿密にカリキュラムをデザインしていきたい。
三つ目は、ルーチンで取り組む活動の威力を実感できたことだ。来年度はどんな活動にするかまだ決めていないが、非常に効果は大きいので何かは取り組みたい。来年の生徒の姿を見てから決めようと思う。
研究面での進展は、以前よりもずっと子どもの姿にへばりついた研究ができるようになった点があげられる。具体的には、作文や談話分析などの手法を用いた研究になじみ、子どもの姿から虚心坦懐に課題を見つけ、学ぶことの面白さに気づいたことが大きい。
また、学校の研究に関連して、教科以外の総合的な学習などの授業づくりにハマり、その面白さに目覚めたのも大きな収穫だった。

対外的な活動としては、今年もいろいろなご縁でさまざまな活動に関わることができ、学ぶ機会を得ることができた。
今年取り組んだものとして、
学校図書館、読書活動に関する取り組み、
デジタル教科書、タブレット教材の開発、
アクティブ・ラーニングへの提案、
編集の授業開発(学会発表)
話す聞くの研究と研究大会での提案
著作権関係のシステムづくりの構築、
大学研究者とコラボで作文教育の実証研究、
教員への研修講師など。
このどれもが緒についたばかりだけど、来年、再来年にはその幾つかは大きく花咲くことだろう。それもとても楽しみだ、

今年は比較的に仕事に余裕があるので、積極的に外に出て勉強しに行きたいなと思っていたけど、さすがにそれほどできなかった。(会いたい人、行きたい学校、見たい授業はたくさんあったけど)しかし、少ない中でも、他の中学、高校で参観した授業はどらもお世辞抜きで素晴らしく、びんびん刺激を与えられるものばかりだった。また、会いたいなあと思っていた人ともたくさん出会えることができた。
と同時に、まだまだ自分の実践の中途半端なところを痛感させられることにもなった。今後もどんどん外から学んでいき、殻を破っていきたい。
と、来年の今ごろも同じような反省をきっと述べていることだろうと思う。けれども、積極的に前に出て攻める姿勢は忘れないでいこうと思う。まだアラフォーだし。

今年一年お世話になった全ての皆さんに感謝しつつ。良いお年を!

2015/11/27

ワークショップデザインの授業で中学生は何を学んだのか?

「ワークショップを作るワークショップ」の授業もワンサイクルが終了。
実践の紹介は過去の記事に。
2クラスが7時間で授業に取り組んだ後に、他の2クラスも同じ流れでワークショップ作りにチャレンジしていく。(今日からスタート)
最初にワークショップ作りに取り組んだ生徒たちに、授業後に「これから授業に取り組む二つのクラスにワークショップづくりのアドバイスをして!」と投げかけた。
授業を終えた生徒たちが、ワークショップデザインにおいて何が大切だと思っているのか、この記述からある見てとることができる。

〇課題設定のアドバイス

  • QOLを向上させるために必要なのは本当になんなのかをしっかり考えた上でテーマを決めた方がよい。
  • 「本当にこれでQOLが向上するの?」というのもあったから、実際の生活に役立ちそうな内容にするとよい。
  • どういうワークショップの活動にするのかというイメージをもつことから、ワークショップのテーマを考えていくのもよい。
  • ワークショップの考え方がまとまらないときは、アドバイザーの先生に聞くのが非常に効果的である。
  • ただ自分たちが知りたいことだけでなく、参加者は最も何を知りたいのか?何に興味があるのかを探ろう。
  • テーマはうけねらいではなくて、みんなの役に立ちそうなことにした方がいい。
  • ワークショップのタイトルで参加者をひきつけるべし。


〇プログラム内容のアドバイス

  • 最初にワークショップの内容を決めるときは、目的や方法等を明確にして、進めていくなかで方向性を見失わないようにする。
  • 「体験」と「説明」を上手くバランスをもたせて組み合わせるのがすごく大切。
  • 説明は根拠と主張がしっかりしていると聴き手も納得しやすい。科学的な根拠や参考文献を提示できるようにしておく。
  • どんな情報を言ったらみんなに興味を持ってもらえるか、こんなこと誰も知らないだろうみたいなことを言った方がパンチがあって良い。
  • 一つ強調したい部分を持つとお客さんのウケがよくなる。
  • 時間配分や順序をよく考える。(長すぎず、短すぎないように)
  • 時間が20分と短いので、その時間の中で簡単にできるテーマにするべき。短い時間で急ぎながら深いところについてのワークショップにすると少し中途半端になってしまうので、簡単なことについてじっくりよく考えたり体験する方が得るものは大きい。
  • 調理20分はかなり無理があった。少し時間がかかるようだったら途中まであらかじめ作っておくとよい。(片付けまで20分でやらなければいけないので、遅れると次のワークショップに行けなくなる)
  • ブースに分けて少人数でやるなどの会場レイアウトも工夫する。
  • 映像や音楽などで気分を高めるのも効果的。
  • 小道具などが必要な班は、分担を決めて、休み時間を使って計画的に準備しよう。(道具のリストを作っておく)
  • CD科の授業でとれる準備時間はとても短いので、自主的に準備をしていった方が良い。
  • 班員との情報共有を大切に。分担も公平にする。

 
〇ワークショップ本番では?

