2014/01/13

道徳の授業についてのあれこれ

道徳についてとりとめもなく、今まで考えてきたことをまとめてみた。

1、ある道徳の授業から。
ある研究会でのレポート発表を聞いて感じたこと。
瓦礫にまみれた岩手の被災地で、バケツで水くみをしている少女の写真(新聞に掲載されていたもの?)を提示し「この人は幸せだと思いますか」という発問をした授業を展開していた。
 発表者の先生はとても物腰が柔らかく、おそらく道徳教育に熱心に取り組まれている様子が想像できた。
……その発表、私はものすごく嫌な思いで聞いていた。
けれども、それがどこから感じたか、そのときはよく分からず、もやもやした思いで、何も発言できなかった。
今になると、そのもやもやの正体が分析できる。
 「『この人は幸せですか』と聞かれている少女は幸せか」という視点が、その授業者には全く欠如していたからだ。「他人事」の発想で授業を作っていたのだ。
 私が感じた不快感は、「そんな質問、彼女に失礼だろ!」という、ごく当たり前の感覚だったのだ。

2、道徳の授業を「自分事」にしていきたい
道徳の授業で何を取り上げるべきか?
偉人伝などで、立派な人の生き様から学ぶことは必要だろう。
障害を持っている方や、震災で被災したり差別されていたり、社会で不利益を被っている人について知り、その人の懸命の生き様や、置かれている立場を共感的に受け止めることは必要だろう。
しかし、そのどちらもが、「すごい」「かっこいい」「かわいそう」などと「他人事」として受け止めるのであれば、自分自身の生きる力にはつながっていかないのではないか。
道徳を「他人事」から「自分事」に引きおとさなければいけない。
他人事だったら何でもしゃべれる。
いじめ、差別、震災、原発、障害を持つ人……
それが「自分事」に感じられたとき、人は沈黙する。
価値ある沈黙を作り、その沈黙から声を引き出すこと、それをいかにつくるかが道徳の授業のカギだ。

3、共感中心の授業批判
道徳の授業はややもすれば「共感」中心の、授業が行われる傾向があるのではないか?
資料の登場人物への「共感」、クラスメート同士の「共感」。
このような、「共感」の共同体(学級)のなかで、日本の子ども達は育まれている。
しかし、そういった価値観に共感できない一部の生徒にとっては、息苦しさを感じる場となってはいないか?
 「共感」の重視が「同調」を強いることとなり、クラスの空気や教師の反応を過度に「読む」ことを学習する場とはなっていないだろうか?
「道徳の授業だから何となくこれを言ったらマズイ」
「これを言ったら先生に褒められるかな?」

道徳的な「正しさ」は、「正しければ正しいほど」絶対的な強制力となって機能する。
「絶対的な正しさ」を重視し、強調する授業は、ある種、教師の誘導する価値観への同調を強いていることにはならないか? 
それにしても、全ての人に共通する価値観しか取り上げないのであれば、それをあえて道徳で教える必要があるのだろうか?

4、道徳で何を学ぶか? 道徳の授業論、一つの方法。
「道徳性」という美しすぎる言葉を、私なりに考える。
ざっくりと言い換えると「視野の広さ」「意識の高さ」「判断の的確さ」「感じる心の細やかさ」等になるのではないか?
だから、読み物教材による感動中心主義の「道徳」だと、視野が狭くなる危険性がありはしないかと危惧する。
感性はもちろん大事、それに論理や知識、知見が支えることで、広い視野や判断力が磨かれ「道徳性」が高まるのではないだろうか。

たとえば、友人関係のあるトラブルを取り上げるとする。
そのときに、自分が取りうる態度や行動、言動が何パターンあるか分析する。
そして、そのとりうる態度によって引き起こされる事態を想定する。
もちろん、客観的な状況だけでなく、相手の気持ち、自分の立場などあらゆる角度から検討する。
その結果、自分がとるべき立場と引き受けるリスクを決定する。
そうすることで、一つの状況に対して、あらゆる選択肢があることを知ることができる。
そして自分が想定していなかった選択肢やリスクの存在を知ることができる。
そのような、広い視野と判断力を身につける「道徳」があっていいのではないか?

5、道徳の時間に心理学を学ぶのは?
例えば、道徳の時間などで、心理学の成果を学校教育で学ばせることはできないのだろうか。
「防衛規制」のような、ごく基本的な心理学の知見は、知っておいて損がないと思う。
自分の心理状況をメタ認知できる視点を得ることができる。文学の解釈だって深まるのではないか。 「ことわざ」にも、人間の不合理な心理に対する洞察が深いものが多い。
そういう生きる知恵や発想法を学んでもいいのではないか?

6、資料を使わない、体験活動を中心とした道徳をもって認めてほしい
道徳の学習指導要領解説には、学習指導案に書くべき内容についての言及がなされている。これはおそらく他の教科にはない(と思う)。
 「ねらい」とか「主題名」はまだ理解できる。気になるのが「資料」という言葉。
道徳の学習指導案には必ず「資料」を明示することになっている。
 この「資料」とは、指導書によれば「資料については,体験活動等を盛り込んだ資料,読み物資料,テレビやビデオ,インターネット等の情報通信ネットワークを利用した資料」と書かれている。
が、資料のない道徳だっていいじゃんと素朴に思ってしまう。
 たとえばプロジェクトアドベンチャーは道徳につながっているし、いろいろな行事などの体験を通して学ぶ道徳的価値はたくさんある。
 そういう「学びを引き出すリソース」を活かして道徳性を高めるという授業観は「資料」という言葉からは伝わってこない。 何となく、頭の硬い先生が、つまらない読み物資料を読んで感想を交流し合うのだけが道徳である、という理想を、文科省公認の指導書のなかで押しつけているような気がしてならないのだ。