  • ワークショップと発表(プレゼン)との違いを意識する。どうしても一方通行になってしまって「参加型」にするのが難しかった。
  • まじめすぎず、ふざけすぎずにやるといいと思う。
  • パワーポイントに頼りすぎない。参加者とやる人の発言量が同じくらいが理想。
  • 参加者を巻き込んで一緒に楽しむ気持ちが大切!
  • 和やかな雰囲気にする。
  • 時間配分が思ったよりかかったので、一度実際の時間で通して練習してみるとよい。(調理系のワークショップは必ずリハーサルを!)
  • ワークショップをしている間は全く相談しなくてもできるようにしておく。もたつくと印象がすごく悪くなる。事前の準備が超重要。
  • 根拠となる資料を集めておいて、質問にちゃんと答えられるように。

2015/11/14

問いを吟味する授業

とある中学校の公開研究会から考えたこと。

「問い」そのものを授業の対象にするという発想が面白い。
調べ学習の時になんとなく問いを立てて、(あるいは教員が設定して)そのまま探究に突入しちゃうというパターンが多いんだけど、「問いについて問う」というワンクッションがあるとないとでは、その後の研究の成否が大きく違ってくる。きわめて重要な視点。しかしとっても奥が深い。「問いが持てる子」って、「答えを知っている子」よりもずっとずっと価値があると常日頃から感じている。
授業では、夏休みの宿題で地域について調べたレポートを題材に、さらにそれを深める問いを考え、その立てた問いについて小グループで「問い相談会」(「価値ある問い」かどうかを話し合う)をするというのが今日の展開だった。
問いを吟味することの必要性は、大学のアカデミックライティングでは必須のスキル。高校などでの探究的な学習でも取り入れられている。(「問いを作るスパイラル」など) ほとんどの人は知らないと思うけど、国研の「中学校授業アイディア例」にも、かつて似たような実践が取り上げられた。( http://www.nier.go.jp/jugyourei/h25... )
授業を開発する際には、それをどの程度、対象である中学1年生に落とし込み、他の探究的な学習でも使えるような汎用的なスキルとして習得させることが鍵となるのだろう。汎用的なスキルとするためには、「授業の文脈につかず離れず」ぐらいな距離感が必要だ、つまり、「この授業のための」とか、「この調べ学習のための」問いの吟味の仕方とするのではなく、どんな探究にも使えそうな吟味する視点や方法を対象化、意識化させるのだ。
例えば、問いを吟味させる話し合いで、「良い問いか、悪い問いか」と話し合わせるのではなく、「問いのレベル」を話題にするという方法はどうだろうか。この問いは「深い問いだ」「浅い問いだ」というように、問いを対象化して「問いのレベル」を評価し合うのだ。(って、大人は普通そう感じているでしょ)
また、「問いの方向性」を提示する方法もある。「広げる問い」『深める問い」「連想される問い」「具体化する問い」「ひねくれた問い」「すぐに答えの出そうな問い」「答えは絶対にでない問い」など。このような「問いの方向性」が見えてくるレトリックが活用できると、問いを検討するための発想を広げることができる。発想を広げるという意味では「アタリマエを疑う」という観点も重要だ。常識を壊し、発想を広げるためには「異化」をしていくための道具立てをする。「六色ハット法」や、「なぜなぜ五回」のような「異化」を促すテンプレート、フレームワークを活用させるとよいだろう。
しかし、「問い」を吟味する視点で最も重要なのは、言うまでもなく、調べている本人の「知りたい」という探究心だ。だから「問い」を広げる活動を行いつつも、「そもそも自分の知りたいことは何なのか」という問題意識の根っこにもどっていくような感覚も(感覚こそ?)大切なのだと思う。「問い」を吟味し、あれこれ「問い」を評価していく中で、「この問いは私が知りたいことに近づいている」「この問いだと知りたいことから離れてしまう」「むしろ本当はこの問いを探究したかったんだ」などと感じるような、「問いへの繊細な感覚」を大切にすべきなのではないかと感じた。
つまり、直観レベルでの「問いの吟味」(気になる,知りたい、どうもスッキリしない。モヤモヤする……など)と、論理レベルでの「問いの吟味」(検証は可能か、方法は適切か、つじつまが合っているかなど)の必要性だ。熱いハートと冷たいノーミソで、問いをためつすがめつしていくような学習ができればいい。

そもそも、葛藤や対立に気づこうとしているか

月末に行われる公開研究会に向けて指導案検討。
全員分の授業プランが出そろうと、ようやく公開研に向けてのスタートラインに立ったような気分になる。
指導案検討の後、校長先生か感想を述べる。校長は異文化対立や葛藤を研究する大学の研究者でもある。その研究のバックボーンをもとに興味深いコメントをなされていた。
「日本では、そもそも世の中に葛藤や対立が存在することを認識することに苦手意識を持っている。葛藤や対立があるんだけど、それをなるべく考えないようにしている。気づかないようにしている。それが問題をより深刻にさせているのだ」と。
確かにそうなのかもしれない。身近な葛藤や衝突、軋轢を極力避ける事なかれ主義が重視される世の中だ。異議申し立てや、波風を立てることそのものが煙たがれる。社会に存在する葛藤や対立に目をつぶる身振りが、日本社会のあらゆる場面で学ばれてきている。
まず問題のスタートは、安易にわかったふりをするのでは無く、迎合するのでも無く、葛藤、対立の存在に気づこうとすること、そこからが、あらゆる課題を解決する第一歩なのかもしれない。

汎用的な「メタ認知」というものは存在するのか?

ねらいを決めたり、見通しをもったり、振り返りをしたりという、モニタリングやコントロールに関わる認知をメタ認知というらしい。
最近はどの実践ても「メタ認知」が大流行りだ。とりあえず「メタ認知。といっておけばいいやという感も無きにしも非ずだ。
しかし、そもそも汎用的で、文脈を離れても通用する「メタ認知」というものは、どの程度通用するのだろうか?
たとえば、料理の段取りが上手い人は、同様にテスト勉強も上手なのか、テスト勉強が計画的にできる人は、何かのプロジェクトも同様に段取りよくできるのか?
安易に「メタ認知」とひとことでくくって言うけど、ある程度の幅で、メタ認知(という名の、共通して活用できる知識や技能〕が適用する分野なりジャンルが存在するだけなのではないか?
たとえば、図形の証明と、論理的文章の証明はどこまで一緒なのか。論文を書くことと、料理を作るときのメタ認知はどの程度「転移」するのかしないのか?
何でもかんでも「メタ認知」といったところで、何も言ったことにはならないのではないか?
探求学習には課題解決のステップとしてある程度、定型化されたものがある。イベントなどの企画、運営には、段取りの適否というものは確かにある。しかし、それらの分野の特殊性を離れた「段取り力」とか、「見通し力」などという「メタ認知」なるものは存在するのか?あくまで、探求学習、イベント運営に限る、手続き的知識なのではないか?
ジャンル、文脈、状況を離れて、汎用性のある「メタ認知」というものがあるのか、それを学ぶことができるのか、それを知りたい。

やはり、「評価」という言葉をなるべく使わない方がいい。

よく言われることだけど、評価を語るときに、ABCと生徒を値踏みするための評価(エヴァリュエーション〕と、生徒の学習が進んでいるかどうかを見るための評価〔アセスメント)とが混同していることが非常に多い。私自身も時々ごっちゃに考えてしまっていることがある。
そしてそれらの「評価」も、同時期、全員に対して行う必要があるものと、全体をざっと眺めたり、抽出児で把握できるものもある。〔そうでないとやっていけない)
さらには、教師にとっての授業評価と、生徒にとっての能力評価とも混在している。
もっと言えば、教師が確認できる評価と、生徒自身が実感できる評価もある。(自己評価チェックなどで)
これらの多様な意味が全て「評価」の一言で語られてしまうのだ。
これで食い違いが起きない方がおかしい。
授業で評価が大切なことは誰でも理解している。そして意識的にせよ、無意識的にせよ、誰だって、学習状況から何らかの判断(それが「評価」なのだが〕をしているはずだ。
だから、たとえば、教師の授業中の評価は、「評価」という言葉を使わずに、「今日のみどり」とか、「ここに注目する」などのタイトルで、つけたい力に応じて
「この姿を注意して見る」
とか、
「こういう表情が見られるはずだ」
「こういう発言や動きを見逃さない」
という程度の記述がギリギリのところなのではないか。
やってないこと、やりたくてもできないことを論じる、建前のための評価の議論ほど不毛なものはない。〔それがさらにエスカレートすると、評価のためのアリバイ作りの授業になる。ああ!)
※もちろん、単元終了後の評価〔エヴァリュエーション〕の方策は別途検討するべきだろう。

やっぱり、教材が命。

これからはコンテンツじゃなくてコンピテンシーだ!とかいっても、知識じゃなくて課題解決能力だ!っていったって、単なる薄っぺらい操作スキルの習得や、スカスカの課題解決じゃあ「深い理解」「深い関与」にはなっていかないのだろう。
噛めば噛むほど味がしみ出るようなチキストがあってこそのディープさなのだ。
エビで鯛は釣れないように、チープな教材からはチープな学びしか得られない。だからこそ、ディープな学びを引き出すためには、何をおいても学習材の開発が必要なのだ。
という反省のつぶやき。